二十 花魁の手鏡
薄暗い保管庫に、ふたつの荒い呼吸が交錯する。
仰向けに倒れ、薄い胸板を大きく波打たせる蛇川。
やや離れたところに座り込んだ山岡が、汗に濡れた額を手拭いで撫で上げながらため息をついた。
行きと同様、帰りもまた一瞬の出来事だった。視界が白み、何も見えなくなったと思ったら……
次に目を開けた時、燃え狂う吉原はもう消え失せていた。代わりにあったのは、低い天井、薄暗い部屋、いくつもの箱や封筒が窮屈そうに押し込まれた木製の棚。間違いない。やっと……やっと築地警察署に戻ってこれたのだ。カビと埃の湿った臭いが、これほどまでに安心感を与えてくれるものだったとは。
ホゥ……と気の抜けた息を吐き出し、山岡が暗い天井を見上げた。
こうしていると、先程までの出来事が悪い夢であったように思われてくる。しかし、鬼の咆哮によって裂けた皮膚の痛みが、今も耳にこびり付いて消えない断末魔の叫び声が、あれは正しく事実であったと声高に訴えていた。
「まったく……何から何までたまげたなぁ……」
山岡がチラと蛇川に視線を落とす。
目を閉じて眉根を寄せ、唇を薄く開いて、苦悶の表情で喘ぐ蛇川。それはそれでゾッとするほど色っぽいのだが、その全身は酷い打撲と裂傷、刺創、擦傷で覆われ、無事な箇所など拳大ひとつほどもないように思われた。内臓も無傷とはいかないだろう。
「その……大丈夫、なのか」
蛇川は心底気怠そうにため息をつくと、目も開けぬまま「死んじゃいない」とだけ、掠れた声で呟いた。
「いや、そりゃもちろん分かっちゃいるが、そのぅ……右手だよ。お前さんの。大丈夫なのか、アレは」
どこか自嘲気味に、蛇川がせせら笑う。
「そう気味悪がらずとも、取って食いやしないさ」
「そんなことを言いたいわけじゃなくてだな……なんで伝わらんのだ? ただ、心配なんだよ」
痛みはないのか? 医者がどうにかできる類いのモノなのか?
気遣わしげに言葉を繋ぐ山岡に、今度こそ蛇川も目を開けた。平時の冷ややかさを取り戻した灰褐色の瞳に見据えられ、座りが悪そうに山岡が尻をモジモジとさせる。中年巡査のどんぐり眼は、再び鹿皮の手袋で封印された蛇川の右手に注がれていた。
「心配……? 心配しているのか、この、右手を?」
「だからそう言ってるだろう」
頭を何度も打ち付けられて、せっかくの頭脳が台無しになってしまったのだろうか?
半ば本気で案じているらしい山岡をよそに、蛇川が天井を見上げたまま薄く笑った。まったく、変な男だ。この悍ましい右手を見て、恐れるのではなく心配するなど……
「そんな男は二人目だよ」
「……何が?」
「こちらの話だ。さて……そんなことより、ここからが大仕事だぞ、山岡巡査。我々はここから無事に抜け出さねばならん。行きと同様、人目に触れることなく、な」
蛇川が懐剣を鞘に納める。涼やかな音を立てて刃が鞘へ吸い込まれると同時に、蛇川の右目から〈鬼の涙〉が零れ落ちた。
硬質な音を立てて床板に落ちた粒を、億劫そうに革手袋の指が摘む。目の高さに持ち上げたそれの輝きを確認し、安堵したように息を吐くと、蛇川は〈涙〉を胸ポケツに仕舞い込んだ。どうやら今回の〈涙〉は「探しているもの」であったらしい。
輝く涙が石となって落ち、小さく跳ねる。儚くも美しい、幻想のような淡い光景……
荒れ狂う暴力の応酬の後とは思えない、どこか救済にも似たその様を、願いとも祈りともつかぬその様を、言葉も忘れて山岡が見守る。やがて〈涙〉の輝きがすっかり隠れてしまうと、改めてため息を漏らした。
「……何が何やらサッパリだ。が、尻を蹴飛ばされるのは御免だからな。聞かずにおく」
ハン、と鼻を鳴らして蛇川が笑った。
「少しは賢くなったじゃないか。
さ、肩を貸せ、山岡巡査。自慢じゃないが……今の僕は荷物にしかならんぞ」
◆ ◆
んん、と顛末を聞き終えた吾妻が小さく唸った。いつものごとく、昼下がりの定食屋『いわた』でのことである。
「随分と息の合った共闘ぶりじゃないの。妬いちゃうくらい! なのに……」
吾妻が不可解そうに蛇川を眺めた。
その蛇川は、まるで憎しみをぶつけるかのように激しく納豆をかき混ぜている。無論、山岡の納豆だ。カウンター左端の定位置で、山岡がトホホと肩を落とした。
「なんでこうなっちゃってるわけ?」
「あのクソったれの万年巡査めが、僕を官憲に売りやがったからだッ!」
あの後。
慎重に保管庫を忍び出た二人であったが、崩れかけた彫刻のごとき蛇川を抱えての逃避行は、ほとんど上手くいかなかった。保管庫からある程度離れられたと思ったのも束の間、早々に署勤めの警官とかち合ってしまったのだ。
そこで咄嗟に山岡のついた嘘が……
「事もあろうに、この僕を、泥酔して前後不覚に陥った痴れ者扱いしやがって! この僕を! おかげでその夜は留置所の硬い床で眠らざるを得なかったんだぞ!」
「悪かったと思ってるよ……」
「ハ、『悪かったと思ってる』?」
尖った声で蛇川が山岡の言葉を復唱する。
「なるほどねえ? しかし、その言葉で僕の怒りが癒えるかしら? 木板の上で寝させられた背中の痛みが帳消しに? 口先の謝罪ですべてが赦されるのならなぜ犯罪が、警察組織があるのだね!? 答えてもらおう山岡巡査!」
満身創痍、疲労困憊。まさに青息吐息の状態で留置所にぶち込まれ、反論する気力もないまま一夜を明かした蛇川の怒りたるや凄まじい。
不法侵入の現行犯で捕まらないためには仕方のなかったこととはいえ、蛇川が憤慨するのも頷ける。山岡は納豆を諦め、しおしおと鯖味噌を箸で崩した。
その鼻先に、ダン!と小鉢が叩きつけられた。
見れば、白い綿状のものが小鉢から溢れんばかりに盛り上がっている。合間合間に豆らしき影が見えるが……本当にこれが納豆だろうか? いったい、どれほどの勢いと執念でかき混ぜればこうなるというのか。
「お代わりだッ!」
「んな殺生な……」
「貴様の脳髄をこうしてやれれば良かったのだがな! この程度で済ませてもらえるだけありがたいと思え! あんな屈辱を受けたのは初めてだッ!
いいか、そもそも今回、無茶で不躾で身の程知らずな依頼にも拘らず、僕は善き隣人として……」
「はい、はい、はい! そこまで!」
パンパン、と手を叩きながら間に割って入る声があった。『いわた』の女給、りつ子だ。
縞模様のウール着物の上から袖なしの割烹着を羽織り、頭に三角巾をつけた姿は平素通りだが、今日は加えて、襷掛けをして脇に竹箒まで抱えている。
「今日は煤払いの日です。表に貼り紙もしてたでしょ。本日の『いわた』はこれにて営業終了! 喧嘩は止めて、出てった出てった!」
喧嘩だぁ? 蛇川が今度はりつ子に躙り寄る。
「喧嘩というものはだねえ、同程度の人間同士の間でしか起こり得ないものなのだ。だからこれは制裁だよ、りつ子くん……卑劣な裏切り行為に対する正当な処罰だ!」
「ちょ、ちょっと……顔! 分かったから、その顔近付けないでッ!」
「何だとォ、この、こまっしゃくれの小娘が……」
歯を剥き、鼻先がくっつかんばかりに詰め寄ってくる蛇川に、りつ子が飛び上がって悲鳴をあげた。
いくら客あしらいに慣れているとはいえ、まだ十七、八の娘だ。蛇川の毒火ぶりは掃いて捨てるほど見てきたが、それでもこの顔は……唇を歪め、歯を剥き出しにしていてさえも、凶悪なまでに美しい。
もし、暴漢に尖った包丁を突きつけられたとしても。
蛇川の顔が間近に迫る今この瞬間ほど、りつ子の鼓動が跳ね狂うことはないだろう。
横を向き、手にした丸盆で顔の前に防壁を作るが、チンピラのようにしつこく迫ってくる蛇川に壁際へと押し込められてしまう。
大人の男の体重が、ジリジリと圧をかけてくる。髪の毛が触れ、蛇川の長い睫毛がたてる空気の揺らぎが感じられそうなほどの距離で、熱く甘やかな吐息がりつ子の頬をくすぐる……いや、
「えっ、うわ、酒臭ッ!」
そうだった! この男、怒りに任せて、珍しく昼間から大酒を煽っていたんだっけ。蛇川は特別酒に弱いわけではないが、無茶な飲み方をすれば当然こうなる。
そのことに思い当たると同時に、蛇川の身体がガバリと勢いよく引き剥がされた。
「はい、回収! ごめんね、りっちゃん。怖かったよね。あとでしっかりお灸を据えておくからね」
今にも泡を吹いて倒れそうなりつ子も、羨望のあまり唇を噛み切ってしまいそうな追っかけ連も、どちらもまとめて救ってくれたのはこの男――やはり、吾妻である。
ジャケツの首根っこを掴まれ、激しく蛇川が抵抗するも、吾妻の腕は漆で固めたかのようにびくともしない。肉体がコンクリートでできているのか、あるいは骨が鉄骨か。
蛇川も十分上背がある方だが、それでも「六尺三寸殿(これも追っかけ連がつけた渾名だ)」に首根を捕まえられては爪先立ちになってしまう。なんとも情けない姿だった。
「なんだッ! 猫のように扱うな、僕を!」
「まったく……いい大人が悪酔いしちゃってまあ」
吾妻が蛇川をジトリと睨む。
いつも通り、その垂れた目には蛇川の暴れっぷりを面白がるような光もあったが、今日ばかりは微かに険が滲んで見える。吾妻健吾が「力なき者」の庇護者だからだ。そもそも吾妻という男の本質自体がそうできているし、なにより、彼が所属する団体――銀座鴛鴦組の発足理由がそれ、ということが大きい。鴛鴦組は、江戸中期に組織された町火消を源流とする極道集団なのだ。
「アナタ、さっき『前後不覚に泥酔した痴れ者』って言ってたけど……あれ、自己紹介だったわけ?」
「うはは! 言えてやがる」
思わず山岡が手を打って喜ぶが、蛇川の一瞥を受けて慌てて鯖味噌をかき込んだ。吾妻が小さく苦笑する。
「さ、飲み直しましょ! 酒は美味しく、楽しく。
山岡ちゃんも行くわよ! 今日はアタシ、二人にご馳走したい気分なの」
肩に腕を回し、喚く蛇川を引き摺るようにして連れ去る吾妻。その逞しい背中を、迷い迷い小柄な山岡が追いかけて行く。
異色の三人。本来ならば交わらぬはずの男達。さて、いったいどんな酒席になるだろう。
いつも通り賑やかしい『いわた』はもちろん、その前の路地も、今日は随分と活気に満ちている。
辻では呼び込みの男が芝居小屋の最終公演を喧伝しながら練り歩き、女達は談笑しながら煤払いで出た泥水を往来にぶち撒け、その水を跳ね上げながら草履姿の子供達が駆け回っている。
年の瀬が近づいてきた。
〈 花魁の手鏡 了 〉




