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一八 花魁の手鏡




 美華登(みかど)楼の階下から、女達の甲高い笑い声が響いてくる。客が紙花でも撒いたのだろうか。

 

 月のない夜ではあったが、眠らぬ街・吉原だけは妙に明るい。空が白むまで絶えず火が焚かれているためだ。

 煌々と輝く無数の提灯や行燈に照らされ、朱塗りの妓楼が夜闇の中で幻想的に浮かび上がる。今宵もまた、狂瀾の夜が始まろうとしていた。


 飽きもせず、香津(こうづ)花魁はまた手鏡を覗き込んでいる。

 己には美貌しかない。美貌だけでこの地位まで登り詰めたのだ。男にとっては楽園、女にとっては地獄でしかない吉原において、この手鏡に映る圧倒的な美だけが香津花魁の救いであり、誇りであり、拠り所であった。

 

 続き間から、ことりと小さな物音がした。香津花魁はチラと襖に視線をやったが、またすぐ手鏡に意識を戻した。

 襖の向こうの続き間にはおなつが控えている。小鳥を追うのに疲れ果て、居眠りでもしているに違いない。


 結局、おなつが持ち帰ったのは空の鳥籠だった。鳥を捕まえることは叶わなかったのだ。

 よほど必死に駆け回ったのだろう。小袖の裾も足袋も砂埃にまみれ、鼻緒が当たる部分には薄く血が滲んでいた。目には赤く泣き腫らした跡があって、きっと洟水も垂らしていたのだろう、白く乾燥した汚れが鼻の下ですり切れていた。


 さて、どうやって折檻してやろう。

 高い梁から吊り下げるだけの折檻にはもう飽いた。次は、尖った石ばかりを敷き詰めて、その上を裸足で歩かせてやろうか。踊りの稽古をさせてもいい。いや、火で赤くなるまで炙った石の上でそれをさせたなら、もっと……


 手鏡に映る香津花魁の顔が醜悪に歪む。

 彼女の恐ろしい本性を包み隠さず知っているのは、この世で唯一、この手鏡だけだ。いや、今はもう二人……静かな観察者となっている蛇川と山岡も。


 ごとり、と今度は大きな物音が聞こえ、香津花魁が眉を顰めた。押し殺したような声、それに、ガリガリと畳を引っ掻く――爪の音だろうか?

 香津花魁は忌々しげに舌を鳴らした。


「おなつ、何をやっとるんや! ええ加減にせんと……」


 言い終えないうちに、襖がガラリと開け放たれた。

 

 立っていたのはおなつではなかった。時雨(しぐれ)だ。薄い(ひとえ)一枚を身に纏い、解いた髪をざんばらに振り乱して突っ立っている。

 

 もう出歩けるのか。つい先刻、時雨が酷い折檻を受ける様を見たばかりの香津花魁は少なからず驚いた。

 本郷屋の若旦那を奪われたことで荒れ狂い、三日ほど閉じ込めの刑を食らっていた時雨だったが、今度はどうやら(くるわ)を逃げ出そうとしたらしい。半裸にひん剥かれ、白い背中を青竹の棒で何度も何度も叩かれたせいで、高熱を出して伏せってしまったと聞いていたが……


「なんや、こんな時間に。棒打ちの痛みで礼儀作法も忘れてしもたか?」


 客を取られたぐらいで大層な。鼻を鳴らしてそう嘲笑う香津花魁だったが、時雨が握り締めているものを認めて口を(つぐ)んだ。

 剃刀である。身支度用の、なんの飾り気もない剃刀が、行燈の灯を受けて鋭く光っている。


「あんたッ……血迷ったか!」


 誰か、と慌てて声を上げるも、恐怖のために引き攣った声しか出てこない。元より階下は饗宴の真っ最中だ。香津花魁のか細い声など、誰の耳にも届かない。

 助けを求めて視線を巡らせると、開け放たれた襖の向こうでおなつが倒れているのが見えた。生きているか死んでいるかは判然としないが、倒れたおなつは人形のようにピクリとも動かない。


「誰か……誰か! 時雨が錯乱しおった!」


「あんたは鬼よ」


 成り行きを見守っている蛇川と山岡もゾクリとするほど冷えた声が、時雨の口から零れ落ちた。

 誰に聞こえるわけでもないのに、山岡が蛇川に耳打ちする。


「……この、時雨とかいう遊女が鬼の正体か」


「黙って見ていろ。じきに知れるさ」

 

 観察者達が短く言葉を交わす隣で、香津花魁が短い悲鳴を上げ、逃れようと腰を浮かせる。その動きに誘われたものか、時雨がダッと畳の縁を蹴った。単の裾をはためかせ、香津花魁に襲いかかる。

 

 剃刀の刃が風を切って煌めくと同時に、格子窓の障子に赤い花弁が散った。


「ヒイィッ! 痛い……血が、血が! 誰かァッ!」


 切り付けられた腕を押さえ、香津花魁が悲鳴を上げる。

 ようやく変事に気付いたか、にわかに妓楼内がざわつき始めた。階下で控えていた男衆が、ドタドタと階段を駆け上がってくる。


 その音に勇気づけられたかのように、香津花魁がパッと身を翻した。人がいる方に逃れようと考えたのだ。

 その拍子に、豪奢な打掛の裾が行燈を倒した。油を散らしながら倒れた行燈の周囲が、瞬く間に炎の海と化す。


 豪勢な贈り物や調度品であふれ返った香津花魁の部屋は、炎にとって、ご馳走ばかりが並べられた特大御膳のようなものだ。襖に布団、長襦袢などが次々と餌食になり、炎の渦に巻き上げられて宙を舞う。


「鬼よ……あんたは、鬼」


「ヒィッ、は、離しんさい!」


 時雨が香津花魁の打掛の袂に取り縋る。

 女の細腕とは思えないほどの力で引き戻され、体勢を崩した香津花魁が畳へと倒れ込む。その指先を炎に舐められ、(つんざ)くような絶叫が響いた。


「火事だ! 火がついてるぞ!」


 早くも室内から漏れ出した黒煙に、そこここで叫び声が上がる。狂瀾が狂騒へと一変する。


 焼けた指先を庇いながら、香津花魁がゆっくりと後退りした。その間も目は左右へと慌ただしく配られ、必死に逃げ道を探している。

 襖を背に立つ時雨が邪魔だ。燃える部屋から逃れるためには、時雨の横を通り過ぎる以外に道がない。が、切られた腕の痛みが、炎を受けてより一層禍々しい光を帯びた剃刀が、香津花魁の足を竦ませる。ああ、なぜ、最高位の花魁たる自分がこんな目に遭わねばならないのか。


「ゆ、許して……本郷屋の若旦那のこと。悪気はなかったの。ほんとよ。ただ、わっちは店のためにと……」


 ジュッという音が聞こえ、香津花魁はハッと視線を前に戻した。見れば、時雨の素足が燃えた畳を踏み抜いているではないか。

 踏まれた畳から灰色の煙が上がり、次いで耐え難い悪臭が鼻をついた。火が、時雨の肉を焼いているのだ。


「ヒイィ―――ッッ!!」


 肉を焼かれているにも関わらず、一歩ずつ、怯みもせずに畳を踏み締めながら時雨が近付いてくる。

 

 正気の沙汰ではない。狂っていやがる。


 恐怖に背中を突き飛ばされたかのように、香津花魁が駆け出した。上等な着物を巻き込んで鞠と化し、幽鬼のように迫って来る時雨に全身でぶち当たる。

 よろめいた時雨は獣のような咆哮を上げ、香津花魁にむしゃぶり付いた。体勢を崩したふたりは、揉み合うようにして畳に転がり、そして――


「ギャアア―――ッッ!!」


 悲鳴を上げたのは香津花魁だった。


 喚きながら両の手足を振り回し、死に物狂いで時雨の拘束を解くと、香津花魁は逃げ道とは反対の方向へと這い進んだ。白い掌を炎が焼くが、それを顧みることすらしない。


 羅刹のごとき形相を晒す香津花魁から目を離さぬまま、蛇川が両手を口元に近付ける。革手袋を噛み、その瞬間に備えながら観察する。

 冷静に、冷ややかに。崩壊しゆく建造物を眺めるような目付きで。


「化粧箱……どこッ……どこやッ! わっちの手鏡は……!」


 床に転がった手鏡を拾うと、戦慄く腕を持ち上げ、香津花魁がゆっくりと鏡面を覗き込む。

 その腕が震えているのは、掌に負った火傷のせいではない。香津花魁が何よりも忌避していたことへの予感。確かめたくない、しかし確かめずにはいられない、身を裂かんばかりに恐ろしい予感……


 ついに手鏡が己の顔を映した瞬間、香津花魁の口からこの世のものとは思えぬ絶叫が飛び出した。

 

 荒れ狂う暴風にも似たその叫びは、炎が回り出した妓楼を揺らし、逃げ惑う人々の肝を芯まで冷やした。


 戦慄く指に一層の力が込められ、赤い爪が手鏡の寄木細工を深く抉る。絶叫を上げながらも、血走った眼はまだ鏡面に釘付けとなったまま。


 手鏡に映るその顔は……「吉原に香津あり」と謳われた美しい花の(かんばせ)は、

 炎に焼かれ、爛れ、崩れて――花魁として、女として、ヒトとしてすらの形すら失ってしまっていた。


 パチリ、とどこかで音がした。

 秘密箱の、最後のピースが嵌ったのだ。


「成ったな」


 蛇川が呟く。と同時に、鹿皮の手袋の封印を解き、胸元から取り出した懐剣〈哭刃(こくじん)〉の鞘を抜き払う。

 

 刹那、蛇川の時と手鏡の回想とが繋がった。



 

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