一五 花魁の手鏡
インバネスコートに袖を通した蛇川が、『いわた』のカウンター席で凝と時計を睨んでいる。常と変わらず時間を刻んでいるはずの秒針が、蜂蜜の中を泳ぐ魚のようにトロトロと緩慢に動いて見える。
暖簾で仕切られた奥の洗い場から山岡が出てきた。その様相は先ほどまでとガラリと変わり、木綿の着物に綿入りの半纏、茶色の中折れ帽に、口元は手拭いで隠している。
なにせ、今から築地署に向かうのだ。普段は銀座派出所に詰めているとはいえ、事件対応などで築地署を訪れることも珍しくなく、当然、顔見知りも多い。帽子は蛇川から、それ以外は『いわた』亭主から拝借した変装のおかげで、怪しい奴とは見られても、これが山岡だとはまず気付かれないだろう。
変装した山岡が出てくるのと入れ替わりで、奥にある黒電話がチンチンチンッと甲高い音を立てた。応対のために一度奥へ下がった亭主が、暖簾から顔を覗かせて蛇川に目配せする。
すぐさま奥へと飛び込んだ蛇川だったが、受話器に向かって二言三言怒鳴っていたかと思うとすぐに戻ってきた。
「話はついた。善は急げだ。行くぞッ、山岡巡査!」
「まったく、たまげたなあ」
本日二度目となる科白を吐き、感心半分、呆れ半分で山岡が蛇川の後を追う……
◆ ◆
築地署の前ではひとりの警官が待ち構えていた。蛇川が名乗ると、無言のまま頷き裏口へと足を向ける。
目的の部屋まで辿り着くには相当な時間を要した。なにせ、人目についたら即時終了の道程なのだ。慎重すぎるくらい慎重に周囲を窺い、足音が聞こえたら引き返すか身を潜めるかしてやり過ごさねばならない。
苦労の末に通されたのは、薄暗くカビっぽい部屋だった。保管庫だろう。無機質な棚にいくつもの箱や書類、封筒などが詰め込まれている。
案内してくれたのは、山岡も何度か顔を見かけたことのある年若の警官だ。念には念をと、山岡は中折れ帽を目深に被り直した。後ろめたいのは年若の警官も同じようで、こちらも制帽を引き下げて俯いたままでいる。
封筒のひとつを手渡し、そそくさと踵を返そうとした年若の警官の背に、蛇川が声を投げた。
「待ちたまえ」
そう言いながら懐から取り出したのは、山岡から預かっていた(奪い取られた、と山岡は思っている)例のスケッチだ。
「あんたはこれの実物を見たことがあるかね」
「……ある」
「ここに描かれているのは何番目のものだ?」
年若の警官はジロリと窺うように蛇川を見たが、もう一度スケッチに目を戻すと「一番目だ」と小声で答えた。
「なぜそう言い切れる?」
「右下の方……この部分に、小さいが深い疵がある。美しい造作なのにもったいないことだ、と思ったからよく記憶している」
「よろしい! 下がりたまえ」
年若の警官は明らかにムッとした顔を見せたが、言い争う気はないらしい。腹立たしげに背中を向けると、今度こそ部屋を出て行った。
警官の足音が遠ざかったとみるや、蛇川が封筒の中身をおもむろに手にあける。
「ああ、ああ……そんなぞんざいに扱って」
山岡の小言などどこ吹く風だ。
スケッチから受けた印象よりも、相当古びた手鏡だった。しかし鏡面は綺麗なもので、薄明かりの中で鋭くも妖しげな光を湛えている。
こんなに値の張りそうな代物を、貧困家庭に暮らす堀内七緒がどうやって手に入れたのだろう?
手鏡を手にした蛇川が「これはこれは」と喉を鳴らす。
しばらくの間、蛇川は興味深そうに鏡面に見入っていたが、その裏面を見るなり唇を吊り上げた。灰褐色の瞳が光を帯びる。
「やはりな……。見たまえ、山岡巡査」
次の瞬間、山岡の肝が凍りついた。あろうことか、まるで紙屑でも投げるかのように、蛇川が大切な証拠品を放って寄越したのだ。
両手と胸で抱え込むようにして手鏡を受け取り、思わず怒鳴りつけようとした山岡だったが、自分が置かれた危うすぎる立場――独断専行・上層部への反逆・秘密漏洩・不法侵入・その他諸々――を思い出し、既のところでなんとか堪えた。
「頼むから大切に扱ってくれ……お前さんといると寿命が縮む」
「いいから裏面を見てみろ」
促されて鏡をひっくり返し、寄木細工が施された面を見た山岡が、思わず「あっ」と小さく声を上げた。背中にゾクリと衝撃が走る。
年若の警官が言っていた「小さいが深い疵」というのが――ある。説明通り、右下に。
「そんな……この疵は、一番目の手鏡についているはずじゃ……」
「やはりここに来たのは正解だった。これで、一番目も三番目も、おそらくは二番目も……焼け死んだ女達は似た手鏡を持っていたわけじゃなく、同じ手鏡を持っていたことが証明されたな」
「莫迦なッ、ありえない! 一番目の手鏡も二番目の手鏡も、所轄の警察署で厳重に保管されているんだぞ!」
「声を落とせ莫迦者。では目の前のこの事実はなんとする。疵どころか、寄木細工の模様までスケッチと寸分違わんぞ。
それほど一番目と二番目の所在が気に掛かるというのなら、あの大男に探らせても構わん。まあ……まず間違いなく、奴らが後生大事に保管している封筒は空だと僕は見るがね」
薄暗い保管庫で山岡は頭を抱えた。
女達は皆この手鏡を持っていた? ならば、誰が、何の目的で女達に渡した? 一度のみならず、二度も危険を犯して警察署に忍び込み、わざわざこの手鏡を盗み出した理由はなんだ?
「まさか、犯人は警察内部の人間か……?」
「可能性はなくもない。だが……女を焼き殺して回っているのは鏡自身の意思かもしれんぞ」
「……はあ?」
「『がらん堂』に来た時、あんたがドアを開けると〈空鈴〉が鳴った。つまりこの事件は鬼の領分……その手鏡は既にヒトの理から外れている、というわけだ。
どうやら随分と強い情念を宿しているらしい……あんたにだって見えるんじゃないか? その鏡面が映す、悍ましいモノが」
言われて鏡面を覗き込めば、狐につままれた顔をした己のどんぐり眼がこちらを見返してきた。我ながらとぼけた顔だ、と苦笑はするが、悍ましいと言われる類いのものでもなかろう。
なんてことはない。古いだけで、普通の鏡だ。
――と。
不意に、鏡に映る自分の姿が揺れて見えた。
錯覚だろうか。いや、そうじゃない。
像の輪郭がにじみ、グラリと波打つ。鏡の中の山岡の顔が歪み、引き攣った笑みを浮かべ、かと思えば憤怒の形相に様変わりし、変面のように次々と表情を変えていく。
見てはいけない、と思った。
しかし目を離すことができない。焼け付くような熱を帯びた手鏡が、目を逸らすことを許さない。真冬だというのに、山岡の額に大粒の汗が浮かぶ。
やがて、まるで水面に波紋が拡がるように像がぼやけて……掠れて……いや違う、鏡の中で揺れているのは……
「炎だ……」
「それ以上見るな。取り憑かれるぞ」
蛇川がサラリと手鏡を取り上げる。
その瞬間、山岡の全身から力が抜けた。玉となっていた汗がドッと一気に流れ落ちる。
頭が痛い。耳鳴りもする。呼吸すら忘れていたようで、酸素を求めて大きく喘ぐ。
ヒィ、ヒィと息を荒げ、山岡はギュッと目を瞑った。
「な、何だったんだ、今のは……」
「言ったろう、悍ましいモノだ。この世ならざるモノ、生者が触れてはならぬモノ。澱のように積もり積もった情念そのもの……」
いつの間に取り出したのか、古びた鉄釘を指先で弄びながら、歌うように蛇川が言う。
身近な釘に比べてかなり長い、どこか禍々しさを孕んだ鉄釘だった。ズキズキと疼く頭を左右に振りつつ、山岡が小さく呻く。
「おい、骨董屋……その釘はなんだ、剣呑な。一体何に使うつもりだ」
「これか? こうするのだ」
言うが早いか、蛇川が――
鉄釘を鏡面に突き立てた。まるで最初からそうする事が決まっていたかのように。叫ぶ暇も、ましてや止める暇など、山岡には微塵も与えられなかった。
「なッ! なななな……な? なんだぁ!?」
山岡が上げた驚愕の声は、前半は蛇川の暴挙に。しかし後半は別のものに向けられた。
手鏡が、光っているのだ。
大した光源もないのに、鏡の表面が眩いばかりに光り輝き、その光が壁となって鉄釘を押し留めている。蛇川は相当な膂力を込めていると見え、鉄釘の先端は拮抗する力で細かく震えていた。
寸瞬、光が弱まった。と見るや、次の瞬間には鏡面から光が――いや、激しい炎が爆発的な勢いで噴き出し、ひと呼吸のうちに蛇川を包み込んでしまった。
「うわあッ!」
仰け反る山岡と対照的に、蛇川は眉のひとつすら動かさない。渦巻く炎のためにインバネスコートの襟がはためき、長い睫毛が輝いて、その様はいっそ幻想的ですらあった。
「離れていろ、巡査。ここより先は鬼の領分だ。門外漢について来られても僕が困る……」
しかしその言葉は山岡の耳には届かなかった。
優しく、愚かで、向こう見ずな山岡巡査はどうしたか。
首元の手拭いを抜き取り、大きく広げたかと思うと、迷いもせず、炎を消し止めんと蛇川に飛びついてきたのだ。一瞬の躊躇すらもなかった。
蛇川の目が驚愕に見開かれ、その口が大きく歪む。
しかし、その口から怒号が飛び出すことはなかった。
細身の身体も、声も、急激に収束する炎と共に保管庫からかき消えてしまったからだ。
火達磨になった蛇川を助けようと、無我夢中で炎に飛びついた山岡を道連れにして――。