一三 花魁の手鏡
ついてこい、と言い置いて『いわた』を出るなり、右隣の建物との間に蛇川が身体を滑り込ませた。迷い猫を探しでもしない限り入ろうとも思わない、薄暗くて細い小路だ。
背後を慮ろうともしない蛇川を慌てて追いかけてしばし進むと、『いわた』が入居するビルヂングの側面に四角い穴がぽっかりと開いていた。なんの飾り気もない、打ちっぱなしコンクリートの冷たさを煮凝りにしたような暗い穴だ。
「はあ、たまげたなあ……」
蛇川は躊躇いもせず、さっさと穴――とてもそうは見えないが、ここが入り口なのだろう――に入って行く。カツン、カツンと革靴がコンクリートを叩く音が上っていくので、どうやら奥には階段があるらしい。
「ほら、進んで進んで」
なぜかついてきた巨漢の女装家が山岡をせっつく。
早くも己の想像の範疇を超えてしまった事態に困惑しつつ、恐る恐る山岡も階段を上がっていく……
蛇川は二階の踊り場で苛立ったように待っていた。腕組みをし、指でトントンと上腕を叩いている。山岡の姿を認めるなり、「開けてみろ」とドアに向かって顎をしゃくった。
まるで道端に忘れ去られた落とし物のように、どこか寂しげな佇まいをしたドアだった。ビルヂングの入り口同様、なんの装飾も看板もない。
わざわざ自分にそうさせる理由を訝しがりながらも山岡がドアを開けると、吊るされていたらしい鈴がチリン……と微かな音を立てた。
「鳴ったか……。やれやれ、元よりあんたは僕の依頼人だったというわけだ」
ため息をつきながら、蛇川が山岡の脇をすり抜けて室内に入る。
異様な部屋だった。
床中に広げられた雑多な物たち。今にも語りかけてきそうなほどに、深い重厚感を湛えた本棚。その背に窓は完全に塞がれ、居並ぶ本の隙間からわずかに光が射し込むばかりだ。
仄暗い室内は白檀の香りで満たされている。いつも蛇川から淡く甘い木の香りがするのはこのためか。
長い脚で物を飛び越え飛び越え進む蛇川の背に、山岡が問いかける。
「あんた、どういうカラクリで私が警官だと当てたんだ?」
革張りの椅子に腰掛け、紫檀製デスクの上で長い脚を組み上げた蛇川が事もなさげに答えた。
「当てたんじゃない。簡単な観察だ。
あんたが穿いてるそのズボン……しっかりとした厚手の毛織物で、今にも底が抜けそうな革靴を履く中年男には到底手を出せない上等品だ。よって支給品と知れる。
軍服に似た直線型の裾。腰部分にある小さな毛羽立ちは、普段はズボン吊りを着用していることを示している。
おまけに、さっきあんたが無作法にも組み付いてきた時の摺り足。あれは柔道熟練者のものだった。
これらの情報を総合すれば、答えは警察官以外にない。明白だ」
山岡はズボンを見回してみた。たしかに、山岡は今日のような非番の日でも時々制服のズボンを穿いている。私用のズボンを何本も揃えられるほど懐に余裕がないためだ。
しかし、毛羽立ちだと? こんなわずかな痕跡から、勤務時につけるズボン吊りのことまで見抜くとは。彼の灰褐色の瞳は、いったい何をどこまで知覚しているのだろう。
「……巡査という身分は?」
「ハ! 納豆を取られても文句すら言えない気弱な男には鳥籠勤め(派出所勤務のこと)がお似合いだ。
加えて……身分も詳細も伏せてなお事件を追わんとするのは、組織として『追わない』と決定したことへの明確な反逆だ。義憤に駆られて組織の意向に逆らうような奴が順当に出世できると思うか?」
種明かしされればされるほど、蛇川という男の恐るべき頭脳と観察眼にいよいよ困惑が深まっていく。
その山岡を、吾妻がチョイチョイと手で招いた。見れば、慣れた様子でソファ――大人が優に三人は座れようかという大きな代物だ――に寛いでおり、横に掛けるようポンポンと座面を叩いて促している。
おっかなびっくり近付き、迷った末に、L字型に配置されたひとり掛けソファの方に腰を下ろした。
蛇川が演説を続ける。
「煩悶の様子は剃り残した無精髭の長さから窺える。二、三日は髭を剃ることも忘れて思い悩んだのだろう。しかし今朝になって剃った。決意の証だ。
ならば二、三日前にこの辺りで起きた事件とは? 懲戒の可能性を省みず独自に動かねばならないほどの……つまり"次"がある恐れのある事件。となると、これしかあるまい」
身を屈め、デスク下から取り出した新聞を天板に叩きつける蛇川。その紙面には、先日山岡が検分したホトケ――堀内七緒の自殺に関する記事が控えめに載せられていた。
「……警察が相当な圧力をかけて、焼身自殺ということは書かせなかったはずだが」
「人の口に戸は立てられん。近隣住民なら三歳のガキでも娘が焼け死んだことを知っていたさ。
十月、十一月にも起きた若い女の焼身自殺はそのまま報じられていた。しかし今回は伏せた。その対応の奇妙さ……この三件には明確な繋がりがあると、ただの自殺ではなく事件性を孕んだものだと、警察側がわざわざ喧伝しているようなものだ。
そしてその繋がりこそが、例の……寄木細工の手鏡だ。だからあんたは血眼になって似た代物を探している」
蛇川が両手を胸の高さで広げた。目を白黒させる山岡の反応がお気に召したか、珍しく満足げな様子だ。
「まだやるか?」
「……いや、十分だ。分かったよ。全部話す。
だから……頼む。助けてくれ、骨董屋。その頭脳を貸してくれ。もうこれ以上、若者が無惨に殺されるのはまっぴらだ」
部外者に捜査情報を漏らすなど懲戒もの――まあ、蛇川が勝手に全て見抜いてしまっただけなのだが、それでも、
この事が上にバレれば……いや、上の意向に逆らって捜査を続けていることだけでも露見すれば、山岡の首など簡単に飛ぶ。
しかし、山岡は優しくて愚かで、向こう見ずだった。
臣民を脅かす何者かを野放しにするくらいなら、桜花の胸章にも未練はない。