一二 花魁の手鏡
銀座の路地にひっそりと佇む定食屋『いわた』。
いつも通りその引き戸を開けた瞬間、店内の視線がいっせいに蛇川に集中した。
視線にもいろいろある。
ご婦人方と女学生らで構成された追っかけ連が「白鷺さま」に注ぐのは、とろけるような熱っぽい視線。
亭主のそれは、客にいち早く温かい食事を提供してやりたいという商売人の視線。
りつ子はというと、今日も勢いよく戸を開けた蛇川がいよいよ壊すのではと案じる視線。
最後に、冴えない中年男。彼の視線には、わずかな戸惑いと、明らかな落胆とが入り混じっていた。
中年男が困り顔を亭主に向ける。フライ鍋に手を伸ばしつつ亭主が頷いて見せると、「やれ、まいったなあ」と情けなく眉を垂れ下げさせた。
よく見れば、大抵いつもカウンターの左端に座っている常連客である。先日、蛇川が二度も納豆の小鉢を取り上げた……
「なんだッ! 今更納豆の代金を払えと言うのかッ! みみっちい男だな、まったく」
「一応、人の物を盗ったという自覚はあるんだな……」
男はいっそう眉を下げると、亭主に向かって「どうにも相性が……」とぼやく。
それには構わず、蛇川が定位置へと腰掛けた。左腕はとうに完治したと見え、平素と変わらぬスーツ姿だ。
「亭主、いつものを頼む。あと納豆だ、こちらのケチ臭い御仁へ」
「いや、納豆をどうこう言うつもりはない。
常連客に骨董品を扱う男がいると聞いて待っていたんだ。が、まさかお前さんだとは……」
ちょうど湯呑みで番茶を運んできたりつ子を、蛇川がジトリと睨みつける。
「客の素性を勝手に明かすのは感心せんな」
「いやいや、りっちゃんじゃない。教えてくれたのは亭主だよ」
「なにぃ?」
蛇川の尖った視線が、今度は亭主に向けられる。
しかし、亭主は蛇川の苛烈な視線にも動じずにいられる数少ない人間のひとりだ。手早くライスオムレツの支度をしながら、淡々と静かに呟いた。
「困ったときは、お互いさまだ」
このひと言が、意外に効いた。
間違いなく、この中で最も蛇川が「困ったとき」に『いわた』の世話になっているためだ。
家の内のことなど何もできない蛇川が日に三度栄養ある飯を食い、清潔な衣服に袖を通せているのは、全て『いわた』亭主とりつ子の尽力あってのものだ。
無論、食費も含めて相応以上の手間賃は渡している。しかし、『いわた』なしで蛇川の生活が成り立たないことは、誰よりも蛇川自身が理解している。その亭主の頼みとあっては、さしもの蛇川も無碍には断れなかった。
山岡と名乗った中年男が、前置きもそこそこに、懐から取り出した紙をカウンターに広げる。鉛筆描きの精緻なスケッチだ。
蛇川はカウンターに肘をつき、組んだ両手に鼻を預けたまま紙に視線を落とした。
「懐中時計か?」
「いや、手鏡だ。裏面が鏡になっていて……見事な寄木細工だろう。これと同じ、あるいは似た意匠の物を探しているんだが、おたくで扱っている骨董品の中に……」
「ない。以上!」
素気無く言い捨て、蛇川が視線を前に戻す。義理は果たした、と横顔で告げる蛇川の隣で、俯いた山岡が腿に置いた両の拳をギュッと握り締める。
何とかしなければ。自分が何とかしなければ、また若い娘が炎に巻かれて命を落とす。何とかしなければ……でも、どうすればいい?
山岡が思い悩んでいると、
「喧しいッ!」
「な……何も言ってないじゃないかッ」
「察してくれ、分かってくれと言わんばかりのその態度が喧しいというのだ。
いいか。僕に何かを頼みたいならばまず前提を明かせ。僕の貴重な時間を割いてやってもいい、と思わせる明確な根拠を示せ。その手鏡は誰の持ち物だ? なぜ似た物を探す? それを探し出してどうするつもりだ?」
山岡の拳にますます力が込められる。
「……悪いが事情は話せんのだ」
「亭主! ライスオムレツは取り止めだ!」
言うが早いか、蛇川が腹立たしげに音を鳴らして椅子から立ち上がった。
その細腰に、「待ってくれ!」と叫んで小柄な山岡が縋り付く。追っかけ連から「まあ……!」と常とは異なる調子の声が上がった。
ギョッと身を引き、思わずその頭部を殴り付けようとした蛇川だったが、彼の中にごくごく微かに存在している「良きもの」――自制心・理性・倫理観・社会的規範を総動員し、既のところでその衝動を抑え込んだ。
もつれ合う二人がガタガタと椅子を揺らす、その騒音の隙間を縫うようにして、フライ鍋が卵液を焦がすジュワッという音が鳴る。一拍の間を置いて漂ってくる、胃を刺激する香ばしい匂い。
店中に温かく浸透していくその匂いに、蛇川の腹がグゥと情けない音を立てた。
照れたように蛇川の腰から手を離し、苦笑を浮かべる山岡。蛇川は忌々しそうに舌打ちすると、ジャケツ(ジャケット)の襟元を整えた。
「……無茶な頼みなのは理解している。だが、分かってくれ、話したくても話せんのだ。
ただ知っている情報を教えてくれるだけでいい。こうも見事な寄木細工は一流の職人にしか作れまい。その職人から流通経路を辿って、そしたら……」
「そしたら? その後はどうするというのだ。その程度の浅はかな考えで、警察上層部から圧力がかけられるほど厄介な事件を独自に解決できるとでも? よせよせ、あんたには到底無理だ」
はて、と山岡は顔を上げた。
この男は今、確かに「警察」と言った。しかし身分を明かした覚えはない。カウンターの向こうを窺うも、亭主もりつ子も首を横に振っている。
「まさかお前さん……既に何か知っているのか?」
フン、と蛇川が鼻を鳴らす。かと思いきや、軽く息を吸い込んで、
「正義感が強く、正論はいつも正しいと思っているせいで上から疎まれ、昇進とは無縁の万年巡査たるあんたが、上層部から"手を出すな"と念押しされた事件をしかし義憤から見過ごすことができず、三日ほど煩悶した末に独自調査を決意した――
ああ分かった! 例の女学生の焼身自殺か。やはり十月から起きている焼身自殺には関連性があったのだな。それがこの手鏡というわけか……そうだろう、山岡巡査?」
ほとんどひと息のうちに、恐るべき早口と滑舌でまくし立てた。
まるで蒸気機関車が言葉を吐き散らかしているかのようだ。あまりの勢いに、山岡はもちろん、りつ子も追っかけ連も呆気に取られて押し黙ってしまう。
昼日中の銀座とは思えないほど静かな空間に、ピシャリと引き戸を閉める音が響いた。吾妻だ。
「アナタってほんと……いっつも説明が足りないんだから」
どうやら途中から聞いていたらしい。
往来にまで蛇川の声が響いていたらと思うとゾッとする。なにせこの事件は「なかったことにせよ」と上から厳命されたものだ。間違っても銀座の往来に響かせていい話題ではない。
どうにか気持ちを落ち着けた山岡は、「とにかく、場所を変えさせてくれ……」と力なく頭を下げた。