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一一 花魁の手鏡




 日に灼けて毛羽立った畳の上で仰向けになり、七緒(ななお)は頬を上気させてため息をついた。

 彼女を興奮へ(いざな)っているのは、胸に抱いた一通の書面だ。もう何度読み返したかも分からないそれを、今一度読み返す。もし、目を離した隙に文字が書き換わってしまっていたらどうしよう……


 当然、それは杞憂に終わった。書面には、最初に確認した時と同様、推薦人になってくれた恩師の名前と自分の名前、そして「紫峰(シホウ)女學校ヘノ入学ヲ許可ス」との文字が並んでいる。

 目を皿のようにして内容を確認し終えると、七緒は書面を顔に押し当てて喜声を上げた。嬉しさが全身を駆け巡って、脚をバタつかせずにはいられない。


 狭い長屋だ。育ち盛りの七緒がそうしているせいで両親と弟妹は壁際に押しやられていたが、娘の、姉の頑張りを間近で見てきた彼らだ。今ぐらい、喜びに溺れたって構わないじゃないか。そんな微笑みを浮かべて、全身を歓喜に震わせる七緒を温かく見守っている。


「本当に受かったんだ……あたし、あの制服を着れるんだ……!」


 硝子窓に張り付いて、ずっとずっと憧れを募らせてきたあの制服。

 襟と袖口に薄紫のラインが入った、深い藍色のセーラー襟ブラウス。胸元には、紫峰女學校の象徴ともいうべき淡い藤色をしたスカーフ。母親から手拭いを借り、鏡の前で何度結び方を練習したことか。

 全面にピシッとしたプリーツが入った、膝下丈のスカート。裾のあたりに葡萄唐草の織り模様が目立たぬように施されていて、それがもう、本当に、すごくすごく上品なのだ。


 貧しい長屋に暮らす家族にとって、長女の七緒が女學校に進学するというのは大変な名誉だ。

 無論、懐は厳しい。しかし心配はするなと、父親も母親も、年長の弟妹までもが日雇いや内職仕事をして七緒の学業を支えてくれている。その誉れと家族への恩を背負い、憧れの制服姿で机に向かう己の姿を想像して、七緒はますます頬を紅潮させた。


 ◆ ◆


「……うっぷ。こりゃ(むご)い」


 (こも)の端をちらりと持ち上げ、中を覗き込んだ山岡は、あいた方の手で鼻を摘むと顔を背けた。


 仕事柄、焼死体を見たことは過去にもある。しかし、何度見ても到底慣れそうにない。慣れたくもなかった。

 こんなことを言っては免職ものだが、いっそ燃え尽きてくれた方が、検分する側としてはありがたい。今回のように、なまじ顔が判別できてしまうと、精神的にくるものがある。それに、臭いもひどかった。


 菰に近付く若い巡査に「見ん方がいいぞ」と言い残し、山岡はやれやれと息を吐きながらその場を離れた。くたびれた詰襟の胸ポケツをまさぐり、煙草の包みを探す。

 背中の方から、若い巡査があげる、野良犬に尻を噛まれたような悲鳴が聞こえた。



 やれ文明開化だ西洋化だと人も街も熱狂しているが、銀座を彩る華やかな煉瓦造りのビルヂングに陽を遮られた路地裏の影は昏く重く、そこは未だ獣の気配に満ちている。

 

 暴力沙汰、刃傷沙汰は日常茶飯事で、警察官という立場にある以上、少なくない数の遺体と向き合う羽目になる。

 彼なり彼女なりがどういう理由で死ななければならなかったか、それはさまざまだったが、いつどんな遺体を見ても心が痛む。中でもとりわけやり切れない気持ちにさせられるのが、今回のように、年端もいかない少年少女の死に様を見た時だった。


 未来ある若者が物言わぬホトケとなり、酒を舐めては女給の尻にうつつを抜かす下卑た中年男たる己がそれを見下ろしている。

 やるせない気持ちを吐き出そうとでもするかのように山岡が煙草を取り出したが――銀縁眼鏡の男が足早にやって来るのを認め、慌てて元のポケツに捩じ込んだ。手のやり場を誤魔化すかのように額に掲げ、背筋を伸ばして敬礼する。


 山岡の敬礼を受けた銀縁眼鏡の男が、無言で指先を額に添える。かと思えばすぐに直り、菰に向かって顎をしゃくった。


「先月に続いて二件目だそうだな、若い女が焼け死んだのは」


「は。十月を合わせると三件になりますが……まさか、芦名(あしな)警部補殿がじきじきにお出でになられるとは」


「それだけ()はこの事態を憂慮しているということだ」


 で、どうだった。

 短い言葉だったが、山岡はすぐにその真意を察した。芦名の耳元に顔を寄せ、周囲を憚りながら囁く。


「やはり……()()()()()()()()


 吐きそうな思いをしてまで山岡が遺体を検分したのは、その手に()()()()が握られているかいないかを確認するためだった。

 他の巡査らには伏せられているが、現場対応をする巡査の中でも飛び抜けて年嵩の――あえて良いように言うなら、年季の入った熟練者の――山岡にだけは事情が共有されていた。といっても、明かされたのは上澄みのごく一部だけだろうが。


 山岡の報告が聞こえなかったのか、芦名は人型に盛り上がった菰を冷ややかな目で見つめていた。菰からは、袖口に薄紫のラインが入った、深い藍色のブラウスを着た腕がはみ出している。

 と見るや、近くにいた巡査が焼け焦げたブラウスと菰を摘み上げ、穢らわしいものであるかのように、サッと菰の内側へと腕を投げ込んで隠してしまった。


「間違いありません。このヤマは連続……」


「そうか、()()()()()()か! それは重畳!」


 言葉を遮って強く言い放つ芦名に、思わず山岡が「はあ?」と間の抜けた声を上げた。仰け反った拍子にひしゃげた制帽が頭上からずり落ちる。


「あっ、いや。自分の舌足らずで誤解を招いてしまい……大変失礼いたしました。本官は確かに、ガイシャの手に()()()()が握られているのを……」


「山岡巡査」


 芦名の両手が、やや贅肉がつきすぎたきらいのある山岡の肩に置かれた。真正面から山岡の目を見据えてくる芦名の瞳が、度の強い硝子(レンズ)の奥で冷たい光を放つ。

 帝大を出てよりずっと官道まっしぐら、先輩方の覚えもめでたい芦名警部補。その芦名の十指(じっし)にギリリと力が込められる。痛みと困惑で山岡の顔が歪んだ。


「これはただの自殺だ。焼身自殺だ。女というのは実に愚かだねえ……若い身空で死を選ぶとは。しかもわざわざ、ひどく苦しむやり方で。

 寒く陰鬱な日が続いて気が滅入ったのかしらんが、こうも悪目立ちされてしまうと不安が伝播してしまっていかん。陛下の臣民が安心して眠れるよう、一層巡察に励んでくれたまえよ」


 芦名の言わんとすることは分かった。山岡が確かに見たものを、見なかったことにせよと言っているのだ。

 芦名がわざわざ出張ってきたのは事件解明のためではなかった。立て続けに起きた三件の女子焼死事件を関連付ける"明確な証拠"を握り潰すことが目的だったのだ。


 万年巡査の山岡よりも二階級も上の芦名警部補だが、歳は山岡と比べてひと回り以上も若い。

 しかし、その目の圧に山岡は決して逆らえない。警察組織における階級差は絶対的だ。上が白と言えば、黒も白になる。下っ端の巡査ごときに口を挟む権利などなく、黙って従う義務だけがある。

 先程、芦名はあえて「上」という言葉を口にした。きっと、山岡などは顔を合わせることすら叶わない殿上人からのお達しなのだろう。


 言葉なく己を見つめ返す中年巡査にひときわ強い一瞥をくれると、低く唸るような声で「ではそのように」と念を押し、芦名は現場を立ち去った。およそ民を守る立場の人間とは思えない、昏く、澱んだ声だった。


 やがて速報を聞きつけた新聞記者らが駆け付け、野次馬の山を掻き分け掻き分けしながら無作法にもキャメラを焚き始めた。あちこちでマグネシウムの白い光が煌めき、金属の焦げた臭いと共に白煙が立つ。

 押した押されたで新たな揉め事が生まれる喧騒が聞こえてきたが、山岡はギュッと拳を握り締めたまま、しばらくその場から動けなかった。



 

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