十 童喰らう鬼
安田の落とした銃を構え、しばらく外を窺っていた吾妻だったが、応援が来る気配がないのを確認すると座敷内へと向き直った。
ひどい有り様だった。
畳は大半が割れ、あるいは踏み込みの衝撃で凹み、かろうじて無事なものにも血痕やドス黒い染みが飛び散っている。
柱は銃弾に抉られ、襖は枠ごと折れ、立派な掛け軸も文机も……およそこの座敷にあって無事なものなどひとつもないように見えた。
荒れ果てた座敷の真ん中で、蛇川が大の字になって寝転んでいた。灰褐色の瞳は薄い目蓋に覆われ、胸が大きく上下している。両手は再び鹿皮の手袋によって封じられていた。
平素は香油で丁寧に撫でつけられた髪が乱れ、汗に濡れた額に前髪が数本散らばっている。激しい戦闘の余韻で目尻を紅潮させた蛇川を見下ろし、隣に腰掛けながら吾妻が苦笑した。
「女が見れば卒倒ものの色気だな」
張り付いた前髪を指で払ってやる。蛇川は眉間に皺を寄せて抗議の意を示したが、しかしそれを振り払う気力も残っていないようだった。
鬼を斬るとは、その情念を断ち切ること。
成り立ちを知り、理を知り、その全てを赦して情念を断ち、残された魂が迷わず彼の世へいけるよう道を示してやること。
常人にできる業ではない。疲れるな、という方が無茶だった。
疲労のあまり痺れが残る腕をなんとか持ち上げ、蛇川が懐剣を鞘に納める。透き通った刃がすべて鞘に吸い込まれた瞬間、閉じたままの蛇川の右目から一筋の涙がこぼれた。
静謐な美しさを纏って流れたそれは、目尻から真っ直ぐ耳の方へと伸び、雫となって畳に――
落ちた。
と見るや、微かに硬質な音を立てて小さく跳ねた。
涙が跳ねるという怪奇現象にも関わらず、蛇川も吾妻も、慣れたもので驚きもしない。
もはや手を動かすのも億劫といった風な蛇川に代わり、畳に転がった涙の粒を吾妻が摘み上げる。光もないのに不定形の虹を表面に宿すそれは、一粒の小さな輝石だった。
「……きれい」
すっかり熱が引いたらしく、四歳児らしい好奇心を取り戻した清一が目を輝かせる。精魂尽き果てた様子の父親と違い、子の立ち直りは早い――ただ状況を理解できていないだけかもしれないが、とにかく、泣き崩れていないのは救いだった。吾妻が優しい微笑みを浮かべる。
「綺麗だろう。〈鬼の涙〉と呼ばれるものだ」
鬼とは、醜く穢れた情念が積もり積もった果てに、ヒトやモノの魂と複雑に絡まり合い、実体を得たものだ。
蛇川の持つ懐剣――〈哭刃〉と呼ばれる第一級の骨董品だ――は、そのうちの情念だけを断ち切る。
澱んだ情念から解放された魂は天に向かって舞い上がり、その最期の瞬間、確かにこの世に生きた証を一条の煌めきとして遺す。それが〈鬼の涙〉だ。
吾妻が差し出した〈涙〉を見遣った蛇川が、ゆるゆるとため息をつく。
「僕の探しているものではない」
「じゃ、こいつは俺のもんだ。まいど」
ホクホク顔で懐紙を取り出した吾妻は、そこに〈涙〉を包むと大事そうに尻のポケツにしまい込んだ。
鬼の情念を全て断ち切った時にのみ得られる、この小さな輝石は、一部の好事家にとんでもない額で売れる。なにせ供給量が少なすぎるのだ、需要と渇望ばかりが膨らんでいく。
蛇川だけが生じさせることのできる〈鬼の涙〉を、高値で売り捌くこと。それが、吾妻の本業のシノギの一部となっていた。
吾妻は肝の据わった男だ。
時に、蛇川でさえ思い付かない大胆な策を練る。
身分を隠したまま市井で動き回りたいとなった時、己の巨体は生半な変装では隠しきれないと早々に悟った吾妻は、まるで逆の発想――つまり、目立ちすぎるほどに目立ち、しかし誰もが確実に目を逸らしたくなる、奇異な存在になりきることを決めた。それが「巨漢の女装家」というわけだ。
女物の長着を身に纏い、違和感まみれの女言葉を使う情報屋としての顔は表向き。
その本質は、銀座一帯をシマに持つ武闘派集団、鴛鴦組若頭・吾妻健吾であった。
「〈鎮釘〉を拾っておいてくれ」
依然大の字のまま蛇川が言う。
蛇川は知らぬことだが、スジ者を、しかも筋金入りの極道者たる吾妻を顎で使うとんでもない堅気がいるらしいと、鴛鴦組の一部ではちょっとした噂になっているのだが……それはまたいずれ。
〈鎮釘〉とは、鬼に向かって投擲した鉄釘のことだ。これもまた、蛇川が扱う希少な骨董品のひとつだ。失くすわけにはいかない。
「へいへい。何本投げたっけ?」
「二本だ」
「へいへい」
言葉少なにやり取りを交わす蛇川と吾妻。鬼を斬った反動で動けなくなる蛇川の介添えも、もはや手慣れたものである。
見た目に反して気の利く相棒が傍にいることに安堵したものか、フゥ、と蛇川が大きく息を吐き出す。心の底からの呟きが漏れる。
「疲れた……ただただ、疲れた……」
◆ ◆
今日も今日とて定食屋『いわた』に集った女達が、いつも以上にとろけている。麗しの「白鷺さま」が、珍しく和の出立ちで現れたためだ。
三つ揃えのスーツを着こなす白鷺さまも辛味が利いて刺激的だが、色香を帯びた和装もまた乙なもの……と、囁き声ではしゃいでいる。
蛇川が和服でいるのは、過日対峙した鬼――明美の強烈な一撃を受け、左腕の骨にヒビが入ったためだ。折れてはいないものの安静が必要で、左腕は袖に通さず、肩から提げた白い手拭いで吊ってある。空のまま、帯の脇でしおらしく垂れた片袖が痛々しい。
一方のこちらは、平時通りの吾妻だ。
「見つかったわよ、例の……千寿子さんと娘ちゃん達が埋められた場所。明美の情夫をちょっと絞めてやったら、情けないほどベラベラと喋ってくれたわ」
再び「巨漢の女装家」という仮面をつけた吾妻が、声を潜めて報告する。
「古舘にも伝えたけど……掘り返して骨を回収して、丁重に弔うってさ。さすがに墓には入れてやれないから、古舘邸の一画に廟を立てて、千寿子さん達の御霊に詫び続けるんですって」
「ふうん」
蛇川は心底興味がなさそうに生返事を返した。どうせ、吾妻が語る後日譚など耳にも入っていないのだろう。
「あと、これはオマケなんだけど。
千寿子さんね……古舘の浮気にはとっくに気付いてて、証拠も隠し持ってたみたい。古舘が明美に宛てた手紙の書き損じなんだけど……まあ、読んでるこっちが恥ずかしくなるような代物よ。それを、中身は告げずに、仲の良い友人に預けてたの」
「女という生き物は、柔らかく見えて案外強かだからな」
「あら! 聞いてたの。そっちの方が意外だわ。
きっと、娘達を守る最後の切り札にしようと思ってたのね。でも千寿子さんは古舘を信じた。信じたから、最後の最期まで切り札を出さずにいて……それで……」
蛇川が唇の端だけで笑った。
「いい置き土産を見つけたものだ。それがあれば幾らでも強請れるな」
「んん。さすが下衆の思考。……ま、そう考えなくもなかったけど、ちゃんと弔うって言ってたからさ。アタシも少しだけ古舘を信じてみようかなって」
「ああそう」
また早々に意識をよそに向けたものか、幸い、蛇川は軽口に気付かなかったようだ。
どうも、いつも以上に苛ついているらしい。自由の利く蛇川の右手は腿に置かれているが、人差し指がトントンと忙しなく打ち付けられている。
堪えきれなくなったか、やがて、ガタリと椅子を大きく鳴らして立ち上がると、ズカズカと大股に進んでカウンター上の小鉢を掴み取った。中には納豆が入っている。先日同様、再び納豆を奪われた中年男が「またか……」と半ば諦めにも似たため息をつく。
「腹立たしい! 僕の推論は一部間違っていた……従兄弟の横領は目眩しなどではなかった。全てあの牝猫が、女給という卑しい身分を捨てて成金の後妻に落ち着くべく仕組んだ謀だったのだ!」
まるで納豆こそが推論を誤らせた戦犯であるかのように、ギリリと歯を噛み鳴らして小鉢を睨み付ける蛇川。激情のままに納豆を掻き混ぜてやりたかったが、左腕が不自由なためそれもできない。
その手からヒョイと小鉢を奪い取った『いわた』の女給が、納豆を元の持ち主に返した。
「あたしも女給です。卑しい身分で悪うございましたね」
「ああ悪いとも! 最悪だ! おまけにここの女給は躾もなっとらん、人の物を勝手に奪うとは何事だッ!」
どの口が言う。
『いわた』にいた全員が――蛇川を「白鷺さま」と崇める取り巻き達までもが――そう心の中で呟いた。
「……自慢の娘だ」
カウンターの奥で新聞を読んでいた亭主が、誌面から目を上げることもなくポツリと呟く。女給――りつ子という『いわた』亭主のひとり娘は、ベェ、と舌を突き出して奥の洗い場へと退がっていった。
しかしこれもまた、蛇川の耳には届かない。聞きたい情報だけを拾うという、実に都合のいい耳の持ち主なのだ。
「腹立たしい! だいたい、愛だ憎しだとかいう下らん感情はなんだ! ああいう手合いが絡むと一気に物事が複雑になりやがる。僕の信ずる合理的理性的判断の敵だッ、そんなものは!」
「でも、人間を形作っているのは、そうした"複雑で下らん感情たち"なのよ。鬼もまた……ね」
激昂する蛇川をどこか面白がりながら、吾妻が垂れた目を細くする。左眼の下に並ぶ縦二連の泣き黒子までもが笑っているように見えた。
「理解できん、いや、理解したくもないね! 僕の推論は完璧だったのだ。それを感情とかいう不確かで、愚かで、なんの根拠もない代物が邪魔をして……笑うな吾妻ッ! いいか、論理的に考えれば……笑うなと言っているッ! くそッ! どだい、いい歳をこいたオヤジが愛などと莫迦げた幻想にうつつを抜かすから……」
よほど悔しかったのだろう、なおも蛇川は喚き続ける。
蛇川が銀座中の女達に「白鷺さま」や「白檀の君」などと艶やかな渾名をつけられている一方で、
『いわた』常連客には「銀座の凶王」と恐れられている由縁がこれだった。
吾妻は柔らかな微笑みを湛えたまま見守り、『いわた』亭主は我関せずを決め込み、りつ子は裏で呆れ顔――と思いきやフッと破顔し、中年男は身を縮こませ、追っかけ連の女達は目を白黒させて麗しの君の百面相ぶりを眺めている。
いつもの『いわた』だった。
そしてまた、今日もどこかで、愛だの憎しだのの果てに――
鬼が、成る。
〈 童喰らう鬼 了 〉