一 童喰らう鬼
道を間違えたのだと思った。
文明開化目覚ましい銀座のはずれに、こうも異質な一角があっただなんて――
古舘が立っていたのは、雑然とした仄暗い室内だった。
足元にはさまざまな物が散乱している。恐ろしく値が張りそうな革表紙の本や、折れた羽根ペン。複雑な図柄が描き殴られた紙片の山。
短槍が刺さったままの仮面、干からびた何かしらの指……それに、これは……子猿の剥製だろうか? あるいは……
それよりも異様なのが本棚だった。壁に沿ってグルリと四方を取り囲むように備え付けられ、高い天井まで伸びたそれには、髪一本が入る隙間すらなく書籍が詰め込まれている。
決して虚仮威しの飾りではあるまい。どの本を見ても背表紙が擦れ、角はわずかに丸まり、頁のあちこちに幾つもの紙片や栞が挟まれている。
単に"知識"が陳列されているのではない。夥しいまでの"思索"の跡が並び、本棚そのものが威圧感を放っていた。
価値があるともないとも知れぬ怪しげな品々に、声なき圧を纏った本棚。そして、噎せ返るほどに濃密な白檀の香り……
「ここは……いったい……」
思わず漏れ出た古舘の独り言に、フン、と短い鼻息が応えた。その息は大いに嘲笑を孕んでいたが、呆然とする古舘には届くべくもない。
奇怪な場所と状況に面食らうばかりで気付かずにいたが、音のした方――部屋中央のやや奥まった場所を見遣れば、艶々とした紫壇のデスクが鎮座している。
無作法にも、その天板の上で足を組んで寛ぐ男がいた。一見だらしのない姿勢だが、それでいて寸分の隙もない。堂々としたその様は、静かに、だが確かに、彼がこの部屋を支配する王であることを示していた。
精巧に組み立てられた人形かのような男だった。
全体的に色素が薄く、肌も髪も目も、まるで白昼に迷い出た幽霊のよう。珍しい灰褐色の瞳が、男を一層この世ならざるモノのように見せている。
それでいて、その容貌はあまりにも……
美しい。美しすぎて、いっそ恐ろしい。
美貌という言葉ではとても足りない。
暴力的なまでの美しさ、とでも言おうか。
向かい合うだけで気圧されるような、自分がひどく矮小に思えるような、その一瞥に裁かれてでもいるかのような……
風が吹けばかき消えてしまいそうなほどの儚さと、強烈なまでの存在感という対極の性質が同居したしなやかな肉体。ずっと見つめていたいような、しかし直視することが憚られるような。
ひと言では形容し得ない凄みを湛えた男だった。
「いや……オホン。すまない、儂にも何が何やら……気付けばここに立っていた次第で。失礼だが、君がここの主人かね?」
「いかにも! 僕こそが、ここ、骨董屋『がらん堂』の亭主・蛇川だ」
「骨董屋……ここは、骨董屋なのか」
自分より二回り近く年若であろう男――蛇川の尊大な口振りに面食らいつつ、古舘は再度辺りを見回した。
なるほど確かに、本棚の一角に古めかしい品々が置かれてはいる……が、古舘が懇意にしている骨董屋とはあまりにも様相が異なる。第一、商いをしようという意気が主人から欠片も感じられないのだ。
古舘の困惑を知ってか知らずか、蛇川が盛大にため息をついた。
「キョロキョロと女みたいに。物見遊山気分かね、まったく……。
ひとまず、その締まりない口を閉じたらどうかね。阿呆のように突っ立っているのは構わんが、僕の城であまり臭い息を吐いてくれるなよ。香炉が泣くぞ」
元来、古舘は温厚な性質ではない。むしろ真逆だ。
状況の異様さにいまだ頭は整理できていなかったが、毒にまみれた蛇川の言葉に、持ち前の気性――怒りがついに沸々と沸き上がってきた。
この、蛇川とかいう若造の態度はなんだ。年長者に向かってあまりに無礼ではないか!
しかし、古舘の怒りは、次に蛇川が発した言葉によって瞬く間に萎んでしまった。
「まあいい。あんたがドアを開けると〈空鈴〉が鳴った。つまりあんたは僕の依頼人というわけだ。
単刀直入に言おう。あんた……見えちゃならんモノが見えているな? だからここへ来た」
知らず、古舘はゴクリと生唾を呑み込んだ。
蛇川はくつくつと笑うと脚をどけ、代わって天板に両肘をついた。鹿皮の手袋を嵌めた両手を組み(指がまたうっとりするほど長い)、その上に高い鼻を乗せる。
革手袋に隠れた唇が、キュウッと三日月状に吊り上げられて笑みを作る。まるで、新しい玩具を与えられた子供のように。
「歓迎しよう。ようこそ、骨董屋『がらん堂』へ」