第52話「こりゃ終わったらシャワーだな、はは……」
今度こそ俺は立ち上がる。
幸いというべきか、擦った手足に大した怪我はない。走るのに支障は無さそうだ。これなら行ける。口の中を切ってはいたが、これもまあ関係ない。それよりもティエリア先輩の無事も確認出来たことだし、逃げよう。
『一分が経過しました』
無機質なアナウンスの声が響く。
どうやら、設定されていたお知らせタイマーが起動したようだ。しかしあれだけの出来事があって、まだ一分しか経っていないのか……。
俺の体感時間では既に十分は経過しているというのに、いやはや時間の流れがかくも遅い。もしやタイマーが壊れてはいないだろうな、なんて。それともこの世界は時間の流れが微妙に違うのかもしれない。普段気にしたことがないから分からないけども、どうなのだろうか。
「どうした綾村、逃げないのか?」
「え、ああ、はい!」
おっとこうしている場合じゃないぞ。音声に気を取られていたせいですっかり呆けていた。危ない危ない。早く行動を再開しないと。
……って、ちょっと待て、どうして決闘相手に指示されているんだ俺は。
少し遅くなってしまったが目的地の樹林に到着することが出来た。
やはりここも魔法による再現率は完璧だった。空気感まで同じだ。パッと見どこもおかしな箇所はなく、一般的な樹林らしく草木にあふれ、青々と生い茂っていた。
左手には群生林が。ただ残念なことに、博識ではない俺にその群生林が何なのかを知る術はない。そもそも異世界の植物だし、知らないのも当然か。
さておき、草木を掻き分けながら奥地へと進む。
思っていた通り足場はあまりよくなかった。木の根が至るところに地面を走り、引っかけの様になっている。それに足を取られないように注意しながら、俺は歩いた。
「はぁ……はぁ……」
にしても体力の消耗が激しい。流石に連続して走ったせいで息が切れた。思わず近くの樹に寄りかかる。足元がふらふらして倒れ込みそうになるが、気合いでなんとか堪えた。止めどない汗が顎先から滴り落ち、身体は泥と汗でべたべただ。
「こりゃ終わったらシャワーだな、はは……」
もはや限界が近づきつつあった。
一度こうなってしまうと、脳裏によぎるのは時間に関することばかりだ。
早く時間切れになってくれ。
まだ時間にならないのか。
残り時間、何分何秒あるのか。
次から次へとそんな益体もない考えばかりが頭に浮かぶ。疲労がそんなネガティブな思考をかきたてる。それらを振り払うために頭を振ってみたのだが、気分が悪くなっただけだった。
「そろそろ行かないとな……」
小休止を挟んだおかげである程度体調はよくなった。樹に預けていた身体を戻し、気を引き締めて再び歩き出す。ティエリア先輩がすぐ側にいないとも限らない。もしかしたらあそこの茂みに隠れ潜んでいる可能性も、なくはないだろう。草の根を踏んだ音は聞こえなかったが、それだって俺が聞き漏らしただけかもしれないしな。いくら聴力がまだ衰えてないとはいえ、断言は出来ないのが困った所である。
「とか言って、あの人の性格じゃ堂々と姿を見せるとは思うけど」
だってこそこそするのとか好きそうにないし。むしろ茂みから嬉々として飛び出してきそうでさえある。
「なんだ、今の発言は私に向けてのものか?」
そう、例えばこんな風に。
…。
……。
………。
あれ?
おいおい勘弁してくれよ、噂をすれば影がさすってか。
確かにティエリア先輩があそこの茂みにいるかも、なんて考えたりもしたがまさか正々堂々前方からやって来るとは(しかも身体に炎を纏わせながら)思わなんだ。
もしかしてさっきのはフラグだったのか?
「ともかく!」
見つかってしまった以上逃げるより他ない。ティエリア先輩にくるりと背を向け、再び逃走開始。流石に走る速度は落ちてきていたが、やはり彼女が追って来る気配はなかった。
何だか手加減されているようで(事実そうだろう)腹立たしかったが、そんなことはおくびにも出さず、ただ黙々と距離を広げて行った。これが鬼ごっこの本質のはず。だが、先程と同じなのはここまでで、違うのはここからだった。
「汗かき巨人の熱意ある脈動」
たぶん、俺の背後で魔法が発動したんだと思う。突き刺すような灼光が周囲へとしっちゃかめっちゃかに走り、その余りの激しさに目が眩んだ。
だが音はなく、痛みもない。
その事から少なくとも俺に向けられたものではなかったようだ。
だとすれば、何が起こったのだろうか。さっきの魔法は一体どこに向けられたのだろう。
五感の一つを瞬間的に失っただけでこうも疑問が巻き起こる。もっとも推測するにも情報が乏しいので、結局視覚が回復するまで待つしかないのだが。
瞼裏に焼き付く光が少しずつ薄くなっていく。
そして、光が完全に収まったので状況確認のために目を見開いた。
すると、
「——は?」
一瞬、何がどうなっているのか分からなかった。やや遅れて理解が追い付くと、もれたのは疑問符だった。その光景に、思わず俺は言葉を失わざるを得なかった。事態はそれだけ衝撃的だったからだ。『まさか』という接続詞は、この時に使うのが適切だろう。
さっきまであった樹木が軒並み、押し並べて、一切合切、あまねく全て消滅していた。
跡形もなく、塵も残さず、まるで最初からそうであったかのように。
端的に言おうか。
この擬似聖マルアハ魔法学校の敷地内から樹林という存在が冗談でなく姿を消していた。
あとに残るのは周囲を丸裸にされた俺と、この状況を作り出したであろうティエリア先輩の二人だけだった。
嘘みたいな話だろ?
俺も観客の立場ならそう思うね。
けど残念ながらこれは真実の話で現実の話だ。もはや笑うしかない。
まさか少し目を瞑っていただけで風景が一変しているとは予想もしていなかった。
「なんだ、足が止まっているぞ」
ティエリア先輩は言う。
「随分動揺しているようだな」
その表情は生贄に捧げられた憐れな子羊を見るようで。
「私の魔法に臆したか?」
自分は相手よりも優位だとどこまでも信じて疑わない態度の彼女。
そんな彼女を前にして、俺はただ震えていた。
硬く引き結んだ唇も強く握りしめた拳も、くずおれないようどっしりと構えた両足ですら、情けない程ぶるぶると震えていた。これは怒りなのか、それとも恐怖なのか、果たしてどんな感情で動いているのか分からない。分かるのは、俺とティエリア先輩の間には埋めようのない差があるということだけだった。
「そんな様子ではこれ以上決闘を続けられまい」
しかしそんな俺を嘲笑うかの如くティエリア先輩は言った。
「——もう諦めろ」




