第51話「——悉く燃やしてしまった」
いきなりだが全力疾走。
元よりスタミナなんて考慮していない。とりあえず力任せに走ってこの場から離脱することだけを考えていた。上履きをきゅっきゅっと鳴らしながら魔法によって作られた架空の闘技場を後にする。そのまま渡り廊下を大股で飛ばし校内に到着。
ここまでの所要時間およそ十秒。俺に残された逃走時間は残り二十秒。
——行けるか?
この逃走劇は制限時間にカントはされていないのでまだ三分間あるのだが、このペースで果たして俺は逃げ切れるのか。
「いや……!」
後ろ向きなことは考えるな。
足だけを動かして雑念を捨てろ。
勝利だけを望み、走れ走れ!
そう自らを鼓舞し、だだっ広い廊下をひたすら突っ走る。どこに向かうかなんてまるっきり考えていない。とりあえず気の向くまま走っているだけだ。そうしている間にも逃走時間は刻一刻と過ぎていく。
曲がり角を右に、……三秒。
準備室室が見え、……七秒。
教室棟に到着し、……九秒。
そして残りの一秒が経過した。
これで総じて三十秒の猶予が終了し、ティエリア先輩も行動を開始するだろう。とはいってもある程度の距離はかせいだはずなのでそうそう追い付かれやしないだろう……と思った瞬間だった。
「螺旋回転に於ける火格の下落」
まず最初に感じたのは凄まじいまでの熱気だ。
如何とも表現し難いが、夏場に電気コタツに入りながら激辛カレーライスを食べるのとはまた違う、陽光にじっくり照らされた熱砂を素足で踏んだときのような感覚が俺を襲った。
だが不思議なことに全身汗だくにも関わらず、背筋は薄ら寒かった。
そして、次に感じたのは、そう、音……音だ。
溶けてデロンデロンになった棒アイスを口にした時のシャリ、ともグジュ、とも聞き取れるあの響きに似た音が後方から届いた。
幾重にも混じった融解音が俺の耳朶に余韻を残す。まるで嘘みたいなバックコーラスに聞こえた。
最後に感じたのはあってほしくないが人の気配だった。後ろを見なくてもそうと分かる存在感。B級ホラー映画の幽霊よろしく俺の背後に毅然と立っているであろう人物は、予想違わずティエリア先輩その人なのだろう。
「遅いな。まだこんな所にいたとは思わなかったぞ」
その言葉を耳にして俺は勢いよく振り返った。
するとそこにいたのはやはりというかティエリア先輩で、彼女はがつまらなそうな面持ちで悠然と立っていた。
「な、なんでここに……?」
一方で俺はといえば、ただ喫驚するしかない。
「なんでここに、とはまたえらく頓狂なご挨拶だな」
脳内では疑問符ばかりが浮かんでいる。「まだ始まって数秒と経っていないのに彼女に追いつかれたのは何故?」とか「俺の通って来た道がドロドロに熔けているのは何故?」とか疑問の行き着く先が当たり前過ぎて思考することが阿呆らしく思えるが、んなことよりもだ。
どうやら俺はティエリア先輩の力を見誤っていたらしい。いや見誤るも何も、彼女の魔法はこれが初見なのだが、そんなのは言い訳だ。能ある鷹は爪を隠すというが、その通りだった。
——これが魔法の力か。
今更認識を改めても遅いが、それでも俺はこう思うのだ。
と同時に再び俺は駆け出した。確かにティエリア先輩に追いつかれこそしたが、あくまでこれは鬼ごっこだ。つまり鬼に捕まらなければ終わりではない。そのルールに従えば俺はまだ負けてはいないので、文字通り脱兎の如くその場から逃げ出したという寸法だ。
「ふっ、面白い。狩りは生きのいい獲物でなくては張り合いがないからな。この私の前で精々抗ってみせろ!」
それにしてもこの先輩ノリノリである。
強者の余裕なのかティエリア先輩がすぐに追いかけて来ることはなかった。俺ならせっかく捕まえかけた獲物をやすやす見逃しやしないが、そこが俺と先輩との格の違いなのだろう。
……まあいい、せっかくもらった恩情だ、これを断るいわれはない。その油断が命取りだということを教えてやるためにも俺はただひたすら走った。
今度はどこに逃げようか。
校内は駄目だ。先輩の魔法の前では校舎の壁などハリボテ程の障害物にもならない事がついさっき分かった。これだったらまだ校外の方がマシかもしれない。だから次に向かうのはこの学校の敷地内にある樹林だ。
こういう時のために保険をかけておいて正解だった。戦場を校内だけに限定していたらそれこそ速攻で勝負が決まっていただろう。
せっかく一階にいるので玄関からお行儀よく外に飛び出す真似はしない。適当にそこら辺の窓から身を乗り出して脱出する。着地に失敗して足をくじいた、なんてこともなく無事に軒下へと躍り出た。流石にこの状況でシュールギャグを行う人間じゃないからな。
「……なんだ?」
やけに肌がひりつく。
額に浮かんだ汗を制服の袖で乱雑に拭い、呼吸を整えるために軽く一息ついて、疲労の色を見せ始めた両足に力を込め、時間切れはまだかと切望しながら——疾走。
嫌な予感があった。早くそこから逃げ出さなければいけない気がして、だから多少の無理を承知で前方に大きく跳んだ。
結果からいえば俺の予感は的中していた。
「拡散、誘爆する悍ましき咆哮」
——ボガンッ。
気が付けば校庭の片隅に倒れていた。
口の中から砂利の味がする。すぐに立ち上がろうとすると肩に鈍い痛みが走った。
「うぐ……!」
突然起こった衝撃にいとも簡単に吹っ飛ばされた俺の身体は地面に強く叩きつけられたせいで所々擦れてしまっていた。
「くそっ、何がどうなってんだよ」
とかなんとかぼやきつつ、俺の眼は煙を上げながら轟轟と吹き荒ぶ見るも無惨な姿となった校舎を捉えていた。大小様々な穴ぼこが散見し、そこから骨組みが露出している。まるで焼け爛れた皮膚のようだ。その光景はあそこで起こった異変を雄弁に物語っていた。ずっとあの場に留まっていたらと思うと、軽く身震いする。
校舎は炎上していた。誰もブログの話はしていない。リアルの話だ。
火炎が校舎からちろりと顔を覗かせ、まるで触手のようにうねっていた。周囲に飛び火し、更なる紅蓮の色を増やしていく。そうすると再び炎がうねり、飛び火。その繰り返しだ。
そしてゆらゆら揺らめく火炎の背後に影絵のようなシルエットが浮かび上がった。人の形を為したそれは、徐々に横の広がりを見せている。こちらに近づいて来ているのだ。
「……ん?」
と、そこで俺は何か光景に違和感を覚えた。視界の上方に蠢く物があった。
「——あ!」
思わず叫んだ。
校舎の支柱を鋳溶かしてしまったのか、シルエットに向かって大量の瓦礫が降り注いだからだ。あれがあのまま直撃すれば、間違いなく即死だろう。意味もなく俺はそれに向かって手を伸ばした。当然掴めるはずもなく、熱せられた空気だけが空しく俺の手を通過した。
だが——心配は杞憂だった。
「焦げ蒸した槍は鼻腔を燃やす」
シルエットの右手がかざされると、現れたのは巨大な炎の円錐、いや槍だ。それが手先から展開されるやいなや、瓦礫を瞬時に飲み込み次から次へと灰塵に帰していく。さながら鎔解炉のように。その下に瓦礫の一切を通過させることはなく、ただ無上で、ただ無比に、ひたすら的確で、ひたすら確実に、対象を焼いて焼いて、焼き尽くした。あれほど脅威に思えた瓦礫の山はもはや面影すら残ってはいない。
一拍おいて、フッ、と炎の槍が消失した。
役目を終えた魔法は空気中に霧散するのが常だという。出現するのが唐突なら焼失するのもまた唐突らしい。事実、瓦礫はもうない。全て積灰と化した。
「瓦礫如きが私の歩みを阻もうとするとはな。つい——」
その声に安堵すると共に俺は身を硬くした。誰が言葉を発したのか分かるからだ。
いよいよ火炎越しのシルエットがその姿を見せる。
「——悉く燃やしてしまった」
凛とした出で立ちで現れたのは生徒会長であるティエリア先輩その人だった。豪胆で自若然とした彼女は正に法外である。




