第39話「たなま」
かのパスカル曰く人間は考える葦であるらしい。
この言葉に込められた真意が何だったのか推しはかる術はないので好きに解釈させてもらうが、多分こんな状況の時に使う言葉だと俺は思う。
棚町からの返答を待つ。なあに待たされるのは得意だ。日々トイレで昼休みの時間を過ごす俺にかかればこの程度は造作もない。少し経ってから徐に彼女は口を開いた。しかし紡がれた言葉は俺の期待していたものとてんで違っていた。ぐちゃぐちゃに撹拌されて行き場のない、ただの純粋な感情だった。
「——うるさい」
「なんだって?」
「うるさいって言ったの! 黙って聞いていれば言いたい放題言ってくれちゃって! それで説教のつもり? 悪いけど上から目線過ぎて全然心に響かない! 決闘をしたくないなら別にいいよ、その代わりもし廃部を免れても綾村くんなんか絶対に入部させないんだから! 同じ転生者でも綾村くんなんか仲間じゃない! 使えない仮部員に用はないの、だから今すぐあたしの目の前から消えてよ!」
「お前……っ」
正直に告白しよう。
棚町を殴ろうかと思った。いや比喩とか冗談じゃなく本気で。それを留めたのはひとえに俺の欠片程度の理性であり、安っぽい倫理であり、そしてみだりに女性へ手を上げてはならないという社会的観念のおかげであった。
さりとて、こいつの言葉にイラッと来たのは事実だったのでつい反射的に俺は棚町の両肩を掴んでしまっていた。こんなことするつもりは全然なかったのに、くそっ、全く役に立たないじゃないか俺の良識とやらは。
すると——、
「ひっ!」
棚町はその整った尊顔を泣き出す寸前までくしゃくしゃに歪ませ、
「わああぁぁああぁあっ!」
あらん限りの力で俺を突き飛ばした。
「——ぐっ!?」
後ろに立てかけてあったパイプ椅子に背中から激突する。運悪く広角にぶつかり鋭い痛みがクレバスのようにビキビキと身体中に伝播する。その衝撃はあまりに強烈で、すぐには呼吸が出来ない。酸素を求めて喘ぐも、逆にそれが喉に負担をかけてしまい、首が振り絞られたかのような息苦しさを覚える。
「綾村先輩、大丈夫デスカ!」
「……圭っ!」
すぐさま伏日と頸野が倒れた俺に駆け寄って来てくれたが、それに答える余裕はなかった。
強く打ち付けた背中がとにかく痛い。
おぇ吐きそう、私妊娠しちゃったかも、とふざける程度の余裕はあるので、少なくとも大事には至っていないはずだ。
幸いこういうことには慣れている。
「はーっ、はーっ」
何度か深呼吸を繰り返していると、ようやく呼吸が落ちついてくる。
それとともに痛みも徐々にだが引けていく。痺れこそ残るものの、返事が出来るくらいには回復したので、伏日と頸野には心配ないと告げる。二人からもれるのは安堵の一息。
さてどうにかこうにか俺の浅い事情は解決したが、肝心の棚町の方はというと、
「え、あ、あの……」
顔面を蒼白させ、飼い主に捨てられた猫のように狼狽えていた。
「たなま」
「——っ!」
目が合うと、棚町はビクッと身体を硬直させて視線が右へ左へ。それから勢いよく扉に振り返り、声をかける暇もなく部室を飛び出して行った。ここまでの所要時間おおよそ二秒ほど。サッカー選手を彷彿とさせる切り返しの早さである。
一応追いかけるべきか、と俺は痺れを切らした身体で立ち上がろうとしたが、それを目敏く察した伏日が手で制し、
「棚町先輩はミザリーが追いかけマス。だから綾村先輩はここで休んでいてくだサイ。頸野先輩、綾村先輩をよろしくお願いしますネ」
「……ん、任せて。看護は得意」
俺を気遣ってくれるのはありがたいのだが、看護はせめてロリ先輩に任せてくれないかな。相手が頸野とかどっちが世話されているのか分からなくなるだろ。第一喀血が心配で安心して休めないよ。
「いや、すまないが頸野さんも部長さんの元に行ってあげてはくれないかな。彼のことはこのボクが看取っておくから」
「……分かりました」
そんな俺の心の声が届いたのか、今の今まで沈黙していたロリ先輩が指示を下した。だけど看取るって縁起でもないこと言わないでくださいよ。演技でもないようですけど。




