トメばあさんの宿屋
雑貨屋でレオナと別れたリノは、買い物をした荷物を<収納>に入れ、トメばあさんの宿屋に帰って来た。
宿の玄関口に置かれたガラスの器には、もうロウソクの灯が揺れていて、陽が落ちて暗くなった足元を優しく照らしてくれていた。
「帰りました~」
小さな声を出して家に入っていったのだが、すぐに「はいはい、お帰り。いい買い物ができたかい?」と言いながら、トメばあさんが奥の部屋から出てきてくれた。
「おや、買った荷物は?」
「ええっと、私、<収納>持ちなんです」
「なんとまぁ、珍しい。ピエールさんみたいだ。そういえばゴンゾが言ってたね。リノさんは異世界から来たんだって?」
「はい、なんかそうらしいです。自分としては、ただ海で遊んでただけなんで、ここに来るつもりもなかったんですけど……」
リノには異世界にいることがいまいち信じられない。これから寝て起きたら目が覚めて、いつものように兄貴と一緒に地元の海にいるんじゃないか、そんな気がするのだ。
ここは、動物の王国というか、動物の種類が大型化したシルバニアファミリ〇の世界みたいで、どこか現実味に欠ける。それに物語に出てくるような魔法もある。夢をみていると言ってしまった方が、自分を納得させられるんじゃないかな。
これからの生活を心配し、焦っている現実主義なリノの意識と、こういう茫洋とした、フワフワして現実感がないような意識が、同居しているのが、今のリノの現状だった。
トメばあさんに連れられ、三号室の部屋に帰ると、そこにはもうランプが灯されていて、机の上には夕食が置いてあった。
「リノさんはここに泊まるのが初めてだから言っておくわね。夕食が済んだら、さっきみたいに食器をトレーごと廊下のカートに乗せておいてくれると助かるわ。それから寝る前には、ランプのここのつまみを絞って、灯を消してから休んでね。火事になったら困るから」
なるほど、電気がない世界なんだ。
「それから、明日の朝食がすんだら宿を出て役場に来てくれって、ゴンゾからの伝言よ。明日は月の第二木曜日だから、たいてい村の誰かがオータムの町の市場に行くのよ。それで、リノさんを荷馬車で送ってってもらおうと思ってるんじゃないかしら」
荷馬車、それは助かるな。
町まで行くのに、サンダルで長距離を歩くより裸足の方がましかもしれない、と思ってたから。
「それじゃあ、朝早く起きなくちゃいけませんね。起きれるかなぁ」
「ふふ、それは大丈夫。朝食を持ってくる時に私が起こしてあげますからね」
「すみません、お願いします」
リノは朝早く起きるのが苦手なので、この申し出はありがたい。それと、これも聞いておかなくちゃ。
「あのぉ、この宿にはお風呂かシャワーってついてます? 買ってきた服に着替える前に、海水でべたついた身体を洗っておきたいんですけど」
「まぁ、そうね。でも残念ながらお風呂なんかはないのよ。うちの宿だけじゃなくて、この国ではたいていどの宿でも、お客さんには裏庭にある井戸を水場として使ってもらってるの。お湯をバケツ一杯沸かすのが、20バルになるわ」
「そんな仕組みになってるんですね。それじゃあ、夕食の前に井戸を使わせてもらいます」
「タオルは……持ってないようね。井戸の側にある小屋で着替えられるから、そこの棚にあるタオルを使ってちょうだい。タオルは自分の物を使う人が多いの。持っていないときの使用料は、普通5バルなんだけど、そちらはサービスしておくわ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいます」
タオルのことは頭になかった。脱いだ服を洗濯するのに洗濯板や洗剤も必要だな。それと洗濯物を干す紐に、歯磨きをする時の歯磨き粉やコップ。化粧水やヘアブラシも欲しい。
今の全財産は800バル。500バルの宿代を残しておいても、残金が300バルある。レオナさんは、当座の食事代だと言っていたけれど、倹約して少しずつでも貯金に回しながら、そういう必需品をそろえていった方がいいみたいだ。
井戸の側で水浴びをして、服を着替えると、着ていた水着は軽く絞って<収納>に放り込んだまま、リノは部屋に帰って来た。
身体はさっぱりした。
けれどお尻がスースーする。
下着を着てみてわかったのだが、パンツがサル人族用のものだったため、お尻に尻尾を通すための穴が開いていたのだ。
必需品に、裁縫道具も追加だな。
いったい何度目の異世界間ギャップだろう。
普通、下着に尻尾用の穴が開いてるなんて、思ってもみないよねぇ。
夕食は少し冷めていたが、エビや魚の海鮮塩焼きに、氷の入った冷や麦だったので、午後遅くに昼食を食べたリノでもツルツルっといくらでも食べられた。
醬油やだし汁がある。それに食べ慣れた海の幸がいっぱい。
こんないつも通りの食べ物を食べられるだけでも、迷い込んだのがこの異世界で、良かったといえるんだろうな。