一年前
「けむり? なんでけむり、うわ、うわー」
暗闇の向こうから、男の叫び声が聞こえた。
気の早い秋の虫たちの喧噪が一瞬止まる。月の影を映す湖面の向こうに《亀の井のお堂》が黒々と聳そびえ立っている。
*
「動物でも出たかな?」
少し笑いの混じった智也ともやの口調には、まだ余裕があった。
つづけてドボンという、何か大きなものが水に落ちる音を聞くまでは……。
「ねえ彰良あきら、今の音は……なに?」
震える声で俺にそう聞いたのは、愛美あいみだったか由佳ゆかだったか。俺たちは一度顔を見合わせると、食べかけのアイスクリームを放り出し、お堂へ向けて走り出した。
遊歩道の階段を一段飛ばしで駆け上る。道の両側には背の高い樹々が生い茂り、お堂の姿は見えない。林間に漂う、熱くねっとりとした空気が不安を煽る。
何か不吉なことが、起きていなければ良いのだが。
*
階段を登った先は、湖に突き出た高台の美しい草原。眼下には亀浦湖が月の光を浴び黒く輝いていた。左手に建つ《亀の井のお堂》に北沢京平きょうへいがいるはずだ。
歩調を緩めることなく、四人で堂宇の正面へ回り込む。
しかし……そこに京平の姿はなかった。
「京平? 京平、どこ? 冗談はやめて! 京平、きょうへい!」
俺と由佳とでお堂の内を探す……が、狭い空間に隠れるような場所はない。亀の石像が乗る大きな台座の背後を覗き込んだ由佳が、「ヒッ……」と、小さく悲鳴をあげた。俺も脹脛ふくらはぎから背筋にかけ悪寒が走る。今、足元をゾクリと冷たい何かが横切った。
「何かいたのか?」屈んで確かめようとしたそのとき、
「彰良、由佳、こっちだ。早く来てくれ。京平が湖に浮いてる!」
堂宇の外を探索していた智也の絶叫が響いた。由佳と二人、慌てて堂の外へ飛び出す。
手招く智也の横で、愛美が湖へ向け京平の名を呼んでいる。彼女の立つすぐ傍の木製支柱から、手すりのロープが途切れ、崖下へ垂れ落ちているのが見えた。
駆け寄って崖下を覗き込む。湖面までの高さは三mほど。夜間ゆえ高度感はそれほどないが、崖はオーバーハングしていて足がすくむ。
震える手で愛美が指し示した湖の上。そこに確かに人影が見えた。
間違いない、あれは京平だ。反射的に湖へ飛び降りようと身構えたところで、
「待て、彰良」智也の腕に止められた。
「俺が行く。この暗いなか眼鏡のお前が飛び込んだんじゃ危ない。それに上手い具合にこいつがある。浮き輪がわりになるだろ?」
アイスクリームを運ぶため《ペンションとるて》の売店で借りた小型のクーラーボックス。それをグイッと胸の前で抱きしめて、智也が引き攣った笑みを浮かべる。
ボックスの中で保冷剤でも動いたのか、ゴロンと重い音がした。
「大丈夫か? この高さで行けるか?」
俺の声は震えていた。
「心配するな。お前たちは急いでさっきの浜辺に戻ってくれ!」
智也は一度手を振ると、漆黒の湖へ向け大きくジャンプした。