5 夫の愛人
※性に関すること、不貞など不快になるような表現があります。苦手な方はお気を付けください。
シリウスより早い回復に入ったのはシャプレーだった。
あの後一度食中毒のようになり体調を崩したが、重い感染症も見受けられず、仮の四肢を装着し既に仕事は再開している。
ただ一般業務ではなく、ギュグニー、艾葉以外でも数か所見付かった地下研究所の処理や被害者への対応に追われていた。研究所の体で、普通の人身売買や人体実験、欲を晴らすためだけの場所になっているところもあった。
もちろん、ギュグニーだけでなく、先進地域の人間も多く関わっていた。
今、荷物をまとめて必死に逃亡準備をしている者たちもいるであろう。
境目の難しい問題もあり、シャプレー・カノープスやサダルメリクがあらゆる相談役を頼まれていたが、メカニックやニューロス関係以外の分野にまで及ぶとあまりに仕事が膨大なため、一旦線引きはしている。
ギュグニーと艾葉以外で最も規模が大きかった地下施設は、西アジアテレスコピィの郊外。ベージン社の本拠地のあった地域で、常々北メンカルやギュグニーとの繋がりが騒がれていた場所だった。
テレスコピィ近隣地域の実務処理はユラス側からは南ユラス大佐とワズンが担当している。
現在調整中のスピカの代わりに、内務業務に強いシャシャオが秘書兼護衛役をしている。シャシャオは一般には公表されていないニューロスヒューマノイドだ。
シャプレーは今回の件で処理すべき仕事に頭を抱える。
河漢艾葉の地下で動いていた、ミクライと渡長は彼らが残したAIだった。つまり、電脳アンドロイドである。チコや一部の者は既にその事実に気が付いていた。渡長はギュグニー内でも亡命を繰り返し、一国のアパートで廃人になって見付かっている。
電脳アンドロイドが、どういう仕組みの物かも解読していかなければならない。そして、その中によくも悪くも『北斗』が機能していたのかも調べなければいけない。
河漢の地震はプレートそのものの揺れや変動でなく、地下の人工構造物による地盤沈下や重み、それに加えた爆破などから来ているものであった。『前村工機』も少し傾いている。その後のアンドロイドマルビーの調査により、他にも爆発装置などが見付かっている。
モーゼスが最後にとどめを刺さなかったのは、リモートしていたミクライと渡長がそれぞれ違う意見を持っていたためだった。ミクライは、証拠や技術、自分の研究のあらゆる秘密が世界に流出するくらいなら艾葉を潰してほしい。
渡長は艾葉に自分の王国のような世界をコツコツ作っていた。なので、絶対に誰にも渡したくないし、壊すことなく永遠に保存したかったのだ。
それは砂の城に過ぎないのに。
そして、最終的に『北斗』の根幹が、河漢に集中していた要人たちを守るべく、広大なヒューマンセーブを働かせていたのだと推測している。
河漢は古すぎて北斗が及ばない場所もあるが、モーゼスが既に様々なものをハッキングしていた。
つまり、ハッキングした者はそれを生かすために、最新の機能をある程度河漢の地下に刷新させている。そのため、艾葉の行政が見捨てたインフラにも、『北斗』を潜在させることができたのだ。モーゼスの根も『北斗』だ。
いずれにしろ艾葉は数年後になるだろうが、調査整理などが終わり、用意が整い次第全て取り壊しになる。
そのままにするにはあまりに崩壊の危険が大きかった。
「社長、コーヒーです。」
「そちらのローテーブルに。」
シャシャオがコーヒーを置くと、シャプレーは暫くニュースを確認する。
度々出てくるユラスの文字にシャプレーはため息が出た。
シャプレー・カノープスの母『ベイドゥ・カノープス』が、ユラスのナオス族国家からアジアに来た時、彼女は希望に満ちていた。
正道教でありながら夫が女性にひどく手広いため、一時期破門の勧告を受けていたのも知っていたし、狡猾だということも聞いていた。
けれど彼はアジアで、つまるところ世界で最も大きな企業のトップで、たくさんの力や世界の秘密を持っていることも知っていた。ただの暴れ馬ではなく、身の振りを考える頭の良さも持った暴れ馬だ。
ナオスの元貴族家系の箱入り娘、『北斗』が彼の妻に選ばれた理由は、彼女が彼の財産に縋りつかない精神性と財力を元々持っていたということも大きかった。彼女の家門も、ユラスから西側世界に広がるそれなりに大きな一族だったからだ。
彼女自身、崇高な信仰心を持ち、頭も非常に良い。大きな家の、その企業を支えられるほどの懐と技量も持っていた。子供の頃から親族の企業を手伝っていたからだ。
けれど、結婚数か月で既にその生活は破綻していた。
生き方に潔癖過ぎたのがいけなかったのか、完璧すぎて束縛されると思ったのか、夫であるエラキス・カノープスは『ベイドゥ・カノープス』と名を変えさせた妻を、子作り以外で避け続けた。
夫婦仲の良い曽祖父母、祖父母、両親を見て真っ直ぐ育ったベイドゥには、初めて突き当たった解せない現実であった。
けれどベイドゥは失望して動けなくなるほど繊細でもなく、またあふれるほどの若さとエネルギーも持っていたので、挽回しようとあらゆることに尽力した。でも、どんな努力も、子を成してからですら、夫の気を引くことはなかった。
ユラスに帰れと何度も親親族から言われていたが、それもできなかった。
なぜかと言えば、ベイドゥは結婚時に『愛と、慈悲と赦しと、永遠』の正道教に改宗しその意味を深く理解していたし、宗教総師会のカストルたちとも多くのことを話し合っていたからだ。
彼らの要請は、カノープス家、しいてはSR社の中核に、絶対に人本主義や独裁と繋がっている者を入れてはいけないということだった。人本主義者を許したとしても、根幹を握らせてはいけない。
彼らは全て、危険国家のスパイの可能性があると。
どんなにカノープス家が女性やお金に外道でも、そんなスパイよりまだましだということだ。
ただ、カノープスの女性関係は派手だったが、世に隠すような性癖はなかったのと、未成年や人妻などに手を出さなかっただけよかった。賢いのでうまく生きる手段を知っていただけかもしれないが。そして豪快な金の使い方はするが、自分で稼ぐ職人でも商人でもあったので、金に卑しくもなかった。お金の流れをよく把握していたので、多過ぎる財産など貯め込んでも腐るだけだと分かっていたからだ。
ベイドゥは人を使って、カノープスに付いてくる女たちを皆調べていた。
国籍だけでは分からないこともあるので、ルーツや半生も探る。そして本人や近親者がどこの国と通じているか知って唖然とすることもあった。
必要以上にでしゃばった妻にならない代わりに、ベイドゥは夫に要求した。
女にカノープス家の敷居を跨がせてはいけない。そして、子供だけは絶対に作らないでほしいと。たとえ外に出した物でも、子種を絶対に持っていかれてはいけない。そして、息子シャプレーがある程度成長した時点で、夫自身に避妊処置をすることお願いした。
もし、シャプレーに何かあったら?と聞かれたが、今の医療なら再生ができないわけではないし、他の方法でも子供はできる。自分との間に子供ができないのなら、自分があてがった女性を迎えてほしいと言ったのだ。
一方、娘が受けている扱いを知ったユラスの親族は激怒した。
ユラスは血統を残すという意味で、男性の不貞には少々寛大だが、女性の貞操には非常に厳しかった。
北斗、彼女はユラスでは北斗と呼ばれていたが、自分の高貴な娘がそんな後宮管理のようなことをさせられるとは思ってもいなかったのだ。
その上、娘がもっととんでもないことを言い出したのだ。
「北斗!あなたは自分が何を言っているか分かっているの?正気?」
ただでさえ、アジアでひどい評価を受けていたのに、娘はさらにあり得ないことを言い出したのだ。実母は娘が信じられなかった。
「お母様、私はおかしくなんかないわ。」
「自分で自分が分かっていないだけよ!」
母が怒るのも当然だ。
自分と子供に何かあった場合、カノープスが他に妻として女性を迎え入れるようなことがあったら、ユラスの女性を送ってほしいと見繕い始めたのだ。
「お母様、私のすることを信じて。」
「何を言っているの?許されるわけがない!!私たちの神の姉妹をあんな男の犠牲にするの?!」
母の怒りは収まらない。
「どこからそんな戯言がっ……」
「まさか……マギマスにもそんなことをさせていないでしょうね?!」
マギマスは北斗の侍女だ。
「!?そんな訳がない!マギマスは既婚者よ?」
「マギマスをこっちに返しなさい!」
「マギマスはユラスの家も勘当状態です。」
「なら私が引き取るわ!!」
まだ若い北斗は、信仰深い母には理解が得られると思い、全てをそのまま話してしまったのだ。けれど信心深い母はかえってそれを嫌悪した。母も、娘から不貞の夫に悩んでいる相談を受けると思っていたのに、不貞の片棒を担ぐようなことを言われたのだ。当たり前に許せるわけがない。
しかも、とても素直で聡明だったユラスの誇りのような娘に。
「親族であなたの今後の身の振りを考える必要がある。」
「やめて!誰にも言えないことを、お母様だけに話したの!!」
「あなたをアジアに出したのは間違っていた……」
「お母様っ!」
「縁があるからと送ったのに………」
「お母様?!」
「………人の心まで無くしてしまうなんて!!」
北斗の名は、昔ユラスに来た崇高な仏僧が付けてくれた名だ。
空の北斗七星を指し、
『あの柄杓のように子を守り、いつかあなたが天の星をまとめるだろう』と。
ひどく揉めた後、別の国にいた親族たちのSRグループ乗っ取り事件により、北斗は本当にユラスの実家には帰れなくなった。帰っても夫は追いかけてこないであろう。アジアにも居場所を無くすだけだ。
でも、少なくとも今は、はっきりとした『妻』という位置がある。
これだけがベイドゥの存在意義だった。
そして、夫の愛人を管理する女として、顔を見せずともアジアの高級層界隈でも知られるようになった。こんな時代に馬鹿げたことだったからだ。
ただ一人の侍女に支えられ、
故郷も名前も無くしたベイドゥは孤独だった。