後編
ひょんな出会いからお互いを尊敬し合う関係だったはずが、いつの間にか、ストーカーの加害者と被害者の関係になってしまう。
ストーカーの怖さは、自分が知らず知らずのうちにストーカーになり得るというところにもあるのです。
第五章 良次②
1
小平市にある、とある漫画家の自宅兼事務所を出るとき、武田良次は今一つ物足りなさを感じていた。良次は一年ほど前から、週刊漫画誌に連載している漫画家の下でアシスタントとしてバイトをしてきたが、良次が描いている漫画「SAKURAドリブラー」の連載が決まった事で、師匠ともいえるこの漫画家のアシスタントを辞める事になった。以前にも同様に独立を果たしたアシスタントがいたときは、最後の勤務を終えた後、近くの居酒屋に移動して、漫画家とアシスタント仲間全員、それから、既に辞めた元アシスタントも呼んで盛大な送別会を開催し、アシスタント仲間でお金を出し合って花束まで用意したのだが、良次の漫画連載が決まったときは、連載決定とアシスタント退職の報告をしたときこそ、師匠とアシスタント仲間からは「やったな!」「おめでとう」といった言葉を掛けてもらえたものの、送別会の話はもちろん、花束も餞別もない。いつも通りの仕事終わりと同じ、挨拶だけして帰るという、何とも呆気ないものだった。
日没まではまだ時間があるが、マンションが建ち並ぶ住宅街は既に太陽が見えず、陰に覆われて薄暗い。最寄りのバス停から府中駅行きの路線バスの座席に座り、黄色く色づいた銀杏並木が流れていく光景を眺めながら、良次は悶々としたものが胸の中に留まったままでいた。
自分は何か、皆から嫌われるような事をしただろうか?
良次は太い線を描くときはチタンGペン、髪の毛などの細かい輪郭を描くときはハードGペンといった具合に使い分けているが、使用頻度に関わらず、どうしてもペン先が錆びてきてインクが流れやすくなって線が滲む事が多くなる。働き始めて一ヶ月ほどした頃、良次は太い線へのペン入れを任される事が多かったが、先輩アシスタントからペンを取り換えるように指摘された。だが、良次の脳裏には幼い頃に祖母から言われた言葉が離れずに残っていた。
「どんなものも、完全に使えなくなるまで使い切ってあげないと可哀そうだ。ものを大事に出来ない人は、友達も大事に出来ないし、お金も大事に出来ない」
良次は祖母の教えを大事に守り、同じペンを使い続けたが、さすがに線の滲み具合が目立ってきたので取り換えたところ、今度は師匠からも、「仕事においてケチケチしてると、周りに取り残されるぞ」と注意されたので、今は一ヶ月くらいを目安にペンを交換するようにしている。これが原因なのかもしれないが、良次はアシスタント仲間からは、事あるたびに「融通が利かない奴だ」と言われるようになった。自分が周りの足を引っ張るようなミスをした覚えはないのに、何故かそう言われる。
「あのぅ……そこまで言うんだったら、僕のやり方のどこが問題なのか言ってくれませんか? 問題あるなら改めます」
ある日、良次は休憩時間に先輩に訊ねてみた事があるが、先輩ははっきりと言ってくれなかった。
「もういい。つべこべ言わない」
平日は毎日昼から五時間ほど働いてきて、良次は四人いるアシスタント仲間から何となく煙たがられている空気を感じていたが、結局は良次がこうして一年で独立する事になった。結局は皆、良次の並外れた能力の凄さを理解出来ていないだけだったのだ。今回の連載決定が、それを証明している。ガリレオ・ガリレイだって、常人離れしたその才能によって、重力と引力の法則や地動説を唱えたときも、世間の人々からは頭がおかしい人だと思われていたのだ。
振り返ってみれば、良次は中学生のときもそうだった。当時はまだスマートフォンもラインもない時代。好きな女の子に告白をするときは体育館の裏や屋上に行く階段の踊り場など、人気のない場所でこっそり告白する男子ばかりだったが、そこらへんの男子とは一味も二味も違う男だという事を示したかった良次は、それまで誰もやらなかった方法を実行した。
良次は中学校に入り、別の小学校出身の、吹奏楽部に所属している、A子という女の子を好きになった。一年生の終わりに、卒業式の一週間ほど前に、三年生の送別会があり、三年生の中学校生活を振り返るスライドを上映したり、下級生が三年生との思い出を語る学校行事が開催された。送別会で一番の目玉は、やはり吹奏楽部による演奏なのだが、良次は前日に花屋で買った薔薇の花を生けておき、送別会当日に鞄の中に隠して学校へ持って行った。送別会が終わり、良次は放課後、吹奏楽部が楽器の片付けを行っている体育館に出向き、ステージの上で片付けをしているA子をステージ前に呼び出した。あんなに心臓がドキドキしたのは人生で初めてだった。激しい運動をした後の鼓動ともまた違う、自分の身体が自分のものではないような、不思議な緊張感を持って、ステージの上で吹奏楽部の部員全員が見ている前で、良次はA子に跪いて薔薇を差し出した。
「好きです。付き合って下さい!」
大きな声でそう言うと、ステージの上から、一部の生徒が「おぉー」と感嘆の声を上げるのが聞こえてきた。どんな返事が来るか待っていると、A子は両手で鼻と口を押え、洟をしゃくり上げるような声を上げ始めたかと思うと、瞳には見る見るうちに涙が溜まり、抑えきれないといったように彼女が瞼を閉じると、大粒の涙が次から次へと零れ落ちてきた。そのときの良次には、その涙が良次の人生を照らす星たちのように思えた。次から次へと、流星群のように流れてくる涙は、世界中のどんな宝石よりも美しい。
「今、部活中だから、後にしなさい」
返事を待っている良次の頭上に、吹奏楽部の顧問の教師の声が落ちてきた。ロマンチックなムードに水を差され、良次はムッとしたが、教師に言われたら仕方ないので、良次は薔薇を持ったまま、校舎の昇降口の前で彼女が部活を終えて出てくるのを待った。
やがてA子は、彼女がいつも休み時間に一緒に行動する事が多い吹奏楽部の仲良しの女友達B子とC子を二人連れて出てきた。怯えるA子を挟むように立ちながら、二人は鋭い目をしている。
「オメェよ、どういうつもりだよ!」
B子が低い声で怒鳴りつけてきた。普段、A子と話すときはニコニコした笑顔で甘い声で話すのに、良次はこの豹変ぶりにも驚いたが、どうして怒鳴られるのかが分からない。
「吹奏楽部全員が見てる前であんな事されて、A子がどんだけ恥ずかしい気持ちにさせられたか分かんないの?」
今度はC子が突き刺すような口調で言った。
「恥ずかしい?」
良次にとって、これはあまりにも意外な言葉だった。漫画やテレビドラマを見ていて、男の子から告白されて「恥ずかしい」などという台詞を見聞きした覚えはない。
「謝れよ」
A子が吐き捨てるように言った。良次が訳が分からず、その場で目をきょろきょろ彷徨わせながら三人の顔を見ていると、C子が「謝れっつんてんだよ、分かんねぇのか!」と怒鳴った。
「もういいよ」
A子は弱々しい声で二人をなだめると、良次を真っ直ぐ見据えて言った。
「もう、話し掛けてこないでね」
静かな口調だったが、良次の思考を完全停止させるにはあまりにも強力過ぎる一言だった。その場で立ち尽くす良次を尻目に、三人の女子は逃げるようにして立ち去った。
フラれてしまった事もショックだったが、さらに良次を苦しめたのは、その後だった。二年生になり、クラス替えが行われると、不運にも良次はA子のみならず、そのとき良次に毒を吐いたB子とC子も同じクラスになってしまったのだ。当然の事ながら、良次がA子に告白した事は吹奏楽部の部員を通じ、同級生全員に知れ渡っており、事あるたびに「お前ら付き合っちゃえよ」などと冷やかしの的にされた。B子とC子はそのたびにA子を庇っていたが、良次に対しては辛く当たってきた。
「お前があんな事したからこんな目に遭うんだよ」
良次は周囲が盛り上げてくれるのが援護射撃になってA子と結ばれる展開を期待していた。結ばれる事によって、B子とC子も良次に対する風向きを変えてくれると思っていた。漫画やドラマでそういった展開をよく見受けるからだ。
だが、事態は全く反対の方向へ向かってしまう。ゴールデンウィークが明けた頃から、A子が学校に来なくなってしまったのだ。良次がA子を冒したために不登校になった、フラれた腹いせに嫌がらせをして学校に来れなくさせた、など、同級生の間では様々な憶測が飛び交ったが、吹奏楽部の間では、良次があんな恥ずかしい告白の仕方をしたせいでA子が恥ずかしい思いをして、学校に来れなくなったという話が定着していたようで、どうやらそれが本当のようだった。
それまで良次と仲良くしていた者も次第に口を利かなくなり、B子とC子に至っては、良次が触ったものだというだけでばい菌扱いしたり、良次とすれ違うたびに「キモイ」と言い合っていた。クラスの中に、身体に障害があって杖を突いて歩行している男子がいて、彼をイジメる者がいると、いつも彼を庇う正義感旺盛なガキ大将ですら、良次に対するイジメは黙認をする始末だった。
自分のせいでA子が不登校になってしまった。責任を感じた良次は一度、A子の自宅までお見舞いに行く事にした。家の場所を知らなかったので、放課後、A子の自宅に連絡帳を届ける同級生を尾行して家をつきとめ、訪問を試みた。梅雨の盛りでジメジメした雨が降る日だった。
インターホン越しに出たのはA子本人で、良次が名乗ると、数秒の間を置いてから返事が返ってきた。
「帰って」
三月にフラれたときのショックが再び良次の脳天を直撃した。自宅に帰り、当時流行っていた、インターネットでプロフィールを掲載するサイトで彼女のページを覗いてみると、掲示板には良次の事が書いてあった。
「どうして私の家を知ってるんだろう?」
「マジ、ストーカーだろ」
「キモイっていうより、怖いんだけど」
「氏ね!」
同じクラスの者から吹奏楽部の部員、さらには彼女と交流のある三年生や一年生と思われる人たちも続々と書き込みをしていて、数分ごとに更新ボタンを押すたびにその書き込みは増えていく。
もはや、学校に行く事に対して身の危険を感じた良次は、それ以降、学校に行く事を一旦止めた。父親は良次よりも早く家を出て、帰りも遅いので、朝、親から学校に行く事を促される事はなくて済む。夏休みが明けてしばらくした頃、さすがに学校に行っていない事が父親にもバレたが、意外にも、父親は不登校の理由を良次に問い詰めたりはしなかった。
「行きたくないなら行かなくていい。その代わり、後になってから『どうして学校に行けって叱ってくれなかったんだ』なんて批判するなよ」
どっちみち、学校に行ったら殺されるか自殺に追い込まれるかのどちらかだと思っていた良次には、もはや学校に行かないという選択こそが、一番の安全圏である事は明白だった。
三年生になり、A子、B子、C子とも別のクラスになった良次はそれから学校にも通うようになった。友達と呼べるほど仲良くしてくれる人はいない。休み時間は一人で自由ノートに漫画のキャラクターを描いて過ごし、休日は誰と遊ぶ事もなく家で過ごした。高校受験にも合格し、良次は何とか中学校を卒業する事は出来たが、卒業から十年以上経った今でも、中学校生活と聞いて、爽やかな青春をイメージする事は出来ない。
だから、サッカーをしている従弟が青春を謳歌している中学校での生活ぶりを聞くと羨ましく思えたし、漫画執筆のために青梅A中サッカー部を取材したときは、十歳ほど年下の中学生たちから、自分が今まで知らなかった世界を教えてもらえたような気がした。自分の経験則だけでは、中学校生活といえば、陰湿で暗黒な思春期しか描けなかった事だろう。読んでいてウキウキする、ときとしてちょっぴり胸がキュンとなる。「SAKURAドリブラー」はそんな連載漫画になる。良次をここまで導いてくれたのは、安蘭による賜物だ。安蘭には感謝してもしきれない。安蘭が良次の執筆活動を応援してくれているのと同様、良次も、学校生活とバイトの両立を頑張る安蘭を応援していきたいと思うのだった。
2
カウンター越しに安蘭からジョッキのビールを受け取るとき、良次はジョッキを大事に包むようにして持つ安蘭の掌の位置、指の形から肘のこなし、そして微笑をたたえる口元に至るまで、隅々と観察した。漫画を描く上で、こうした細かい描写を観察しておく事は非常に重要なので、普段から人の細かい動作をよく見る癖は付いているが、安蘭に関しては、そんな業務的な目的で見る事を通り越していた。居酒屋のカウンターで接客をするときの安蘭は、店の制服である黄色いTシャツを着て、下はショートパンツを穿いている事が多い。か細い腕から白く美しい指先、太ももは長年サッカーを続けていた事によって少し太いが、そんな肉付きの良さすら、男を惹き付ける魅力を放っている。
「いつも遠いところから来て下さって、ありがとうございます」
細目の安蘭が笑うと、瞼の線が一層横へ延びる。漫画だったら裏表のある策略家が笑うときに使い、怒ったり本気を出すと鋭い目を開く、という描写が出てくるが、果たして、安蘭にもそんな裏の顔があったりするのだろうか。
安蘭が小作駅の近くにあるこの店で働き始めて三ヶ月以上、良次が週一回ペースでこの店に来るようになってから一ヶ月が過ぎたが、テーブル席に注文を受けに行ったり、料理を出したり、レジで会計を打つ姿も、すっかり様になっている。たまに厨房で料理を作る担当に入る日はカウンターで顔を合わせて話をする事は出来ないが、良次が曇りガラスの入り口を開け、暖簾をくぐりながら入ると、安蘭はいつでも満面の笑顔で迎えてくれる。漫画だったら、温かみのある柔らかい柄のトーンを背景に貼るか、輝く太陽や虹をイメージするトーンを使おうか悩むところだ。
「『SAKURAドリブラー』の連載開始まで、いよいよ二週間ですね!」
良次がビールを一口飲んだところで、安蘭が言った。
「僕も楽しみだけど、次から次へと締め切りが来るから、ワクワクしてる暇もないよ」
良次は口の周りに付いた泡をおしぼりで拭き取りながら答えた。
読み切りが掲載されたときと同様、安蘭はツイッターやフェイスブックで沢山宣伝をしてくれている。安蘭が独自にツイートしたものに対し、「いいね!」を押したりリツイートしたアカウントを見てみると、プロフィールにK-POPファンである事が書かれてあったり、安蘭と同じF高校の生徒だったりする事が分かる人を多く見受ける。たいていそういう人たちは、安蘭の別のツイートに対してもコメントを書いたり、安蘭がその人のツイートに対してコメントを書く事も多いのだが、そのやり取りの内容から、中学校か高校の同級生である事が分かる。良次はそうした安蘭の友人らのアカウントもなるべくフォローして、漫画の執筆の合間の時間にスマートフォンを開き、ツイートの内容をチェックするのが日課の一部だ。良次は直接会った事がない人に対してコメントを書いたり「いいね!」を押したりはしないというポリシーを持っているが、そうして安蘭と直接繫がっている人たちのツイートを見ていると、安蘭の周りにどんな人がいて、そうした人たちとお互いに影響を与え合う事によって安蘭の人間性が形成されているのだという事が見えてくるのだ。これは安蘭をモチーフにした漫画を描いていく上で、大切なヒントになる。
「武田さんは、週一回は完全オフの日とかあるんですか?」
安蘭が少し心配そうな顔で訊ねてきた。
「決まったオフはないけど……そうだね。週一回は漫画の作業をしないようにしてるね」
ただ、漫画の執筆はしていなくても、読書をして資料の収集をしたり、色々なところへ出掛けて散歩をする事によって物語のイメージを広げたりするので、実際には休みの日でも、頭の中は常に漫画の事でいっぱいだ。
「こうやってオフで居酒屋に来て安蘭ちゃんと話したり、他の店員さんと話したりしてても、吸収出来る事があるから、漫画を描く上で役に立つしね」
「さすがプロ意識ですね!」
安蘭が胸の前で両手を合わせながら言った。
「私が尊敬してる男子の元日本代表サッカー選手も、仕事はサッカーで、趣味は家でサッカーのDVDを見る事だって言ってました。漫画家にも通ずる事のような気がします!」
良次は安蘭が尊敬するサッカー選手が誰なのか訊いてみたが、良次が全然知らない選手の名前が返ってきた。元々サッカーの知識には疎い良次だから、サッカーに関する知識を拾おうとすると、良次が小学生の頃に読んだ、サッカーを題材にした長編コミック漫画が中心だ。実在する選手の名前でいえば、せいぜい二人か三人くらいしか思い浮かばない。
「安蘭ちゃん、今度、サッカーの試合を一緒に見に行かない? 解説してよ」
良次は敢えて軽いノリで言ってみた。女の子をデートに誘うとなると勇気のいる事だが、あくまでこれはサッカーを題材にした漫画を描くための取材の一環で、解説の依頼なのだ。
「いいですよ! 私の周りには、サッカーに興味持ってる女友達がいなくて、なかなかサッカー観戦する機会がなかったので、久しぶりに見に行けるなら嬉しいです!」
3
十二月の第一日曜日は晴天で、三百六十度どこを見渡しても雲の姿が見当たらなかった。安蘭と二人きりの時間を過ごす初めての日を、空の神様が祝福してくれているのかと良次には思えた。良次はこの日のために、府中駅前のデパートにあるアパレルショップで七万円のコートと、一万五千円のポロシャツを買ってきた。高校生の頃からずっと着ているジャンパーは、社会人にしては値段的には安い。良次はインターネットで片っ端から検索をして、女の子と初めてデートをするときの服装について調べた。すると、二十歳前後でデートをするのと、良次のように、社会経験を積んだ二十六歳になってデートをするのだと、服装に懸けるべき値段も変わってくるのだという事が分かった。女性は男性とデートをするにあたり、服装のみならず、化粧にも時間とお金を懸けてくる。男性側もそれなりにオシャレをする事によって、女性に対する敬意を払うべきだ、というのだ。
待ち合わせ場所である京王線の飛田給駅前の広場は、これから近くのサッカースタジアムに試合を見に行く人たちの姿でごった返していた。今日の対戦チームのグッズを身に付けたり、チームのロゴが入ったベンチコートを着ている人のみならず、エナメルバッグを背負った制服姿の男子高校生や、家族連れの人たちの姿も見受ける。今日の試合はJ1昇格プレーオフの決勝戦だ。J2から翌年のJ1へ昇格する三チームのうち、最後の一チームを決めるためのトーナメントで、J2同士の対戦で勝ち上がってきたチームと、今年のJ1で十六位だったチームが対戦する。勝つか負けるかで、来年J1で闘うかJ2に落ちるかが決まるから、応援する人たちの表情も、どこか緊張感を感じられる。
その中で、長袖シャツの上にフード付きの半袖パーカーを着たロングヘアの女性が近付いてきた。白いロングスカートを穿いた、良次より少し背が低い女性が安蘭だと気付くのに、不覚にも数秒掛かってしまった。
「ビックリした! 今日は何だか雰囲気が違うね」
初めて見たときはサッカーのユニフォーム姿、直接話したときは中学校の制服、居酒屋で会うときは店員お揃いのTシャツ姿のイメージだったので、普段着姿の安蘭を見るのはこれが初めてだ。人間は自分の目の前に現れた人が誰なのか判断するとき、実は顔よりも服装から判断する生き物なのだという事を、良次はどこかの本で読んだ記憶を思い出した。今、目の前にいる安蘭は、良次が初めて見る、完全プライベートな安蘭の姿なのだ。そう思うと、何度も会った事があるのに、何やら新鮮な気持ちで、胸が弾んでくる。
「中学生のときに部活の遠征で着てたベンチコートを着てこようかなと思ったんですけど、思ったより暖かいので、この格好にしてきました」
そう言いながら、安蘭は自慢げにパーカーの胸を引っ張ってみせた。何やらローマ字が大きく印字されている。安蘭によれば、K-POPの男性グループの名前なのだという。
「取り敢えず、お昼ご飯はスタジアムの中で何か買おっか」
良次がそう言うと、安蘭は「はい!」と元気良く答えて付いてきた。
スタジアムの前まで来たとき、良次は前回ここへ来たときの事を思い出した。あのときは良次がまだ小学生のときで、このスタジアムが完成したばかり。家から電車で二駅の場所にサッカースタジアムが出来たから見に行ってみよう、という事で、父親がユース世代の日本代表の試合に連れて行ってくれたのだった。あれから既に十年以上の歳月が流れ、あの頃はまだ赤ん坊だった安蘭と、自分は二人きりで訪れている。あの頃にはとても想像すらしていなかった人生。何とも不思議な気分だ。
良次がコンビニのチケット購入端末を使って買っておいた二枚の指定席を使ってスタジアムに入ると、売店でサンドイッチとホットコーヒー、それからフライドポテトを買った。いずれも段ボール製のプレートに載せて、サンドイッチとフライドポテトを右手で、二杯のホットコーヒーを左手で持って、落とさないように慎重に歩いていると、安蘭がコーヒーを持ってくれた。
「そんな、重いものじゃないんだし、これくらい持ちますよ!」
チケットに書かれた座席番号と、座席に書かれた番号を照合しながら観客席の階段を降りていき、指定の席に座ると、ピッチの両サイドのゴール付近では、両チームのゴールキーパーがコーチとともにウォーミングアップをしているところだった。それから数分してからフィールドプレーヤーが登場すると、ゴール裏の席に座っているサポーターの応援が始まった。この光景を見て、良次は素朴な疑問を抱いた。
「ゴールキーパーとフィールドプレーヤは、別々に練習をするものなの?」
良次は安蘭に訊ねてみる。
「やっぱり、ゴールキーパーとフィールドプレーヤだと、動きが違う部分が多いので、試合に向けてやるべき練習にも大きな違いがあります。地域の少年サッカーチームとか中学校のサッカー部くらいだと、監督とコーチが全体の中でゴールキーパーの練習も見ますけど、高校サッカー選手権に出場する高校とかJリーグのユースのレベルになると、ゴールキーパー専門のコーチがいるチームが多いみたいです。プロのレベルならなおさらですね」
食事をしながら見ていたウォーミングアップが終わり、一旦選手が引き上げていくと、安蘭はコーヒーカップを両手で包みながら、身体を小さく竦めた。
「私、メインスタンドでサッカーの試合見るのって初めてだから、何だか贅沢出来てる気分です。いい席を取ってくれてありがとうございます!」
そう言う彼女の肩は少し震えている。このスタジアムのメインスタンドは料金は高いが、日差しを背にして屋根に覆われているので、日の光が当たらないから寒い。料金が安い、反対側のバックスタンドを見てみると、しっかりと日が差している。良次は着ていたコートを脱いで安蘭の背中に掛けてやった。
「あ、そんな、いいですよ。武田さんが寒くなってしまいます」
安蘭は恐縮して背筋を伸ばしたが、良次は「大丈夫だよ」とだけ言って笑った。
「バックスタンドのチケットを買えば良かったかなぁ」
良次が呟くと、今度は安蘭がフォローしてくれた。
「バックスタンドは天気がいい昼間は暖かいけど、冬は日差しが眩しいので試合が見づらいんです。私はどうせ眩しい席に座るなら、バックスタンドよりも安いゴール裏の自由席を選びます」
他のお客さんの接客もしなければならない居酒屋のカウンター越しに話すときと違い、こうして隣り合わせに座っていると、ゆっくりと時間が進んでいるように感じられる。
BGMに合わせて両チームの選手、審判団が入場し、メインスタンドに向かって横一列に並ぶと、安蘭はその姿をスマートフォンで撮影していた。試合が始まると、試合の展開に合わせて、今のプレーはあの選手がこういう動きをしていたからこうなったんだとか、今みたいなときに後ろにいる選手が前の選手にどういう指示を出すかが重要なんだ、といった解説をしてくれた。良次が疑問に感じた事を質問すると、全て的確に答えてくれる。
「こんなに不思議な気持ちが入り混じった終わり方をする試合……初めて見ました」
試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、勝ったチームはベンチにいた選手、スタッフもピッチに駆け込んで抱き合って喜び、負けたチームの選手たちはその場に倒れ込んで暫く起き上がれない。天国と地獄を同時に目の当たりにした安蘭は、そう呟いた。
試合はJ2のチームが勝って、来年のJ1昇格を決めた。一方、負けたJ1のチームは、来年はJ2でプレーしなければいけない。勝ったチームにとっては感動的なサクセスストーリーになったが、負けた方は地獄へ突き落されたような残酷な現実。試合の勝敗でここまではっきりと白黒別れるのは、J1の優勝決定戦や、高校生スポーツの全国大会の決勝戦でも見られない。サッカーをしていた頃の安蘭でさえ、勿論経験はないだろう。
「今日は武田さんのおかげで、また一つ新しい経験が出来ました。ありがとうございます」
人混みの中をゆっくりと駅へ向かって歩きながら、安蘭が言った。スタジアム前を真っ直ぐ横切る片側二車線の甲州街道に架かった歩道橋を渡るとき、右を向くと、太陽が今にも地面に向かって沈んでいくのが見える。あの方向に、安蘭が住む街があるのだ。
「そこまで言われると何だか照れくさいな」
良次は図太い指で頭をポリポリ掻いた。
「試合中、いちいち質問しちゃったけど、うざったくなかった?」
最寄り駅に着き、大勢の乗客が行き交い、駅員が大きな声を張り上げて誘導しているホームで電車を待ちながら良次が訊ねると、安蘭は慌てて頭を振った。
「そんな、とんでもない! むしろ、私が一方的にマシンガントークしちゃって武田さんが退屈してないかな? って何回か考えちゃったくらいです」
「それなら良かった。俺、昔から質問すると怒られる人生送ってきたから、ひょっとして、安蘭ちゃんの気を悪くしちゃってないかなぁって、途中から心配になっちゃってさ」
「え、質問して怒られるってどういう事ですか?」
4
良次が高校二年生のとき、全校生徒を対象にした講演会が体育館で行われた。良次が通う高校の卒業生であり、現在は雑誌などで度々紹介される事もある、その道では結構名の知れた陶芸家として活動している人が講師として招かれ、一時間ほどの講演を聴講したのだった。その講演会が始まる前に、隣に座った男子生徒から言われた言葉が、良次は今でも引っかかっている。
「おい、後で質疑応答の時間とかあっても、質問とかするんじゃねぇぞ」
良次が「どうして?」と問うても、彼は何も答えてくれなかった。授業で分からない事があれば、先生に質問しなければいけない。疑問に感じた事があれば、その場で質問をしなければ、解決は出来ない。興味がなければ質問しなければそれで良いのであって、人が疑問に思っている事に対して批判をする者の神経が、良次にはどうしても理解出来ない。現に、学校の先生も、駅にいる駅員も、大人は質問すればきちんと答えてくれる。授業で先生に質問すれば、「いい質問だ!」と褒めてもらえる事すらある。ドイツの有名な物理学者アルベルト・アインシュタインは、「大事なのは、疑問を持ち続ける事だ」という格言を遺しているほどだ。疑問を持てない者は、成長しない。常に疑問を持って前を向いている自分は、少なくとも、周りにいる、良次が疑問を持つ事に対して軽々しく批判してくるような同級生よりは、ずっと成長する要素を持っているのだ。
大学受験を二年連続で失敗した良次は、「二浪しても大学に行けなかったら就職しろ」という父親の言葉通り、自分で求人を探し、警備会社に就職した。本社での一ヶ月以上に渡る研修を経て配属されたのは、ショッピングモールの駐車場の誘導員だった。警備員の制服に身を包むと、自然と正義感が漲り、身体がてきぱきと動いた。事故が起きないよう、両手を大きく動かす良次の動きには、先輩警備員や管理職の人からも評価されたところまでは良かったが、暫くすると、利用客のドライバーから良次に対する苦情が度々届くようになったのだ。
「若い奴が偉そうに指示してんじゃねぇ」
「こっちは急いでるんだよ」
中には、警備員に向かってこうした言葉を吐いてくるドライバーがいる。こうした言葉を言われると、正直気分は悪くなるが、自分はあくまでも、事故を防止するためにお金を貰って配属されている。良次は決して感情的にならず、優しい口調で話す事を心掛けていた。ただ、良次はこうしたドライバーに対する対応の仕方が下手だった。
「歩行者優先ですよ。轢いてしまったら自分が悪くなってしまいますよ」
「急いでいるからといって皆が自分の優先権を主張していたら事故が起きてしまいますからね」
客にとっては、二十一歳の若い警備員からそうした言い方をされる事が余計癪に触るという部分もあり、ショッピングモールに苦情が入ったのである。その度にベテランの先輩が良次のそばで誘導の様子を見守るようにして、注意すべきところは注意するようにしていた。先輩の言っている事が分かりづらいとき、良次は必ず分からないままにせず、先輩に質問するようにしていたのだが、先輩からは、「いちいち口答えするな」「素直じゃねえな」などといって怒られるだけで、質問には答えてくれなかった。
同じ職場で働く人たちは、次第に良次と顔を合わせても会話をしなくなり、目を合わせなくなっていき、何となくその職場にいづらい空気を感じるようになった。
客からの苦情も絶えない中、三ヵ月ほど経った頃、良次に異動の話が入ってきた。場所はそれまでの職場よりも良次の自宅に近いオフィスビルの守衛室で、夜勤のみのシフトだった。毎日夜だけ働くという事には不安を感じたが、実際にやってみると、炎天下でも大雨に打たれながらでも絶え間なく車の誘導をしなければならないショッピングモールの駐車場と違い、ビルで働く人たちのほとんどが帰った後の守衛室では、基本的にはデスクに座って、監視カメラのモニターを確認しつつ、ビルに用があって来た人がいたときは、規定に則って社員証を確認し、会社名と本人の氏名を帳簿に控えるという仕事内容で、外来者との接触はほとんど皆無に等しかった。もし、不審者の侵入があったときは、まずは本社と警察に連絡してから追いかけるが、決して闘わないように、というのが本社からの指示だったし、至るところに監視カメラが張り巡らされているオフィスビルに侵入を試みる者もなかなかいないから、比較的、少ない緊張感で仕事をする事が出来た。
異動してきて三週目からは、週五回の勤務のうち、四回は良次が一人で守衛室を守る事になった。誰にも見られず、たまに誰かが来たとき以外は人と話す事もない。関係者が来たときは守衛室にあるボタンを操作して正面玄関を開けて入れさせるが、それ以外の方法で誰かが建物内に侵入した場合、守衛室のブザーが鳴るシステムなので、実際には監視カメラのモニターを四六時中見つめている必要はない。手持無沙汰な時間が圧倒的に長い中、良次は漫画本を持ち込み、一晩で一冊読むようにしていた。良次は自分が漫画家になる事を意識して、人が書いた漫画を読むときは、ただ読むだけではなく、どんな感情表現をしているか、どんな線を引いたり、どのトーンでどんな効果を出しているかをじっくり考えながら読むようにしているから、勤務時間内で一冊読み終えるにはちょうど良い時間だった。
ところがあるとき、勤務時間に漫画を読んでいる事が、何故か本社の管理職の人にバレてしまった。本社に呼び出された良次は、守衛室の内部を撮影している監視カメラの映像の写真を見せられ、そこに写っているのは紛れもなく、漫画を読んでいる自分の姿に間違いなかった。良次は職務を放棄したとみなされ、一ヶ月間の謹慎処分になったが、この一ヶ月間はここまで貯めた貯金を使って新潟へ二泊三日の旅行へ出掛けた。人生で初めて日本海を眺め、海風に当たって過ごした良次は、自宅へ帰ると毎日漫画を描いて過ごしたが、やはり良次は、漫画を描いている方が自分らしく生きられるという事を再認識した。毎日仕事をしなくても、バイトである程度の小遣いを稼いでおけば執筆に集中出来る。良次は会社を辞め、バイトをしながら漫画を描き、機会を見付けては漫画研究講座を受講しに行き、プロの漫画家の講義を受けながら、漫画の描き方を学んだ。また、そうした場へ行くと、同じ志を持った、自分と同世代から年上は五十代まで、幅広い年齢層の人々が集まるので、情報交換をしたり、親睦を深める事で新しい発見も出来た。
漫画研究講座では、講師も他の受講生も、質問すればきちんと答えてくれるし、逆に、受講生同士でアイデアを出し合って即興でプロットを作成するときは、良次のアイデアに対しても、率直な意見をぶつけてくれる。向上心のある人は常に疑問を持ち続けるし、人の疑問にも誠実に答え、分からないときは真剣に悩むものなのだ。
× × ×
あれから年月が流れ、安蘭と一緒にサッカー観戦をした良次は、やはり安蘭は、これまで良次が疑問を抱く事を否定してきた凡人どもとは違う、誠実な人なのだと再認識出来た。
途中の駅で安蘭と別れ、自宅に帰った良次がその夜、漫画の執筆の合間にスマートフォンでツイッターを開いてみると、安蘭が今日の試合前に撮ったスタジアムの写真や、両チームの選手が整列した写真を載せていた。
『今日はめっちゃ久しぶりのサッカー観戦。昇格プレーオフの決勝は何やら不思議な緊張感。やっぱりサッカーは生で見るのが一番! 楽しかったー!』
こうしてツイッターに自慢げに載せているくらいだから、本当に楽しんでもらえたようだ。
その日の作業を終えた良次は、パソコンの保存ボタンをクリックしてファイルを保存し、液晶ペンタブレットの上に置いてあった画用紙を引き出しにしまい、パソコンの電源を落として布を被せた。良次は最近、漫画を描くときは作業時間の短縮のため、デジタルペンに切り替えている。ペン先に錆が付くたびに買い替えなければいけないアナログと違い、デジタルペンは一度買えばずっと使い続ける事が出来るし、線を描き間違えてもパソコンの「戻る」ボタンをクリックすれば直す事が出来るから便利だ。最初はタブレットの上にペンを走らせるという事に違和感を感じていたが、漫画研究会の仲間に相談したら、タブレットの上に画用紙を置き、その上から描いてみると良いという話を教えてもらった。実際に試してみたところ、今までどおり画用紙の上に絵を描いているような感覚で描けるようになったのが嬉しかった。
手塚治虫先生の時代から、良次が子供の頃から尊敬していた有名な漫画家たちも皆アナログで描いていたので、デジタルに切り替えるというのも最初は何やら漫画の伝統文化に反する事のようにも感じていた良次だったが、完成した原稿を見る限り、アナログとデジタルの違いは感じられない。むしろ、今年の六月に読み切りで月刊誌に掲載された良次の漫画も、初めてデジタルで描いて認められた漫画だったから「SAKURAドリブラー」も、デジタルで勝負をしてみようと思ったのだ。
部屋の明かりを消し、真っ暗な天井を見つめながら、良次は今日、飛田給駅前で安蘭と会ってから、サッカー観戦をして電車で見送るまでの事を思い出した。
これまで、漫画の取材目的で会ったときは良次の、居酒屋でカウンター越しに会うのは安蘭の業務上で会うだけだった。だが、今日はどうだろう?
良次は漫画の取材の一環として安蘭にサッカー観戦をしようと持ち掛けたが、スタジアムに入って昼食を買ったあたりからは、良次は完全にプライベートな気分で安蘭と接していた。隣に座ったときはもはやデートだった。安蘭の方はどうだろう? ツイッターの書き込みを読む限り、「楽しかった」と表現している。業務的な関係で会っただけなら、そんな言葉は出てこないのではないだろうか。良次は以前、ツイッターを見ていて、「二回目のデートで今後の方向性が決まってくる」という話がリツイートされているのを見た事がある。次は親の車を借りて、思い切ってドライブに誘ってみよう。そこで付いてきてくれるかどうかで、今後の人生が分かれてくる。勝敗の結果によって上のカテゴリーの大会に出場出来るかどうかが決まる試合に臨む前のサッカー部の選手も、今の自分のような気持ちなのだろうか? 良次はそんな事を考えながら眠りに就いた。
5
「SAKURAドリブラー」の連載が始まると、安蘭はやはり、ツイッターに週刊誌の写真を載せて宣伝してくれた。
『私が中学校でサッカーをやっていた頃、取材で知り合った縁で試合に応援に来て下さっていた漫画家さんなので、応援しています!』
安蘭のツイッターを見ていると、ネガティブな言葉が出てくる事がほとんどない。姉の此花と一緒に作った料理の写真だったり、立川で友達と一緒に遊んだときに撮った写真だったり、楽しそうにしている様子が伺える投稿が多い。特に仲が良いのは菜摘という同級生のようだが、菜摘の投稿も見ていると、彼女はどうやら中学校から一緒のようだ。定期考査が近づいているときも、菜摘が「もうすぐ試験だ。憂鬱」などと呟いているのに対し、安蘭は「試験が終わればペンミティンが待ってるから頑張るぞー」といったように、常にポジティブ思考だ。
クリスマスも過ぎた年末のある日、良次は学校が冬休みの安蘭を誘って、ドライブに連れて行った。
『行ってみたい場所ある?』
良次がラインで訊いてみると、安蘭は『青梅に住んでると海を見る機会がなかなかないので、海に行ってみたいです!』と返事を寄こしてきたので、良次は午前中に立川駅で安蘭と待ち合わせ、府中街道を川崎へ向かい、首都高からアクアラインに乗った。天気が良い割には海ほたるも空いていて、レストランでも待たされる事なく食事が出来た。
「今のところ、主人公のサクラにちょくちょく絡んでくるのが、サッカー部の男子と、同じクラスにいる吹奏楽部の男子、合わせて三人いますけど、ひょっとしたらこの中の誰かがサクラと結ばれたりするんですかね?」
良次が走らせる車の中で、安蘭は「SAKURAドリブラー」を読んだ感想を述べた。饒舌な語り口調に、今後の展開がとても楽しみだという事が伝わってくる。
「武田さんもそうですけど、漫画を描く人って、絵が上手いだけじゃなくて、ストーリーを考えなきゃいけないじゃないですか。どうやって考えるものなんですか?」
漫画を描いていると、こうした質問をよく受ける。良次の場合、最初にストーリーをどうするか考えるよりも、まず最初にやる事はは主人公をどんな人にするか、モチーフを決める事だ。
「主人公の顔をノートのページの上の方に描いたら、実在の人物だったり、小説や漫画の登場人物だったり、ドラマや映画に出てくる登場人物だったり、歴史上の人物だったり、モチーフを決める。それから主人公がどんな生い立ちを辿ってきて、どんな趣味嗜好があるのかプロフィールをメモしてあげるんだよ。それから、どんな脇役がそばにいたら似合うかなぁって考えながら絵を描いて、脇役も同じようにしてプロフィールを一通り完成させれば、頭の中で自分が描いたキャラクターが動き出すんだ」
安蘭は「うーん……」と唸る。
「その、ストーリーの組み立てっていうか、どうやって次の展開を決めていくのか、疑問なんですけど……」
「決めるも何も、キャラクターが自分で動いてくれるから、僕はそれをどんな描写で、背景にどんなトーンを使ってあげるかって事ではいつも悩むけど、ストーリーの組み立てはそんなに考え込む事じゃないんだよ」
「やっぱり漫画家になる人って、本当に凄い才能だと思います。私には未知の世界ですね!」
漫画を描く人にこの話をすれば、すんなりと納得してもらえるのだが、漫画を描いた事がない、ストーリーが思い浮かばないという人にこの話をしても、全くといって良いほど納得してもらえない。やはり、漫画を描く才能は、ただ絵を描く事以上に、常人離れした才能のような気がする。
東京湾の真ん中に浮かぶサービスエリア「海ほたる」の展望台に二人で登ると、そこは三百六十度海を見渡す事が出来て、千葉県側に向かって海の上を真っ直ぐ伸びる片側二車線の道路を見ると、絶え間なく色んな車が行き交っているのが見える。既に年末休暇に入っている企業が多いはずだが、トラックの姿もちらほら見受ける。
「冬休みだからといって、仕事をしてる人たちも沢山いるんですよねぇ」
安蘭が東京の方角を眺めながら呟いた。千葉、神奈川、太平洋側の空と違い、東京の空はどんよりと灰色をしている。東京の空がどれだけ汚染されているのか、ここへ来るとよく分かる。
海風が安蘭のロングヘアを撫でると、うなじが垣間見えた。とても白くて美しい。彼女はまだ、男を知らない清らかな身体なのだろうか。出来れば良次は、ここで彼女の髪を撫で、抱き寄せたいと思った。だが、彼女はまだ十六歳の高校生だ。女性が十八歳未満の場合、たとえ女性の方から求めてきたとしても、自分がわいせつ罪で逮捕されてしまう。今はむしろ自分が大人としてのけじめを見せて、彼女が法的に問題のない年齢になるまでは、じっと待ち続ける忍耐力が必要だ。
千葉県から湾岸線へ出てレインボーブリッジを渡って首都高を抜けて中央道へ出ると、渋滞が待っていた。
「今日はだいぶ疲れたでしょ」
人が歩くほどのゆっくりした速度で進む車のハンドルを握りながら良次が言うと、安蘭は「いえいえ」と頭を振るう。
「ずっと運転していただいて、むしろ恐縮です。それに、今日は久しぶりに海が見れたし、海ほたるなんて初めて行ったから楽しかったです!」
ありきたりな感想だが、安蘭から言われると、良次は運転の疲れがだいぶ軽減された。ちょうど、三つ背負っていた重い荷物のうち、二つが取り除かれたような気分だ。冬の西日に向かってのドライブは難儀するが、助手席に安蘭が座っているというだけで、何やら元気が出てくる。良次にとって、女性を乗せてドライブするなんて初めての経験だが、ドライブデートというのはこういうものなのだという事が分かった。
「今日は楽しかったです。気を付けて帰って下さい!」
立川駅のロータリーで安蘭を降ろすとき、安蘭はそう言って降りて行った。
「僕も楽しかったよ。安蘭ちゃんも気を付けて帰ってね」
府中へ向かう甲州街道も交通量が多く、日が暮れかけて街灯の明るさが目立つ幹線道路は、信号の交差点毎に赤信号で引っかかるような状況だった。
前車の赤いテールランプが明るさを増したり減らしたりする様子を眺めながら、良次は過去の失恋を回想していた。
× × ×
良次は警備会社を退職した後、フリーターとしてアルバイトをしながら漫画を描いていた。経済的には裕福な実家暮らしで、携帯電話料金以外は全て自由にお金を使える立場の良次はそれでもお金に困る事はなかった。漫画を描くためにも、色々な人と話をし見識を広めようと思った良次は、最寄り駅のそばにある居酒屋に週一回から二回ほどのペースで夕食を摂りに行くようになった。カウンター席に座って店員と話したり、他のお客さんと話したりすると、色々な人の人生が垣間見れて勉強になる。
店員の中で、良次よりも三つ年上の女性がいて、良次はこの女性店員とよく会話が弾んだ。高卒で就職したものの、看護師になりたいと思うようになって退職し、昼は専門学校に通いながら、夜は店でバイトしているとの事だった。良次が漫画を描いている話をすると、彼女は漫画の話にやたらと関心を示し、影響を受けた漫画家は誰だったのか、どんな漫画がおススメかといった事を沢山訊いてきた。良次が警備会社を退職に追い込まれた話をすると、彼女は親身になって話を聞いてくれた。
「大変な思いをしてきたんですね……。私には想像も付かないです」
友達のいない良次にとって、心の内を話せる人はこの女性店員だけだった。彼女はバイトが休みの日でも、プライベートで店に飲みに来て、カウンター席で良次の隣に座って話し相手になってくれる事もあった。良次は彼女に会うために、店が開いている日はほぼ毎日店に通うようになった。子供の頃から歩んできた自分の辛い人生を、彼女は全て包み込むようにして聞いてくれた。フェイスブックでも繫がり、彼女の投稿に良次がコメントを書くと、彼女は必ず「いいね!」を押すか、コメントの返信をしてくれた。
「傷が癒えるまで、まだまだ時間はかかりそうですね。でもね、もう傷付く必要なんてないですよ。これだけ大変な人生を歩んできた人に、神様はこれ以上意地悪なんてしないはずです。少なくとも、私は良次さんと話をしてると、とても楽しいです」
彼女から言われた言葉は、それまで良次が辿ってきた棘の道から、美しい花が咲く野原へと導いてくれるような気持ちにさせてくれた。女性からそんな言葉を言ってもらえるのは初めてだった。
「いつも僕の心を癒してくれてありがとう」
良次は食事を終えて店を出るとき、必ず彼女にこの言葉を掛けるようにしていた。
「私はいつでもここにいます。また来て下さいね」
そう言ってくれる彼女の声に、満面の笑顔は、良次にとって最高の良薬だった。
ところが暫くした頃、彼女は国家試験に合格して専門学校を卒業し、就職する事が決まり、店を辞める事になった。
「ここにはときどき飲みに来ると思うし、今までどおり、また一緒に飲みましょう」
店を辞める直前、彼女は良次にそう言ってくれた。
「これからはお互いお客さん同士の立場になりますね!」
完全なプライベートで会える事になり、喜んでいた良次だったが、彼女は店を辞めて以来、なかなか店に現れなかった。フェイスブックには休みの日にどこかへ出掛けた話題を投稿しているので、身体を壊したわけではなさそうだ。
『最近お店に来ないね。ひょっとして仕事は夜中心で忙しいのかな?』
ある日、良次はフェイスブックで彼女にメッセージを送った。だが、既読にはなったものの、一向に返事が来ない。それから、今まで一週間に一回か二回ほどのペースでフェイスブックに投稿していた彼女だったが、いつの間にか投稿されなくなっていたのだ。ひょっとして身体を壊したのかと思った良次は、「友達」一覧の中から彼女のアカウントを探してみたが、いくら探しても彼女がいない。まさかとは思ったが、一応検索をかけてみたところ、きちんと彼女のアカウントはあって、プロフィール写真を見たら何ヶ月も前にアップロードされたものだったから、アカウントを新しく作り替えたわけではなく、良次を「友達」から外したという事になる。あんなに親身になって話を聞いてくれた彼女がそんな事をするとは到底思えない。何かの間違いだと思った良次は自分から「友達」申請を送ったが、なかなか承認されない。良次はある日の午後、彼女が働いているという病院に行き、だいたい仕事が終わる時間であろう夕方の五時頃を見計らって、職員の出入口が見える場所で待ち伏せをする事にした。「友達」から外された今は見れないが、彼女は看護師として働き始めたその日に、プロフィールの職業を「看護師」に変更し、勤務先の病院の名前も載せていたのだ。
出入口から彼女が一人で出てくるのを見た良次はすぐに追いかけていき、声を掛けた。
「えっ、どうして……」
目を丸くして驚く彼女を、良次は問い詰めた。
「それは僕が訊きたい事だよ。フェイスブックで『友達』から外されたから、何があったのかと思って」
彼女は警戒するように、怯えるように後ずさりをする。
「それでここまで来たんですか? 私たち、もう店員でもお客さんでもないです。こういう事は止めて下さい」
足早に立ち去る彼女を、良次は追いかける。良次の方が足が速いので、引き離される事はなかった。
「どういう事なんですか? 僕たち、あんなに仲良くしてたのに」
まるで何も聞こえていないかのように、彼女は前を見て歩き続ける。氷のように冷たい表情を見ていると、居酒屋で会っていた頃の、笑顔が絶えなかった彼女とはまるで別人のようにすら見える。
「もう本当に止めて下さい」
彼女は一度立ち止まって、良次を睨んだ。その視線だけで、良次は思わず後ずさりしてしまう。つい先ほど声を掛けたときとは立場が逆転している。
「ただ単にお客さんだから話を合わせてただけです。それ以上でも以下でも何でもないです。今はもう一切関係ないので、私に関わるのは止めて下さい」
ちょうど通りかかったタクシーを止めて乗り込み、走り去っていく彼女を、良次はただ見送る事しか出来なかった。
何か悪い夢を見ているようだ。祖父母が亡くなったときも、心に穴が開いたような心境だったが、今回はそれを上回る。まるで世界が真っ暗になったような気分だ。
これは何かの間違いだ。あんなに優しかった彼女だ。説得すれば分かってもらえるに決まっている。
帰宅した良次は、彼女ときちんと話し合いの場を持とうと、フェイスブックからメッセージを送ろうとしたが、検索しても彼女の名前が出てこない。かつて、彼女が「いいね!」を押してくれた自分の写真を遡ってみると、「いいね!」を押してくれた人たちの名前の中から、彼女の名前が消えている。メッセージの履歴を見ても、彼女の履歴がなくなっている。どうやら彼女は、良次のアカウントをブロックしているようだ。
どうしてこんな事になるのだろう?
良次はそれから一ヶ月間、漫画のアイデアが一切思いつかなくなった。漫画を読んでも、テレビを見ても、音楽を聴いても、何をやっても楽しくない。
だが、失恋の傷は時間が癒してくれるのか、気が付けば良次は、再び机に置いた画用紙に向かってペンを走らせていた。あんなに好きだった彼女に対し、今はむしろ、恨み辛みしかない。この裏切られた気持ちを、漫画の中でどれだけ上手に表現出来るかが、自分の才能を試される。いつか有名になって、あの女を見返してやる。男の気持ちを弄んだ事を、自分が漫画家として名を馳せる事によって、後悔させてやるのだ。
結局、良次の人としての良さ、漫画家としての才能は、誰にも理解出来ないのだ。グレゴール・ヨハン・メンデルにしろ、平賀源内にしろ、先駆者と呼ばれる人たちは、周囲の人からは異端視されていた。小学校、中学校時代に良次をイジメた同級生たちも、警備会社で働いていた頃、仕事の質問に答えてくれなかった先輩たちも、良次の持つ才能を知らないのだ。これから有名になってテレビ出演をするようになれば、かつて良次を見下してきた連中を見返す事が出来る。実は「武田良次」という名前はペンネームなので、本が売れただけでは、良次と本名で知り合った人にはその漫画がまさか良次が描いたものだとは気付いてもらえない。テレビに出るほど有名になって、初めて成し遂げる事が出来るのだ。
今回の「SAKURAドリブラー」連載開始は、その第一歩である。そして、良次の才能と人間性を両方認めてくれたのは、まさに安蘭が初めての女性だ。
安蘭は良次の事を、ただ単に居酒屋の客としてではなく、漫画家として、男として、人間として見てくれている。今はまだ高校一年生だから焦ってはいけないが、長い目で大切にしていこうと思う良次だった。
第六章 菜摘②
1
中学校に比べ、高校は授業の内容が難しくなる。菜摘は毎日学校に通っていても、とにかく楽しくない。クラスの中に、周囲を和ませてくれるような発言をする男子もいたりするが、勉強は益々嫌いになっていく。小学生の頃は、それまで知らなかった知識が頭に入ってくるのがあんなに楽しかったのに、菜摘は年齢を重ねるに連れて、勉強する事の意義を見出せなくなっていた。
そんな毎日の中で楽しみにしている事は、やはり帰宅してからユーチューブで見るK-POPの動画と、毎週月曜日に発売される週刊漫画誌を買って、「SAKURAドリブラー」を読む事だった。二十頁ある一話を読み終えると、もう早く続きが読みたくてうずうずしてしまう。漫画を読む趣味がなかった菜摘にとって、来週号を楽しみにするなんて初めての事だった。巻末に付いた葉書のアンケートの一番面白い作品に〇を付ける項目があり、安蘭から言われたとおり、菜摘は毎週「SAKURAドリブラー」に〇を付けて投函していたし、安蘭も菜摘もツイッターで宣伝しつつ、安蘭は高校の友達にもアンケートを書いて武田良次を応援するように呼び掛けていた。
漫画は主人公のサクラが中学三年生になり、二年連続でチームを全国大会に導くが、大会規定によって本人は全国大会に出れない代わりに、十七歳以下の女子日本代表候補に選ばれる、という展開に進んでいった。青森で行われる代表候補合宿の日程と、大阪で行われるチームの全国大会初戦が被ってしまい、サクラはチームの応援に行こうとするが、チームメイトからは合宿に行くべきだと説得される、というところが第十話のラストシーンだった。ところが、巻末の作者コメント欄を読んでみると、この「作品は次回で最終回です」という良次のコメントが書かれてあった。
同じ週刊誌の他の作品は良次の作品よりも前から連載されているのに、連載漫画としてあまりにも短いのではないかと思ったが、最終回はサクラが悩んだ末に代表候補合宿に参加する事を決める設定だった。
「絶対決勝戦まで勝ち進んでね。決勝まで行ったら、お母さんと一緒に飛行機で大阪まで応援しに行くから」
そう言ってチームメイトたちと固い握手をして東京駅で別れ、サクラは東北新幹線の改札へ、監督チームメイトたちは東海道新幹線の改札へ向かう、という、物語としてあまりにも中途半端なところでエンディングを迎えた。
高校の友達や、中学時代の同級生の中には、毎週アンケートを書いて投函してくれている人もいるようだったが、物語は完全に終わった。次回作の宣伝も特にない。全十一話で、「SAKURAドリブラー」はほとんど突然に打ち切りになったのである。
「何だか物足りない終わり方だったよねぇ」
いつものように、帰りの電車に安蘭と一緒に揺られながら、菜摘は言った。ここ最近寒い日が続いていたのでコートを着ているが、もうすぐ三月が近付き、昼間はコートを着ていると少し暑いくらいだ。だが、朝は家を出たときの空気がひんやりするので、どうしようか悩むところである。
「てっきり一年単位で続く話になると思ってたけど、毎回終わりの方のページに掲載されてたから、全国的にはあまり人気がなかったのかもね」
そう話す安蘭も残念そうにしていたが、彼女の場合はどこか、落ち込んでいるような表情に見て取れた。武田良次と直接会って取材を受けた事まである彼女だし、「SAKURAドリブラー」は自分の分身を投影した漫画ともいえるから、作品として評価し、応援するというよりは、作品そのものが、自分の人生そのものの一部といっても過言ではないかもしれない。
ただ、「SAKURAドリブラー」は連載は終わったものの、新年度に変わった後の五月になると、単行本が出版された。こうして一つの作品として世に出され、形が残るものに、主人公のモチーフとして関わっているのだから、安蘭は本当に偉大な親友だ。
二年生になると、菜摘は安蘭と同じクラスになった。昼休みになると、どちらかのそばにいる生徒が席を空けたところへ座ったり、ちょうど良い気候のときは校舎の外の花壇に腰掛けて一緒に弁当を食べた。お互い、自分で弁当を作ってきたときは交換し合って食べる事もあった。
夏休みが明けると高校卒業後の進路について少しずつ考え始めるようになり、菜摘は大学のパンフレットをいくつか取り寄せたり、オープンキャンパスに足を運ぶようになった。オープンキャンパスに安蘭と一緒に行こうと誘ってみたが、安蘭は大学には行かず、専門学校に行くか、就職するかのどちらかになると思うと話していた。
「どうして? 大学に行った方が選択肢は広がるよ?」
ある日の昼休み、教室で机を向かい合わせて弁当を食べているときの会話だった。菜摘は安蘭に訊いてみた。
「ウチはシングルマザーで、お姉ちゃんも私立の高校出ててお金がないから、大学はダメだって言われてるんだ」
菜摘にとっては、ショッキングな話だった。安蘭のお母さんには何度も会った事があるが、若々しく、フレンドリーな話し方をしてくる人だ。安蘭の親だという事を知らずに会って話せば、もう少し歳が近いのではないかとさえ思えるくらい、菜摘と同じ目線で話をしてくれる。菜摘の親は、「子供はお金の心配をする必要はない。お金の心配をする時間があるくらいなら勉強に集中しろ」という考え方をしているほどだ。
「お父さんは、何て言ってるの?」
安蘭の両親は離婚しているが、安蘭はお父さんともときどき会っていると聞いている。自分の娘が大学に行きたいと思っているなら、何かしら援助をしてくれるものではないのだろうか。
「中途採用で入った会社で、あまり給料良くないみたいだから、やっぱりお姉ちゃんの学費払うので精一杯だったみたい」
安蘭の家はそんな大変な事情を抱えていたのだ。安蘭とは色々な話をするが、ネガティブな話を滅多にしないから、まさか経済的に困っているとは思っていなかった。それに比べれば、菜摘はずっとぬくぬくとした家庭で育っている。菜摘は学力ではなく、経済的な事情で大学に進学出来ない人がいる事も知らなかった自分があまりにも世間知らずな人間に思えてくるとともに、そんな自分とも共通の趣味を楽しみ、対等に付き合ってくれる安蘭を、一層尊敬するのだった。
第七章 此花②
1
此花は二年制の専門学校でスポーツインストラクターの資格を取り、全国にスポーツジム店舗を展開している会社への就職が決まると、立川の店舗に配属される事が決まった。
サッカーボールを追いかける日々がいつまでもずっと続くように感じていた小学校時代や、生理痛と闘いながらバスケ部の厳しい練習を耐え続けた中学校時代と比べると、高校時代は親の離婚から部活の退部、バイト先の人間関係まで色んな事が目まぐるしく動いた。そして専門学校時代は、高校時代と違って、通学定期券の分もバイトで稼ぐ事になったため、自由に使える小遣いが減った。自分のやりたい事に忙しかった小中学校時代に比べると、高校、専門学校時代はやりたい事が思い通りにいかない人生になった。
二月の上旬に専門学校の授業が全て終わると、三月の卒業式まで、学校には一切行く事がない。此花は二月いっぱいでバイトを辞め、友達と遊ぶ時間を沢山作るようにした。どのみち、四月から働き始めたら遊ぶ時間は激減すると思うので、沢山遊ぶ事にしたのだ。
だが、一番楽しいのは、安蘭と二人でお出かけをする事だった。安蘭は高校卒業後もバイト先の居酒屋で引き続き働かせてもらえる事になり、一月の卒業試験終了後は、週五回か六回のペースで働くようになっていた。
「ねぇ、久しぶりにサッカー見に行こうよ」
もうすぐJリーグが開幕するという二月の終わりに、安蘭が誘ってきた。そういえば、子供の頃に父親に連れて行ってもらって以来、二人が一緒にスタジアムでサッカー観戦した事はなかった。安蘭がバイトが休みの土曜日に、二人は埼玉スタジアムまで電車を乗り継いでJリーグの試合を見に行った。
『姉とデートなう。子供の頃からサッカー、バスケをするお姉ちゃんの背中を見て育ってきたけど、来月からはスポーツジムのインストラクターになるお姉ちゃん。ほんと頑張ってほしい』
安蘭はスタジアムの外にある屋台カフェで撮ったツーショット写真と、一緒に食べたパフェの写真、それから青空の下に映えるスタジアムの外観を背景に二人で撮ったツーショット写真を、このような文章とともにツイッターに載せていた。最近、韓流を意識してメイクの仕方を変えた安蘭は、こうして写真で見てみると、細かった目が幾分大きくなったように見える。
「私たち、小さい頃から似てるって言われてきたけどさ、やっぱり、細目はコンプレックス?」
カフェラテが残り少なくなったところで此花が訊ねると、安蘭は「うーん」と少し首を捻った。
子供の頃から、安蘭が友達を家に連れてきたときなど、安蘭の友達からは、「安蘭のお姉ちゃんって、安蘭とそっくりで目が細い」と言われてきた。目が細いと言われるのは、此花にとってはコンプレックスだったが、十八年間も一緒に暮らしてきて、安蘭からはそれについてどう思うか聞いた事がない。
「私の場合は、特にそれでからかわれたりした事がないからなぁ……。でも」
安蘭はそこで姿勢を正し、真っ直ぐに此花を見つめる。
「友達や親戚の人たちから、お姉ちゃんに似てるって言われるのは嬉しかったよ。私が少年サッカーチームでレギュラーになって、中学校でも男子と互角にサッカーで勝負出来るまで成長出来たのは、小さい頃からお姉ちゃんにサッカーを教えてもらったおかげだったから、私にとっては、お姉ちゃんと近いDNAを持ってる証拠のような気がしてたよ」
二つ年下の安蘭が、自分よりも大人びて見えた。勿論、メイクのせいではない。それと同時に、此花は子供のときにこの会話をしておかなかった自分を勿体なく思った。親の離婚などもあって、心が傷付きやすかった思春期の頃にこの言葉を言われていたとしたら、どれだけ救われただろう?
スタジアムに入り、いよいよサッカーの試合が始まるとすっかり安蘭は解説者になっていた。あの選手は去年までどこのチームにいて、この選手は去年怪我をしたけど何とか開幕に間に合ったとか、相当頻繁にサッカー関連の情報をチェックしてなければ分からないような話をし始めた。
「安蘭って普段からそんなにサッカー見てるの?」
此花にとっては驚きだった。安蘭から借りて読ませてもらった「SAKURAドリブラー」を読み終え、返すために安蘭の部屋に入ったとき、彼女の部屋はすっかり韓流のポスターやDVD、雑誌に埋め尽くされ、ベッドの枕のそばのスペースに、「SAKURAドリブラー」が連載された週刊誌が並べられているといった具合で、小学生の頃のような、サッカーが好きな子、という雰囲気は一切消えていたからだ。
「去年は武田さんの取材に協力して、サッカーの試合を見に行く事が多かったんだ」
「え、武田良次さんと……今でも交流あるの?」
「SAKURAドリブラー」の単行本が出版されて以来、武田良次の近況については、同人誌のエッセイや小説などのイラスト、挿絵をちょくちょく描いているらしいという事は知っていた。彼がツイッターで本の宣伝をしたものを、安蘭がよくリツイートしていたからだ。だが、新しい漫画を描いているという話は聞いていない。
「次の漫画の構想をじっくり練っていて、今度もサッカーを題材にしようと思ってるって言ってたよ。より専門的な知識を付けたいからって言って、経験者の解説聞きながら試合を見ると勉強になるんだって」
安蘭はいくらか自慢げな顔をした。取材の謝礼は払えない代わりに、チケット代は勿論、交通費もくれるし、当日の食事もご馳走してくれるという。
「武田さんて、『俺が奢るよ』みたいな言い方をしないで、さり気なくお金を出したり、軽いノリで車で送ってくれたりするから、私も素直に『ありがとうございます』って言えるんだ」
奢ってもらったり、送迎をされる側に罪悪感を抱かせない気配り。確かに素晴らしい事だが、此花は少し心配になってきた。此花は安蘭よりも十歳年上の武田良次に直接会った事がないし、彼を恩師のように慕っている安蘭から聞いた話でしか知らないから、彼の人となりがいまいち見えてこない。ひょっとして、そうやって、もうすぐ高校を卒業する安蘭を口説き落とそうとしているだけだったりはしないだろうか?
「ちょっと立ち入った事訊いちゃうんだけど……」
ハーフタイム、選手たちが控室に引き揚げていったところで、此花は口を開いた。観客席を埋め尽くしていた人々が続々と買い物やトイレのために通路へと出ていく。
「段差を超えるときとか、車を降りるときにさり気なく手を添えてきたりはしない?」
「いや、それはない」
安蘭は苦笑しながら即答した。
「指一本触れた事ないよ。武田さんはそんな厭らしい人じゃないから平気だよ」
「そっか……」
それだけ沢山デートのような事をしておいて、一度も身体に触れた事がないというのも、逆に凄いかもしれない。だが、此花の心配はまだ解消しきれない。他にどんな事を訊くべきか、黙って考え込んでいるうちに、今度は安蘭が話題を変えてきた。
「ねぇ、ここでも一緒に写真撮ろうよ」
安蘭がスマートフォンを取り出し、画面を自分たちに向けた状態で上に持ち上げた。画面には肩を組んで座る此花と安蘭が映し出され、此花はピースサインを作っている。二人の顔は四角い枠で覆われ、顔認証が行われている。背景には、遠くにスタジアムの電光掲示板が映っていて、いかにも姉妹でサッカー観戦しに来ている事が窺える写真になる。
「ハナ、トゥル、セッ」
安蘭は写真を撮るとき、必ずこういう言い方をしてシャッターボタンを押す。何やら、韓国語で「一つ、二つ、三つ」と数える意味があるらしい。おかげで此花も、三つまでなら韓国語で数えられるようになった。
『たぶん平成最後のサッカー観戦!』
ツーショット写真と、試合前に両チームの選手がピッチでウォーミングアップしている様子を撮った写真とともに、安蘭はこの一文をツイッターに投稿した。考えてみれば、平成の時代もあと一ヶ月半で終わろうとしている。ネットでは、あらゆるものに対して「平成最後の」という前置きをする投稿が目立ち始めたが、此花にとってはおそらく、平成の時代にサッカー観戦するのはこれが最後になるだろう。
「新しい元号……何になるんだろうね?」
安蘭が呟いた。
「どうだろう? こればっかりは来月にならないと分からないからね」
五月一日から始まる新しい元号は四月一日に政府から発表される予定だが、インスタグラムでもツイッターでも、新しい元号を予想する人たちを多く見受ける。だが、予想している人たちの考察を見ていると、あまりにも短絡的で、思慮の浅いものが飛び交っているように此花は感じている。大化の古から続く我が国の伝統であり、天皇の御代の象徴ともいえる元号を軽々しく予想する事自体が、此花は皇族に対する不敬であり、国民全体に対しても失礼であると思っている。
「四月一日をドキドキしながら待つしかないよね」
そう言って安蘭ははにかみ、スマートフォンをハンドバッグの中にしまった。
メイクの工夫で大きく見える安蘭の瞳だが、こうして純粋な笑顔を見せるときは、両目がほっそりとした二つの曲線に変わるのは、小さい頃から変わらない。もしも、この純粋な笑顔を汚そうとする者がいるとしたら、此花は絶対に許さない。安蘭と一番近いDNAを持っている自分が、絶対に守ろうと思う此花だった。
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三月二十九日に入社式と新人研修を経て、四月一日から立川のスポーツジムに出勤し、此花はいよいよ社会人としてのキャリアをスタートした。インストラクターのユニホームに着替えると、一日目はまず、指導係の先輩に教わりながら、受付の端末や身体測定の機械の操作などを覚えた。機械の操作は思っていたよりもすんなり覚えられたが、これから会員一人一人の相談を受けながら、会員のニーズや身体の状態に合わせたトレーニング方法を指導していく事になるので、それが今からドキドキしている。これまで、黙って授業を受け、テストでそれなりの点数を取れれば先へ進めた学生時代と違い、インストラクターは一人一人身体の状態も違えば体力も違う、生身の人間を相手にする仕事だ。年齢性別も色々なら、スポーツに対する理解度も人によって違うだろう。果たしてこれからどんな事が待っているのだろうと思うと、まるで、大海原に小型のボートで航海を挑むような不安感が湧いてきた。
午前十一時半が近付くと、トレーニングマシンが沢山並んでいるトレーニングルームにいた人たちがトレーニングを中断して、続々とロビーに集まりだした。ジムに来た会員はまず、受付にいるスタッフに会員証を提示して、スタッフが会員証に印字されているバーコードを機会を使って読み取ってチェックインし、帰るときも同様に受付でバーコードを読み取ってチェックアウトをするシステムなのだが、十一時半が近付くと、チェックインしてもすぐに更衣室に向かわず、ロビーに向かっている。チェックアウトする会員もなかなかいない。ロビーにはお茶をしたり食事が出来るように、テーブルと椅子が用意されているのだが、すっかり埋まり、通路にまで立っている会員が溢れている。
「やっぱり今日はいつもと全然違う流れだ」
先輩が呟いた。今日はこれから、来月から始まる新しい元号がテレビで発表されるため、会員たちはリアルタイムでテレビを見ようと、ロビーに集まっているのだ。
「令和だってよ!」
「何だか昭和の続きみたいな響きね」
政府の発表記者会見をテレビで見た会員の何人かが、楽しそうにトレーニングルームに知らせに来た。
初出勤を終え、帰りの電車の中でスマートフォンを開いてみると、インスタグラムもツイッターも、「#令和」のハッシュタグの投稿で溢れかえっていた。命令の『令』だから冷たく聞こえるとか、戦争の時代だった昭和の『和』を使うなんて不吉だ、といったネガティブな意見が飛び交う中、安蘭は違う論調の投稿をリツイートしていた。
「『令』は人を敬う、『和』は人と人が仲良くする、という意味がある。戦争と結び付けて新元号を批判する人がいる事にビックリしているし、悲しい」
武田良次が投稿したものを、安蘭は「いいね!」を押した上でリツイートしていた。「令」と書くと、「命令」とか「指令」などというイメージがあるが、実はそういう意味があるのだという事を、此花は二十歳を過ぎて初めて知った。そして、批判的な声が飛び交っている中で、こうした肯定的な意見を素直に受け入れられる安蘭は、やっぱり前向き思考な人なんだと思う。
その安蘭も、先月高校の卒業式が終わってからは、それまでバイトしていた小作駅近くの居酒屋で毎日働いて、社会人デビューを果たしているが、高校生の頃に比べて自分の時間が少なくなったにも関わらず、高校生のときよりも、表情が活き活きとしている。
此花は高校時代に比べて、夜遅い時間に電車で帰る事が増え、車内で酔っ払いを見かける事が増えた。気分良さそうに歌を歌うだけならまだ可愛い方で、同じ車両に乗っている人に絡んで怒鳴り始めたり、駅員に食ってかかる者もいる。酔っぱらうと見境がなくなると聞いた事があるが、此花が見る限り、どんなに酔っ払っていても、例えば、男性の酔っ払いが女性と間違えて男性に抱き付いたり、自分より体格の良い、いかにも強そうに見える人に喧嘩を吹っかける酔っ払いはいない。相手が男性か女性か、自分より弱そうに見えるか、という判断はきちんと出来ているのだと思う。
安蘭はそんな酔っ払いを毎日相手にしながら、まるでサッカー部の活動に青春を燃やしていた中学時代のように、軽快に歩いて帰ってくる。勿論、体力的には疲れていると思うが、彼女の瞳からは、社会人としての重圧を背負っている疲労感というか、働く意味、生きる意味を見出せずに苦しむ現代人ならではの疲労と絶望は一切感じられない。それだけ、自分の仕事に遣り甲斐を感じているのだろう。
3
此花が立川駅から毎日同じ道を歩いて通勤していると、途中にある路地裏の公園で、同じ猫を見かける事に気付いた。雑居ビルに囲まれた、通勤時間にはまだ太陽の光も届かない路地で、朝は仕事に向かう人たちの群れの流れに合わせて歩かないと、後ろから踏み潰されてしまいそうなプレッシャーを感じるが、一旦公園の敷地に入って、ほんの数分間、公園で深呼吸をしてみる。目を閉じて、仕事の事は何も考えない。
木々の枝が風になびく音が聞こえる。朝の風が頬を撫でるのを感じる。電車が走る音が聞こえる。遠くで子供の声も聞こえる。小鳥のさえずりも聞こえる。自分はぎすぎすした現代社会の中ではなく、緑溢れる地球の上で生きている事を感じられるのだ。働き始めて一週間ほどしたした日の朝、公園でそんな事を感じたところで目を開けてみると、目の前の土の地面の上に、白に黒の斑模様の猫が一匹、此花を見つめて座っていた。四本の足を揃えて、お行儀よく座っているようだった。此花もしゃがんで猫を見つめてみると、猫は眠たそうな顔で「ニャーオ」と声を出した。
「おはよう」
此花が挨拶をすると、猫は前足で自分の顔を拭き始めた。此花がスマートフォンを出して動画を撮影しようとすると、猫は慌てるようにして逃げて行ってしまった。
『ついさっきまでここに猫がいたんだけど、スマホを向けた途端に逃げちゃった(汗)ゴメンよ』
此花は猫がいなくなった公園の写真だけをツイッターに投稿して、通勤の道へと戻る。公園の柵の向こうに、ちょうど、中央線のオレンジ色の車両が映り込んだところだった。
それから毎日、此花は通勤途中にこの公園に立ち寄り、深呼吸をしている。猫と会うと、初めて会った頃のようにしゃがんで挨拶をする。
「写真は撮られたくないんだよね。今日もこれから仕事頑張ってくるから、君も頑張って生きるんだよ」
此花が何か一言声を掛けると、猫は決まって、「ニャーオ」と返事をする。人間は仕事をしていればお金が入ってくるから、美味しいものを自分で選んで食べる事が出来るが、野良猫は自分で獲物を取らなければ生きていけない。子供の頃は、猫や犬は学校にも行かずに、呑気に生きられて良いなぁ、などと考えていたものだが、ある意味、人間以上に厳しい世界で生きているのかもしれない。
スポーツジムはたいてい、曜日と時間帯によって、利用する会員の年齢層に偏りがある。平日の午前中は主に六十五歳以上の会員が多い。学校を卒業したばかりの若いインストラクターだという事もあり、色んな会員が話しかけてくる。午後になると、老若男女問わず、入会希望の客が来て、此花も受付に入って手続きをする事もある。
スポーツジムのインストラクターではあるが、トレーニングの指導だけでなく、受付カウンターに座って、会員の入会手続きや退会手続きをしたり、物販の会計をしたり、大浴場のシャンプーの補充などの雑用をする事もある。全国に店舗があるような大きな会社ではあるが、現場は人手不足で、業務の完全分業化は出来ていないのが現状のようだ。
ゴールデンウイークが終わりに近付いたある日の午後、此花が受付に入って立っていると、青い縁の眼鏡を掛け、リュックサックを背負った男性が入って来た。半袖シャツの下には、見るからに脂肪の豊かな二の腕、全体的にくるくるした形の黒い髪の下の額からは汗が滴り落ちている。程よく空調が効いている室内にいると分からないが、外はもうそんなに気温が上がっているのだろうか。
「あのぅ……ネットで入会手続きをしてきたんですけど……」
男性は此花が胸に付けている「安達(K.Adachi)」と書かれた名札を見ながらそう言った。
「ありがとうございます。それではこちらへお掛け下さい」
此花は受付カウンターの横の、座って対応するカウンター席に男性と向かい合って座り、カウンターの手前の引き出しから所定の用紙を取り出した。此花がいるスポーツジムでは、インターネットによる入会申し込みを二十四時間年中無休で受け付けており、予め、スポーツジムのホームページの入会フォームで希望プランを選び、入会に必要な個人情報を入力するとQRコードが発行される。入会希望者はスポーツジムに直接出向いてスマートフォンでQRコードを提示すれば、後は本人確認のために身分証のコピーと、会費を引き落とす銀行の口座番号と届け印を提出するだけで入会が完了する。営業時間に合わせてスポーツジムまで来て、受付で一つ一つ個人情報を書くより、手続きに掛かる時間を短縮出来るというわけだ。
男性が差し出すスマートフォンに表示されたQRコードに、此花は専用タブレット端末のカメラを合わせる。認証が完了すると、男性がネットで申し込みをした際に入力した個人情報が表示される。
「上杉雄三様ですね」
「はい」
本人確認のため、身分証の提示を求めると、上杉は運転免許証を出してきた。住所は府中市の人だ。他のスタッフがコピーを取っている間に、此花は上杉に用紙を出して銀行の口座番号の記入と届け印を押してもらう。
「初めてご利用される方向けに、無料のメディカルチェックとオリエンテーションを実施しているのですが、ご予約されますか?」
いきなり我流でトレーニングを始めるより、体脂肪率や筋肉量を測定し、持久力を付けたいのか、ダイエットをしたいのかなど、会員のニーズに合わせたトレーニング方法を提案するためのものだ。上杉が「はい、お願いします」と言うので、此花は端末で予約状況を確認し、上杉と相談して、四日後の午後三時にオリエンテーションをする事に決まった。
「それでは、お待ちしております」
館内の案内や会員約款を書いた冊子を渡し、ロッカーの使い方を教え、その間に他のスタッフが専用の機械を使って作成した会員証を渡すと、立ち上がった上杉は、「では四日後、よろしくお願いします」と言って、直角にお辞儀をしてから帰って行った。スポーツジムを利用する会員の中には、子供のスイミングスクールやダンススクールの付き添いで来る親を含め、こっちは客だぞ、という上から目線で接してくる人と、健康のために色々指導してくれるインストラクターに対して敬意を持って接してくる人とが両方いるが、どうやら上杉は後者のようだ。
印刷された入会申込書には、上杉の生年月日や、入会した日付が書いてある。生まれたのは平成二年、入会日は令和元年。既に令和の時代が始まって一週間が経とうとしているが、まだまだ聞きなれない、新鮮な響きだ。一方、生年月日の欄に「昭和」と書いてある会員を見ると、随分昔の人のように感じてしまう。これから何年後かには、キッズスイミングの会員は生年月日も入会日も両方令和と書かれた会員の申込書を見る事になるのだろう。
「私が働き始めた頃はまだギリギリ大正生まれの会員さんも数名いたけど、流石に数年でいなくなっちゃったわ」
先輩スタッフの話を聞いていると、こうした会話を聞く事もあるが、これからはむしろ、昭和生まれが重宝される時代がやって来るのも時間の問題かもしれない。そんな事を考えながら、此花は入会申込書を所定の引き出しの中へしまった。
第八章 上杉雄三
スポーツジムの入会手続きを終えた上杉雄三は電車を乗り継いで府中市内にある自宅に帰ると、色々と用事を済ませてから、晩御飯を作って食べ終えると、テレビのニュースをBGMにしながらスマートフォンでツイッターを覗く。雄三は業務用とプライベート用、二つのアカウントを持っていて、プライベート用のアカウントでは、リツイートをしたり「いいね!」を押すといった事は一切せず、あらゆる人たちの投稿を読んで楽しむだけにしている。自分で何かを呟いたりといった事もしない。特に誰かと交流などはせず、世の中を客観的に眺めるのだ。
雄三がフォローしているアカウントの中には、今年専門学校を卒業したばかりの社会人一年目の若い「このは」という女性がいる。彼女が高校生の頃からフォローをしていて、メイクを変えたり髪形を変えるたびに自撮りした写真を投稿している人だ。親が離婚した関係で、苗字が藤崎から安達に変わったという事も、かつて本人が投稿していて知っている。一度もリアルで会った事がないが、高校時代から進路の悩みを呟いたり、専門学校時代に忙しい毎日の愚痴の呟きを見ているうちに、一度会ってみたいと思うようになった。そのうち、青梅市在住の此花は専門学校を卒業して、立川のスポーツジムで働き始めるという事が、彼女の投稿から分かった。だが、立川市内のスポーツジムといっても、インターネットで検索しただけで十件以上の店舗がヒットするから、この中から彼女が働いている店舗を探すのは事実上難しい。
ところがある日、彼女は通勤途中の公園の写真をツイッターに投稿していた。この公園はドラマの撮影などでよく使われるので、知っている人も多い場所だ。グーグルマップで検索してみると、立川駅から歩いてその公園に立ち寄り、その延長線上にあるスポーツジムといえば、もはや一ヶ所しかない。雄三は予めインターネットで入会の申し込みをして、スポーツジムへ向かった。受付にいたのは、既にツイッターで何度も見た事のある「このは」その人だった。名札を見たら「安達(K.Adachi)」と書いてあった。「K」というのは、「このは」のKである事は間違いない。
四日後、メディカルチェックとオリエンテーションのためにスポーツジムへ行くと、此花が自分の担当で、体重計のような機械に乗って手すりを掴み、体脂肪率や筋肉量など、細かいデータを測定した。社会人としては新人だが、流石インストラクターとしての勉強をしてきただけあり、豊富な知識を基に、今後のトレーニング方法に関して的確なアドバイスをしてくれた。
雄三はだいたい週二回、平日の午後三時頃にスポーツジムに行くようにしている。スタッフに訊くと、この時間帯が比較的空いているというからだ。トレーニングの合間に、雄三はよく此花と話をする事が多い。トレーニングの相談だけでなく、雑談をする事もしばしばだ。
「お仕事は平日がお休みなんですか?」
「僕はフリーのイラストレーターなので、土日関係なく、自宅で作業してるんですよ」
「へぇー」
飲食店などで一緒になった人にこう話すと、大抵の人はこういう、ちょっと驚いたような反応をする。サラリーマンとか職人ですと名乗る人に対するのとは、明らかに違う。
「それじゃ、美術系が得意分野なんですね!」
「たまに本の挿絵の依頼が来たり、同人誌を発売したりとかいったくらいだから、なかなか稼ぐのは難しいですけどね」
「漫画を描いたりもされますか? 私の妹は、漫画の主人公のモチーフになった事もあるんですよ」
此花は妹の自慢話をよくする。此花は小学生の頃にサッカーをやっていたが、後から始めた妹の方がサッカーは上手いらしい。サッカー観戦の趣味以外は合わず、好きな食べ物や好みの芸能人もバラバラだという。
「妹は私と違って、物事を前向きに捉えられるところがあるんです。二人揃って今年から社会人一年目なのに、妹の方がずっと大人なんですよ」
「妹さんにしてみれば、安達さんの背中を見て育ってきたんじゃないかな」
「えっ?」
此花がハッとしたような表情をすると、切れ長の目が一瞬だけ白い目を大きくした。
「やっぱり……そういうものですか?」
「そりゃそうでしょ。同じスポーツをやってたなら、絶対お姉さんの存在を意識すると思うし」
「妹が、ネットで同じ事を書き込んでた事があります。『お姉ちゃんの背中を見て育ってきた』って」
若い女性は他の人に言われて心に残っている話などを、他の人からも言われたとき、「あの人が言ってた事と同じだ」といった感じで驚いた表情をするものだ。此花が妹と一緒にサッカー観戦をした写真を妹がツイッターに投稿したとき、そういう文言を書いていたのを雄三は見ていたので、こういう話をしてみたのだ。妹思いの姉と一緒に育てられたから、妹もしっかりとした人になるのだろう。
トレーニングを終え、大浴場でさっぱりした雄三は、着替えを済ませて受付でチェックアウトをすると、電車に乗って帰路に着く。電車の中でスマートフォンを開くと、出版されたばかりのブログ本の著者からラインが来ていた。今週末のコミティアの最終打ち合わせだ。知人がブログ本を出版するにあたって、雄三は表紙の絵を描く事を依頼されていた。コミティアでは、著者のスペースの設営を手伝う他、二時間から三時間ほど、著者と一緒にスペースに入って物販をする事になっている。
思えば平成時代が始まったばかりの頃に生まれ、三十年近い人生を生きてきて、絵を描く仕事にようやく就けたかと思ったら、細かいお金しか入ってこない。同人の仲間たちは「現実はこんなもんだよね」などと言い合っているが、雄三はこの程度で満足するつもりはない。雄三が尊敬するモンキーパンチは令和の時代を迎える前に亡くなってしまったが、平成時代はモンキーパンチの名前がしっかりと歴史に残ったのと同様、令和の時代は、雄三の名前を確かに歴史に残す時代になるのだ。そのためには、良い絵を描く事は当たり前だが、健康な身体で過ごす事が重要だ。雄三はこれからスポーツジムに週二回通って、しっかりと身体を鍛えていくつもりでいる。
第九章 安蘭②
1
高校を卒業して社会人になったとはいえ、安蘭の仕事の内容そのものはこれまで続けてきたバイトを継続したものだし、時代が平成から令和に移るとはいえ、自分の生活のリズムが変わるわけではない。K-POPだって、これまでどおり菜摘と一緒に追っかける事になっている。
だが、平成最後の日となった平成三十一年四月三十日の夜は、明らかにいつもと違うムードだった。テレビは平成上皇、上皇后両陛下の生い立ちと、平成時代の振り返り特集が放送され、街にはまるで年末の騒ぎように人々が繰り出している。安蘭のバイト先の居酒屋でも、ゴールデンウイークは例年客足が伸びない傾向があるのに、この日だけは常に満席の状態で、客が来てもお断りしなければいけない状況だった。
「昭和から平成に変わったときは、いきなり『明日から平成です』って言われたから、書類の作り直しやコンピューターのデータ整理がそれはそれは大変だったよ」
年配の客がそう言えば、平成元年に小学生だった中年の客は「あのときは何でも自粛ムードで、つまらなかった事を覚えてる」と言う。
「平成生まれにとっては初めての改元だから、ほんと楽しみ!」
安蘭よりも年上の平成生まれの客はそう言った。どの世代の人も、各々が生きてきた平成の時代を回想し、平成の時代に感謝しつつ、新しい時代を迎えようとしている。一年の思い出を語りながら新年を迎える大晦日ともまた違う。独特なお祝いムードが流れていた。
「令和元年、明けましておめでとう!」
店のテレビを従業員と客全員で見ながら、日付が令和元年五月一日に変わった瞬間、全員が拍手をした。自殺者が年々増え、悲惨な事故や残忍な事件で無念にも死んでいく人たちが絶えない昨今、こうして無事に令和の御代を迎えられた事を、安蘭はホッとした気持ちで受け止めている。令和が何年まで続くか分からないが、次の改元時も、こうして明るい気持ちで迎えたいものだ。
安蘭にとって、令和は明るい時代になるのだろうか。ゴールデンウイークの最終日には、菜摘が通っている大学の学友の呼びかけによる合コンが開催され、安蘭も菜摘に呼ばれて参加してみた。そこで知り合った友広という同い年の男性と話が合い、連絡先を交換し、後日、二人きりでも会ってみた。友広は菜摘と同じ大学、同じ学部にいる人で、ライブを見に行った事はないそうだが、K-POPをよく聴き、韓流ドラマも見ているという。
安蘭よりも頭一つ分背が高い友広は、一緒に道を歩くとき、車や自転車が近付いてくると、必ず安蘭を庇うように壁になってくれた。ファミレスで食事を終え、会計をするときも、一人当たりの会計が千円を超え、安蘭が千円札一枚と五千円札しか持っておらず、小銭が足りなかったのだが、友広は「千円だけくれればいいよ」と言って、後は自分が払ってくれた。安蘭は良次のような年上の社会人ならまだしも、同い年の大学生にお金を多く払わせるというのには抵抗があった。だが、「いいよいいよ」と軽い口調で流されてしまったので、取りあえずその場は払ってもらう事にした。
友広は髪こそ染めていないが、服装はいつも、上下の色のバランスを考え、二回連続で同じ服を着てくる事はない。彼の身体からは、会うといつも良い匂いがするのでどんな香水を付けているのか訊ねると、香水は使っていないという。
「安蘭と会うときは、朝風呂に入ってから家を出てくるから、石鹸の匂いだよ」
これから自分と会う事を考えてオシャレに気を遣うだけでなく、香水などで気取らず、時間を掛けて身体を洗ってから家を出てくるという気配りに、安蘭は感心した。
韓流の話題に関しても、中学時代に韓国にホームステイをした経験がある彼は、安蘭が知らないような韓国人ならではの生活文化にも精通していて、食事のマナーや、自宅に来客があったり、仕事中に親から電話が掛かってきても、あくまで親が優先されるので電話をしてても問題にされないとか、安蘭がそれまで知らなかった韓国文化を沢山教えてくれた。それを頭に入れた上で韓流ドラマを見てみると、日本に似た生活様式で暮らしているように見えて、実は韓国は全然違う文化で生活をしているという事が垣間見れるようになった。同い年でありながら、話の引き出しが多く、一緒にいて楽しい。安蘭は友広と付き合うようになった。
2
令和の時代になって一年が過ぎ、安蘭は二十歳になった。コロナウィルスの感染者が爆発的に拡大した事による緊急事態宣言が政府から発令された事で、安蘭が働く店は夜八時までの営業となり、安蘭が働く時間も短くなっている。多くの企業が営業を休止したり、在宅勤務に切り替え、学校は全国一斉休校となっている。政府からの要請により、デパートも映画館も休業となり、街はお正月休みのように閑散としている中、生活必需品を売っているスーパーやコンビニだけが通常通り営業している。電車に乗っても乗客の姿はまばらで、余裕で座席に座る事が出来る。酔っ払いの姿もほぼ見かけない。一日の中で手洗い嗽をする回数がだいぶ増えている。
友広とも付き合い始めて一年になったが、安蘭は付き合い始めた頃と変化が生じている事に気付いている。付き合い始めた頃こそ、ただ隣にいるだけで、人生の幸せを噛みしめるような気持ちを感じていたし、安蘭がせっかく仕事が休みの日に、友広が大学で部活に参加するのが嫌だった。
「どうして私と遊んでくれないの?」
「今度、お店に食事しに行くから、今回はゴメンね」
会えない日でも毎日寝る前に電話をして、デートが終わって自宅に帰っても、別れてから二時間も経っていないのに、「もう二時間も顔を合わせてないと寂しいよ」なんて会話をし合っていた。大型台風が首都圏を直撃したときも、お互いが今どう過ごしているか、十五分に一回は安否を確認し合ったものだ。新型コロナウィルスの流行が始まったときは、ネット通販で高額転売されていた箱入りマスクを買い、安蘭に分けてくれたりもした。
そんな、我ながら呆れてしまうほど仲が良かったのが、今ではすっかり、胸がポカポカしていた頃の感覚は失われている。
「次の休みはいつ?」
付き合い始めた頃だったら、休みの日でなくても、仕事の前にほんの数十分間、喫茶店でお茶を飲むだけでも会いたかったが、今ではそう訊かれても、「その日は友達と会うから」などと言って誤魔化している。毎日電話をするだけでは物足りなかった彼との時間が、いつの間にか、彼のためにわざわざ時間を作る事が、負担に感じてきたのだ。彼は安蘭の職場の店に度々食事をしに来ていて、最初の頃は、彼が見ている前になるといつも以上にやる気が出ていた。店長夫婦や同僚からも、「彼氏の前になると張り切るよね」とからかわれていたのが、今では新型コロナウィルス感染拡大防止を口実に店に来ないように釘を刺してあるほどだ。それに、初めて身体を求めてこられたときは、「まだ待って」と言ったら素直に引き下がってくれて、そんな彼に魅力を感じたりしていたのに、一度身体を重ねてからは、付き合っているのだから定期的にセックスをするのが当たり前だと思っているのか、彼の家に遊びに行ったときは勿論、安蘭の家に来たときも、家族がいないと積極的に身体を求めてくるようになった。
「俺の事、嫌いになった?」
嫌いかと訊かれると、嫌いになったわけではない。ただ、身体だけ求められても、大切にされているとは思えないし、片時も離れたくないという気持ちがないから、頻繁に連絡を寄こしてこられると、それが重荷に感じてしまうのだ。
大学が休校になる前の三月まで毎日友広と顔を合わせていた菜摘の話によると、やはり安蘭の事をやたらと詮索してくるらしい。
「そっとしといてあげるのも優しさだよ」と言ってあしらってくれているようだが、これからどうしていくべきか、悩んでいるところだ。
一方、良次は友広よりもずっと大人だ。相変わらず食事をご馳走してくれたり、サッカー観戦に連れて行ってくれるが、付き合っているわけではないから、手を繫いだ事は一切ない。ラインの返事が遅れても、返事が来ない事を責めたり、催促などはしてこない。勿論、十歳も人生経験が豊富だからというのもあるかと思うが、友広よりもずっと人として出来ている。
「あの……凄い事聞いちゃうんですけど」
良次と二人でドライブをしているとき、安蘭は一度、思い切って訊ねてみた事がある。
「武田さんは、『待って』って言われたら、待てますか?」
「好きな人だったら当たり前だろ」
深く考え込まず、どうって事なさそうに答えるところに、安蘭は説得力を感じた。安蘭は、自分の親が離婚している事は良次にも話してある。聞くところによると、良次も幼い頃は複雑な家庭環境で育ったそうだから、安蘭と共有出来る気持ちを持っているのかもしれない。
二十歳の誕生日を過ぎて間もなく、良次とドライブに出掛けたとき、成人のお祝いにと言って、ボトルワインをプレゼントされた。レジャー施設は営業していないから、どこにも寄らず、本当にただドライブをするだけで終わったが、ちょっとしたサプライズでプレゼントを用意していてくれたのだ。リボンに包まれた箱を自宅に持ち帰って居間で開けてみると、ボトルのラベルには金色で「2000」と大きな印字がされている。
「え、ちょっと見せて」
休業中のため、毎日家で過ごしている此花がボトルを手に取り、じっくりと回しながら眺める。
「これって安蘭の生まれ年のワインだよ。しかもこれってマルゴーだから、相当高いんじゃない?」
ラベルには長ったらしいアルファベットの外国語が羅列してあり、安蘭には何と読むのか分からないが、どうやら自分が生まれた年に作られたワインらしい。
「へぇー。一万円くらいするのかな?」
「馬鹿! 十万は超えるはずだよ」
安蘭は更に大きな声で「へぇー」と驚きを表現した。そんな高級なワインなら、そこらへんのスーパーなどではなかなか手に入らないだろう。ワイン専門店に出向いたにしても、インターネット通販で買ったにしても、どれを買おうか選んでいる間は、ずっと安蘭の事を考えながら探してくれていたはずだ。
「安蘭って、彼氏がちゃんといるでしょ? こんな高級なワイン、他の男から貰っちゃって平気なの?」
此花はボトルをテーブルの上に置きながら、心配そうに眉間に皺を寄せる。そう言われてみると、安蘭も流石に十万円は高すぎる気がしてきた。これまで、ちょっとお洒落なレストランの食事をご馳走してもらった事はあるが、プレゼントは初めてなので素直に嬉しいと思って受け取ってしまった。今回は二十歳の誕生日だから奮発してくれたのかもしれないが、いくら社会人同士だとはいっても、十万円という金額はかなり無理をしているのではないだろうか。
「安蘭。お前ひょっとして、今までも武田さんから色んなものを貰ったりしてたの?」
取材のために、ときどきサッカー観戦を一緒にしている事は此花にも話してあるが、プレゼントを貰ったのは今回が初めてだ。
「どこのドラッグストアでもマスク不足だったとき、七枚入りのマスクをプレゼントしてくれた事があるけど?」
安蘭が自慢げにそう言うと、此花は難しい顔をして俯いた。
「お前はいつも取材だって言ってたけど、ひょっとしてそれ、武田さんはデートのつもりだったんじゃないの?」
「デートだなんてそんな!」
安蘭は頭を振った。手を繫いだ事すらなければ、良次は指一本安蘭の身体に触れた事はない。卑猥な言葉を掛けられた事もなければ、ラブホテルにも自宅にも誘われた事もない。
「そんなの、デートって言わないでしょ」
安蘭にとっては、ボディタッチがあって初めてデートだと思っている。だから安心して良次と一緒にいられるのだ。だが、此花にとっては、男女が二人きりで会うだけでデートであり、彼氏がいながら他の男と二人きりで食事をする事は浮気だという。
「安蘭には分からないのかなぁ……」
此花は首を捻った。
「二人きりの食事の誘いに付いてくるって時点で、男は相当脈ありだと思うし、安蘭が成人した事を機に、これから本格的に付き合い始めようと思ってるんじゃないの? コンビニでも買えるような値段のものならまだしも、こんな特別なワイン、受け取ったら相当脈ありだと思われるよ?」
せっかくプレゼントしてくれたものを返すという選択肢は、安蘭にはどうしても考えられない。ましてや相手は、自分の事を中学生の頃から見てくれている良次だ。だが、今の此花の話は安蘭にとって、これまで読んだ本や、今まで観賞してきた韓流ドラマの中にも、一切出てきた事のない考え方だった。
このまま受け取って良いものか、それとも、此花の言うとおり返すべきなのか。だが、返したらそれをきっかけにして人間関係がぎくしゃくしそうな気もする。
その夜、安蘭はこのワインをどうするべきか、菜摘に電話で相談してみた。
「取り敢えず、しばらく電話もラインもしない事だよ。向こうからラインが来ても絶対返事をしちゃダメ」
菜摘は強い口調でそう言った。完全無視を貫くというのはさすがに失礼な気もするが、此花も菜摘も、良次は明らかに安蘭を取材の協力者としてではなく、女性として見ているという。だが、安蘭がこれまで良次と会ってきて、彼は決してそんな素振りは見せていないと思っている。此花も菜摘も、良次に会った事がないのに、勝手に決め付けているのだ。だが、赤ん坊の頃から一緒に育ってきた此花に、中学生の頃から行動をともにしてきた菜摘が、安蘭のやる事に対してここまで強く反対してくるのは初めてだ。安蘭はここまできて、ようやく、尋常な事ではないのかもしれないという気がしてきた。
安蘭は二人に言われたとおり、今後しばらく、自分からは一切良次に対して連絡はしない事にした。
『プレゼント、気に入ってもらえた?』
翌日の午後、仕事に向かう途中で良次からラインが来たが、安蘭はラインの画面を開かないままそのメッセージを確認すると、菜摘に言われたとおり、仕事が終わり、自宅に帰って深夜就寝する直前まで既読を付けないようにした。さらに翌日になると、良次から電話が二回ほど掛かってきた。一回目は自宅で仕事に出掛ける前で、二回目は仕事中。一回目は電話に出る事も出来る状況だったが、菜摘からのアドバイスどおり、出ないようにした。安蘭はこんな事をしている自分に対して、罪悪感を感じた。自分の事を漫画の題材にしてくれた良次がせっかく二十歳の誕生日をお祝いしてくれたのに、完全無視をしているのだ。此花からはワインを返しておけと言われたが、連絡を無視するだけでも失礼なのに、返したりしたら、いくら優しい良次でも怒るだろう。だが、「時期を見て返せ」という菜摘の言葉もあり、ワインは箱にしまった状態で部屋に置いてある。
此花も菜摘も、このまま完全無視を貫いていれば、そのうち良次も諦めが付いてほとぼりが冷めると言っているが、果たして、どうしてこんな事になってしまうのだろう? 長らく漫画の連載はされていないが、良次は今も漫画の執筆を続けていて、次回作を描く上で、自分の力を必要としてくれている。自分が協力している事に対するお礼の気持ちとしてワインをプレゼントしてくれたのに、それにしては金額が大きすぎた。
人生でなかなか出来ない経験をさせてもらえたと思っていたら、これから先の人生が、何やら違う方向に進んでいきそうな予感がしてきた。
第十章 良次③
『プレゼント、気に入ってもらえた?』
良次が送ったラインには、とっくに既読が付いている。電話は既に、この四日間で二十回も掛けているが、一度も出ない。ツイッターを見ると、安蘭は頻繁に投稿をしたり、他者の投稿をリツイートしているので、スマートフォンは見ているから、良次から着信がある事には気付いているはずだ。という事は、意図的に無視しているという事か。だが、これまで良次に素直に付いてきてくれた安蘭に限って、まさかそんな酷い事をするわけがない。想像力豊かな良次にも想像出来ないような、何らかの事情があるはずだ。良次はいつものように、安蘭の勤務先の居酒屋まで食事しに行ってみた。
『仕事仲間から成人祝い貰った。ヤッホー!』
小作へ向かう電車の中でツイッターを開いてみると、安蘭は居酒屋の同僚たちから貰ったお菓子の写真を投稿していた。都内の高級百貨店でなければ手に入らないような、老舗のお菓子だ。
『色んな人からお祝いしてもらえて、私は大勢の人から大事にされてるんだなって感じてます。皆ありがとう!』
こんな一文も投稿していた。ここに書かれている「色んな人」や「皆」の中に、当然良次も含まれるはずだ。だが、良次から貰ったワインの事は一切載せていない。これは一体どういう事なのだろう?
店に入ると、出迎えてくれた安蘭が一瞬気まずそうな表情をした事が、マスクの上からでも分かった。「いらっしゃいませ」という元気のない言葉が出てくるのに、いつもよりも一秒ほど遅い。
「ワイン、飲んでみた?」
良次はカウンターに座ると、いつもどおりおしぼりを出してくれる安蘭に訊いてみた。
「あ、いえ……まだです」
安蘭は慌てて取り繕うような返事をすると、そそくさとカウンターの中に入り、そのまま厨房の中まで消えていった。代わりに厨房から出てきた別の若い店員が良次の注文を受けてくれたが、安蘭はなかなか出てこない。しばらくして出てきたかと思うと、テーブル席で手を挙げたお客さんがいると、必ず安蘭が注文を受けに行ったり、料理を運ぶのも全て安蘭が引き受け、カウンターには別の店員が立つようなポジションを取っている。安蘭に話し掛けようとしても、忙しなく動き回っている彼女に、なかなか気安く話しかけづらい空気がそこにはあった。イカのから揚げと焼きおにぎりを食べ、酎ハイを二杯飲んだ後も、安蘭と話をするタイミングを見計らいながらウーロン茶を飲んでいたが、結局安蘭はカウンターの中には入らなかった。
「安蘭ちゃん」
帰るとき、レジで会計を済ませた良次がテーブル席のフロアにいる安蘭を呼ぶと、安蘭は良次を振り向き、「いつもありがとうございます!」と大きな声で挨拶をして、忙しそうに厨房に引っ込んでしまった。今度はいつもよりも一層元気の良さそうな、わざとらしさすら感じる大きな声のように聞こえる。
日が暮れた後の上り電車の青梅線はすっかり空いていて、座席にもゆったりと座れる。七人掛けの席の大きな窓に後頭部を凭れながら、良次は安蘭の今日の態度の意味を考えていた。これまで、何十回も店に来ているのだから、明らかに安蘭は良次を意識して避けようとしていたように見える。ひょっとして、そんなにプレゼントが気に入らなかったのだろうか? ツイッターにもフェイスブックにも、安蘭は良次から貰ったワインの事は、今のところ一切触れていない。
『今日はほとんど話が出来なくて残念! 明日も行っていいかな?』
いつも安蘭が仕事が終わる頃の時間にスマートフォンをチェックしても、良次が送ったラインには既読が付いていなかった。翌朝になって見ると既読になっていたが、いくら待っても返事が来ない。その日の夜も安蘭の店まで行ってみたが、安蘭の姿は見えなかった。カウンターにいる店員に訊いてみると、今日は厨房にいるのだという。特に誰と会話するという事もなく、静かに食事をしてから帰りの電車の中で、良次は安蘭にラインを送った。
『今日もお店に行ったけど安蘭ちゃんに会えなくて残念。今度、一緒にお酒飲もうね!』
前日同様、この日の夜は既読にならず、翌朝になって見たら既読になっていた。これが俗にいう、相手に返事をする意思のない事を意味する「既読スルー」というやつなのだろうか。だが、安蘭に限ってそんな事をするはずがないし、プレゼントまで受け取っておいてそれはないだろう。
良次はそれから、毎日小作まで通った。電車に乗っている間に雨が降り始め、小作駅から眼鏡のレンズとマスク、洋服を濡らして走って店まで行ったりもした。雨水とマスクの隙間から出て来る湿気で眼鏡が曇っても、何度も拭き取りながら走った。だが、良次が行くたびに、安蘭は厨房に入っていて、カウンターには姿を出さなかった。たまに客席に料理を運んでいく姿を見て声を掛けても、「こんにちは」と返事をするだけですぐに厨房に入ってしまう。いつものような、見ているだけで元気が出てくるような爽やかな笑顔ではない。粘土で作られたようなぎこちない笑顔だ。マスクをしていても、目でそれが伝わってくる。漫画でキャラクターの表情を描くために色々な人の表情を観察している良次には、それがよく読み取れる。安蘭が比較的ゆっくり過ごしている事が多いというお昼過ぎの時間には毎日電話を掛けてみるが、コール音がいつまでも鳴り続けるだけで、全く出てくれない。それでいて、ツイッターには取り留めもない呟きをちょくちょく投稿しているから、スマートフォンを見る時間すらないというわけではないのだ。
『ひょっとして、無視してる? プレゼントを渡してから急に態度が変わった気がするんだけど』
ある日、良次がラインを送ると、今度は早めに返事が来た。
『お母さんが具合が悪くなって、病院の送り迎えしたりとか、家事を姉と分担したりして忙しくなりました。お店では料理担当になったので、基本的にカウンターに立つ事は少なくなりました』
良次にはどこか、事務的な文章のように感じた。安蘭は返事が遅れたとき、必ず文頭に「返信が遅くなってごめんなさい」という言葉を添えていた。同じ人が同じ人に向けて書いた文章でも、この一文がないだけで全然違う印象に変わってしまう。母親の急病によって、それだけ冷静さを失っているという意味なのだろうか。だがその割には、この返信が来るより一時間ほど前には、小猫と小犬がじゃれ合う微笑ましい動画をリツイートしていた。それも、再生すれば五十秒ほどかかるような動画だ。
『お母さんの具合が悪くても、遊び半分で見れるような動画はゆっくり見れるのに、僕にはどうして返信出来ないの? ワインの感想を聞きたいんだけど』
良次はここまでラインの画面に文章を入力してから、一旦考え直した。安蘭を一方的に厳しく責めるより、あくまでも優しさを以って接しよう。良次は打ち込んだ文章を全て消し、もう一度入力し直した。
『安蘭ちゃんは以前、待って、って言われたら待てますか? って訊いてきたでしょ? 俺は待ってるんだよ』
小作から乗った立川行きの電車の中で、仕事中の時間である安蘭に送ったラインは、翌日の朝になって既読になったが、やはり返信は来ない。もはや毎日小作まで通い始めて、一ヶ月が過ぎようとしている。これでは定期券を買った方が安く済んだ。電車はもうすぐ、小作の隣の羽村駅に到着するアナウンスが流れている。
今までのやり方でゆっくり話が出来ないのであれば、違う方法を考えよう。良次は羽村駅で電車の扉が開くと、一旦ホームへ降りて、反対側にやって来た下り列車に乗り、もう一回小作へ戻った。改札にいる駅員に、忘れ物をしたので改札を出たいと言って切符代を返してもらって外へ出ると、安蘭の店から小作駅の改札へ来るときに必ず上がって来なければならない階段の上で、仕事帰りの安蘭が現れるのを待つ。
駅構内の天井にぶら下がっている時計が夜の八時半を示そうとしている頃、普段着に着替えた安蘭が現れた。安蘭は良次の姿を見ると、瞳の丸さがはっきりと分かるほど目を開いた。彼女は嬉しいときや楽しいときは目を細めるが、目を開くときは、ビックリしたときや、恐怖を感じているときだ。
彼女は良次に軽く目礼だけして改札へ向かおうとしたので、良次は前に立ちはだかるようにして遮った。
「ラインは見てるよね?」
良次が問いかけても、安蘭は良次と視線を逸らすように地面を見つめている。
「……すいません」
やがて安蘭は、良次の右側へ進もうとした。良次が身体を右側へ向けようとするや否や、安蘭はすかさず身体を捻って左側から走って改札へ向かった。まさに、サッカーのドリブルで相手選手にフェイントをかけて抜いていく、鮮やかなステップだ。良次も追いかけて行ったが、改札を潜った安蘭は下りホームへ向かう階段を降りていってしまった。上り列車の終電まで、あと数分しかない。小作駅は上りホームと下りホームが線路を挟んでバラバラなので、そのまま安蘭を追いかけていったら終電には間に合わない。良次は諦めて上りホームの階段を下りて行った。
第十一章 此花③
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新型コロナウィルスの感染拡大による緊急事態宣言が発令されていた四月から五月にかけて、此花の職場であるスポーツジムも休館となり、世界中の人々と同様、此花も毎日自宅で読書をしたり、筋トレをしたりして過ごした。料理作りに時間をかけ、完成した料理の写真をSNSに載せ、友達から「いいね!」が付いたりコメントが寄せられたりすると、暇な毎日でも、同じように耐え忍んでいる人たちがいる事が分かり、頑張ろうと思えた。
休業補償は貰えたものの、深夜手当や、ストレッチやエアロビクスなどのエクササイズプログラムの指導を担当したときに貰える手当てが付かないため、収入は落ちた。だが、外出の機会が激減した上、化粧品にお金がかからなくなった上に、実家暮らしなので、意外と生活には余裕がある。
逆に、毎日ひたすら家で過ごすか、片道二キロメートルの場所にあるスーパーに買い物に行くだけが外出だった生活に慣れてしまったため、五月の下旬から仕事が再開したときは、早番の朝も、遅番の深夜帰宅も、コロナ禍に入る以前以上の重労働に感じられた。
スポーツジムの雰囲気も大いに変わった。受付にアクリル板を設置したり、会員にはマスク着用と、トレーニング器具を使うたびに備え付けの消毒液と使い捨てペーパータオルでの拭き取りを徹底させているという、コロナ禍以前にはなかったルールの運用という事もあるが、一番の変化は何より、トレーニングはそこそこに仲間と雑談する事を目的にして来ているお年寄りの会員がいなくなった事だ。以前はストレッチエリアとして用意されているスペースのマットに三人一組くらいで座って、ストレッチもせずにぺちゃくちゃ喋っているお年寄りや、トレーニング機器に座って雑談に興じている人を見かけたが、今ではそういう会員がいないため、黙々とトレーニングをする会員だけで、比較的空いているから、入場制限をかけなくても三蜜を回避する事が出来ている。
仕事は疲れるが、会員からは、此花のアドバイスによってダイエットに成功した、身体の状態が良くなった、という言葉をもらえる事があり、そんなときに、この仕事の遣り甲斐を感じる事が出来る。此花が働き始めて間もない頃に入会した上杉雄三も、その一人だ。
「ここに通い始めたばかりの頃は、駅の階段を登って疲れるのが早くなってきて、『歳を取る』ってこういう事なのかなって思ってたんだけど、安達さんに教わったとおりにトレーニングしてたら、体重は変わってないのに、この一年でだいぶ身体が軽く感じられるようになったよ」
運動を始める前から常に汗を掻いていて、首まで覆うほどの真っ黒なスポーツ用マスクをしてトレーニングしている雄三も、最近は太ももや腕の筋肉が引き締まってきたように見える。週二回、ほぼ休まずにトレーニングをしている成果が出ているのだ。
「ある程度慣れてきたら、重りを軽くして回数を増やすとか、エアロビクスのスタジオレッスンを受けたりして、普段とは違うトレーニングを取り入れると、筋肉に違う刺激が入って、より高い効果がありますよ」
此花が話すとき、雄三はまるで、先生の言う事を真面目に聞く生徒のように、とても真剣な表情で聞き入る。
「私の母も、最近ではスポーツジムに通ってキックボクシングの動きを取り入れたエクササイズをやってるみたいですけど、健康そのものですよ」
「えっ、お母さんって……そんなに元気なの?」
雄三は随分意外そうな顔をした。
「はい。もう五十過ぎてますけど、私も妹も社会人になってお金がかからなくなったので、結構自由に遊んでます」
「そうなんだぁ……」
「どうして……ですか?」
雄三が何やら深く考え込むような顔をしたので、此花は思わず訊ねた。
「此花ちゃーん。計測の設定ってどうやるんだっけ?」
そこで、離れたところにあるランニングマシンを使おうとしている別の会員から呼ばれたので、此花は雄三に一礼してからその会員の下へ駆け寄り、機械の使い方を教えてあげた。それから雄三の姿を探すと、もうトレーニングフロアに彼の姿はなかったが、此花には何となく、先ほどの会話の意味が気になっていた。此花の母親がスポーツジムに通っているというだけの話で、どうして雄三はあんなに驚いたのだろう?
此花の職場のスポーツジムは、会員の利用時間は平日は午前九時半から夜十一時までで、スタッフの出勤時間は、九時出勤、十一時出勤、そして午後三時半から十一時半までの勤務シフトに分かれており、基本的にはローテーションで勤務シフトを組まれ、その日によっていずれかの時間に出勤し、それぞれ一時間の休憩を挟んで八時間働き、三時半以外の時間に出勤すると、残業になる場合もある。
例年、スポーツジムはお盆休みがあるのだが、今年は四月から一ヶ月休館した分、夏は定休日以外は休みなしに営業。去年は小学生を対象とした夏休み限定のスイミングスクールが開催されたが、今年は小学校の夏休みが短縮された事を受け、開催されなかった。去年、夏休みのスイミングスクール期間中は午前中から子供たちが沢山来たため、どうしてもスタッフの仕事が増えた。此花も昼間は会員のオリエンテーションや、店舗でスケジュールを組んである筋トレプログラムで複数の会員を一度に指導したり、さらにそれらの仕事の合間にプールの監視をしたり、忙しなく動き回っていたが、今年は比較的余裕を持って働く事が出来た。毎日不特定多数の会員が出入りをする場所で働くのは感染症の不安もあるが、世間では新型コロナウィルスの第二波の流行が進み、テレビでは連日東京をはじめ、全国の新規感染者数の発表がなされている中、此花の職場ではスタッフも会員も、誰も感染者が出ていないので、最近では、新型コロナウィルスの騒ぎ自体が本当なのかどうかすら、疑わしく思えてきてもいる。
この日も九時に出勤して、仕事が終わったのは午後八時だった。電車に乗って自宅まで帰り着き、不織布マスクを外すと、玄関に置いてあるゴミ箱に捨て、居間を通り過ぎて二階への階段へ向かおうとすると、母さんが安蘭と二人でソファに座って話し込んでいた。いつもなら母さんが一人でテレビを見ている時間だが、テレビの画面は消えている。二人とも後ろ姿しか見えなかったが、それだけで何やら不安な気持ちに駆られてきたため、此花は足を止めた。
「どうかした?」
此花がそろりと覗き込むように訊ねると、母さんが此花を振り向いて口を開いた。
「武田良次さんていう漫画家が、安蘭のストーカーになっちゃったのよ」
恐れていた事が、どうやら実現してしまったようだ。此花も一緒に居間のソファに座ると、安蘭がスマートフォンをテーブルの上に置いて、ラインの画面を見せてきた。
『お母さんの具合が悪くても、遊び半分で見れるような動画はゆっくり見れるのに、僕にはどうして返信出来ないの? ワインの感想を聞きたいんだけど』
『安蘭ちゃんは以前、待って、って言われたら待てますか? って訊いてきたでしょ? 俺は待ってるんだよ』
『プレゼントが気に入らないからって、ここまで冷たくするのはどうして?』
『俺はまだ安蘭ちゃんを信じてるよ。安蘭ちゃんは男を弄んだりするような女じゃない』
『お母さんが病気だっていうのは嘘じゃない?』
『嘘だろ』
『ツイッターを見る限り楽しそうな事ばかり呟いてるけど、僕はいつまで待てばいいの?』
毎日のように、良次からラインが送られている。安蘭は一ヶ月以上返信をしていないが、良次から送られてくるラインは止まるところを知らない。そして此花が気になったのは、昨日の深夜、というより、日付が変わって今日の午前一時過ぎに送られてきたメッセージだ。
『どうやって帰ったの?』
この文章がどういう意味なのか、安蘭に訊ねてみると、安蘭は顔を両手で覆って泣き出してしまったので、此花が帰ってくる前に事情を聴いていた母さんが、代わりに事の顛末を説明してくれた。
2
緊急事態宣言が解除されてい以来、行政からの時短営業要請もなくなり、安蘭が働く店も元どおり深夜までの営業を再開している。ところが、安蘭が終電間際に仕事を終えて帰ろうとすると、良次が駅の改札で待ち伏せをし始めたので、安蘭は駅の改札へ向かう階段を登らずに、駅前のロータリーからタクシーを使って移動し、隣の河辺駅から電車に乗って帰っていたそうだ。だが、やがて良次は駅のロータリーで待ち伏せをするようになったため、昨日は仕事が終わった後、店長に自宅まで車で送ってもらったのだという。店長には随分前から相談していて、フロアの接客よりも、厨房での調理をメインに担当を代えてもらっていたそうだ。
「ここまで来たら、もう正真正銘のストーカーだべ。警察に行こう」
此花が言うと、母さんも頷いて安蘭の手を握る。
「ほら、此花も同じ事言ってるじゃない。菜摘ちゃんだってそう言ってるんでしょ?」
嗚咽を飲み込むようにしくしくと泣き続けるばかりで、なかなか返事をしない安蘭を見ていて、此花は息をするのも苦しいほど、胸をきつく締め付けられるような思いがした。姉妹喧嘩をして安蘭を泣かしてしまったり、韓流ドラマを見ていて泣いているところを見た事はあるが、これまで見てきた安蘭の涙とは、今回は全く趣を異にするものだ。今の安蘭の辛さを考えたら、此花はここまで安蘭を苦しめる武田良次という人間を、もはや絶対に許す事は出来ない。安蘭を漫画の題材にしてくれたという恩義など、もはやとっくに相殺されている。
「♨※△だよ」
嗚咽混じりに放った弱々しい安蘭の声は、何と言ったのか聞き取れない。
「何? もう一度……」
此花は床に膝を突き、安蘭の肩に手を添え、顔を覗き込むようにして訊ねる。安蘭は振り絞るように、震える声で呟いた。
「ダメだよ」
安蘭は顔を覆ったまま首を振っている。
「元はといえば私が悪いんだよ。私がいつも食事をご馳走してもらったり、サッカーのチケット代全部払ってもらったりしてるうちに、それが段々当たり前になっていって、それで調子に乗ってワインまで貰っちゃったから……それでこんな事になっちゃったんだよ」
気持ちを吐き出した安蘭は、ある程度落ち着きを取り戻したのか、涙で化粧が崩れた顔を上げて話を続けた。
「武田さんにはきちんと謝って、ワインも返す。二人きりで会うのもやめてもらう」
安蘭が決心したような口調でそう言って両手で涙を拭うと、今度は母さんが口を開いた。
「それでも、二人きりで会うのは危ないわ。友広君に一緒に来てもらった方がいいわよ」
「ダメだよ」
安蘭が慌てて手を振る。
「友広には、武田さんに付きまとわれてる事は話してないんだ。ワインの話もしてないし。友広に話したら絶対トラブルが大きくなる」
これは此花も分かる気がする。彼氏であれば、自分の彼女がストーカー被害に遭っているなんて知ったら、直接会いに行って喧嘩をするか、すぐに法的手段に打って出るかするだろう。安蘭がワインを返すと決めたのだから、間に入る人を選ぶのであれば、この件を知っている人に限定した方が良いかもしれない。
結局、安蘭は仕事が休みのシフトの日に、お店のカウンター席に店長もいる前で良次にワインを返し、今後は二人きりで会えない旨を伝えたという。思いのほか、良次は素直に応じてくれて、電話やラインで個人的に呼び出す事はしないと約束してくれたそうだ。やはり良次のように、高校時代にラインがなかった世代の人は、既読スルーのニュアンスは理解出来ず、直接会って話さなければ通じないのだろうか。
第十二章 安蘭③
1
良次にワインを返すときは話さなかったが、安蘭はその翌日で店を辞めた。ドライブやサッカー観戦には誘わないと約束してくれたものの、一度ストーカーになった者が被害者の下にしつこく会いに来るという事はよくあるので、店のママの紹介で、小作から二駅離れた福生駅のそばの韓国料理店で働き始めた。韓流ファンの安蘭は韓国料理に対する知識があり、客から料理の説明を求められてもすぐに答えられたり、韓流ファンの客と会話が合ったりなど、すぐに適応出来た。
ツイッターを通して知り合ったK-POPグループのファンの中には、ライブやペンミティンの会場で直に会ったり、オフ会で一緒にお茶をする事もあるのだが、そうした韓流ファン仲間が安蘭の店に来てくれたりもする。来てくれた仲間は大抵、「韓流ファン仲間の安蘭ちゃんが働いてるお店で食事してきた」などという文言とともに、店の外観の写真をツイッターに投稿してくれるので、店の宣伝にもなって、店長から歓迎されている。勿論、菜摘もその一人だ。
「安蘭てさ、ラインのグループトークだと積極的に発言するけど、最近ツイッターもフェイスブックも全然投稿してないよね? ひょっとして……ストーカー対策?」
あるとき、菜摘が一人で店に来たとき、安蘭に訊ねてきた。
「実はね……」
安蘭は良次対策である事を話した。良次に個人的な連絡をしてこないように伝えた事は菜摘にも話してあるが、実はそれからも、フェイスブックやツイッターで安蘭が何か投稿すると、それに対して良次が頻繁にコメントを書いてくるようになったのだ。色々な人が見ているインターネット上の交流だから、個別に連絡を取っている事にはならないと思っているのだろう。だがこんなとき、他にもコメントを書いてきた人に対しては返信のコメントを書き、良次のコメントだけ無視するというのは得策ではない。自分だけが無視されているという事が晒された状態になり、コメントを無視された方は被害者意識を持つようになってしまうからだ。安蘭が高校生の頃、それが発端となってストーカーがエスカレートし、被害者からアカウントブロックされたストーカーが被害者をナイフでめった刺しにして、被害者が後遺症を負う、という痛ましい事件もあった。まさか良次がそんな凶暴な事をするとは思わないが、余計なトラブルに発展する事を防ぐためには、良次がコメントを書いてきたときは、他にコメントを書いてきた人がいても、全てのコメントに対して返信をしない事にした。
だが、自分が何か投稿をしたとき、良次がコメントを書いてきたり、「いいね!」を押した「友達」一覧の中に良次の名前が書いてあると、安蘭は何やら、どこかから監視されているような気がして、背中に悪寒を感じてしまう。そこで、少なくとも当分は自分から一切の投稿をせず、友達の投稿に「いいね!」を押すか、公開範囲が「友達」までの投稿に対してコメントを書くにとどめている。
「確かに、ストーカー相手にいきなりブロックするのは却って危ないんだよね」
飛沫防止カーテンが天井から垂れ下がったカウンター席で、菜摘が総菜のたくあんを箸でジャージャーソースに漬けながら話した。彼女はそれを口に運び、ゆっくり、じっくりと嚙み砕く。遠くを見つめながら、くしゃり、くしゃり、という、口の中でたくあんを嚙む音が、飛沫防止カーテンを挟んでカウンターの中にいる安蘭にも聞こえてくる。店員は全員マスクをしていて、さらに飛沫防止カーテンまであるものだから、客との会話で言葉が上手く伝わらない事があり、それで怒り出す客もいるが、コンビニもスーパーもタクシーも、今では飛沫防止カーテンが当たり前の世の中なので、安蘭は仕方ないと諦めている。
たくあんを嚙み終えた菜摘は、グラスに入ったマッコリを一口ごくりと飲むと、再び口を開いた。
「これからもストーカーが何かちょっかい出してくるようだったらさ、全然違うIDで、鍵付きの新しいツイッターのアカウント作るのも手だよね」
ここ最近、菜摘は良次の事を名前で呼ばず、ただ単に「ストーカー」と呼んでいる。菜摘に限らず、安蘭の母親も此花も同じだ。安蘭はネット上に良次の名前が出てくる事に対しても恐怖心を抱く一方で、周囲の人々が良次の事をこうした呼び方をするたびに、良次に対して申し訳なく思うとともに、良次に恐怖心を抱く自分自身に対しても罪悪感を覚えるのだった。
中学三年生のときから、つい半年ほど前にワインのプレゼントを貰ったときまでは、人生でここまで尊敬する人に出会うだろうかと思うくらいの気持ちで見上げていたのに、この半年の間で、フェイスブックのお知らせに「武田良次さんがいいね!しました」という表示が現れるだけで怖いと感じるように心境が変わってしまった。人間関係というのは、ここまで変わってしまうものなのだろうか。どこで、何がどう間違ってこうなってしまったのだろう? 取材に協力したいという気持ちがいけなかったのだろうか。考えれば考えるほど、安蘭は自己嫌悪に陥っていくばかりだ。
2
十月に入り、通勤も半袖ではさすがに冷えてきた。安蘭はこの時期、薄手のシャツの上にポケット付きの長袖を羽織って通勤する。高校時代から、安蘭は電車で通学、通勤しているときは、スマートフォンの音楽プレーヤーに登録したK-POPの曲をイヤホンで聞きながら、フェイスブックやツイッターを覗くのが日課だ。高校時代から、一週間に二回か三回は何かを発信しなければつまらないと思っていたし、自分の投稿に「いいね!」がどれくらい押されたかを確認するのが楽しみだったが、自分から一切投稿をせず、全ての人々の投稿を客観的に覗いているのも、それはそれで楽しかったりもする。
韓流ファン仲間がツイッターに載せている、去年K-POPグループのライブを見に行った際に仲間同士で撮った写真を一つ一つ眺めながら、自分が映っている写真を保存していく。自分で撮影しなくても、こうして仲間がツイッターに投稿してくれた写真を保存して、ときどき過去の分に遡って眺めるのも、安蘭の趣味だ。
『安蘭ちゃんもいつの間にか二十歳。もう大人だね!』
先日、安蘭の勤務先の店に来た韓流ファン仲間の女性が、カウンターで安蘭と一緒に撮ったツーショット写真をツイッターに投稿していた。
安蘭が働いている韓国料理店は、安蘭がかつて通っていたF高校とは、福生駅を挟んで反対側にある。米軍基地に近い地域なので、街にはアメリカ人の姿をよく見かけるし、英語で書かれた看板や、ドルで買い物が出来る店もあるほどだ。ベッドタウンと呼ばれる青梅線の沿線の街の中でも、ここは少し変わった趣のある地域だ。
いつものように店に着き、準備を終えて午後六時の開店時間を迎えて間もなく、店の自動扉が開いた。店の奥の壁に設置されているテレビを見ていた安蘭と、バイトスタッフの男子高校生は反射的に入口を振り向いて「いらっしゃいませ!」と挨拶をする。次の瞬間、客の顔を見た安蘭の顔は固まった。そこに現れたのは、マスク姿の武田良次だったからだ。
「久しぶり」
良次は安蘭の顔を見ると、片手を挙げてにやりと笑った。もじゃもじゃ頭から滴り落ちる汗が、Tシャツの首回りと、不織布マスクをねっとり湿らせている。口の表情は見えなくても、厭らしく垂れ下がった目尻だけでも、その卑猥さが伝わってきて、外の暑さとは逆に、悪寒すら感じられるほどだ。男子高校生のバイトスタッフは、知り合いなの? といった感じで安蘭をちらりと見てから、「お一人様ですか?」と確認し、カウンター席へと案内した。安蘭は一歩一歩、ゆっくりと歩いてカウンターの中に入り、良次と向き合う。
「どうして……ここが分かったんですか?」
安蘭が恐る恐る訊ねると、良次は「ツイッター見たよ」と答えた。ワインを返して以来、安蘭は良次のアカウントのフォローを辞め、フェイスブックでも「友達」から外していたので、良次の近況がどうなっているのかは分からない。だが、良次のアカウントをブロックはしていないので、良次がツイッターで安蘭の投稿を見る事は出来る。でも、安蘭は自分からは何も投稿していないので、もう彼が自分の近況を知る術はないと思っていたのに、どういう事だろう?
「安蘭ちゃんの友達がツイッターに写真載せてるから、前から来てみたいなと思ってたんだ」
背中に悪寒が走った。確かに、これまで何人かの韓流ファン仲間がこの店を訪れ、安蘭の写真や店の看板の写真を撮ってツイッターに投稿していたが、良次は安蘭だけでなく、安蘭が相互フォローしているアカウントまでチェックしてフォローし、安蘭に関する情報を片っ端から調べているのだ。安蘭はそこまでする良次の執念に、足元が震えそうな思いがした。
「電話しようとしたんだけど、番号変わってて連絡出来なかったよ」
安蘭は今の店で働き始めた直後、携帯電話の番号を変え、ラインのIDも登録し直した。番号を変えた事を知らせていないのだから、もう連絡してほしくないという意味である事が理解出来ない良次の神経が煩わしい。
『この人、私のストーカー』
安蘭はカウンターの中でメモ書きにそう書いて、バイトの高校生にこっそり見せた。高校生は一瞬眉を険しく歪ませてからぎこちない笑顔を作り、小さく頷く。事情を察してくれた彼は、他のお客さんが来たときは、注文の受注も料理運びもなるべく安蘭に対応させ、カウンターにはなるべく彼がいるようにしてくれた。
良次が会計をするときもバイトの高校生が対応し、安蘭はその間、他のテーブルの空き皿を片付けたり、料理を運ぶのに夢中で良次に気付かない振りをするよう努めた。
仕事を終えて帰るとき、安蘭は駅に良次が待ち伏せしていないか不安だったので、駅の構内を抜けて反対側の町内に徒歩で帰宅するバイトの高校生に一緒に付いてきてもらったが、良次の姿は改札の外にも中にも見当たらなかった。
青梅に向かう電車の中、安蘭は韓流ファン仲間のツイッターのアカウントをチェックした。フォロワーの一覧を開いてみると、「武田良次」の名前が入っている。さらに良次のアカウントのページを開いて見てみると、安蘭が韓流で繫がった人だけでなく、中学校や高校時代の同級生のアカウントまで、良次が片っ端からフォローしている事が分かった。
安蘭はすぐに菜摘にラインを送った。菜摘のフォロワーの中には、良次の名前はないようだが、この事実を菜摘に伝える事にした。
『武田良次、高校三年生の頃から私のアカウントもフォローしてたけど、安蘭のストーカーになったって話を聞いてからブロックしてるよ。他の人たちにもブロックするように頼んだ方がいいよ』
そういえば、高校を卒業する直前の頃、菜摘をはじめ、周囲の同級生らも、「俺も武田良次にフォローされてるぜ!」などと自慢げに話している人が複数いた事を思い出した。あの頃はまさか夢にも思っていなかったが、あの頃から既にストーキングが始まっていたという事なのだろうか。
自宅に帰ると、母さんは既に寝ていて、此花がお風呂に入っているところだった。風呂から出てきたパジャマ姿の此花を自分の部屋に呼び入れて事情を話すと、此花もやはり菜摘と同様で、随分前からブロックをしてあるという。
「安蘭、もう警察に行った方がいいよ」
ベッドで安蘭の隣に座った此花は、安蘭の肩に手を置いて、諭すように言った。風呂上りで火照った身体もすっかり冷え切ったように、冷たい表情をしている。此花の肩の向こうの本棚の片隅には、「SAKURAドリブラー」の単行本を今でも置いてある。漫画の内容自体は気に入っているし、安蘭の人生の一部である事は間違いない。ただ、あの人を尊敬していた自分は、もういない。
「安蘭……」
此花が少しばかり涙ぐんだ声になる。
「ストーカー関連のニュースがたまに報道されるけど、私は安蘭に被害者になってほしくない」
安蘭の両肩は、自分の意思と関係なく震え始めた。エアコンは「弱」に設定しているはずなのに、とてつもない寒気を感じる。いっそこのまま、此花に抱きしめてもらいたいと思った。彼氏にはまだ話していない。警察沙汰にすれば、彼氏は勿論、色んな人に知れ渡る事になるだろう。だが、自分だけでなく、既に自分の周りにいる人たちも良次に監視されている今、皆を守るためにも、法的手段を考えるときなのかもしれない。
翌日、早速青梅警察署に行くと、生活安全課の警察官は親身になって聞いてくれ、警告文を出すと言ってくれた。
「ストーカー防止のためには、ご家族やお友達の協力が重要ですので、なるべく色んな人にストーカーの事をお話しする事をお勧めします」
警察官からの言葉を受け、安蘭はラインで、韓流ファン仲間のグループトークにメッセージを送信した。
『私が映った写真と私の名前はネット上に載せないようにお願いします』
ストーカー被害に遭っている事を伝えると、皆は快く承諾してくれた。
『今まで載せた写真も削除した方がいいかな?』
『ストーカーは怖いよね。今のところ武田良次からツイッターでフォローはされてないけど、知らない人から結構フォローされてるから、当分は私も鍵付きのアカウントにする』
『私は安蘭に限らず、自分以外の人の顔が映ってる写真は一切ネットに載せないようにする』
皆が協力的である事に、安蘭は心からありがたいと思った。だがその直後から、申し訳ないという罪悪感が湧き起こってきた。被害者は自分で、悪いのは良次なのに、韓流ファン仲間の皆に気を遣わせてしまっている事に、何とも言いようのない居心地の悪さを感じてしまう。
中学二年生のとき、自分が出場していたサッカーの試合を、良次がたまたま見ていた事がきっかけになって、こんな方向に人生が進んでしまった。いっそ、自分がサッカーをやっていなかったら、こんな事にならなかっただろうか。いや、むしろ、良次から二人きりで会う事を誘われたときに会いに行ってしまった自分が軽率だったのだと安蘭は考えている。
警告文が出てもストーカー行為が終わらずに新聞沙汰の事件になる話はよく見聞きする。これで本当に良次のストーカー行為が終わってくれれば良いのだが、果たして、どうなっていくのだろう?
第十三章 雄三②
十一月も終わりに近付き、青梅駅のホームから見える目の前の山の色も、すっかり紅葉している。空は生憎曇っているが、なかなか絵にするには風情のある景色だ。せめてこんなに美しい景色を眺めている間だけは、世界中が感染症の脅威に晒されている現実を忘れていたいと思った。ホームにある待合室は昭和時代から使われている木造だ。六年ぶりにこの駅で電車を降りた上杉雄三は、緑色のジャンパーのファスナーを閉め、背負っているリュックサックの位置を正し、駅の装飾として昭和の映画の看板がいくつも掲げられている地下通路を抜け、駅前のロータリーから、飲食店が建ち並ぶ脇道の路地へ入ると、いかにも昔からやっていそうな蕎麦屋を見付けて入り、昼食を済ませた。それから表通りである青梅街道へ出ると、そこには昭和の木造建築が続く間の道を、絶え間なく車が行き交っている。至る建物の二階に、昭和の前期から後期にかけて上映されていた映画の看板が掲げられている。戦後間もない頃の街の写真を見ても白黒のため、街の装いがどんな色だったかを窺う事は出来ないが、こうして青梅駅周辺の街並みを散策してみると、昭和の時代にタイムスリップしたような気持ちだ。暫く進んで神社の鳥居の前まで来たところで、見覚えのある切れ長の目の女性が歩いてきた。
「あれ? 上杉さん」
その女性は雄三が通っているスポーツジムのインストラクター、安達此花だった。人間は目の前に現れた人が誰かを認識するとき、顔よりも服装で認識しているという話を聞いた事がある。此花とはスポーツジムでしか会った事がなく、彼女はいつもインストラクターの制服であるジャージ姿のイメージがあるが、今は私服だ。おまけに、マスクをしている。此花だと気付くのに、数秒時間がかかってしまったのだ。ましてや、此花には顔がそっくりな妹がいる。雄三は向こうから歩いてきたのが、一瞬、此花の妹かとも思ってしまった。
「安達さん、この近くに住んでるんですか?」
雄三が訊ねると、此花は細い目を開いて「そうですけど……」と答えた。
「上杉さんは、どうして青梅に?」
「今日はちょっと散策に来ました。スケッチしようと思って」
雄三はそう言いながら身体を捻り、画材の入ったリュックサックを此花に見せた。
「あぁなるほど!」
此花は納得したように頷く。
「昔ながらの街並みを見ながら、いい絵が描けるといいですね!」
此花は今日は遅番のシフトで、これから仕事に向かうと言って、「それでは失礼します」と一礼して、駅に向かって歩いていった。
雄三は此花が歩いてきた道を進み、線路沿いの路地に入っていく。此花はよく、自宅から駅へ向かう途中の線路沿いの路地の道端に咲いている花の写真や、自宅を出てすぐの場所を歩いている野良猫の写真をツイッターに載せている。雄三はツイッターで二つのアカウントを持っていて、一方のアカウントはいつの間にか此花からブロックされてしまったので閲覧出来なくなったが、もう一方のアカウントでもフォローしてあるので、問題なく閲覧が出来る。全く違う名前のアカウントで、プロフィール写真も投稿内容も全く違うものを載せているので、同一人物とは気付かれていないようだ。何か頭に来るコメントを書かれたり、不愉快な投稿を見たからといってすぐに相手をブロックする者が多いが、鍵付きのアカウントではない以上、相手はいくらでも別のアカウントを作って自分の投稿を見る事が出来る。ブロックすればそれで縁を断ち切れるという考えは、あまりにも認識が甘いといえるだろう。
此花の投稿した写真を、グーグルマップと照らし合わせながら、だいたいの居住地を特定するのに、とてつもない時間がかかった。だが、今こうして此花とすれ違った場所から路地に入ったら、まさにツイッターに載せていた写真と同じ、線路沿いの柵に面した路地へ繫がり、この間も投稿していた猫の背景にあった電信柱のそばのゴミ集積場もある。さぁ問題は、どの家が此花の家なのかだ。スポーツジムで此花と雑談したときの話では、此花は一軒家に住んでいると聞いている。アパートと違って、一軒家の場合は苗字を表札に記載している家も多いから、まずは「安達」もしくは「ADACHI」と書かれた表札を探してみよう。この辺りは道が入り組んでいるが、此花がツイッターに載せている写真に写っている風景までは特定出来ている。それよりも駅から離れた場所である事は間違いないから、探すのにそんなに時間はかからないと思っている。それでも、雄三は一時間近くかけて歩いて、同じ場所に戻ってきてしまった。だが、せっかく青梅まで来たのに、一周歩いただけで帰ったのでは、逆に勿体ない。イラストや漫画のラフを描いても、一回目の見なおしでは間違いを発見する事があるのと同じで、やはり二回、三回は歩かなければ成果は上がらないだろう。ぽつりぽつりと降り始めた雨はあっという間に本降りになり、雄三はリュックサックの中から折り畳み傘を取り出して差す。小さい傘なので服や足元は濡れてしまうが、仕方ない。
気を取り直して、折り畳み傘を片手にもう一度さっきと同じ道を歩いてみると、同じ形をした二階建ての一軒家が四件ほど並ぶ中、家と家の間に、人と人がすれ違える程度の、ベージュ色に塗られたアスファルトの小さい通路があり、その通路の先にも同じ形をした一軒家があるのが見えた。黒い門扉に近付いてみると、表札には横書きで「安達」と書いてある。雄三がポケットの中のスマートフォンを取り出して時計を確認すると、午後の三時過ぎだった。此花の妹も今日が仕事の日であれば、もうそろそろ家を出てくる時間かもしれない。
この家で、彼女は赤ん坊の頃から育ってきたのだ。自分とラインのやり取りをするときも、この家の中のどこかの部屋からラインを送受信していた。雄三は自分が立っている門扉の前から二階の窓を見上げた。窓の内側には白いカーテンが閉まっていて、中を窺う事は出来ない。雨で中は薄暗いはずだが、電気が点いていないようなので、あの部屋に彼女がいるわけではないのかもしれない。あるいは、留守なのだろうか。雄三は「安達」と書かれた表札の下に設置されたインターホンのボタンを見つめた。ボタンの横にはカメラが付いている。このボタンを押せば、これまで彼女との間に広まってしまった溝を埋め直す事が出来る。居酒屋のカウンター越しなどではない、一対一で話し合えば、絶対分かり合える。お互いにもう大人同士なのだ。話し合わなければいけない。
雄三がインターホンのボタンに人差し指を伸ばしかけたそのときだった。「ガチャリ」という音が門扉の向こうから聞こえた。玄関のドアが開き、中からはショートヘアにカールのかかった茶髪の女性が出てきた。前回会ったときとガラリと髪形が変わっているが、腰の高さまでの丈のコートを着た女性は紛れもなく、安蘭その人だ。
「えぇっ!」
安蘭は雄三の顔を見ると、鼻まで覆ったマスクの上の黒い瞳がハッキリと見えるほどに目を見開き、恐怖に慄くように肩を震わせた。此花には上杉雄三という本名でしか会った事がないが、安蘭とは、「武田良次」というペンネームでしか会った事がない。
「安蘭ちゃん」
雄三、つまり良次が安蘭の顔を覗くように門扉から首を伸ばして声を掛けると、安蘭はたちまち「バタン!」という音を立てながら勢いよくドアを閉め、ドアからは再び「ガチャリ」という、鍵を掛ける音が聞こえた。
「ピンポン」
良次がインターホンを押すと、カメラが白く光った。なかなか応答がない。やがて光が消えたので、もう一度インターホンを押してみた。
「ピンポン」
やはり、応答がない。返事を待っていると、左側に見える庭の角を曲がった先の家の陰から「痛っ!」という悲鳴が聞こえた。あの声は安蘭だ。
「安蘭ちゃん!」
良次が声のした方へ駆け寄ってみると、隣の家との間にある段差で躓いた安蘭が倒れているところだった。
「安蘭ちゃん、大丈夫?」
良次が駆け寄ると、傘も持っていない安蘭は身体を震わせながら立ち上がり、一目散に家の向こう側に見える駐車場に向かって走って行った。駐車場のフェンスに手を突いて飛び越える安蘭。良次も同じように飛び越えようと、折り畳み傘をフェンスの向こうに投げてから手を突いてジャンプしたが、ジャンプしても足はフェンスの高さまで到底届かない。もう一度ジャンプを試みるが、やはり無理だ。仕方ないので、フェンスに手を置き、右足を伸ばしてフェンスによじ登って超える事にした。駐車場の敷地に入って折り畳み傘を拾うと、安蘭は三十メートルほどありそうな駐車場の向こう側の路地に立って、こちらを見つめている。良次の足元には、安蘭が落としたスマートフォンがある。
安蘭は自分がスマートフォンを落とした事に気付いたようだが、すぐに駅の方角に向かって、路地を走り始めた。良次は安蘭のスマートフォンを拾って追いかける。
「待って、安蘭ちゃん!」
安蘭はこれまで、数え切れないほど一緒にサッカー観戦をしながら、サッカーの解説をしてくれた。良次がここまでサッカーの知識を深める事が出来たのは、安蘭のおかげなのだ。漫画家として無名な自分の取材に、あそこまで協力してくれたのは安蘭だけ。これまで、数々のデートをしてきて、一年かけて貯めた貯金を使って手に入れたワインを受け取るときも満面の笑顔で喜んでくれたのに、その日を境に電話もラインも一切無視。ワインも一方的に返品してきて、いつの間にかフェイスブックの「友達」からも外され、ツイッターでもブロックされた。もはや弄ばれているとしか思えなかったが、挙句の果てには、警察から「安達安蘭に接近しないように」という警告文まで渡された。彼女の事を中学生の頃から知っている良次としては、絶対何かの誤解があるはずだという気持ちがまだある。彼女がそんな悪い事をする女だとは思えない、彼女を信じている自分がいるのだ。
話をすれば分かる。良次は何も、安蘭に危害を加えるつもりなんて一切ない。何としても追いつかなければいけない。安蘭は車のすれ違いも難しい狭い路地を、右へ左へと、全速力で走っていく。良次は何とか逃がすまいと、持てる力を全て出して追いかけるが、さすがは中学時代に男子サッカー部を全国大会まで導いただけの運動神経の持ち主。二十代後半になってからようやくスポーツジムでトレーニングを始めた程度の良次は、見る見るうちに引き離されていく。気が付けば、良次は傘をどこかに落としてきてしまったが、今はずぶ濡れになる事に構っている場合ではない。遠ざかっていく安蘭が一時停止の標識のある十字路へ差し掛かったところで、左から現れた乗用車のボンネットに、「ズドン」という鈍い衝撃音とともに、安蘭の身体がぶつかった。何十メートルも離れていても、はっきりと聞こえる、恐らく当分忘れる事の出来ない、不吉な音だった。ぶつかる瞬間、丸みのあるボンネットの上を滑るようにして、車のフロントガラスに頭、肩、そして上半身全体を叩きつけられた身体は宙を舞い、雨で塗れたアスファルトの上に再び叩き落される。良次にはそれがまるで、マネキンであるかのように見えた。人間の身体があんなにも簡単に宙を飛んでしまうものだという事を、良次は生まれて初めて知った。思わず一旦足を止め、一歩一歩、ゆっくりと歩み寄っていく。
「どうしましょう!」
乗用車の運転席から出てきたのは、三十代半ばから四十代くらいの女性だ。一人で自家用車に乗っているだけだからだろう。マスクはしていない。見るからに狼狽した様子で、顔面は青ざめている。地面に横たわった安蘭の周りのアスファルトが、どす黒い色に染まっていく。頭から流れているのか、それとも別の部位から流れてくるものなのか分からない。ただ、人間の血はこんなに黒いものだっただろうか。良次はそんな事を呑気に考えていた。それとも、雨水と混じってアスファルトに染まると、こういう色になるのだろうか。
「私は向こうから走ってきて、この人が急に飛び出してきたんです! どうしましょう。これから子供を迎えに行かなきゃいけないのに……」
近所の人たちが、衝突音を聞いて外へ出てきた。運転手は救急車や警察を呼ぶ事もせず、ただただうろたえるばかり。歩いている人たちも、続々と近付いてくる。そのほとんどが、好奇心に満ちた目で現場を覗き込んでいる。野次馬根性とはまさにこういう人たちの事を言うのだろう。良次はこんな光景を見るのは初めてだ。漫画を描く上で、貴重な経験になるかもしれない。この光景はしっかりと目に焼き付けておかなくてはならない。安蘭は普段から目を閉じているのかと思うほど目が細い女性だが、こうして気を失って倒れている安蘭の瞼は、普段ともまた違って見えた。生気を失っているというのだろうか、もう、動く事がないのではないかと思えるほど、冷たく見えた。そんな、表情を失った安蘭の白い顔を、茶色く染まった髪を、無数の雫が容赦なく叩きつけ、冷やしていく。身にまとっていたコートも、ジーンズもスニーカーも、どんどん濡れていく。
良次の脳裏にはふと、高校生の頃に読んだ芥川龍之介の小説「地獄変」の記憶が蘇ってきた。愛する娘が乗った牛車が炎を上げて燃え盛る様子を、じっくりと眺める主人公。良次はそのときの主人公も、今の自分のような心境で眺めていたのではないか。そんな事を考えてみた。愛する人が予期せずして死ぬとき、意外にも、人はここまで冷静になれるものなのだという事を、良次は悟った。
「この人が落としたスマートフォンです」
良次は乗用車の運転手の女性に、安蘭のスマートフォンを差し出した。女性は既に、周囲の人から促されて自分のスマートフォンで救急車を呼び終えたところだ。
「あ……この人のお知り合いですか?」
女性はスマートフォンを両手でびくびくしながら受け取ると、良次に訊ねた。
「まぁ、その……」
良次は返事に困った。これからこの女性が警察を呼べば、良次は警察に見つかる事になる。すっかりずぶ濡れになった良次の天然パーマの前髪の一部が、眼鏡の下の瞼に張り付いてきて、前が見えづらくなる。
警察が来ても、国家権力によって良次をストーカー扱いしたのは生活安全課の警察官だ。交通事故の現場に来るのは交通課と地域課で、部署が違うから、良次の事を直接は知らない。逮捕される心配はないだろう。
良次は冷たくぬめぬめした前髪を掻き上げ、身を屈めて安蘭の顔を覗き込み、ぴくりとも動かない彼女の耳からマスクの紐をゆっくりと外し、素顔を観察した。黒く塗った眉毛は色が落ち、顔の化粧と混ざって彼女の鼻に沿って黒い筋となり、次第に色を失っていく唇から顎へと流れていく。
いかがですか? ストーカーの怖さについて考えていただけたら、作家冥利に尽きます。