1-1 敗走
青年が走っている。金色の髪を揺らし、琥珀色の瞳をちらちらと後ろに向けながら、息を切らして街の大通りを爆走している。
彼——イルデットには、物心ついた時から前世の記憶があった。ごく普通の日本人として生き、20代後半のある冬の日に階段から足を滑らせ落ちて、多分その時に打ちどころが悪くて死んだという記憶が。
きっとバチが当たったのだ。通ろうとした歩道橋の傍に、荷物が重くて階段を上れず困っているおばあさんがいて、助けを求められそうになって嫌で逃げようとして、慌ててその階段を駆け上がった結果なのだから。——そう考えたイルデットは、前世の自分を軽蔑し、反面教師にしようと思った。困っている人を見捨てない「お人好し」になろうと思った。
そういう訳で、村で誰かが困っていると必ず助けるようにした。前世の記憶をもとに色々と提案していたら、いつの間にか村は途轍もない発展を遂げていた。イルデットは村中の人から神童扱いされるようになり、富豪たちから多額の謝礼を貰い、領主の娘の婚約者に選ばれ、侯爵位を継ぐことまで決まった。あまり裕福でない家庭に生まれた彼にとって、嬉しい成り上がり街道だった。
今こうして逃げ回る羽目になるまでは。
「待ちやがれぇッ!」
「無理いいいい!」
街の中心部で追いかけっこを繰り広げる2人を、人々は迷惑そうに、或いは興味深そうに見送る。
イルデットを追っているのは、暗い赤色の髪をした、イルデットより少し年上の青年だ。髪と同じ色の剣を持ち、その刃をイルデットに届かそうと懸命に走っている。名前はヴァレド。とある貴族から、〝辺境の村の信じられない発展〟に大きく寄与したイルデットを捕らえて連れて来るように依頼された傭兵である。
しかしイルデットの足は速かった。母親の高い身体能力を受け継ぎ、それなりに鍛えつつも身軽な体は、この世のほとんどの人が追いつけないほどの速さを出していた。
ヴァレドは舌打ちし、剣に魔力を込める。暗赤色の刃が光り、そこから飛び出した爆炎がイルデットの背を掠めた。
「うわっ⁉ 殺す気か⁉」
「半殺しにしてでも連れて来いって言われてるんでな!」
「いや死ぬからそれ!」
「だから手加減してるだろうが! 殺す気ならとっくに殺してる!」
そう、この追いかけっこの前に、2人は正々堂々戦って、イルデットはあっさり負けてしまった。命を狙われていたのなら、その時に殺されているはずなのだ。
(だからって、あんなの食らったら無事じゃ済まないだろ! ああもう、あんな勝負受けなきゃ良かった!)
ヴァレドが勝負を挑んできた時、イルデットは「お人好しならきっと、自分に益の無い勝負でも受けてあげるだろう」などと考え、受けて立ったのだった。「敗者は勝者に従う」という約束で行われた勝負だったが、その時のイルデットは負けた場合のことを全く考えていなかった。お人好しならどうするか、ということしか頭に無かった。もちろん自分がかなり強い方だという自負もあってこそである。
イルデットは懸命に走り、何とかヴァレドを撒こうとする。一向に開かない距離に歯噛みしながら、もしかしたら大人しくついて行っても良かったのかもしれないと思いつつ、やはりどうにも嫌な予感がするので逃げて正解だったと結論付けた。
「逃がさねぇ!」
剣から炎が迸り、蛇のようにうねる。
後ろを振り返ったイルデットは、眼前に迫った炎を見て目を見開いた。
「——!」
逃げ切れない。避けられない。絶体絶命。
だが、その瞬間。
イルデットはそこから消えた。
残されたヴァレドは足を止め、眉間にしわを寄せた。
「……転移魔法? 仲間がいたのか」