第18話「迷宮の守護者」
――迷宮化した城を探索開始から6時間。
長い時間を歩き回っていて判明したことがいくつかあった。
一つはこの迷宮が城を元に作られてはいるがスケールはまったく別格であるということだ。
ジェラの城は広いには広いが2時間もあればある程度を見て回れるくらいの大きさであると記憶しているし、仮に大きさはそのままなのだとしたらこの迷宮の主とやらに鉢合わせるのは一瞬だろう。
何故なら俺の嗅覚はそれなりの範囲を探れる。
あの城であればジェラがどこにいるか分かるくらいだ。
二つ目に城にいたはずの侍女とは合流できそうにもないことだ。
この迷宮において俺達が侍女と合流するということはそれだけ戦力を整えられてしまうということであり、仮に俺達を閉じ込めておくことが目的なのだとしたら脱出の可能性が格段に上がってしまう。
それを避けるために散り散りに、それも道が重ならないように作り上げているらしい。
この手間を躊躇わない辺り慎重な奴が主らしいな。
「色々と情報がばらばらになってますがこの道の感じからするとまっすぐ行けば大広間に着くはずです」
「ジェラートが国民と話してる場所か?」
「そうです。今までの道の規模から察するに広さは相当なものだと思います。それこそこの迷宮を作り上げた人がいると考えてもいいくらいには」
いよいよ、ということか。
なら少しは心の準備をしていた方がいいのかもしれないな。
「おにい、ハル行きたくない」
「ハルさん奥に何がいるか知っているんですか?」
「へんな人」
直訳するなら別に気にしなくてもいいと思うが俺なりにハルの言葉を意訳するならば自分にとって害となる存在ということだ。
生物は危険な存在に当てはめるものとして異なる存在を指す。
自分と異なることをしていて、それを否としか見なせなくなれば相手は敵となる。善悪の摂理と同じだ。
「ハルはここへ逃げてきたのか?」
「んーん」
「俺の所へ逃げて来たのか」
「ん」
要約すると今現在追われている最中ではあるが俺と合流したことで少なからず安心したということか。
ハルが助かったのは嬉しいが相手の思惑通りだな。
「相手はハルをわざと逃した」
「どうしてそんな危険を? 組織の情報が漏れたら困るんじゃないんですか?」
「おそらくハルは知識がない。殴られたか犯されたか分からないが嫌なことをされるとだけ認識していたから逃げてきた可能性がある」
「つまり怖い人のことなんか知ろうとするはずがないということですね?」
「そういうことだ」
ハルは「嫌な人達」から逃げたい。
組織はハルが何の知識も持っていないと知っているから逃したところで再度捕まえることができるならば痛くも痒くもない。
「当然だが生物には帰巣本能というものがある。知っている匂い、知っている音、知っている感触に知っている仲間。とにかく自分が慣れ親しんだ環境を求めて自然と戻ってくることがある」
「それでユキさんのところへ?」
「俺は顔も知らなかったが匂いだけは知っていたんだろう。俺が本当に雌の胎から産まれたなら同じところからハルも産まれてるわけだからな」
「ユキさんの母親って……」
「俺を産んだ時に腹を裂かれて死んでる」
そう、そこが疑問なのだ。
俺が腹を裂いた時点で出血多量の即死、何よりも俺に食われているはずだからその中に残っていた妹だと言うなら既に死んでいるはずだ。
こうして産まれているということは腹違いなのだろうか。
「いや、何かが根本的に間違っている気がする……。俺が産まれた時には既に雌の死体があった。だが産まれてすぐに見た景色ではなく、気がついたら……そう、目覚めたら死んでいた可能性もある」
「ユキさんが眠っている間に連れ去られた? でも、そうだとしたら双子ということになりますよ?」
「魔物は不同時期重複受胎が可能だ」
「えっと、今なんと?」
「非同時期重複受胎だ。雌の胎に子供がいても雄が無理矢理にでも交尾を行うと出産時期のずれた二人の子供が産まれる」
「複雑ですね」
人間からすれば異端であり不可能なことである。
しかし数が減りやすく、しかも一度には複数の子を産めない魔物としては少しでも多く早くと考えなければいけない。
動物にも交尾排卵生物という括りがあるらしいが身篭っている間の雌は神経質になるのだから雄は近づけない。
それを考えると無神経な生物である。
「仮にその状態にあれば俺が目覚めるまでの間にハルだけが何者かに連れて行かれた可能性はある」
「本来はもう少しお腹の中にいるはずのハルさんを引きずり出して連れ去り、恐怖を感じるほどの何かをしたんですか?」
「怖い、おにい」
「話はここまでにするか。今はこの先にいるのはハルにそれだけの非情なことをできる組織の一員ということが分かっていればいい」
怯えさせていいことなど一つもない。
何より物心が付く前に大切な、たった一人しか残っていなかった家族を連れ去ったことを精算しなければ気が済まない。
戦う理由には十分だ。
まあ、これだと脱出するのがついでのようでジェラには申し訳ないと思う。
俺は真っ直ぐに続いていた道の奥、物々しい雰囲気を漂わせていた大きな扉を押し開ける。
「やっと来たのか? ったく、辿り着けるように余計な手出しはあまり入れなかったのによぉ」
迷宮の主は呆れているのか溜め息をこぼす。
何が手出しはあまり入れなかった、だ。ここへ来るまでに食料にした魔物は声の主が呼び出したものに他ならない。
俺は奥の暗がりにいる者に視線を向ける。
本当に待っていたとでも言うように胡座をかいて、しかし肩には片手で振るうには無理があると思われる大振りの斧を担いだ雄牛の獣人を……。
「おう、両手に花とはいいご身分だなご同輩」
「虫唾が走る。お前と同じにするな……と言いたいところだが、言葉を話せるということは魔物ではないらしいな」
「それこそ虫唾が走るってもんだぞ? たしかに少しは違うかもしれないが仲良くやろうぜ?」
「無理だ」
俺は拒絶の意を示す。
ジェラを危険な場所を歩ませたこと。
俺の妹を何かしらの方法で辱めたこと。
どちらも許されることではない。何かしらの形で責任を取らせなければいけないことなのだ。
「そうかそうか遊びたいか!」
「は?」
「じゃあそうだな……俺が勝ったら雌をどっちか貸してくれ。そろそろ所帯を持ちたいと考えてたんだよな」
「ふざけるな!」
「まあまあそんなに怒るなよご同輩。どっちも俺の孕み袋にしてほしくないならお前が勝ちゃいいんだからよ」
そんな賭けみたいな真似をできるわけがない。
できる訳がないが……そうか、どちらにしろ勝たなければいけないというなら都合がいい。
どうせ雄牛を、アステリオスをどうにかしなければ迷宮からは出られないのだろうからな。
「ガルルッ!」
「いいねぇ、いきなり全力で襲いかかってくるなんて燃える展開だ!」
「大人しくしていないと死ぬことになるぞ」
「ああそうかいっ!」
「くっ!」
初手、腕への噛みつきは有効だったらしくほんの少しではあるが肉をえぐることに成功した。
しかし怪我を楽しめる余裕を奴は斧に隠していたらしい。
神々しく輝く斧。
いや、斧自体が光っているのではなく斧が雷を帯びているのだ。
「ギリギリで回避すると痛いかもしれないぜ?」
「魔法なのか?」
「そんな面白くもない手品は使わねえよ。これは俺専用の武具だ」
「ユキさん! アステリオスとは迷宮に幽閉された雄牛と人間の間に産まれた子供のことです!」
「お? 人間の方は博識でいいな。その通り、俺は迷宮の守護者だ」
ミノタウロス?
たしかノルの教えてくれた知識の中に雄牛の子供を孕んだ雌の物語があったような気がする。
待てよ?
その物語に出てきた雄牛の子供がアステリオスだとすれば俺は一つだけ言っておきたいことがあるとノルに語ったのを覚えている。
都合がいい。
「名前を誇りに思っているらしいな」
「当然だ! この封鎖された迷宮内では誰も干渉してこない! 俺こそが王たれる場所だ!」
「迷宮の守護者? 王? 笑わせるな」
この際とことん言ってやろう。
お前の物語を聞かされた時に俺は少なからず同情した。
その理由は……、
「一人で閉じこもって送られてくる食料相手に力を奮って強者気取りか? ただの引き籠もりだろう」
「あ?」
「与えられた場所に満足しているだけに過ぎない。何が王だ、何が守護者だ。弱者が自分を肯定するための言い訳だろうが」
「口は災いだと教わらなかったのかご同輩よぉ!」
「…………」
ああ、災いだと知っているとも。
俺が軽い気持ちで発した言葉をすぐに詰る雌がいる。
だが災いだと感じる前に俺は楽しんでいる。俺という存在を無視せずに相手をしてくれる人間に感謝をしている。
きっとお前には分からないだろう。
人間のエゴで産まれたお前には……。
「…………っ!」
カラカラカラ……。
アステリオスの斧が床を転がる。
彼にしか扱うことができない自慢の武器が弾かれ、目の前には傷一つ付いていない俺の姿があれば言葉を失うのは仕方がない。
腕に風をまとわせ斧へ拳をぶつけることではじいた。どんなに重かったとしても最大出力ならば巨躯を吹き飛ばせるほどの風をまとった拳で弾くことのできない武器はないだろう。
「お前の強さを自分だけのために使うなら傲慢だ。王の器ではない。迷宮に閉じ込められた記憶に押し潰されそうになっているだけの弱者だ」
「…………」
「理解を求めてはいない。お別れだ、同輩」
「……くくっ、がはは!」
最期を前にして気でも狂ったのか?
いちおう理由を聞いてからでなければ消化不良になりかねないので俺は一度かざしていた手を下ろした。
「いやぁ最高だよお前は! 普通は敵に説教なんかしないだろ!」
「俺はただ黙って殺すには理不尽に思えたから……」
「ほんともうお前に出会えたことが最高だよ。くっくっ……! なんだかんだ俺のことを同輩として認めてくれてるみてぇだしな!」
「やっぱり無しだ」
「いいじゃねえかよ友達になろうぜ? あんたとなら楽しく生きられそうだ!」
どういう風の吹き回しだ。
こんなことを言うのもおかしいかもしれないがノルの組織は世界を自分たちの遊戯の盤上としか思っていない連中の集まりで俺やハルという戦況を覆しかねないイレギュラーを消すのが目的のはずだろう。
なのに友達だと?
急に馴れ馴れしくされると困る。
「お前の組織は世界を壊しかねないことをしているだろ」
「あんな組織どうでもいいんだよ。俺は楽しけりゃいいの。明らかに勢力の大きい組織で悪役を担うなんてありきたり過ぎて退屈だろ? それなら一人くらい組織を裏切ってみた方が絶対に楽しいだろ!」
「ユキさん、組織のことは分かりませんが結束が瓦解するなら別にいいんじゃないですか?」
「…………」
そういう問題ではないような気がする。
でもアステリオスが組織を裏切ると言うなら利用できなくもないし少しは動きやすくなるかもしれない。
「というわけでそこのわんころ、やろうぜ」
「やだ」
「ちぇっ、ちょっとくらいいいじゃねえかよ。お前も気持ちよくなれると思うけどな」
「やだ!」
ハルは迫るアステリオスを全力で首を振ることによって拒絶する。
当たり前だが自分にいたずらするような悪い男についていきたいと思うような性格ではないだろう。
もしそうだとしても教育し直す。ハルはそういう子ではない。
「ふられちまったか〜」
「お前は身体が大きすぎる。ハルが自ら痛いと分かっていることを受け入れるはずがないだろう」
「そういうのがいいって雌もいるんだぞ?」
「ハルはちがう。そもそも魔族も魔物も雌は同族しか求めない。雄は快楽主義だったり雌を侍らせて力を示したりするためにどんな種族の雌であろうと自分の誇りを傷つけない程度には抱く場合もあるが」
「ご立派なことで」
立派かどうかは分からないが理解してくれたならば何よりだ。
さて、一段落ついたならば色々と疑問をぶつけてみるとしよう。
「組織は……何をするつもりだ」
「今のところは一貫性もねぇな。国を動かして戦争しろ〜、とか単騎で殺戮の限りを尽くせ〜とか。まあ、俺の場合はそこのわんころ逃してお前もろとも魔族を殺せと命令されたんだけどな」
「なぜ魔族は狙われている。お前らの行動を考えるならば邪魔さえしなければ殺されなければいけない理由もないだろう」
「邪魔になるんだろ」
俺がそこまで人間に肩入れすると?
あり得なくもない話だが国を滅ぼされようとジェラさえ奪わずにいてくれるならば俺は組織などどうでもいい。喧嘩を売ってくるから相手をしなければいけなくなっているだけで端から興味はない。
ただ、俺は安息が欲しいだけなのだから。
「アステリオスさん、もしも本当に組織を抜けて誰かのためにと思うならば城に住みませんか?」
「ジェラート!」
「ユキさん、彼もあなたと同じような境遇といえばそうなんです」
「へえ、人間のくせに肝が据わってるじゃねえか。どうだ、俺と少しだけ遊ばねえか?」
「私はユキさんのものなのでお断りします。あくまで居場所を提供してあげられるという話であって」
「…………分かってるさ。お前からはご同輩の匂いがぷんぷんしやがる。もう幾度となく身体を重ねてるんだろ?」
「え?」
「は?」
「…………」
この気まずい空気はなんだ。
俺が悪いのか?
「おいおい、澄まし顔で俺のです、って主張しておいて一回も手を出してないのかよ!」
「ユ、ユキさんは私のこと気遣ってくれてるんです!」
「気遣うぅ? お前がオーケーサイン出してるのに自信ねえからって引っ込んでる臆病者だろうが!」
ちがう、俺はしっかり主張して……主張して、どうしたのだろう。
俺はジェラが好きだ。嫌われると悲しくなるし側にいると尻尾を振ってしまうくらいには好きな方だと思う。
でも、主張はしているが次の段階を踏めていない。
いつもジェラに「俺は雄だ」と主張するだけで終わってジェラに何もしないまま時間が過ぎてしまう。
これは臆病なのか?
「おにい、聞かなくていい」
「そうだわんころに練習させてもらえよ。お前が少しでも強気でいけるように練習させてもらってついでに孕ませちまえよ」
「そんな勝手な」
「わんころは元よりそのつもりなんだろ? それにお前がつべこべ言って戸惑ってたら本当に絶滅するぞ?」
「…………!」
「まあ、言いたいことはこのくらいにしておくか。せっかく仲良くなれたのに喧嘩を売ってるわけじゃねえんだからさ」
その心配はない。
アステリオスの言っていることは間違っているようには思えないし一理あると言えばあるのだ。
俺がいつまでも変わらずにいたらジェラは老いていつの間にか俺を残して死んでしまうもの。ハルだって狙われたら今回のように誰かが守ってやらなければ簡単に死んでしまうのかもしれない。
減る前に増やさなければいけないという考えは、間違っていない。
ただ、言葉は正しいのかもしれないが……。
「じぃ…………」
「なんだよ、そんなに見つめたって俺は雄なんだからお前の子供は産めねえからな?」
「いや、お前の言葉は正しいが」
「正しいがなんだよ」
「お前から雌の匂いがしない」
「な、なななに言ってるんすかご同輩様よぉ〜! そんなわけねえし、交尾なんか日常茶飯事だし、一度に十人くらい相手にしたことあるし〜」
「すごいな」
「だ、だろ!?」
「雄を相手に十人も交尾したのか」
「はぁ!?」
それしかありえないだろう。
この雄牛からは本人の持つ猛々しい雄の匂いしか感じられないのだから交尾をしたことはあるのだとすればアステリオスよりも弱い雄しか考えられない。
「ふふっ、ユキさんはそうやってお友達を作るんですね」
「誰がこいつと友達になんて……」
「ちょっと来い!」
「お、おい!」
そんな風に俺を呼び出したら本当に友達だと思われるからやめろ!
ん?
別にアステリオスがジェラに害を及ぼさないと約束してくれてハルを諦めてくれるなら毛嫌いする必要はなかったのではないか?
まず俺には友達なんていたことが……。
「お前の雌、いいな」
「は?」
「奪わうとは言わねえ。それは雄の誇りに反する。ただ友達特権であれが雌の顔をしてるのを見たい!」
「は?(2回目)」
「あんな汚れをしらないような雌がケダモノに欲情されてどんな雌の顔をするのか見たいんだよ! 俺からは手を出さないと約束するから今から目の前であの雌と交尾して見せてくれよ!」
「…………」
この雄牛、殺すか。
「ひっ! ちょっ、無言で噛みつこうとするな!」
「…………」
「なんでそこまで怒るんだよ! 別に人間の雌なんかどうなろうと俺たちには関係ない話だろうが!」
「関係ない?」
ふざけるな、ジェラは特別だ。
何より人間がどうでもいいと言うなら俺は今でも森で一人の生活を楽しんでいたはずで、こうして誰かのためと考えて動きはしなかった。
今はどうでもいいなんて、言えない。
ジェラの全ては俺のものだ。
ジェラは俺にだけ全てを捧げる権利を持っている。他の者になど何一つ与えさせてはならない。
「まったくどうかしてるっての! お前は単なる魔族じゃないのによ!」
「何か知っているのか?」
「んあ? そりゃあ……っ!」
何やらアステリオスが驚いてすぐに奴は片耳に人差し指を押し当て始めた。その指からは魔力の匂いがする。
連絡用の魔法か?
「ちっ、見られてたわけじゃあねぇんだろうけどな」
「どうした、組織からか?」
「そうだよ。どうせわんころを捕まえるのは失敗したんだろうから戻ってこいとさ」
「…………お前を送り込んで迷宮を作らせたのにハルは見逃してもいいのか?」
「機密だ。それ以上は言えねえ」
組織を裏切る、とは言っていたが抜ける気はないということか?
たしかに団結力の高い内部工作に弱かったりするが「楽しければいい」と断言したものが危険を冒すだろうか。
「ご同輩、俺はあんたに同情するよ。だからお前の友達として最後まで見届けさせてくれよな」
「おい……!」
「安心しろ。この迷宮は夢みたいなものだ。目が覚めたらいつものお前らの世界に戻ってるだろうよ」
その言葉を最後にアステリオスは奥の扉から姿を消す。
残された俺達はどうなるのかと思ったが守護者を失った迷宮は床から崩れ落ち、落下に巻き込まれた俺達は静かに意識を失った。
何が同情する、だ。
俺のことを憐れむ権利など誰も持ってるはずが……。
――ジェラートの部屋。
「…………さま…………ートさま!」
「……ん」
ジェラートは聞き慣れた声で目を覚ます。
先程まで見ていたものが夢であったのか確かめるために自分の周囲を確認しようとするが何一つ証拠は見つからない。
そうか、あれは夢だったのかと思わざるを得ない。
「すみません、寝坊してしまいました」
「心配しました。お疲れであれば本日は特に公務もございませんし一日、ゆっくりお休みになってください」
それはだめだ、とジェラートは体を起こそうとする。
自分が休んでいても侍女達には休みがない。一人だけが休むなどという横暴が許されていいはずがない。
しかし、思うように持ち上がらない。
正確に言うと何かが体にまとわりついているような感じだ。
「ユキさん?」
毛布を捲くり確認するとユキがジェラートを抱き枕のようにして離さずにいることに気がつく。
「姫様、何があっても動かないでください。姫様の寝込みを襲うような危険生物は排除しなけれ――?」
「いいんです」
ジェラートは口元に指を押し当てて静かにするように伝える。
彼の眠りを妨げないように、と。
「彼は大人のようで子供なんです。幼くして色々と苦労を重ねてきて、私達からは大人びて見えていても心のどこかでは甘えたいと思っていて、でも自分は強くないといけないと思いこんで無理をしてたんです」
「…………」
「本当に、悪い子では無いんですから」
無意識に優しさを求めたのだろう。
そうでもなければ普段から強気なユキは夜這いと呼ばれる行為はもちろんしないだろうが未遂のまま襲うべき相手のベッドで寝るなんてことはしない。
ジェラートは彼がそういう雄であると理解している。
「まあ、たしかに大人しければ犬のようにしか見えないですが」
「幼い頃に読んでもらった物語の犬ですか?」
「あれは忠犬です。これは姫様を狙う不遜な輩です」
ジェラートはふと物語の内容を思い出す。
小さな女の子に拾われた犬は賢く、少しでも恩を返そうとして家にやってくる泥棒をやっつけたり女の子が迷子にならないように服を引っ張って街の中を誘導したりしていた。
しかし、そんな犬でも小さな女の子よりも弱くなる時がある。
自分には間違いなくいたはずの家族という存在を女の子に重ねてしまい寂しくなった犬は毎晩のように一人で泣いていた、という話である。
幼い頃、ジェラートは父親に何度となくこの物語を語らせては眠りについていたことを忘れてはいない。
「不遜だなんて……彼は立派ですよ」
「姫様に迫っても許されると思っているからそれは獣みたいな姿で寝所に忍び込んでいるのではありませんか?」
「彼は犬と同じ、ですよ」
ジェラートは戸惑いつつローゼの厳しい指摘を否定した。
彼が衣服を一切まとわずにベッドへ入り込んでいたのは驚いたが夢の中でも彼は服を身に着けていなかったし、元はと言えば人間のエゴで衣服を身に着けさせていたのだから嫌になって脱いでいても仕方がないと考えれば納得できる。
それにユキは利口だ。
「人間の男性が裸だったら止めるところですが彼をそこまで縛る権利を私も、ローゼも持っていないんですよ」
「失礼ながら申し上げます。私はそれが粗末なものを姫様に触れさせることが納得できかねているのですが」
「そそ、粗末ではないと思いますよ!?」
ジェラートは…意識しないようにしていた彼の下半身の話をされて少しだけ動揺してしまう。
子供だったり犬だったりと話してはいたが身体はどう考えても立派な成人男性なのだから裸でベッドに入られれば嫌でも気になるものはある。
「お母様譲りのこの身体、何の意味もないと思っていましたが彼が嫌なことを忘れて健やかに眠れるならいいと思います」
「いっそのこと窒息させてしまえばいいのに」
「そ、そんなことしたらユキさんが可哀想です!」
「いや、贅沢な死に方だと思いますが」
仮にも一国の王女が胸を枕にして眠ろうものなら死刑確定の重罪と捉えられてもおかしくはないがジェラートが許可を下した。
その上、埋もれて死ねるというなら光栄に思え、というのがローゼの意見だがジェラートには理解できない。
何故ならコンプレックスでしかないのだから。
「姫様、朝食は後ほどお持ちします。ただユキが姫様の純血を汚そうものならすぐにお呼びくださいね。処分します」
「ローゼは意地悪ですよ。ユキさんはそんな乱暴なことはしませんし、仮に彼がそういうことを考えてしまっても雄なんですからね? 仕方のないことなのに怒っていたらユキさんがストレスを抱えてしまいます。そういう部分も含めて彼を理解してあげないと……」
「姫様……?」
「あっ、変な意味じゃありませんよ!? ほ、ほら男性の方なら女性と一緒にいたいとか色々と考えることもあるじゃないですか!」
ローゼは自分の懸念が間違いではないと知る。
自分が仕えている人は、人間ではないものに既に心を奪われてしまっているのだ、と。
「私情で口を挟むことをお許しいただけますか?」
「今さら変に畏まらないでください」
「いいえ、私が今から口にすることは姫様をひどく傷つけます。どれだけ言葉に衣を着せようと姫様を確実に傷つけてしまう。だから許可を求めているのです」
普段のローゼらしからぬ返答にジェラートは戸惑う。
まさか侍女を辞めたいという話を振られるのではないか、とか。今までの我がままに対する精算をしなければいけないと説教を垂れるのか、とか。
不安は募りに募って考え無しでは頷けない。
しかし、今まで一度たりともそういう意味での遠慮はしてこなかったローゼがここまで畏まるだけの話があると言うならば王女として、逃げ続けるわけにも行かないのは事実だ。
ジェラートは静かに許可を下す。
「ユキを家族として……いや、今さら言葉を変える必要はありませんか。ユキを想い人と考えているならば覚悟をお持ちください」
「……!」
「私は姫様をまだ幼かった子供の頃と同じと考えていました」
ローゼは近くの椅子に腰を下ろすとジェラートと対等な視線で話をする。
侍女としてではなく、ジェラートが産まれてからずっと隣で成長を見守ってきた先代国王の代理の保護者として、考えを告げる。
ジェラートもそれを静かに聞く。
「しかし、国民を第一に思い行動する姿や我々のことを気にかけてくれていること、ユキという存在の影響もあるかもしれないけど自分より強い力を持つ者に反抗してみたり、大きな国と外交関係を結んだりと最近の姫様は今までにない行動を、いえ……王族としての成長が見受けられます」
「…………」
「故にユキを想う気持ちも遊びではないかと存じます」
ジェラートは顔を真っ赤にする。
考えを見透かされたような、自分では口にすることもできない考えを他者に知られてしまったような感覚。
たしかに彼を想う気持ちは遊びではない。
本来なら人間の男に向けなければいけないような感情を異種族の、それも野良犬のような地位も品位もない者に向けてしまっている。
「だからこそ覚悟をお持ちください。ユキを迎えるということは姫様と婚約を結び国としての繋がりを強くしようとしていた者たちを刺激することになりかねない上、ユキを巡った論争、争いに発展する可能性だってあります。それに、ユキも姫様に少なくとも好意を持って接している。いずれは彼の方から姫様に自分の子を身籠ってほしいとせま…………どうかしましたか?」
「い、いえなんでもありません!」
既に求められた、などとは言えない。
ジェラートはあの日ユキがしたことや発した言葉などを思い出し、ローゼが自分に何を言わんとしているのかを考えた。
「迷っても止まっても構いません。ただ、ご自分でお決めになったことから逃げることだけは絶対にしてはいけない。先代も新しく方針を立てて失敗しても逃げず自分のもたらした失敗を誇っていらっしゃいました」
「お父様が……」
「そうです。と、私が言いたいのはここまでです。あとは姫様が決めることなので口出しはしません」
ジェラートはすっかり油断している顔で眠るユキに視線を向ける。
あの時は彼の仲間である魔物が介入してきたからこそ途中で話が無くなったが彼はいつか、また同じことを求めてくるのだろうか。
その時、自分は受け入れられるのか。
どちらにしろ今までの行動を否定することになるのならば彼を捨てるという選択肢は存在してはならない。
連れてきたからこその責任を、取らなければならないのだ。
「まだ想像がつかないことの方が多いです。どれだけの人に否定されるのか、どんな国に狙われることになりかねないのか。それに、彼を想うことがどれほど辛いのか。でも、私は今が好きです」
「今?」
「ユキさんが来てくれてからローゼやエリス達は笑っていますし信頼できる国と隔絶すべき国が目に見えて分かるようになって、国民は魔物に怯えて暮らすことがなくなった。とても短い時間ですがユキさんが来てから色々なことが変わっているんです」
ジェラートは変化を踏まえた上で、と話を続ける。
「皆が笑ってくれる世界になってくれたならユキさんにも笑っていてほしいですし、きっと私も……大丈夫です。出会ってから間も無いのに、好きと感じてしまったんですから」
「そうですか。なら私達は今まで通りにいたします」
本人にその覚悟があるのならば止めはしない。
元より、この国はあまりにも弱く他国に吸収合併されるのも時間の問題とされていたくらいなのだ。
ジェラートの判断は正しい。
国を守るために強者を引き入れるという選択は、正しい。
いや、ジェラートは国のことをより真っ先に一人の生きている人を助けることを優先した結果、この選択をしたのかもしれない。




