第16話「自分中心に始まった物語」
――謎の草原。
「くぁっ……」
眠い。
俺はジェラとの別れた後に部屋に戻ってすぐ眠りについたはずだが記憶と現状に齟齬が生じているようだ。
俺は外で眠っていたのか?
いや、こんな見晴らしのいい草原を知らない。
そして俺は誰に喉元を撫でられているんだ?
「グルルルルルッ……」
「キミって魔物というより獣だよね」
「お前か」
「また会えたね」
また会えた、というよりお前が呼んだのでは?
色々と疑問はあったが何より喉を撫でられ続けていると俺の意思とは無関係に喉が鳴ってしまうので身体を起こして少しでもいいから雌から離れよう。
まだ、この雌の名前すら知らない。
いや思い出せないだけ。
この匂いを知っている。
いつか、どこかで……きっと、鮮烈な記憶として。
「さすがにあの子に独り占めされるのは、ね」
「ジェラのことか?」
「そう、数少ない私の友人の一人」
「お前のことをあいつの口から聞いたことがない。忘れてるわけではないなら嘘を吐いてるのか?」
「たぶん忘れているよ。あの子は、自分の父親を殺された日より前のことはほとんど、自分の大切な人に関係すること以外は忘れてしまっているからね」
そうか、それなら納得だ。
ジェラは先代国王である父親が死んだ時に関わっていた人間のことを忘れ、この雌も含まれていたのだろう。
父親が殺された現場にいて、それ以降は出会っていないならば忘れるのも無理はない。
「私なんかを見つめてどうしたの?」
「触ってもいいか」
「ストレートだね。他の女の子に言ったら嫌われるよ?」
「お前だから聞いてる」
「キミは私を女の子として見ていないと」
「膨らんでいる胸や下腹部に何も無いことを考えると雌ではあるだろうな」
「おばか!」
「っ!」
叩かれた。
別に痛くないが寝起きの俺としては心臓が跳ね上がるくらいには驚くことだ。
なぜ叩かれなければならない。
「き、キミはなんとも思わないかも知れないけど異性にそういうことを言うのはダメだよ!」
「何故だ。雌の胸が大きいのも雄の下腹部にあるものが付いていないのも生物的特徴だ」
「だからダメだって!」
再び、今度は拳で殴られた。
「お前は雄なのに胸が大きくて必要なものも付いていないから交尾もできないから怒っているのか?」
「キミは突然何を言い出すのかな!? わ、私は歴とした女の子だよ!」
「ならお前が雌だと知っていて聞いてる。触ってもいいか」
「勝手にしなよ変態さん!」
どうして怒っているのだろう。
パラミナスタのような人間の国を歩くようになって知ったことだが人間の雌は雄に身体を触られても笑っていた。
つまり触られることは別に問題ないという意味ではないのか?
まあ勝手にしろと言われたのだから勝手に触らせてもらう。
「何だろう、とても懐かしい」
「どうせお母さんのお乳もらってた時の記憶でしょ!」
「牙獣族の雌は子供を産むと胸は大きくなるが乳は出ないぞ。それにお前の身体を触るのが好きだったと言っていたのは誰だ」
「あ、あの時のキミは小さかったし」
「つまり俺とお前はこの意識世界ではなく現実で対話し触れていたとういことになるな。不思議なことにこの感触だけは俺も覚えているような気がする」
ジェラよりも発育がいいらしい。
この感触を知っていたら忘れるはずがない。忘れていたとしても俺は思い出している。
要するに疑問は何故この雌は現実ではなくこの世界でしか会えないのかということだろう。
「だってキミは産まれてすぐに私と出会って、しばらくは一緒にいたんだから当然だよ」
「そうなのか?」
「期間的には一年くらいだったかな。キミってば産まれたての赤ん坊のくせして私の胸とか足とかばかり触ってくるから中におじさんでも入ってるんじゃないかって疑ったくらいなんだからね」
「触り心地がいいから仕方ない」
「もしもーし、産まれてすぐのキミの話だよ? 今のキミはそりゃあ大人なんだから触り心地とか下心とかあるだろうけど」
幼ければそれはない、と?
愚問だ。獣たるもの産まれた瞬間からケモノである。
それに牙獣族は特に産まれた時から雌雄の差がしっかりしているし子供が作れないだけで雄は雌を求めるものだ。
人間が相手だろうと雌の匂いさえしていれば関係ない。
「知りたいの? キミが忘れた嫌な現実のことを」
「そのために呼んだんだろう。少なくとも俺に胸を触らせるために呼び出したわけがない」
「キミが勝手に触っただけだよ。まあ、そうだね。今日はキミに会いたいと思ったのは今のままじゃいけないからだったね」
人間の雌は俺から離れると語り始める。
俺が記憶から消してしまいたいと、本当に消してしまって思い出せずにいた過去を。
二人の出会いを。
──数年前、パラミナスタ近郊の森。
「キミは一人なの?」
一人の女は地面に座り込んで動かなかった獣に声をかけた。
身体は血まみれで、何かと殺しあったのかとも思ったが小さな身体で生き残れるわけがない。
つまり、この獣は産まれて間もないと女は判断した。
一方、女の方は生物としては大人と言える年齢だ。人間としてはもう少し子供として扱われるという、そんな年頃。
彼女は独りぼっちな獣を放っておけなかった。
「おまえ、だれ」
「私は独りぼっちの人間。キミと同じだよ」
「にんげん?」
「そう、人間。キミとは少し違う種族だよ」
獣は興味深そうに女へ鼻を近づけた。
嗅いだことのない匂い、自分とは異なる身体、そして初めて見る自分以外の生き物。
恐る恐る見知らぬ生命体に獣は触れてみた。
柔らかい感触を確かめるように慎重に触れて、知識としてではなく本能としてそれが雌であることを悟った。
同時に女の方もしまったと感じていた。
いくら産まれて間もないとはいっても獣は獣。子供が初めて見るものに興味を示すのとは違うことくらい理解していた。
「あ、えっと……そんなに焦らなくてもキミの側にいるから大丈夫だよ。私もキミがいなくなったら独りぼっちだし」
「ひとり、さみしい」
「ね? だから、気になるなら私の身体は触っていいけどあくまで触るまでに留めてくれないかな」
女は恐れていた。
自分はある役割を果たすために森に来た存在なのだから獣と仲良くなりすぎて、ましてや彼の意思のままに身体を自由にさせてしまったら後で怒られる。
それに、自分の役割に支障が出てしまう。
だから毎日のように獣がねだってくれば身体を触らせて興味を埋めてあげていたが獣がただのケモノになるような相手をするつもりはなかった。
それが二人の関係。
互いに独りぼっちにならないために存在し、女は獣に人間を教え獣は女に生命を維持するための食料を調達して生きていた。
それから約一年が過ぎると女はほとんど変化はなかったが獣は徐々に獣であるが故の風格を現していく。
早すぎる成長。
たったの一年という時間で獣は女よりも身体が大きくなり、考え方や言葉が変わっていた。
「さすがに恥ずかしいよ」
「人間は触られるのは恥ずかしいのか?」
「そういうものなんだよ?」
「…………」
言葉を理解しているはずだが獣はいつものように、調べるように女に触れていた。
そう、独りぼっちだったということは獣にとっての雌は一人の女。
短い時間とはいえ離れず共に生活した女のことをいつしか性の対象として見るようになり、それ故に女に何も変化はないのかを自分で確かめねば気が済まなかったのである。
しかし、その関係は数日で壊れる。
「攻撃だ! 伏せろ!」
「…………」
いつの間にか森へ複数の人間が入ってきていた。
獣はいつか自分の子孫を残す雌となってくれるだろう人間を守るべく覆い被さるようにして地面に伏せた。
その背中を何本か矢が刺さり、呻き声をあげながらも彼は女を抱えて走り始めた。
人間からならば逃げられる。
互独りぼっちにならないために逃げて、どちらも生き残らなければと必死だったのだ。
だが、残酷な現実は当の女から伝えられる。
「私は、キミを騙してたんだよ」
「俺を落ち着かせようと嘘を吐いているのか?」
「ちがうの、本当にキミを騙したんだよ」
獣は女の顔を見て嘘を吐いている顔ではないと知る。
では、何を騙していたのだろう。
獣は必死に逃げ回りながら、矢を受けて傷ついた身体から多量の血を流しながら話を聞いた。
「ある組織に頼まれてキミを殺すから気を引いて油断させてほしい、って。もし殺し損ねたら私自身がキミを殺さなければいけないんだ、って」
「…………」
「ねえ、私は悪い女なんだよ。だから私を捨ててキミは一人で逃げて」
「お前を捨てたら俺は独りぼっちだ!」
「っ!」
心からの叫びに女は戸惑う。
自分を捨てて一人で逃げれば木の上を飛び回ったり立体的な逃走ができるというのに、自分を抱えた腕を獣は離そうとしないのだ。
「私は悪い女なんだよ!? キミを誘惑して殺すための隙を作ろうとした最低な女なんだよ!?」
「お前は独りぼっちだと言ってた。だから二人とも独りにならないように側にいた。お前は誘惑してない。俺が勝手にお前の身体からしてる雌の匂いに反応して、惹かれてただけだ」
「……馬鹿なの、キミは」
女は自分を抱える腕から獣の肩付近に目を向けた。
この獣に流れる血の量が成人男性より少し多い程度で人間と大差ないとしたら獣はあと一時間も走らないうちに意識が途絶えて死んでしまう。
逃げるにしても荷物を運んでいるのだ。余計に負担は大きい。
せめて血液を接種して傷口を塞がせないと獣は死ぬ。
悪い女を助けようとして、無邪気な彼は……。
「分かったよ、ずっと一緒にいよう」
「お前、何を……」
「ッ!」
女は獣を殺す最終手段として持たされていたナイフを自らの胸に突き立てた。
獣は慌てて立ち止まると女を地面に下ろし傷口を圧迫する。
しかし心臓にナイフを突き立てて無事なわけがない。
出血は人間の致死量にあっという間に達してしまう。
「何がずっと一緒だ!」
「ほら、キミが言ったんだよ。お肉は時間が、経つに連れて味が落ちていく。早く、しないと……」
「まさか、お前を食えと?」
「このままじゃキミが死んじゃう。そうした、ら……私が独りになるんだから……」
女は弱々しく震える身体ではあったが最後の力を振り絞って泣いていた獣の口に自分の血で染められた指を捩じ込んだ。
その味に獣の本能が働かないわけがない。
獣は獣、仲が良かろうがなんであろうが血の匂いには抗えない。
「余さないで、食べて……よ…………」
「言われなくても骨すら残さないからな……!」
獣はそうして人間に追い付かれる前に女を平らげると追っ手を迎え討ち、後に森の王として魔物を率いた。
──意識世界の草原。
「……………………」
「やっぱり、まだ怒ってるよね」
いや、怒る権利などはない。
この雌の言葉を聞いた限りでは俺の生きた時間は十年にも満たず、ジェラ達よりも遥かに短い。
そんな俺が何を言える。自分よりも長い時間を生き多くのものを見てきた者が考えたことに、怒る権利などあるわけがない。
あるのは感謝。
ただ一年程度の付き合いである俺を助けるために献身した者への感謝だけである。
「お前は……約束を守っていた。ずっと一緒にいた。俺が勝手に存在を忘れ独りになったと勘違いしていただけだ」
「本当に、君はあの時から何一つ変わらないね」
変わらないのではない。
俺と、この人間の雌との間には遠慮も思慮も必要ないのだから考えることは一つだけ。
ただ「いつも通り」に振る舞えばいい。
「一つだけ断言しておくけど私はキミとの間に子供を作れないよ?」
「誰も何も言ってないぞ!」
「キミが急に黙って尻尾で主張し始めたら異性の身体を求めているという意思表示だよね?」
「ぐうの音も出ない」
その通りだとしか言えなかった。
無意識に求めてしまい、言葉で伝えてしまったら嫌われてしまうかもしれないという俺の臆病さが口を閉ざさせ、我慢しきれない思いが尻尾に出てしまうのだ。
この尻尾はとても感情が出やすい。
かなり遅く振っている時は退屈を表し大きく振っている時は嬉しい時。大きく振っている時でも立てている時と下げたまま振っているのでは意味合いが違ったりもする。
その差を見分けられるのは俺と一年の間、他の誰の介入も許さず二人きりで生きた故だろう。
「何故お前は子供を産めない」
「一つ、キミと付き合ってもいないから」
「過酷な環境で一年も同じ生活をしても、か?」
「二つ、キミには大切な人がいるから」
「…………たしかに、そうだが」
「三つ、私は既に死んでいるから。あくまでキミの血肉となり一部として意識世界に居座ることができるだけの存在だよ?」
それは残念だ。
やはり俺はこの雌を喰わずに最期まで、たとえ死ぬことになろうとも足掻くべきだったのだろうな。
ん、少し考えが間違っているかもしれない。
ここは意識世界なのだろう?
お前は俺の一部なのだから他人は存在を知らないのだろう?
この意識世界は俺とお前だけの誰も介入することのできない世界なのだろう?
「別に意識世界ならジェラは気にしなくていいはずだ」
「あっ……」
「お前と二人きりの世界だから誰もこの事を知らない。知る術だってあるわけがない。それに現実とこの世界での時間は流れ方がまったく別だったはずだ」
そう、俺が死にかけた時、けっして長くはなくとも一瞬よりは確実に長いと言える時間を話していたのだ。
つまりは意識世界にいると現実はほとんど進まないということ。
「お前と二人きりで、長い時間、ここに居ても誰も疑問を感じるはずもない状態。素晴らしいな」
「だ、だから私はもう死んでるんだよ!?」
「なら目の前にいるお前は屍か? こんな綺麗な屍は見たことがない」
「っ!」
「それにお前に子供ができないか試した奴はいない。まだお前は手付かずの綺麗な身体だから確証はないはずだ。俺はお前と交尾がしてみたい」
「おばか!」
また殴られた。
どうしてこう、正直に行動すると殴られるのだろう。
「私はキミの話し相手にしかなれないの!」
「ならお前は動かなくていい」
「そういう問題じゃないから! はぁ……昔は無邪気で可愛かったのに身体が大きくなったら獣は獣か~」
「何も変わってないぞ」
「分かった分かった! 私はキミにとって都合のいい雌になればいいんだね!」
都合のいい雌とはどういう意味だ?
俺は逆にこの雌にとって都合のいい存在が俺だと思っていたが?
理由など俺が言わなくても本人が理解していればいい。
好意を持っているのに都合がいいだけで納得できるのか、と。
「あ、でも一線を越えたことはダメだからね!」
「一線とは何のことだ。どんなものであるにしろ越えたいと思っているのはお前の方だ」
「そ、そんなわけないよ!」
「ある。そういう匂いがする」
「もう……! 匂いで心を読むとか反則だよ」
そう言われても分かってしまうのだから仕方がない。
この嗅覚において嘘や冗談を見抜けないことはないのだから。
俺に言い当てられたことで隠し続けても無意味だと理解したのか雌は先程までの抵抗はどこへやらという感じで近くへ座ると肩を寄せてきた。
「キミはもう少し乙女心を学ぶべきだよ。あと私はノルだから名前で呼んでほしいよ」
「裏切ることを念頭に近づいた雌の台詞じゃないし名前を呼んでほしいなんて図々しい」
「わ、分かってるよ私がへんなことくらい! でも、仕方ないんだよ。近くでキミを見ていたら何も知らない子をこの手で殺すのはあまりにも罪が大きいと思ったし、今だってキミのことは好きなんだから」
「罪悪感はあるのか」
「あんまり意地悪なこと、言わないでよね」
そう言って俯く。
俺には分かる。
この雌には一切の悪意がなかった。正しいことをしていると思っていたから罪悪感を感じていなかった。
それが変わったのはあの日。
俺が狙われた時、自分はこんな未来のために行動していたのかと疑ってしまった。
「俺はお前の言っていた組織を潰す。それから、ジェラを紛れもない俺の雌にして物語は終わりだ」
「できるの? 組織は世界スケールで動いているんだよ?」
「俺が決めたことは絶対だ。イレギュラー……あいつらの台本にはない存在なら番狂わせは必要だろ?」
そうでなければ退屈だ。
俺が必要のない存在?
この世界は誰かの作った物語?
くだらない、くだらなすぎて欠伸が出る。
「勝手にすればいい。俺には関係ない」
「不謹慎じゃない? もしかしたらあの子が狙われるかもしれないのに楽しむつもり?」
「言っただろ? 俺が決めたことは絶対だ。ジェラは必ず俺の雌にする。奴等の駒じゃない」
その未来を現在にするため本能のままに動く。
まだ物語は始まったばかり。
俺が過去を知って初めて動き出したのだ。




