9.料理と洗濯
大橋はいささか緊張した面持ちで、鈍く光る包丁の刃を見つめた。
ごくりと唾を飲み込むと、パックから取りだした豆腐の側面に、恐る恐るその刃を入れていく。
さいの目に切る時は、豆腐の高さを半分にしなければちょうどいい大きさにはならない。辛うじてそれは知っていたものの、実際にそれをやってみるのは初めてだった。
否、豆腐を切ることだけではない。ワカメを水に戻すことも、それを切ることも、ダシを取ることも、ミソを溶くことも初めてなのだ。
「まだか? オオハシ」
ちゃぶ台の前にちょこんと座り、ウキウキした様子でサラが大橋に声をかける。
「まだまだです。……っていうか、ご飯もまだ炊けてないですから」
言いながらサラにちらっと目をやった瞬間、上下を半分に切り分けていた包丁が、思い切り斜めに滑った。しまった。これでは、半分が以前と変わらぬ高さのままだ。
仕方なくもう一度、今度は逆側から包丁を入れる。それが終わると今度は上から下に包丁を入れる。大小さまざまな大きさだが何とか豆腐が切り分けられると、今度は袋に書かれていたとおり水に戻したワカメをぎゅっと絞って豆腐の脇の狭いスペースに載せる。ワカメを先に切っておけば良かったと思いつつ、大橋は恐る恐る包丁を入れる。どのくらいの大きさに切ったらいいか分からないので、適当に三つくらいに切って片手鍋にぶち込んだ。
そこに水を適当に注ぎ込むと、パック詰めされたダシを取り出す。注意書きを斜め読みし、鍋にそれも放り込むと、火をつけ、強火で煮立て始める。
大橋は一息つくと、今度は冷蔵庫を開けて卵を二つ取りだし、茶碗とどんぶりに入れてサラの座っているちゃぶ台まで運んだ。
サラは大橋が運んできた茶碗の中で揺れる卵を、興味深そうにしげしげと眺めた。
「これ、もう食べられるのか?」
「まだです。だから、ご飯が炊けるまで待っててくださいって」
言いながら大橋は、ちらっと時計に目を向ける。
時計の針は、五時三十分を指している。
――全く、なんでこんなに早起きなんだか。
大橋はため息をついたが、小鍋が沸騰しているのに気づくと慌てて駆け戻り火を弱めた。
「えっと、豆腐っていつ入れるんだったっけ……」
考えているのも面倒なので、大橋はえいとばかりに豆腐をぐつぐついっている小鍋に放り込んだ。
「それで五分煮ればいいんだな」
つぶやきつつ、昨日買ってきたみそを取りだす。ダシも、みそも、ワカメも、みんな新品。昨日、夕食の弁当を買うついでに買い込んできた。
大橋は今、サラのためにみそ汁を作っているのだ。
昨日、スーパーで買い物中、大橋はふと卵かけご飯を食べたいと言ったサラの言葉を思い出した。卵かけご飯だけではあまりにも適当だし、港での埋め合わせをしたい気持ちもあった。だからせめてみそ汁くらい作ってやろうと思い立ったのだ。料理なんて母親が死んでからもほとんどやったことがなかったが、みそ汁なんてお湯にみそを溶かせばできるだろうくらいにその時は軽く考えていた。
五分たった。大橋は菜箸でみそを適当に取ると、かたまりのまま小鍋にぶち込んだ。そのまま、グルグルと勢いよくかき回したが、なかなかミソが溶けない。そのうちに豆腐は崩れ、粉々になっていった。
何とかみそが溶けた時には、茶色いお湯の中に、やけに巨大なワカメと白い粉のようなものが浮かぶ、豆腐のみそ汁とはひと味違う怪しげな汁が出来上がっていた。
大橋は不満そうに眉をひそめたが、仕方なく火を止めてお椀にみそ汁をよそう。
見ると、炊飯器の表示も「保温」になっている。大橋はみそ汁をサラの前に置くと、卵を脇に置いて茶碗にご飯をよそった。
ご飯は蒸らしが足りなかったのか、少々水っぽい感じだ。大橋は今ひとつ納得がいかない表情で、その茶碗をサラの目の前に置いた。
「卵、入れますか?」
サラがにっこり笑ってうなずいたので、卵をじかに茶碗に割り入れ、しょうゆを数滴たらすと、箸でかき混ぜた。こうすると、洗い物が少なくてすむのだ。
サラは大橋から茶碗を両手で受け取ると、まじまじとそれを見つめた。
「どうぞ。食べてみてください」
サラは大橋を見てうなずくと、大橋のまねをして箸をにぎってから、口に運ぶ。大橋は彼女の反応が何となく気になって、自分の飯を混ぜながらちらちらとその表情をうかがい見る。サラは口に入れたご飯をゆっくり咀嚼すると、大橋に目を向けてにっこりと笑った。
「うまいぞ、オオハシ」
「そうですか」
大橋はほっとしたように笑うと、ようやく自分も食べ始めた。
「でも、問題はこのみそ汁なんすよね……何がいけなかったんだろう」
横目でみそ汁に目をやり不満そうにつぶやくと、サラもみそ汁に目を移し、首をかしげた。
「何か変なのか? いい匂いがするが」
大橋はお椀を手に取ると、みそ汁をひと口すすった。
「味は大丈夫なんですけど、豆腐がこんな粉々じゃないんですよ、普通。……みそを溶いたあとに入れれば良かったのかな。ワカメも大きすぎるし」
サラはみそ汁の匂いを嗅ぐと、大橋にならってお椀を持ち上げた。そっと椀の縁に柔らかそうな唇を寄せ、ひと口飲む。
その途端。
「……うわっ、あっつ!」
想像以上の熱さに、サラは驚いたように唇を椀から離した。その勢いで大きく揺れた椀から、熱いみそ汁が大量にこぼれ、サラの手や胸、膝にもろにかかる。
大橋は息をのんで立ち上がった。
「早く立って! 水で冷やさないと!」
ぼうぜんとしているサラの手から椀をもぎ取ると、大橋は手首をつかんで立ち上がらせ、引きずるようにして風呂場に連れて行った。
戸惑っているサラを強引に洗い場に立たせると、シャワーから水を出し、すぐさま大量にかかった膝上に当てる。
「あとは? 他にかかったのはどこですか?」
「え、あとは手と、胸に……」
「じゃあ前に手を出して」
今度は胸元を冷やしながら、同時に手を冷やす。やけどはスピードが命だ。すぐさま冷やせば、大事に至らないことが多い。そのことは大橋も、先日学校で痛い目にあっていただけによく分かっていた。
「どうです? ヒリヒリする感じ、まだあります?」
「そうだな、足の方がまだ少し……」
大橋はすぐに膝上にシャワーを向け、冷やし始める。その表情は真剣そのものだ。サラはそんな大橋の横顔をじっと見つめていた。
三分ほど冷やし続けただろうか。ようやく大橋は蛇口をひねると水を止めた
「これだけ冷やせば大丈夫だと思いますけど……」
シャワーを片付け、額の汗を拭う。
「どうです? まだヒリヒリしますか?」
「……いや、大丈夫だ」
サラが小さな声で答える。大橋はホッと息をつくと、顔を上げて何気なくサラの方に目を向け……凍り付いた。
サラが身に付けていたのは、絹のような薄い生地のふんわりした着物だけだ。その着物がすっかり水浸しになり、サラの体にぴったりと張り付いている。水にぬれた薄い生地の下にある体の線がくっきりと浮かび上がり、特に水を大量にかけた胸元は、その豊かなふくらみの先端にある小さな突起の存在まで確認できるほどだった。辛うじて腰のあたりはそれほどぬれていなかったが、太ももから下は細い足に布がぴったりとくっついていて、さながら人魚姫のようだ。サラはまとい付いた布を体から離そうとしているのか、その細い指で胸元の布をつまみ上げてうつむいている。そのしぐさがまた何ともエロティックだ。
朝っぱらから大橋の血圧は、軽く三〇〇を超えたかと思われた。
「もうヒリヒリする感じはない。ありがとう、オオハシ」
サラはそんな大橋の内心など知る由もなく、そう言ってにっこり笑う。だが、それどころではない大橋は無言で脱衣室を飛び出すと、バスタオルを引っつかんで戻ってきて、サラから顔を背けたまま、問答無用でそれを体にかけた。
「そ、それで体を拭いてください! 今、何か着替えられるものを取ってきますんで!」
早口でそう言い捨てて再び脱衣室を飛び出した大橋を、サラは小首をかしげて見ていた。
☆☆☆
「オオハシ、これでいいのか?」
気を落ち着けるために洗い物をしていた大橋は、その声に振り返った。
台所の入り口に、大橋のTシャツを着てジーパンを履いたサラが、居心地の悪そうな表情で立っていた。大橋が指示したとおりジーパンのウエストをベルトで締め、裾を折り上げている。ダボッとした雰囲気がそれでも何だかかわいらしく見えるのは、サラ自身のレベルが高いことに由来するのだろう。ただ、下着も着けていない上にTシャツ一枚なので、体のラインが何となく分かる。再び赤くなった大橋は慌てて手元に目線を移した。
「そ、それでいいです。続き食べてください。……ぬれた服、洗濯機に入れてくれました?」
サラがうなずいたので、大橋は水道を止めると脱衣所に向かった。
洗濯機をのぞくと、サラの服の他に、洗濯せずにたまっていた自分の服がぎっしり詰まっている。大橋はちらっと時計に視線を走らせた。時刻は六時十二分。七時二十四分の電車に乗れば仕事には間に合うので、十分時間はある。というより、サラの服を洗わないことには彼女の服が何もないのだ。
「……やるか」
大橋は洗濯機のスイッチを入れると、洗剤を入れようとしたが、サラの服の透けるようにふんわりした柔らかな生地に、一瞬不安が過ぎった。
――ま、何とかなるだろ。
あまり深く考えていると、時間が足りなくなってしまう。大橋はえいとばかりに洗剤を投入してフタを閉め、スタートボタンを押した。
――そんなことより、今日これからあいつをどうするか、だよな。
大橋は、今日から仕事だ。仕事場にサラを連れて行く訳にはもちろんいかない。だが、この家に一人で残していけるほど彼女のことを信用している訳でもない。その間に、家にある金目のものをごっそり持って行かれる可能性がゼロとは言い切れないからだ。つまり、今日一日、彼女が安全に退屈せず時間をつぶせる場所を、大橋はあと一時間半ほどの間に考え出さなければならないのだ。
すぐにはいい案が浮かぶはずもなく、大橋は難しい表情を浮かべながら居間に戻った。
と、ちゃぶ台の前に座っていたサラが、笑顔で振り返った。
「おいしかったぞ、オオハシ」
見ると、卵かけご飯もみそ汁も、米粒ひとつ残さずきれいになくなっている。大橋は思わず笑顔になった。
「おそまつさまでした」
例によって片付けるという思考はないらしく、サラはただ座ってにこにこしながら大橋を見上げている。大橋は苦笑すると彼女の食器を流しにさげ、ちゃぶ台を拭いた。なぜだか、腹はたたなかった。
茶碗を洗って時計を見ると、まだ六時三十分。やけに余裕綽々だ。大橋はちゃぶ台に座ると、カバンから本を数冊取り出す。
と、サラが大橋の手元を興味深げにのぞき込んできた。
「それはなんだ?」
「国語の教科書と指導書です」
大橋は答えながら手早くページを繰る。いろいろあったせいで、大橋はこの週末も全く教材研究をしていない。何の準備もなく授業が組み立てられるほどの経験は、大橋にはない。教材研究や下調べをしておかないと、必ずと言っていいほど授業が訳の分からない方向に流れ、教室は蜂の巣をつついたような騒ぎになってしまうのだ。わずかな時間だが、やらないよりはまだマシだ。大橋は今日から新しく入る単元に目を通し始めた。
すると、大橋の耳元でふうふうと軽い呼吸の音がし、さわやかな、それでいて甘い香りがふわっと鼻をかすめた。
違和感を覚えてその気配の方に顔を向けた途端、眼前三十センチメートルにまで接近したサラの顔が視界いっぱいに広がり、大橋は息をのむと、思わず一メートルほど飛び退ってしまった。
「な、……なに接近してんですか、サラさん!」
ドキドキしながら大橋が言うと、サラは不思議そうに首をかしげた。
「おまえが何を読んでいるのかと思ったんだ」
「何って……教科書です、教科書!」
「教科書?」
大橋はうなずくと、気を取り直したように教科書を広げる。サラはその横合いから、首を伸ばして教科書をのぞき込んだ。
「それを読むのがおまえの仕事か?」
「違いますよ。教師です」
「キョウシ?」
「先生です。セ、ン、セ、イ」
首をかしげているサラの様子に大橋は苦笑すると、教科書を指さした。
「ここに書かれている内容を、子どもたちに分かりやすく伝える仕事です」
「……へえ、師範のようなものか」
「そんな感じです」
大橋はうなずくと、再び教科書に目線を落とした。今度はサラも黙って、大橋の後ろからじっと教科書を見つめている。
大橋は指導書の概略をメモし始めた。
――まずは新出漢字を学習して、そのあと通して音読したあと、初発でこの質問をするだろ。そうしたら場面ごとに内容をかみくだいて……。
「おもしろいな」
ふいにサラが口を開いた。
大橋が目を向けると、彼女はじっと教科書の文章を読み込んでいた。
「次も読んでいいか?」
「あ、どうぞ」
大橋はサラに教科書を渡すと、再び指導書の内容をメモし始める。すると、あっという間に全文を読み終えたサラが、にこにこしながら教科書を返してきた。
「いい話だな」
「そうですね」
「この二人は、本当に友達なんだな」
大橋は二匹のかえるが玄関の前に並んで座っている挿絵に目を落とす。サラもその挿絵を見ながら、ぽつりとつぶやいた。
「もっと、この二人のことが知りたいな」
大橋が、横向きの顔に際立つサラの長いまつ毛を見つめた時、洗濯の終了を告げる音が脱衣所から響いてきた。
「……洗濯、干しましょう」
大橋は立ち上がると、脱衣所へ向かった。