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七福人生  作者: 代田さん
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8.捨てる神と拾う神

 結局、妙案は何も思い浮かばなかった。

 こうなったら、最初の計画の通りにいくしかない。大橋は腹を決めると、展望室のベンチで飽くことなく海を眺めるサラの方に向き直り、ごくりと唾を飲み込んだ。


「……あ、あの、サラさん」


 おずおずと声をかけると、振り返ったサラは大橋の顔を見てにっこり笑う。


「何だ?」


 悪意のかけらもないその笑顔に、思わず言いかけた言葉を飲み込んでしまう。


――何やってんだ? 今言わないでどうすんだよ!


 大橋は情けない自分を鞭打つと、大きく息を吸い込んだ。


「あ、あの、俺、これから、ちょっと、行きたいところが、あるんですけど、いいですか?」


「行く?」


 サラは不思議そうな顔で繰り返すと、首をかしげた。


「どこへ行くんだ?」


「え、えっと、ちょっと、この辺の、電車を、撮影しに……サラさんが、海を見ている間に、ちょこっとだけ、行ってこようかと、思って。……いいですか?」


 目線を落ち着けどころなくさまよわせながら継がれた、いかにも怪しげな言いわけにもかかわらず、サラは目を丸くして息をのんだ。


「そうだ、今日は海を見に来たんじゃなかったんだよな。確か……」


「いいんです、いいんです!」


 立ち上がりかけたサラに大橋は慌てて両手をぶんぶん振ってみせると、引きつった笑みを浮かべた。


「俺の趣味で行くんだし、サラさんは海が見たいんだから……大丈夫、すぐ戻ってきます。ちょっと駅に行って、何枚か写真を撮ってくるだけなんで」


「……そうか?」


 中途半端な姿勢のまま、サラは申し訳なさそうに大橋を見つめた。


「本当にいいのか? まだ、海を見ていても」


「もちろんです。好きなだけ見ていてください」


 大橋は顔中に吹き出した汗を拭いながら、やりすぎなくらい何度もうなずいて見せる。サラはようやくベンチに腰を落ち着けると、そんな大橋に深々と頭を下げた。


「悪いな、オオハシ。機関車とやらは、またの機会にぜひ見せてくれ」


「え、ええ、もちろんです」


 大橋は、サラから目線をそらしながらうなずいた。


「じゃあ、ちょっと行ってきますね」


「分かった」


 案外すんなりと話がまとまって、大橋はほっとしていた。それでもサラの表情が何となく気になって、大橋はちらりとベンチに腰掛けている彼女に目を向ける。

 その途端。サラの目線と大橋の目線がしっかりと合ってしまった。

 思わず息をのんで動きを止めた大橋に、サラは疑いのかけらもない明るい笑顔でにっこり笑いかける。


「ここで待ってるから」


 大橋をまっすぐに見つめる澄み切ったサラの瞳。大橋はあわてて目線をそらすと、あいまいに笑ってうなずいた。


 

☆☆☆



 大橋が駅に着くやいなや、上りの形葉線がホームに滑り込んできた。

 大急ぎで階段を駆け上がり、何とかその車両に滑り込むと、大橋は戸口にもたれて息をついた。


――何とかうまくいったな。


 もう少し手間取るかもしれないと思っていただけに、大橋はかえって拍子抜けしたような気分だった。

 息を整えながら窓の外に目をやると、海はもうはるか遠くに小さく見えるだけだった。海面に照り返す日の光が、辛うじてキラキラとその輝きを大橋の目に届けている。


『故郷の大河を思い出すな。こんなにたくさんの水の集まりを見たのは、本当に二百年ぶりだ』


 ふと、先ほどのサラの言葉が大橋の頭を過ぎった。同時に、そう言って嬉しそうに笑ったサラの顔が、やけに鮮明によみがってくる。


――何思い出してんだ!


 大橋は雑念を振り払うかのように、ぶんぶんと激しく頭を振った。


「……とにかく、これで俺の平和な日常が帰ってくる。よかった。ほっとした」


 大橋は座席に腰を下ろすと、灰色の床を見つめながら、自分に言い聞かせるように口の中でつぶやいた。



☆☆☆



 軽快なリズムを刻みながら、電車はまっすぐに進んでいく。

 昼間の形葉線は、利用客もまばらで静かだ。大橋の車両も、他に二,三人の乗客がいるだけだった。

 見るともなく空いた車内に目を向けていた大橋は、ふと、電車の揺れに合わせて一斉に揺れるつり革に目を留めた。

 その途端、大橋の脳裏に、揺れるつり革を物珍しそうに見つめていたサラの横顔が過ぎる。

 嬉しそうにきょろきょろしながら、窓の外や連結部分を興味津々な様子で見ていたサラ。長いまつ毛に彩られた大きな瞳がキラキラと輝いて、まるで小さな子どものように無邪気だった。

 大橋は、胸が締め付けられるような感覚に息苦しくなった。同時に、心臓がドキドキと激しくその存在を主張し始める。

 

――何だ? これ……。


 居ても立っても居られないような焦燥感と、そこはかとない不安感。大橋は右手で自分の胸を強く押さえるながら、突然のその感覚に戸惑っていた。



☆☆☆



 下南沢駅に着いた時には、時計の針は十二時半を指していた。

 大橋は小さく息をつくと、改札に向かって階段を降り始めた。改札口が近くなってくるにつれて、改札を抜けた先の通路も徐々に見えるようになってくる。

 大橋ははっとして思わず足を止めた。

 改札を出てすぐの所に、サラが立っているのだ。

 体の前で組んだ両手を握りしめて、不安そうな表情でじっと大橋を見上げている。


――どうしてこんなところに?


 混乱しながらも、彼女に声をかけようと大橋が口を開きかけた、その時だった。


「あ、来た来た! こっちこっち!」


 大橋は言葉を飲み込んだ。

 改札口にたたずんでいたその女性は、大橋の後ろから階段を駆け下りてきた男を見るや嬉しそうに手を振ると、満面の笑顔を見せた。そうして改札を抜けたその男と腕を組み、楽しそうに何か話しながら大橋が利用する出口とは反対側の階段を上がっていった。その顔も髪形も、サラとは似てもにつかぬ別人だったことに、この時ようやく大橋は気がついた。


――何やってんだ? 俺……。


 ぼうぜんとその場に立ち尽くしていた大橋は、彼女の姿が視界から消えるや、髪をグシャグシャと掻きむしった。それから乱暴にカードをかざして改札を抜け、早足で階段を上がっていった。



☆☆☆



 南向きの大橋の自宅には、暖かい五月の日差しがさんさんと降りそそいでいた。

 こんな昼日中に自宅に戻るのは久しぶりだ。大橋は薄暗い玄関に靴を脱ぐと、部屋の中に足を踏み入れた。

 同時に、空のペットボトルとおにぎりのパッケージが散乱している出しっぱなしのちゃぶ台が目に飛び込んでくる。


「……ったく、自分でゴミくらい片付けろよな」


 つぶやきつつ、大橋は乱暴にそれらをつかんでゴミ箱に放り込もうとした。

 その途端、大橋の脳裏に、ちゃぶ台の前でおいしそうにおにぎりにかぶりつくサラの笑顔が浮かぶ。

 大橋は動きを止めると、じっとささくれだった畳の表面を見つめた。


――よく食べる女だったな。あり得ないくらい食ってた。


 おにぎり十一個をぺろりと平らげ、涼しい顔をしていた彼女。

 大橋はちらりと時計を見上げた。時刻は今、十二時四十五分。今朝は五時半ごろに朝飯を食べたので、大橋の腹はさっきからうるさいくらい空腹を主張している。


『……実体化しているわけだから、エネルギーを使うんだ。今日一日、飲まず食わずでおまえを待っていたら、どうにも腹が減ってしまって』


 昨日のサラのセリフがよみがえってくると同時に、タワーのベンチに腰掛け、空腹に耐えているであろうサラの姿が浮かんでくる。

 

――何考えてんだ? 適当にどうにかしてるに決まってるじゃないか。 


 大橋は慌ててその妄想を振るい落とすと、動揺を打ち消すべく大きく息を吸って吐く。


「とにかく、これで俺は自由だ。よかったよかった」


 まるで台本をなぞるように抑揚なくつぶやき、カメラバッグをちゃぶ台に置いた。食べ物を捜そうとでも思ったのか、台所へ向かい冷蔵庫を開ける。

 その途端大橋の目に、一個のおにぎりが飛び込んできた。

 はっとして動きを止め、冷蔵庫の扉を開け放したまま、そのおにぎりを瞬ぎもせず見つめる。


――あの女、三個しか食わなかったのか?


 大橋はおにぎりを手に取ると、冷蔵庫から取りだした。じっとそれを見つめながら、ゆっくりとちゃぶ台に腰掛ける。

 大橋の脳裏に、形葉線で彼女が見せたあの何とも言えない表情が浮かんだ。


『海が見たい』


 サラはあの時、心なしか震える声でそう言った。 

 そんな彼女に大橋が見せたのは、決してキレイとは言えない茅葉の海。それでも、その海を見ながらぽろぽろと涙をこぼしていた、サラ。


『ありがとう、オオハシ』


 大橋はじっと手にしているおにぎりを見つめた。

 別れ際にサラが見せた、あの春の日差しのような柔らかなほほ笑みが、おにぎりに二重写しになって浮かぶ。

 大橋はおにぎりを持っていない方の手を固く握りしめた。

 サラは大橋のことを何ひとつ疑っていなかった。大橋が再び戻ってきて、また自分と一緒に帰ってくれると信じていた。だからこそ彼女は別れ際に、笑顔で大橋にこう言ったのだ。


『ここで待ってるから』


 大橋は、弾かれたように立ち上がった。

 カメラバッグに入っていた財布と定期を上着のポケットにねじ込み、左手におにぎりをつかんだまま、靴のかかとを踏んで表に飛び出し鍵を閉めると、駅に向かってものすごい勢いで走り出した。



☆☆☆



 大橋が茅葉みなとの駅に着いたのは、二時半をまわった頃だった。

 改札を通り抜け駅の階段を駆け下りると、タワーに向かって全速力で走り出す。

 

――あれから、四時間以上か。


 走りながらも、大橋はもうサラはいないだろうと思っていた。

 昼食を挟んで四時間以上。その間、来るか来ないかわからない人間のことを待ち続けられる人間は多くない。彼女が大橋を騙していたのならなおのことだ。だが、大橋はそれも含めて確かめたかった。というより、そうであれば逆に救われる気がした。とにかく、このどうしようもない焦燥感と不安感と罪悪感を、早く何とかしなければおかしくなってしまいそうだった。下南沢からとんぼ返りしてこんな所に来ていること自体、おかしくなっている証拠だ。大橋は苦笑を浮かべつつ、それでも全速力で走り続けた。

 タワーの前まできたところで、大橋はようやく足を止めた。

 体全体で呼吸しながら、再び入場券を購入してエレベーターに乗る。扉が閉まり、階数表示が展望室を目指して点滅する。五,六,七……数字が上がって行くのをジリジリするような気持ちで見上げるうちに、不安と焦燥で苦しくなってきた。乗り合わせた他の客に気づかれないように、深呼吸して息を整える。

 到着を知らせるベルの音とともに、エレベーターの扉が開いた。

 エレベーターを降りると、他の客は速足で展望室の方へ流れていったが、大橋は逆にペースを落とし、一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと展望室へ向かった。

 先ほどサラと別れたのは、このエレベーターホールを出て左だった。だが、大橋は展望室に出ても、すぐには左方向に目を向けられなかった。深く息を吸い、それをゆっくり吐き出してから、覚悟を決めたかのように思い切って左に顔を向ける。

 目の前で高校生らしき女の子が二,三人、望遠鏡を順番にのぞきながら楽しそうに笑い合っている姿が目に入る。その向こう側に、見え隠れするあのベンチ。女子高生が行ったり来たりして見えにくいので、大橋は首を伸ばしてその向こう側をのぞき見る。

 ベンチには、誰もいなかった。

 大橋は体中の力が抜けるような気がした。

 ゆっくりとベンチに歩み寄ると、じっと空っぽの座席を見つめる。

 大橋ににっこりほほ笑みかけるサラの姿が頭をよぎり、慌てて幻影を追い払うと、空っぽのベンチにのろのろと腰を下ろす。ガラスの向こうに、五月の日差しを浴びてキラキラ輝く大海原が広がっていた。


――これでよかったんだ。


 きっと彼女は、今頃は自宅に戻っているか、はたまた、新しいカモでもさがしているか……とにかく、大橋のことなど全く関係なく、彼女の日常を続けているに相違ない。

 だが大橋は、なぜだか安堵感よりも、寂寥感に近いものが自分の心を満たしている気がして戸惑っていた。


――何なんだ? これ……。


 大橋は腹の底にたまっていた空気を吐き出すと、膝の上に両肘をついてうつむいた。

 その時だった。


「オオハシ?」


 聞き覚えのあるその声に、大橋ははっと目線を上げた。視界に、藤色の袴の裾と、鮮やかな刺繍が施された異国風の履き物が映り込む。 


――え?


 大橋はゆるゆると顔を上げた。

 浅黄色の帯と藤色のゆったりした袖、その先にあるほっそりした指と、桜貝のような爪。きゃしゃな肩にはらりとかかる、亜麻色の髪……。


「お帰り、オオハシ」


 そう言って春の日差しのようなほほ笑みを浮かべているのは、紛れもなく、サラその人だった。

 幻覚でも見ているような気がして目を擦ったが、かえって視界がぼやけてしまい、あわてて瞬きを繰り返している大橋に、サラはにっこりと笑いかけた。


「ずいぶん遅かったな。サツエイとやらはできたのか?」


 無邪気な問いかけに返す言葉もなく押し黙る大橋を、サラは不思議そうに首をかしげて見つめた。


「どうした?」


「あ、いえ……」


 大橋は目線をそらしたまま、手にしていたおにぎりを意味もなくもてあそぶ。サラはそれに目を留めて、得心がいったようにうなずいた。


「そうか。取りに行ってくれたのか」


「え?」


「それを取りに行ってくれたんだろう?」


 大橋はサラが何を言っているのか分からなかったが、それが自分の手にしているおにぎりのことだとわかると、目を丸くして首を振った。


「いえ、これは……」


「ありがとう、オオハシ」


 屈託のない笑顔に、言おうとした言葉が引っ込んでしまう。

 サラはそんな大橋の眼前に、ニコニコしながら両手を差し出す。大橋は目の前に差し出された手をじっと見つめていたが、やがてその上に、ゆがんで温かくなったおにぎりをそっと載せた。

 サラは満面の笑顔でそれを受け取ると、大橋の隣にちょこんと腰掛け、さっそく包装を開け始める。


「助かった。すごく腹が減っていたから」


 パッケージから取り出すのももどかしく、おにぎりの頂上にかぶりつきながらそう言って笑う。米粒がひとつ、バラ色の頬にちょこんとくっついている。

 大橋はそれを見て、困ったように笑った。


「サラさん、顔に……」


「ん?」


 よほどおなかが減っていたのだろう。サラは話を聞いていなかった。口いっぱいにほお張ったおにぎりを飲み下すのに一生懸命だ。

 大橋はそんなサラを何とも言えない表情で見つめていたが、やがておずおずと手を伸ばすと、そっとその米粒を取り去ってやった。

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