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七福人生  作者: 代田さん
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7.可視と不可視

 茶碗についた米粒を指で拾い集めながら、大橋はちらりと時計を見上げた。

 六時四十五分。ありえない早さだ。この時間なら、例の計画を余裕で実行できそうだ。大橋は内心ほくそ笑みながら、流しに茶碗と箸を投げ込んで手を洗うと、パソコンの電源を入れた。

 低いうなりをあげながらパソコン画面が明るく光り出すと、女……サラは、びっくりしたように目を丸くしてその画面をのぞき込んだ。


「何だ、これ? 生き物なのか?」


 サラは大橋の背中越しにパソコン画面を恐る恐る見つめている。大橋は苦笑しながらマウスを握った。


「生き物じゃありませんよ。パソコンです」


「パソコン?」


「人間が使う道具のひとつです。ご存じないんですか?」


 怖々とパソコンを見つめるサラが無言でうなずいた時、画面が立ち上がり、大橋が先日撮影した蒸気機関車が画面に写り込んだ。


「わ、これは何だ?」


「蒸気機関車です。この間撮影したばっかりなんですよ」


「撮影?」


「ええ」


 大橋の言葉の意味がさっぱり分からないらしく、サラは疑問符だらけと言った表情で首をかしげる。大橋はそんなサラにちらっと目線を送ると、こんなことを口にした。


「……見に行ってみます?」


「見に行く?」


「蒸気機関車を。五月いっぱいの期間限定イベントなんで、まだ走ってるはずですよ」


 きょとんとした表情で自分を見つめるサラを横目で見やりつつ、大橋は路線検索画面を呼び出した。


「今日は薄曇りで、撮影にはまずまずだ。ちょっと長く電車に乗りますけど、それで良ければ」


「電車? 電車って、乗り物なのか?」


 大橋はてきとうにうなずき返しつつ、じっと検索画面に見入っている。色とりどりの文字列が並ぶパソコン画面を、サラはこころなしか不安そうに見つめていた。


「……よし、九時四十五分通過だな」


「何がだ?」


「機関車が曽我駅を通過する時刻です。七時半に出れば余裕で間に合う」


 大橋は検索画面を消すと、バックグラウンド画面の機関車を指さした。


「見に行きましょうよ、せっかく早起きしたんだし。これ、見たこと無いんでしょう?」


 サラはようやく大橋の言葉の意味を悟ったらしい。ただでさえ大きな目をいっぱいに見開き、頬を薄紅色に染めて嬉しそうにうなずいた。



☆☆☆



 住宅地を抜けて駅へ向かいながら、大橋は隣を歩くサラにちらっと目を向ける。

 五月の風に、耳の脇に一筋垂らした亜麻色の髪が、まるでコマーシャルのモデルのように一本一本独立してなびいている。朝日を反射してキラキラ光る長いまつ毛と抜けるような白い肌。筋の通った鼻と、ピンク色に色づいた形の良い唇。その常人離れした美しさに、大橋はともすると今日の目的を忘れてしまいそうになるのだった。

 サラは何とも幸せそうに朝風を胸いっぱいに吸い込んで、大きく息をついた。


「ああ、外はいい気持ちだな」


 嬉しそうに目を細めてほほ笑むと、大橋の方にくるりと顔を向ける。サラをぼんやり見つめていた大橋は慌てて目をそらした。

 サラはそんな大橋に、屈託なくにっこりと笑いかけた。


「ありがとう、オオハシ。今日は楽しくなりそうだ」


 大橋は、あいまいな笑みを浮かべてサラにうなずきかえしながら、そこはかとなく心苦しいような、居心地の悪いような思いを抱いていた。

 これから大橋はサラを遠くに連れだして、そこにそのまま置いてくる心づもりなのだ。

 サラは電車を知らないと言う。その言葉が本当なら、曽我駅で蒸気機関車を見たあと、適当にサラをはぐらかして自分だけ先に帰れば、彼女はここには戻ってこられないはずだ。もし、彼女が知らないふりをしているだけで、ちゃんとここまで帰ってこられたとしたら、彼女は大橋にウソをついていたことを認めざるを得ない。どちらにせよ、この訳の分からない同居生活に終止符を打てることは間違いないのだ。

 だが、大橋のことを毛筋ほども疑わず、何とも嬉しそうな笑顔を浮かべているサラを見ると、そんなことをたくらんでいる自分がとんでもない悪人のような気がしてきて、大橋は居心地が悪いことこの上なかった。


「今、どこへ向かっているんだ?」


 そんな大橋の内心はつゆ知らず、サラはワクワクした様子で尋ねてくる。


「下南沢の駅です」


「駅?」


「電車が停まるところです。そこから電車に乗るんです」


「電車に⁉」


 サラは目を輝かせ、息をのんだようだった。


「電車というものに、乗るのか!」


「ええ。目的地まではいくつか路線を乗り換えて行きますが、俺についてきてもらえれば大丈夫ですから」


「そうか。頼むぞ、オオハシ」 


 信頼しきった目で自分を見つめるサラから微妙に目線をそらすと、大橋はあいまいな笑みを返した。



☆☆☆



 下南沢駅に着くと、大橋はサラの切符を券売機で買った。


「どうぞ、切符です」


 大橋が渡した切符を受け取ると、サラはそれを裏返したり透かしたりしながら、何とも不思議そうに眺めやっている。


「その切符を、この自動改札に通して下さい」


 後ろを歩くサラを振り返ってそう言った大橋に、改札脇の事務室にいた駅員は眉をひそめ、ちらりと怪訝そうな目線を投げた。

 大橋は先に改札を通り抜け、立ち止まってサラを待つ。

 サラは戸惑っているようだった。切符を握りしめたまま、恐ろしいものでも見るような目つきで自動改札を見つめている。

 と、待ち合わせにでも遅れそうなのか、駅の階段を若い男がもの凄い勢いで駆け下りてきた。男は二つある自動改札のうち、なぜか空いている方の改札を通らず、サラが立っている方の改札に走り込んできた。


「あ……!」


 大橋は目を疑った。男はサラを避けようともせず、彼女を思い切り突き飛ばして改札を駆け抜けたのだ。サラは一メートルほど横方向に吹っ飛ばされて、尻餅をついてしまった。


「ちょっ、おま……」


 大橋は思わず男に文句を言おうとしたが、男は後ろを振り返りもせず階段を駆け上がっていってしまった。


「何考えてんだ、あの男!」


 憤然と吐き捨てると、慌てて倒れたサラに目を向ける。


「大丈夫ですか、サラさん」


「大丈夫だ」


 サラは立ち上がると、それでも小さく笑って見せる。大橋はその笑顔に、ちょっとだけ胸が痛くなった。


「早く改札通っちゃいましょう。その穴に切符を入れて……」


 サラに向かって一生懸命喋りかける大橋をけげんそうに見つめながら、事務室の若い駅員は首をかしげたようだった。



☆☆☆



 初めての電車に、サラの興奮は最高潮に達していた。

 流れ去る情景に首を行ったり来たりさせていたかと思うと、振動にあわせて一斉に揺れるつり革を口を開けて眺めたり、車両同士を繋ぐ連結部分を不思議そうに眺め回したり、本当に興味の尽きない様子で車内をグルグル見て回っている。

 日曜日とはいえ、車内は結構混んでいる。こんなふうにうろうろしては他の乗客からにらまれてしまいそうだ。大橋は慌てて歩き回るサラの袖をとらえた。


「サラさん、あまりうろうろしないで下さい。迷惑ですから」


 大橋が小声でたしなめると、サラはきょとんとした顔で首をかしげた。


「何で迷惑なんだ?」


「だ、だって、揺れてますから、他のお客さんとぶつかります。それに、うろうろしていると気になりますよ」


 と、近くに立っていた五十代くらいの男性が、読んでいた新聞から目線を上げてちらっと大橋を見た。大橋はそれ見たことかと肩をすくめた。


「ほら……皆さん、何も言わないけど、内心やだなって思ってるんですよ」


「そんなことはない」


 一言の元にそう断じ、ポカンとしている大橋に屈託無く笑いかけると、サラは再びつり革を興味深そうに眺めやった。


「だって、私の姿は見えないから」


 大橋はため息をつくと、サラの腕をつかんで強引に入り口近くに引っ張っていく。


「またそんなことを言って。見えない訳ないじゃないですか」


 サラはその言葉にむっとしたようだった。あのかわいらしい表情で口をとがらせてみせる。


「おまえ、私の言うことがまだ信じられないのか?」


「はいはい、分かりましたよ」


 肩をすくめてなおざりに返事をする大橋に、車内の客がちらちらと目線を投げかけている。大橋は小さく息をつくと、サラを窓際に立たせ、自分はその行く手をふさぐ位置に立った。


「とにかく、大人しくしていてください。まだまだしばらくは電車に乗りますから」


 サラは不服そうにそんな大橋を見上げていたが、それ以上何を言うこともなく黙って窓の外に目を向けた。



☆☆☆



「オオハシ、あれは何だ?」


 数回の乗り換えを経た二人は、形葉線に乗っていた。車内は比較的空いていて、二人の近くには誰もいない状況だった。

 サラは上半身をねじり、じっと窓の外に目を向けている。窓の外にキラキラ光る何かが気になって仕方ない様子だ。大橋は窓の外に目を向けると、笑った。


「海ですよ」


 その言葉に大きく目を見張り、瞬ぎもせず外を見つめるサラのまつ毛が、外光を反射してキラキラと光っている。


「……海」


「初めて見たんですか?」


 サラは無言でうなずくと、身じろぎもせずに窓の外に見入っていたが、やがてゆるゆると大橋の方に顔を向けると、心なしか震える声を紡ぎ出した。


「オオハシ」


「はい?」


「海が見たい」


「え?」


 きょとんとして自分を見ている大橋の視線にも気づかず、サラはまるで魅入られたように海を見つめながら微動だにしない。そんな彼女の様子を首をかしげて見つめていた大橋は、やがて何を思いついたのか目を見開くと、小さくうなずいた。


「分かりました。じゃ、茅葉みなと駅で降りましょう」


 その言葉に、サラは息をのんで勢いよく振り返ると、目をキラキラさせながら大きくうなずいた。



☆☆☆



 駅周辺の海岸はすっかり護岸工事をされていて浜辺に降りることはできなかったので、二人は茅葉みなと駅から離れたところにある展望タワーに登ることにした。

 タワーまで歩く間も、サラは本当に嬉しそうな様子だった。髪を風に吹き散らされながら、潮の香りに目を細め、だんだん近づいてくる海のきらめきに生き生きと目を輝かせている。

 そんなサラを時折横目で見やりながら、大橋は黙って歩いた。

 三十分弱歩いて、ようやく二人はタワーの入り口に到着した。

 大橋は券売機で入場券を二枚買うと、女性スタッフに「二人分です」と言って二枚一緒に差し出した。何気なく券を受け取りはさみを入れたスタッフは、眉を寄せ、何かを探すように周囲に目線を走らせている。彼女の態度が大橋は何となく気になったが、黙って券を受け取ると、後ろを歩くサラとともに中に入った。

 客の姿はまばらで、展望台に上がるエレベーターの前に並んでいるのは数人だった。大橋とサラはその列の一番後ろに並んだ。

 エレベーターが到着し、扉が音もなく開くと、サラは怯えたように一歩後じさった。電車の扉が開く時もそうだった。自動扉にはなかなか慣れないらしい。


「エレベーターです。これで、タワーのてっぺんまで行けますから」


「歩かなくてもいいのか?」


 いかにも驚いた様子で目をまん丸にして自分を見上げたサラに、大橋は苦笑しながらうなずいてみせると、彼女をエレベーターの中に招き入れた。

 扉が閉まり、エレベーターがゆっくり上昇を始める。微かな重力を感じ、耳がキンとして少し痛くなる。隣に立つサラを見ると、幾分青ざめた顔で、黙ったまま階数表示を見上げている。何が起こっているのか、今ひとつ把握仕切れていないといった風だ。大橋は唾を飲み込んで耳の気圧を調整しながら、そんなサラを複雑な表情で見つめていた。

 エレベーターの扉が開くと同時に、日差しを反射してキラキラ輝く海面が目に飛び込んできた。

 サラはそのあまりのまぶしさに一瞬目をつむったが、恐る恐るその目を開くと、その場にぼうぜんと立ち尽くした。瞬きも忘れたように目を見開き、言葉もなく、穏やかに凪ぐ海を見つめている。

 大橋は望遠鏡の設置されているあたりでふり返ると、動かないサラに声をかけた。


「こっちへ来てみませんか。もっとよく見えますよ」


 最初はその言葉も耳に届いていない様子だったが、再三声をかけられてようやく気がついたのか、サラはゆっくりと大橋の側に歩み寄ってきた。それでも、目線は相変わらず海の方に向けたままだ。

 大橋はちらっと時計に目を向ける。十時八分。駅とタワーが離れていることを知っていたため、港に立ち寄ることにした時点で、蒸気機関車の通過時間に間に合わないことは分かっていた。あれはもう先日既に撮影しているので、大橋は別に見なくても構わない。それよりサラが興味をひかれたものがあるのなら、その方がいい。計画を実行しやすいからだ。それが蒸気機関車だろうが、港のタワーだろうが、大橋にとってそんなことはどうでもよかった。

 

――とにかく、次は俺がここから離れる口実だ。


 自分がこの場を離れるのに不自然でなく、サラが不安なく受け入れられる口実。どんな口実がいいだろうか。あれこれ考えを巡らせながら、大橋は何気なくサラを見て……はっとした。

 まっすぐに海を見つめるサラの横顔に際だつ長いまつ毛。サラが瞬きをする度、そのまつ毛に押し出されるように、まるい滴がその白い頬をころころと転がり落ちていくのだ。


――泣いている?


 かけるべき言葉が見つからず、大橋はぽろぽろと涙をこぼすサラを黙って見つめていた。


「……オオハシ」


 ややあって、海に目線を向けたまま、サラがぽつりと口を開いた。

 サラは首を巡らせて大橋を見上げると、潤んだ瞳でじっと見つめながら、その美しい声を微かに震わせた。


「ありがとう、オオハシ」


 そう言ってほほ笑んだ彼女の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。

 大橋の背を、電流のような感覚が一気に駆け上がった。


「い、いえ……」


 二次関数的に上昇する心拍に体を揺さぶられながら、大橋は慌ててサラから目をそらした。

 サラは海に目を向けると、ひとり言のように言葉を継いだ。


「故郷の大河を思い出す……こんなにたくさんの水の集まりを見たのは、本当に、二百年ぶりだ」


 涙を拭うと振り返って、苦笑めいた笑みを浮かべる。


「ただ、この海とやらは随分と汚れているな」


 その言葉に、ようやく動悸どうきが落ち着いてきた大橋は小さく笑った。


「でしょうね。二百年前のインドの川と比べたら、全然……」


 思わずそう言ってしまってから、はっとしたように口をつぐむ。


――何言ってんだ? 俺。こんなの虚言に決まってんだろ。


 大橋は慌てて思考を現実に戻す。とにかく、この女をこの場に置いていく口実を考えなければ。だが、何の疑いもなく一心に海を見つめるサラの姿が視界に入るたび、思考が停止して考えがまとまらない。訳が分からず戸惑いながらも、大橋は必死でサラから目を背けて、次にとるべき行動を考えようとした。

※蒸気機関車が千葉方面で見られたのは一時期です。現在は走っていません。

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