6.サラとオオハシ
「どうしたんですか? 曽我部先生」
風に吹き散らされた髪をかき上げながら、大橋は数歩先を歩く曽我部に声をかけた。
ここは小学校の屋上だろうか。薄曇りの空の下、ビルや家並みが遠くまで見渡せる。
藤色のスーツを身にまとった曽我部は、大橋の声に歩みを止めた。進行方向に顔を向けたまま、うつむいて黙っている。
ややあって、曽我部は口を開いた。ようやく聞き取れるほどの小さな声だった。
「大橋先生……私、先生に言わなければならないことがあります」
大橋はごくりと唾を飲み込んだ。放課後の学校、二人きりの屋上。このシチュエーションは、もしかして……。
「ずっと前から、言おう言おうと思っていました」
曽我部はそう言って顔を上げた。風が、栗色の髪をさらさらとなびかせる。
大橋は甘い香りを感じた。女性の髪から香る、独特の官能的な香り。
曽我部がゆっくりとこちらに向き直る。大橋は背筋がゾクゾクするような感覚に襲われつつ、その顔を瞬ぎもせず見つめた。
だが、自分の方に向き直ったその女性は、既に曽我部ではなかった。
大橋はその顔を見て、思わず叫び声を上げそうになった。
藤色の袴のような着物を着て、まとめ上げた髪にかんざしのような飾りをつけ、羽衣をまとっているその女性は、……紛れもなく昨日出会った、あの訳の分からない女だったのだ。
女は艶やかなほほ笑みを浮かべた。花の蕾のような唇からもれる、鈴の音のように美しい声。女はその声で一言、静かにこう言った。
「起きろ」
はっと開かれた大橋の目に、眼前三十センチメートルにまで接近したその女の顔が飛び込んできた。耳の両脇にはらりと垂らした髪が、大橋の頬をくすぐっている。
「……うわあっ!」
思わず叫び声を上げ、三メートルほど飛び退った大橋を、女はほんの少し首をかしげ、けげんそうな表情で見つめた。
「何だ? そんなに驚くことはない」
壁際に追い詰められているような格好で、大橋はドキドキしながら女を見上げた。彼女はすっかり昨日のように身支度を調え、花のようなほほ笑みを浮かべている。
「もう日は昇った。起きろ」
――夢じゃなかった。
大橋は何だかまだぼんやりしている頭を振りながらため息をついた。
昨夜はあの後、彼女を二階の母が使っていた部屋で寝かせ、自分は一階の居間で寝たのだ。だが、訳の分からない事態で頭が冴えていたのと、二階で眠る女の気配に興奮して、なかなか寝付けなかった。最後に時計を見たのは三時頃だっただろうか。目が覚めた時、全てが夢だったというシチュエーションを期待していたのだが、それは叶わなかったらしい。
大橋は今の時刻を確かめようと枕元の眼鏡をかけ、振り返って棚の上の目覚まし時計を見上げた。
その目が、またも点のようになる。
――五時⁉
大橋は慌ててもう一度時計を見直した。確かに五時十分。外はほの明るいが、一般的に言ってもまだまだ寝ていていい時間のはず。
「何だ、まだ寝てる時間じゃないですか!」
怒ったように大橋が言うと、女は不思議そうに首をかしげた。
「そうなのか?」
「そうですよ! 普通七時頃まで寝てるもんです」
「だって、もう日は昇っているぞ」
「でも寝てる時間なんです!」
女は訳が分からないとでも言いたげに首をかしげ、困ったような笑みを浮かべると、上目遣いに大橋を見ながら遠慮がちにこう言った。
「腹が減っていても寝てるのか?」
大橋はあんぐり口を開けたまま、あきれてものが言えなかった。
☆☆☆
嬉しそうに昨日のおにぎりにかぶりつく女を、大橋はげんなりした表情で眺めた。
ああ言われては起きてやるしかない。というのも、女が何ひとつしようとしないからだ。ちゃぶ台を出すことはおろか、昨日買ってきたおにぎりを冷蔵庫から出すことすらしない。ただにこにこしながら、大橋が準備してくれるのをじっと待っている。大橋は仕方なく自分の布団を片付けてちゃぶ台を出すことも、朝食の準備も半分眠りながら全部やったのだ。
――何様のつもりだよ、この女。
そう思って、はたと気づいた。そうか、神様のつもりか。何だか知らないが、この女は自分のことを神様だと思いこんでいる。何もそんなところまで神様ぶらなくてもいいのにと、大橋は忌々しいような思いで内心舌打ちをした。
とにかく、どうにかして今日中にこの女を追い出さなければ。大橋はその方法についてあれこれ思いを巡らせつつ、レンジでチンしたご飯をどんぶりに盛り、卵を一つそこに割ってのせた。
じかにしょうゆを垂らしてかき混ぜていると、女が興味深そうにその手元をのぞき込んできた。
「何だ? それは」
「え? ……卵かけご飯ですけど」
適当な朝飯をじっと見つめられて、大橋は少し恥ずかしくなった。女はそんな大橋に構わずじっとそのどんぶりを見つめていたが、やがて大橋を見てにっこりと笑った。
「私も、今度それを食べたい」
「え?」
「この三角のやつもうまいが、おまえのそれもうまそうだ」
こんな適当な卵かけご飯を褒められて、大橋は居心地が悪いことこの上なかった。とにかくこの女は屈託がない。素直というか、何というか……。そんなところは確かに、神様っぽいと言えば言えなくもなかった。
――だからといってあんな話を信じるほど、俺もバカじゃないからな。
大橋は卵かけご飯をかき込みつつ、どうやってこの女を追い出そうか、その方法に再び思考を巡らせ始めた。
すると、おにぎりを食べていた女が、ふっとその顔を上げてそんな大橋に目を向けた。
「おまえ、名はなんという?」
唐突な問いに、大橋は危うく卵かけご飯を気管に吸い込みそうになった。
「え、名前ですか?」
「そうだ」
女はおにぎりの包装を開けながらうなずいた。
「大橋……大橋、拓也といいます」
「オオハシか」
彼女が大橋の名を口にすると、なぜか漢字の「大橋」ではなく、カタカナの「オオハシ」のような印象があった。イントネーションが微妙に違うのかも知れない。女はそのイントネーションで嬉しそうにそう繰り返すと、屈託のない笑みを浮かべた。
「よろしくな、オオハシ」
「あ、はい。よろしくお願いします……」
何だかドキマギしてしまい、必要以上に深々と頭を下げてからそろそろと顔を上げて見ると、女はもう何事もなかったようにおにぎりにかぶりついている。
大橋はおずおずと口を開いた。
「あの、……神様」
「何だ?」
わざとらしい呼びかけに臆する様子もなく、女は当たり前のように顔を上げる。
「神様のことは、何とお呼びすればいいですか」
「神様でいいぞ」
事も無げにそう言いきる彼女に大橋はあきれつつも、ひきつった笑みを浮かべてみせた。
「で、でも、それじゃ周りの人に気づかれちゃいますよ。何か別の呼び名の方が……」
「それもそうだな」
女はまじめな顔でうなずくと、考え込むように中空に目を向けた。
「サラスバティも、そう考えるとまずいな。……じゃあ、サラはどうだ?」
「サラ……様、ですかね」
「何もつけんでいい」
「呼び捨てはいくらなんでも……じゃあ、サラさん、とお呼びするのはどうですか?」
大橋の言葉に、女は満足そうにうなずいた。
「わかった。そう呼んでくれ」