4.名水とおにぎり
みるみるうちに空になっていくペットボトルを、大橋はぼうぜんと口を開けて見つめていた。
目の前には、既に空になったボトルの山。今彼女が口にしているので六本目だろうか。彼女はその六本目もあっという間に空にすると、何とも満足げなため息をついた。
「ああ、うまい! こんなにうまい水があるとは知らなかった」
――そりゃ、うまいだろ。一本百二十八円もする名水だからな。
軽くなった財布の中身を思い出して、大橋は小さくため息をついた。
大橋はあの後、女を近くのコンビニに連れて行った。何が食べたいかと聞くとご飯と水を所望したので、おにぎりとペットボトルの水を買おうと思ったのだ。
だが、それぞれ一つずつかごに入れた大橋を、女は不満げな表情で見上げた。
「足りぬ」
大橋はもう一つずつかごに入れた。だが、女は首を横に振る。
「もっとだ」
よほど腹が減っているのだろうか? だが、女はおにぎりだけではなく、水もどんどんかごに入れるよう指示してくる。結局彼女が首を縦に振ったのは、名水を七本とおにぎりを十五個かごに入れた時だった。
「このくらいで我慢しておくとしよう」
会計で告げられた金額に青くなり慌てて財布の中身を確認しながら、大橋はその言葉に目を丸くしたのだった。
すっかり軽くなった財布に肩を落としつつコンビニを出た大橋は、おずおずとその袋を彼女に差し出した。
「どうぞ」
が、彼女は首を横に振り、あの美しい笑顔を浮かべながら、さらりととんでもない言葉を口にする。
「おまえの家に連れて行け」
「は?」
この時の大橋の目は、まさに「点」そのものだった。一人暮らしの男に対し、うら若い女性が吐くセリフとは思えない。大橋は慌てて首と手を振りまわした。
「な、何を言ってるんですか。俺は一人暮らしなんですよ。そんなところに、初対面の女性が……」
「初対面ではない」
彼女はにっこり笑ってそういうと、大橋を心なしかうるんだ目でじっと見つめる。
「おまえには、おととい会っている」
――おととい?
あの時、確かに彼女はそう言った。
大橋は先刻の会話を思い出しながら、ちゃぶ台の前にちょこんと座り、手にしたおにぎりを不思議そうにひっくり返したりつついたりしている彼女をまじまじと眺めた。
――俺、こんな美人と会った記憶、ないんだけどな。
これほどの美女と関わりを持てば、いかな大橋とて忘れる訳がない。だいたい、この格好といい、あの水の飲み方といい、尋常ではない。一目会ったら忘れる訳もないのだ。
あれこれ考えながらぼんやりと女を見ていた大橋は、息をのんだ。女が大きな口を開けて、おにぎりを包装ごと口に入れようとしているのだ。
「あ、あーっ! ちょっと待って!」
慌ててその手からおにぎりを奪い取る。
「何をする」
女は不服そうに口をとがらせて大橋をにらみ付ける。その表情がまた何ともかわいらしい。大橋は赤くなって慌てて視線を手元に落とすと、おにぎりの包装を開けてやった。
「これは、こうやって中身を出さないとダメなんです……ていうか、コンビニのおにぎりも食べたことがないんですか?」
大橋が渡したおにぎりを嬉しそうに受け取ると、女は無邪気な笑顔を浮かべながらこくりとうなずく。
「ない」
――マジかよ。
大橋は、おいしそうにおにぎりを頬張る女を、信じられない思いで見つめた。
大橋の視線に気がついたのか、女はおにぎりを頬張った顔を上げてにっこり笑ってみせる。
「おいひい」
口いっぱいにおにぎりが入っているので、何だか発音が変である。
「そ、そうですか。それはよかったです」
慌ててあいまいな笑みを返しつつ、大橋は、さすがに薄気味悪いような気がしてきていた。
――この格好と言い、あの水の飲み方と言い、コンビニおにぎりすら知らないことといい……普通じゃない。
そもそも、こんな美人が自分のような男の所についてくること自体が異常なのだ。何か裏があるに違いない。
今までの人生でおいしい思いなど何ひとつしたことのない大橋にとっては、ひとつ屋根の下にこんな美人と一緒にいること自体がそら恐ろしいことだった。しかも、その女性がどうみても普通ではないとくれば、懐疑心の固まりになるのも無理はない。とにかくおにぎりを食べさせたら、すぐに出ていってもらわなければと、大橋は決意を新たにしつつ、空になったペットボトルをごみ袋に集め始めた。
その時だった。
「おまえに会えて、本当によかった」
しみじみとつぶやかれたその言葉に、大橋はペットボトルを右手に持ったままで固まった。恐る恐る首を巡らせ彼女に目を向けると、心なしかうるんだ瞳で大橋をじっと見つめている。
心臓が踊り出し、頬が上気してくるのを感じながら、大橋はゴクリと唾を飲み込んだ。
――何でいきなり、そんなことを言うんだ?
まさか自分に、一目惚れした訳でもあるまいに。いや、ひょっとしたらそうなのか? 俺はもしかして、この女に惚れられたのか? だから彼女は、むちゃを言って俺の部屋に上がりこんだのか? だとすれば、この後……。
二十八年間、商売女以外とそういう行為をしたこともない男にとって、その想像はあまりにも刺激的すぎた。だが、走り出した妄想が一気にとんでもない行為に及びかけた時、再びあの鈴のような声が響き渡った。
「まさか、こんなことになるとは思っていなかったから」
大橋は妄想をストップすると、おにぎりを頬張る女にゆるゆると顔を向けた。
「こんなこと?」
女は深々とうなずくと、微かにその目を伏せる。爪楊枝が数本載りそうなその長いまつ毛が、白い肌に一層際だって見えた。
「正直、信じられなかったからな。何の前触れもなく、いきなりこんなことをするなんて……。以前は移動する際も、必ず祈祷くらいしてくれたものだったのに」
大橋は話の意味がよく分からず、黙って彼女の言葉に耳を傾けているしかなかった。
すると女は何をかふっきったように顔を上げ、大橋ににっこり笑いかけた。
「でも、私は人間を信じる。おまえのように信心深い者も、まだいるのだから」
「……は?」
「あの賽銭は、人間の世界でいうとかなりの額だろう。あんな賽銭、二百年ほど彼の地にいたが、初めて見たからな。しかもあれは、あの時おまえが所持していたほとんど全てだった。私は本当に感動した。おまえのおかげで、私は人間を信じることができる。ある意味、私はおまえに感謝すらしているのだ」
――賽銭?
その言葉を聞いた大橋の脳裏に、唐突におとといの光景がよみがえった。
夜の祠。酔った勢いでなけなしの一万円を賽銭箱に放り込み、あの時自分は確かにこう言った。
『もうちょっと、マシな人生が送れますように』
その言葉はまさに、先刻彼女が口にした言葉そのものではないか!
大橋は、指先がわなわなと震え出すのを感じた。
「……あ、あの」
「何だ?」
バラ色の頬に柔らかな笑みをたたえつつ、優しく自分を見つめる澄んだ瞳。その視線を正面から受け止めながら、ささくれだった喉に粘つく唾液を送り込み、大橋はかすれた声を絞り出した。
「あなたは、誰なんですか」
女は少しだけ驚いたようにその目を見開いたが、すぐに優雅にほほ笑むと、花びらのような唇から紡ぎ出される澄んだ美声で一言、こう言った。
「私は、神だ」