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七福人生  作者: 代田さん
38/39

38.喪失と誓い

「おはよう、大橋くん!」


 背中の方から響いてきた明るい声に、大橋は歩みを止めると、ゆっくりと振り返った。

 ベージュのスーツを身にまとった曽我部春菜が手を振りながら、駅から続く坂道を駆け下りてくるのが見える。


「おはよう、春菜さん」


 大橋は頭を下げると、少しだけ笑顔を浮かべた。

 曽我部は息を弾ませながら大橋の隣に並ぶと、心配そうにその顔をのぞき込んだ。


「もう体調はすっかりいいの?」


 大橋はうなずいた。


「もともと、ケガはしてなかったですしね。一日入院したのだって、検査のためだけだったから」


「そう、よかった……」


 曽我部は何だか泣きそうな顔で笑った。語尾が震えているようだった。


「あのニュースを聞いた時は、ほんとうにもうダメかもって思ったから……」


「ご心配をおかけしました」


 大橋は曽我部に向き直ると、申し訳なさそうに頭を下げた。


「学校の方も、大変だったみたいじゃないですか」


 大橋の言葉に、曽我部は深々とうなずいてみせる。


「そりゃあね。でも、それに関して大橋くんが責任を感じることは一切ないわ。保護者の方から、何であんな時に遠足に連れ出したんだってクレームもきたことはきたけど、ごく一部の保護者みたいだし。それに、二組の保護者はみんな大橋くんに好意的だから。何たって、体をはって飯田くんを守った訳だしね」


 そして、こう付け加えた。


「取りあえず、遠足に行く判断をした責任は、上が全部取ってくれる覚悟みたいだし」


 その言葉に、大橋は目を丸くした。


「……マジですか?」


 曽我部は苦笑しながらうなずいた。


「当然じゃない? 最終判断は上なんだから……まあ、あたしも、あの副校長がそういうことを言ってくれたっていうのはびっくりしたけど。ちょっと見直したかも」


 大橋は神妙な面持ちで目線を落とした。


「まあとにかく、みんな無事で何よりよ。今日から、またいっしょに仕事頑張ろうね」


 曽我部はそう言って大橋に明るく笑いかけると、一足先に校門をくぐって学校内に入っていった。

 大橋は足を止めると、顔を上げて校舎を見上げた。

 隣地に建つビルと校舎の間に、雲ひとつない青空が見える。

 そのまぶしさに、大橋は目を細めた。



☆☆☆



 あの事件から三日がたったこの日、大橋は久方ぶりに出勤した。

 この三日間、曽我部も話していたとおり、学校の方は大変だった。

 連日の報道関係者の取材や保護者からの問い合わせに対応し、衝撃を受けた子どもたちの心のケアに奔走し、……これらの仕事のほとんどを、曽我部も言っていたとおり、副校長が主になって担当したらしい。

 大橋が職員室にはいると、入り口近くの指定席で書類を書いていた副校長は、ちらりと目線を上げて大橋を見た。大橋はその机の前に立つと、深々と頭を下げる。


「おはようございます、副校長先生」


「おはよう、大橋くん。どうだね、体の方は。もうすっかりいいのかね?」


 副校長は書類を書きながら、どこかぶっきらぼうに問いかける。


「はい、おかげさまで……このたびは、いろいろとご迷惑をおかけして、本当に……」


「君の方こそ、大変だったな」


 謝罪を遮るように副校長がこう言ったので、大橋は目を丸くして言葉を止めた。大橋の視線に答えるかのように、副校長が書類からちらりと目線を上げる。その目の下には、ここ数日の激務のせいか、黒々としたクマができていた。

 副校長は目線を再び書類に落とすと、静かに言葉を継いだ。


「われわれが判断を誤ったせいで、君には大変な思いをさせてしまった。君も、子どもたちも無事でいてくれて、本当によかったよ」


「副校長先生……」


 何だか目のあたりがせらせらしてきて、大橋があわててまばたきをくりかえしていると、副校長は書類をめくりながら、いつものつっけんどんな口調に戻ってこう言った。


「まあ、出勤してきたからには仕事に頭を切り替えろ。ぼんやりしている暇はないぞ」


「は、はいっ」


 大橋は慌てて一礼すると、数日分の書類が山積みにされている自分の机に走った。



☆☆☆



 五校時の授業も終わり、いくつかの会議が終わると、時計の針はあっという間に五時をまわっていた。


「大橋くん、急がないと五時半になっちゃうわよ」


「え?」


 目の前の席の石橋……まだ松葉杖をついてはいるが、昨日から出勤している……がいたずらっぽくこう言うので、週案を打ち込んでいた大橋は、けげんそうに顔を上げた。


「だって大橋くん、いつも凄いスピードで仕事して、遅くとも五時半には職場を出てたでしょ」


「そうでしたっけ?」


「そうよ。あら、覚えてないの?」


 大橋は首をかしげて笑ってみせてから、何気ない口調で言葉を返した。


「三日も休んで仕事がたまってるんで、めぼしがつくまで残っていきますよ。いけませんか?」


「え? 別にいけないことはないけどさ……」


 石橋はきょとんとして、隣の席の教師と顔を見合わせる。大橋はすぐに手元に目線を落とすと、再び週案の記入を始めた。



☆☆☆



 大橋が学校を出たのは、午後八時を過ぎた頃だった。

 下南沢の駅に降り立ち、自宅へ向かって歩き始める。

人通りの少なくなってきた通り沿いの店は、まだ煌々《こうこう》とあかりはついているが、店じまいの準備を始めている気配がする。

 繁華街を抜けて街路灯のともる静かな住宅街を歩き、程なく自宅に着いた大橋は、鍵を開けて古くさい玄関扉を開けた。


「ただいま……」


 口の中で、小さくつぶやく。

 当然のことながら、家の中から答えはない。

 しんと静まりかえった部屋の中は、冷たく暗い。大橋は靴を脱いで中に入ると、居間の明かりをつけた。

 寒々しい蛍光灯の光に無遠慮に照らし出された部屋は、中央だけはやけに明るいが、部屋の四隅やすすけたしっくいの壁は、薄暗くよどんでみえる。

 その片隅にぽつんと置かれている、丸いちゃぶ台。

 大橋は、じっとそれを見つめていたが、やがて気を取り直したように荷物を置いて上着を脱ぐと、戸棚を開けて中をゴソゴソ探り始めた。程なくカップラーメンを見つけ、それに手を伸ばしかけるが、思い直したようにその動きを止めると、扉を閉める。

 ネクタイを外してワイシャツの袖をまくると、炊飯器の蓋を開けてお釜を取り出し、大橋はそこに米を入れて研ぎはじめた。

 炊飯のスイッチを押すと、冷蔵庫からワカメを取りだして水に戻しつつ油揚げを刻み、棚から取った片手鍋に水を入れ、ダシパックを入れると火をつける。

 そこまでやると大橋は脱いだ上着とネクタイをハンガーに掛け、手近にあったテレビのリモコンを取り、スイッチを入れた。

 画面が明るくなり、MHKの夜のニュース番組が流れ始める。

 大橋ははっと目を見開くと、なぜだか慌てたようにその画面を消した。

 台所の鍋が沸騰してグラグラと沸き立ち始めた。大橋は火を弱め、ワカメと油揚げを入れた。それから冷蔵庫を開け、ミソを取り出す。

 ついでにおかずになるものでも捜そうと思ったのか、大橋は冷凍庫を開けた。里芋やブロッコリーなどをかき分けているうちに、ふと片隅に置かれた小さな包みが目に留まる。

 アルミホイルに包まれた、山型のおにぎりらしき物体。

 大橋は動きを止めてそれを見つめた。

 と、冷凍庫がピーピーと文句を言いはじめたので、大橋は慌てて扉を閉めた。それから、何を思ったのか振り返り、居間のちゃぶ台をじっと見つめる。

 そこには、当然のことながら誰もいない。ささくれ立った畳と、テレビと、カーテンの引かれた窓が見えるだけだ。

 大橋は目線を落とすと、沸き立つ小鍋にみそを溶き入れ始めた。



☆☆☆



 フロの焚きあがりを知らせる音楽が、ちゃらちゃらと居間に流れた。

 茶碗の片付けを終えた大橋は、風呂場へ行って湯加減を見た。ちょうどいい温度だ。

 あの事件以来、シャワーでざっと済ませるばかりでフロに入っていなかった。なんとなくゆっくりしたい気分もあり、大橋はフロをたいたのだ。

 下着の替えを出そうとプラケースの引き出しを開けた大橋の手が、ふと止まった。

 乱雑に詰め込まれた下着の奥に隠れるようにして、少しだけ顔をのぞかせている浅黄色の布地。

 大橋はまじろぎもせずにその布地を見つめていたが、やがておずおずとそれを手に取ると、ゆっくりと引き出した。

 着物の帯だろうか。なめらかな衣擦れの音とともに引き出されたその浅黄色の生地は、畳んで入れておいたために少々皺っぽくなっているが、絹独特の美しい光沢は、他の布地との格の違いを感じさせる。

 大橋はその布地を両手で捧げる持ち、なんとも言えない表情を浮かべて見つめていたが、ややあって、かすれた声で、絞り出すようにつぶやいた。


「……俺、頑張るから」


 大橋はそれだけ言うと、かたく目を閉じてうつむいた。手にしていた帯を、両手で抱きしめるように自分の胸に押し当てる。まぶたに押し出されてしたたり落ちた涙が、浅黄色の帯に丸い小さなシミを作る。

 大橋はそうしてしばらくの間、薄暗い部屋の真ん中で、肩を震わせて嗚咽していた。



☆☆☆



 そう。大橋は忘れていなかった。

 サラという人物との間で起きた、全てのことを。 

 いったいなぜ自分が彼女のことを忘れていないのか、それは大橋自身にも分からなかった。

 あの時、自分がそう強く願ったからなのか、それとも、サラ自身がそれを望んだのか……その理由はわからなかったが、大橋にとってはそんなことはどうでもよかった。

 自分がサラを忘れていない、この事実がただ嬉しくて、……悲しいだけだった。

 サラを失った事実は、日ごと大橋を苦しめる。

 家の中には、至る所に彼女の残した痕跡があった。その痕跡に触れるたび、大橋の脳裏にあの優しい笑顔が鮮やかによみがえり、そのたびに胸をえぐられるような喪失感と絶望感に襲われ、苦痛に耐えかねた大橋は、何度死を考えたか分からなかった。

 だが、その度に、サラの最期の言葉が大橋を押しとどめた。


『ありがとう、オオハシ』


 サラは、何ひとつ恨んでいなかった。

 あの祠に二百年間たった一人で放置されたことも、祠が取り壊されてしまった不運も、大橋の願いを叶えるために、自分の存在を捧げなればならなかった不条理に対してさえ、何ひとつ。

 ただ彼女は、大橋と出会えた幸運に感謝し、大橋の願いを叶えるために全てを捧げ、大橋の命を助けるために自らが犠牲となって、静かに消えた。

 そんな彼女が残してくれたこの命を、むげにすることなどできるはずもない。


『おまえは私との約束通り、本当にマシな人生を実現して見せてくれ。そうすることが、私の唯一の願いなのだ』


 大橋は、彼女との約束を守ると誓った。彼女が与えてくれたこのきっかけを絶対に無駄にせず、なんとしても自分一人の力で、マシな人生を手に入れてみせると。

 彼がサラにしてやれることなど、もうそのくらいしか残っていない。同時にそれは彼にとって、ともすれば崩れ落ちてしまいそうな心を支える、唯一のよりどころとなった。


 ひょっとしたら、マシな人生を手に入れられた時、彼女が戻ってきてくれるんじゃないか。

 そんな到底あり得ない期待すら、そこはかとなく胸に抱きながら。

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