37.夢と現実
何も聞こえない。
犯人と警官の怒声も、体同士がぶつかり合う音も、弁当が蹴り飛ばされる音も、遠くから見ている野やじ馬の悲鳴も。
だって、何もかもが止まっているから。
発射された銃弾の行く先をぼうぜんと見つめる警官も、その足元で蹴り飛ばされ、弁当箱から飛び出して中空に浮いているタコウインナーも、驚愕の表情で口元を抑える臨時職員も、目を丸くして大橋たちを見つめる子どもたちも、全てが完全にその動きを止め、しんと静まりかえっている。
銃口の筒口から細く揺らいで立ち上る硝煙でさえ、緩やかならせんを描きながら、ぴったりとその動きを止めている。
大橋も、例外ではなかった。
飯田に覆い被さり、堅くその目を閉じたまま、彼は動かなかった。
ただ一つ、大橋が他の人間と違うことがあった。
それは、全てが止まっている事実を認識しているということだ。
動作も、呼吸も、心臓の鼓動でさえ、何もかもが停止した時のはざまで、意識だけが研ぎ澄まされ、その事実を頭ではなく感覚で理解する。
そうして、彼は感じていた。
誰かがそこに立っているということを。
☆☆☆
位置的には、飯田に覆い被さる自分と拳銃を構えた犯人との、ちょうど中間あたりだろうか。
大橋は先ほどから、誰かがそこにたたずんで、じっと自分を見つめている気配を感じていた。目を閉じているのでその姿は見えないが、それは確かに、大橋がよく知っているあの人物の気配だった。
「ここが水族館か」
鈴の音のような美しい声が耳に心地よく響く。やはりサラだ。自分の予想が的中したのはいいとして、なぜこんな所に彼女がいるのか、加えて、周囲のこの状況は一体何なのか、大橋の頭はよけいに混乱し始めていた。口がきければ恐らく機関銃のように彼女に質問しまくっただろうが、いかんせん口どころか目を開けることすらままならない。大橋は仕方なく、飯田に覆い被さって目を閉じたまま、サラの次の言葉を待った。
「いろいろな海の生き物が集められているのか。見ている方は楽しいが、魚たちはかわいそうだな。……でも、来られてよかった」
そうつぶやくと、サラは何を思いだしたのか苦笑したようだった。
「間に合わなかったらどうしようかと思った。二回目だから少しは慣れたつもりだったが、東京駅はやっぱり凄いな。踏みつぶされないように歩いていたら、こんなに時間がかかってしまった」
つぶやきながら、サラは静かに大橋に向かって歩み寄ってきたようだった。足音が次第に近くなり、やがてそれは大橋が飯田に覆い被さって伏せている、そのすぐ目の前で止まった。
サラはしばらくはそのままの姿勢で大橋をじっと見つめているようだったが、やがてぽつりとこう言った。
「お別れだ」
その言葉に、大橋は危うく思考までもが停止しそうになった。
どういうことか聞き返したかった。だが、体は動かない。声も出せない。大橋はもどかしさに腹の底をザワザワさせながら、サラの次の言葉を待つしかなかった。
だが、サラの言葉はなかった。
代わりに、大橋は自分の肩と首を、温かく柔らかな感触が包み込むのを感じた。
背中にそっと添えられた手と、肩に当たる柔らかなふくらみと、首筋に触れるなめらかな髪の感触。そして微かに感じる、甘い、それでいて爽やかなあの香り。
サラは飯田に覆い被さっている自分を、さらに上から覆い被さるようにして抱き抱えているらしい。ありありと感じるその感触はまさに現実そのものだったが、今のこの状況は到底現実とは思えず、その二律背反に大橋の意識はさらに混乱する。
「……申し訳ない、オオハシ」
どこか遠くから響いてくるような、サラの透き通った声。それは微かに震えていて、湿りを帯びているように感じられた。
「おまえを助けようにも、私には満足な力がない。こんなやり方しか、おまえを守る方法がなかった」
――こんなやり方?
サラが一体何を言いたいのか、混乱した大橋の頭で理解することは困難だった。だが大橋はその時、自分の肩に妙な感触を覚えた。
何か、生暖かい湿りがじわじわと染みてくるような。
同時に、微かに、本当に微かに、甘い香りに重なるように、鉄くさい血の臭いを感じた気がした。
「だが、これが、おまえのマシな人生を実現するために私に与えられた最後の任務なんだ。無事に遂行することができて、私は本当に満足している」
サラの声は穏やかだった。静かで、慈愛に満ちて、優しくて、落ち着いていて……まさに大橋がイメージするところの、神そのものの、声。だが、その声はいつも大橋を不安にさせる。だってそれは、大橋の知っているサラではないから。そういう声を出す時、サラはいつも重大な何かを隠しているから。
「そのおかげで、あの時私は消滅を免れ、おまえと少しだけでも長く一緒にいられた。だから、……悲しまないでくれ」
――何が言いたいんだ?サラさん。
サラのひんやりと冷たい指が、優しく、ゆっくりと大橋の髪を撫でる。大橋は今すぐその手をつかんで、どういう事なのか問いただしたい衝動に駆られ続けた。だが、体はぴくりとも動かない。
サラは静かに言葉を続けた。
「おまえは私との約束通り、本当にマシな人生を実現して見せてくれ。そうすることが、私の唯一の願いなのだ」
大橋は自分の肩に、何か水のような湿りが染みてくる感触を覚えた。
――何をそんなに泣いているんだ?
その時大橋は、自分の背に覆い被さっているサラの体の温かな重みが、ふっと軽くなったような気がして、ぞっと背筋に寒気が走った。
――どうしたんだ? サラさん!
「……そろそろ、本当にお別れだ」
背中のあたりでつぶやいているはずのサラの声も、先ほどより遠いところから、微かに響いてくるような気がした。
「私が完全に消えた瞬間、時間が再び動き出す。その時、私に関するおまえの記憶も、全てきれいに消えるだろう」
――どういうことだよ?
「楽しかった、オオハシ」
先ほどよりさらに微かな、まるで耳にそよぐ風の音のような、サラの声。
「私は本当に、おまえが大好きだった。おまえに会えて、幸せだった」
――俺も大好きだよ。大好きだけど、幸せだけど、だった、って、どういうことだよ?
「わずかな時間だったが、私にとっては、それまで生きてきた二百年よりはるかに長い、本当に素晴らしい時間だった」
――どういうことなんだよ? 教えてくれよ、サラさん!
背中に感じるその重みも、温かみも、もうほとんど感じられないくらい微かで、何もないといえば何もないくらいで、背中に染みていたあの湿りの感覚ももうほとんど消えていて、ただもう、どんどんサラの気配が薄くなっていく中で。
大橋はただひたすら、すがり付いていた。
サラの記憶に。
初めて家に来て、コンビニおにぎりを美味しそうに食べていたあの無邪気な笑顔。みなとのタワーで、四時間後に迎えに来た大橋に見せた、あの春の日差しのようなほほ笑み。不満げに口をとがらせる、かわいらしい表情。大橋の作った不出来なおにぎりを喜んでくれた彼女。せせらぎの流れを見て流した、あの真珠のような涙。初めてのキス……。
――嫌だ! サラさん、行かないでくれ! 消えないでくれ!
時のはざま。何も動くことはない、何も変えることはできないはずのこの空間。それでも大橋の意識はサラを求める。必死に、ひたすらに、ただいちずに。
――俺は忘れない。絶対に忘れない! サラさんのことは、何があっても忘れない!
サラの存在は、今まさに消える寸前だった。
本当に軽い、わずかな空気のかたまり。サラの体は、ほんの微かな香りとなって大橋の体内にそっと滑り込んだ。その甘く爽やかな懐かしい香りは、大橋の体に滑り込んだ瞬間、大橋の意識にあの言葉となって響き渡った。
『ありがとう、オオハシ』
聞き慣れた、いつものあのセリフが大橋の頭に届いた瞬間。
時が止まっているはずの大橋の目から、涙が一筋、流れ落ちた。