36.水族館と拳銃
水族館はこんな曇天にも関わらず、小さな子ども連れやカップル、それに他の学校の遠足児童で混み合っていた。
大橋は、前を行く一組を含めて列が途切れたり途中で離れたりしないように気をつけながら、児童を引率して歩いた。
「わ、見て!」
「すごーい、大きい! 変な顔!」
トンネルのような水槽では、頭の上をゆったりと泳いでいく巨大なエイの、何だか笑っているような顔を見て、児童たちが感嘆の声を上げている。
大橋は頭上を通過するエイを眺めながら、ふとサラのことを思い出した。
――サラさんがこれを見たら、どんな反応をするだろう。
大きな目をまん丸にして驚くサラの顔を思い浮かべて、大橋は思わずクスっと笑った。
色とりどりの熱帯魚や大きなマグロの水槽を横切り、ラッコがくるくる回りながら泳ぐ通路を抜けると、児童たちは屋外に出た。そこは中庭のようになっていて、端には水の生き物と触れ合えるタッチプールがあったり、ペンギンが飼われている岩山があったりと、屋外ながら水族館の一部のようになっている。子ども達はそこにグループごとに並んで座り、グループのリーダーが人数を確認して報告した。
報告が終わると、大橋が児童たちの前に出た。
「それじゃ、これからグループ行動に移ります。今、時刻は十時三十分です。これから十一時三十分まで一時間、グループごとに好きなコーナーをまわってください。時計係さんは時間の確認をして、十一時二十分頃には活動を切り上げて、ここに戻るようにしてください。走ったり騒いだり、危険な行動があったりしたグループは、その時点で自由活動は終了となるので注意してください。ここに集合してチェックをもらったグループからお弁当です。じゃ、解散」
大橋は児童がグループごとに別れて活動を開始したのを確認すると、自分の担当するチェックポイントに移動した。
☆☆☆
チェックポイントに立っている間は、通り過ぎる児童の動向に注意はするが、比較的ぼうっとできる時間でもある。
時折チェックポイントを訪れる児童のカードにシールを貼ってやりながら、大橋はまたサラのことを考えていた。
『オオハシ、スイゾクカンって、何だ?』
恥ずかしそうな笑みを浮かべながら大橋に聞いてきた、サラ。
二〇〇年もの長い間、あの祠でケヤキと二人、静かに時を過ごしていたサラ。きっと彼女は水族館はおろか、遊園地も、コンサートも、美術館も行ったことがないのだろう。大橋はなんだか胸がチリチリするような切なさを感じた。
彼女がこの世に存在していられるのは、あと一カ月ちょっと。その間に、できるだけたくさん楽しい思いをしてほしい。そうして、ひとつでも多く幸せな思い出を作ってほしい。そのために、自分にできることは可能な限りしてやりたい。
悠々と泳ぐクロマグロを眺めながら、大橋はそんなことをつらつらと考えていた。
☆☆☆
あっという間に十一時二十分になった。大橋はチェックポイント付近にいた児童に活動を切り上げるように声をかけながら、集合場所に戻り始めた。途中、まだ集合場所に向かわないグループを追い上げながら、先ほどの中庭に出る。
すでにチェックを終えた児童たちは、色とりどりのシートを広げ、グループごとに楽しそうにお弁当を食べ始めている。大橋はシートの間を回りながら、ゴミを散らかしている児童がいないか、ケンカや仲間割れをしているグループがないかチェックを始めた。そうそうすぐにはサラのおにぎりにありつけないのだ。
大橋は、まだ弁当を広げもせず、座り込んでおしゃべりに夢中になっている児童に気づいた。見ると、それは飯田だった。同じグループの北城に、リュックサックにつけていた富士はやぶさのキーホルダーを外してみせながら、何やら熱心に話しかけている。
「飯田くんに北城くん、そろそろ食べ始めないと、食べる時間がなくなっちゃうよ」
大橋が声をかけると、飯田は慌ててキーホルダーを足元に置き、リュックサックを開けた。北城も慌てたようにお弁当の蓋を開ける。
大橋はくすっと笑うと、全体を見渡した。チェックを受けているグループの姿はなく、他の教員たちも弁当を広げて食べ始めているようだ。
――そろそろ飯にするか。
大橋が最後に周囲をもう一度見回した、その時。
館内から、穏やかな水族館とは異質な音が響いてきた。
複数の人間が凄まじい勢いで走る足音と、止まるように呼びかける怒声、そして女性や子どもの怯えたような、声。
大橋は眉をひそめ、館内の方を振り返った。
その時だった。
ラッコの泳ぐ通路を駆け上がって、男が一人、中庭に走り込んできた。季節外れなグレーのニット帽を目深にかぶり、サングラスをかけ、がっしりとした体に薄手の革のジャンパーを羽織っている。その男の右手には、黒光りする金属の塊のようなものが握られていた。目の悪い大橋はそれが何なのかすぐにはわからなかったが、それが、映画やドラマでしか見かけたことのない武器――拳銃とわかった瞬間、大橋の思考は停止した。
男は中庭に飛び出したものの、出口がすぐに見つからなかったらしく、足を止め、慌てたようにあたりを見回した。
「キャーッ!」
小さな子どもを連れた母親らしい女性が、男の手に握られた銃を見て甲高い叫び声を上げた。男はその声に、ドキッとしたように動きを止める。同時に、盾や拳銃を構えて武装した警官が十数人、中庭に走り込んできた。
お弁当を広げていた子どもたちは、大橋同様に思考が停止してしまったらしい。皆、凍り付いたように動きを止めてそれを見ている。
「皆さん、伏せてください!」
武装警官が叫んだ。その声に、大橋はようやくハッとすると、目の前で肩を寄せ合って震えている飯田たちを抱え込み、その場に伏せた。
「みなさん、そのままその場に伏せて! 絶対に動かないでください!」
警官の鋭い声が頭上を響き渡る中、必死で子どもたちの頭を腕で覆い隠しながら、大橋は横目で拳銃を持った男の動向に注目する。
大橋たちから数メートル離れた位置に、飯田のグループの子どもたちが敷いたレジャーシートがあり、その上にはお弁当が広げられたままになっている。犯人はそこからさらに十メートルほど先に、右手側にある出入り口を取り囲む警官に対峙する形で横向きに立っている。他のグループはみんな海の見えるテラスやペンギンが飼われている岩山のそばにいて、犯人からは十五メートル以上離れている。どうやら自分たちが犯人に一番近い位置にいるようだ。一番危険な場所にいる子どもたちのそばにいてやれる幸運にほっとしつつも、この先いったい何が起こるのか、大橋はこめかみに強い拍動を感じつつ、目の前の光景に全神経を集中した。
「観念して、投降しろ!」
武装警官が、盾を構えて叫ぶ。
「おまえは完全に包囲されている!」
「うるせえ!」
犯人は叫び返したが、語尾が震えていた。もう逃げられないことは、彼自身も分かっているのだろう。だが、だからと言ってやすやすと捕まる訳にはいかないのだ。まさに「窮鼠」のごとく、犯人は手にしていた拳銃を警官の方に構える。弾は入っているのだろうか? 銃口が、大橋の位置からでもはっきりと分かるほど震えている。そのまま犯人はじりじりと後退しながら、大橋たちの方ににじり寄って来た。
警官たちも銃を構えながら、犯人の動きに合わせてじりじりと包囲を狭める。その息詰まる緊張感に、大橋は渇ききった喉にごくりと唾を送り込んだ。
と、空気が動いた。
いきなり犯人が弾かれたように横っ飛びに駆けだしたのだ。拳銃を構えたまま、先ほど飯田たちが広げたレジャーシートの方へ走り出す。どうやら、タッチプール脇の出口から外へ出るつもりらしい。が、警官もそれは予測済みだったようだ。犯人が駆けだした瞬間、待ってましたとばかりに一斉に飛びかかる。泡を食った犯人が、警官らに向けて闇雲に引き金をひいた。
銃声が一発、水族館上空の曇り空を切り裂くように響き渡った。
子どもたちは身を固くし、息を詰めて頭を抱える。大橋は子どもたちの頭を腕でかばいながら、やはり目をつむって息を止めた。
「離せ、この野郎!」
鋭い怒声に、大橋ははっと目を見開いた。拳銃を持っている方の腕をつかまれた犯人が、今まさに逮捕されようとしている瞬間だった。その周囲を、盾を持った機動隊のような警官たちがたちまちのうちに取り囲み始める。もう逃げる隙はない。
警官たちの足元には、先ほど広げたばかりだった飯田たちの弁当が、滅茶苦茶に踏み荒らされて蹴り飛ばされている。伏せていた子どもたちは、数人がそろそろと顔を上げ、青ざめた顔でその様子を見つめている。
飯田も震えながら、そんな警官や犯人たちに目を向けていた。
確保に動いている警官たちと犯人の周囲を、盾を構えた警官たちが、ぐるりと取り囲んでいる。とても逃げる隙はない。だが、格闘技でもやっていたのだろうか、立派な体格のその犯人は、手にしている拳銃を絶対に手放そうとはしない。その拳銃を手放した瞬間、現時点でもゼロに限りなく等しい脱出の可能性は完全に失われ、破滅が確定するからだ。
「どけ! どかねえと、ぶっ放すぞ!」
「いい加減観念しろ!」
怒号が飛び交い、もみあう警官と犯人の足元で、飯田達の荷物が無残に蹴り散らされ、踏み荒らされる。子どもたちは滅茶苦茶に荒らされていく荷物や弁当を、声もなく見つめていた。
その時。外側を包囲していた警官の足の間から、はじき飛ばされた何かが飛び出してきた。小さなものが、警官たちの肉の盾から二メートルほど離れた位置に鋭く飛んで転がる。
それを目にした飯田は、息をのんだ。
それはあの、富士はやぶさのキーホルダーだった。
警官たちに踏み散らされたせいか、ひしゃげてゆがんでいる気がする。
飯田はごくりと唾を飲み込むと、ちらりと犯人を見やった。外周を取り囲む警官の壁の中で、犯人と警官たちは、まだ激しくもみ合っているようだ。
飯田とキーホルダーの距離は、約三メートル。
犯人や警官達は、自分たちの目的に必死で、周囲に目を向けている余裕はない。
その時、大橋もキーホルダーには気づいていなかった。目の前で展開する緊迫した大捕物に、完全に気をとられていた。
飯田は、大橋の腕の下から外れた位置にいた。しかも、大橋が顔を向けている側とは反対側に伏せていた。
だから大橋は気がつけなかった。飯田がそっと体勢を変えたことに。
次の瞬間、飯田は弾かれたように立ち上がり、駆けだしていた。
「飯田くん!?」
走り出した飯田を見て、大橋は仰天しつつも即座に立ち上がった。飯田はまっすぐに、転がっている富士はやぶさに駆けよる。大橋はそのあとを追う。
警官ともみ合う犯人の視界に、自分の方に無防備に駆けよってくる小学生の姿が映り込んだ。
執拗に殴られ、蹴られ、疲労も限界に達していた犯人にとって、その姿は生きた人間ではなかった。自分の周囲を取り囲む警官の壁を突破して逃げ延びるための、絶好の盾にしか見えなかった。
限界を超えた犯人は、信じられない力を出した。犯人の腕を押さえつけていた数人の警官の手が、ほんの一瞬、振りほどかれる。
鼓膜をつんざくような銃声が鳴り響き、盾を持って周囲を固めていた警官が、頭から血を流しながら重い音を立てて倒れた。
崩れた肉の壁を踏み越えて、銃を構えた犯人は歓喜の表情を浮かべながら、絶好の肉の盾――飯田を捕まえようと手を伸ばす。
キーホルダーを手にした飯田は、その狂気じみた目に射すくめられたように立ちすくんだ。
犯人の行動を阻止すべく、警官が雪崩を打って犯人の体に折り重なる。
絶体絶命の危機に、犯人の冷静な思考は完全に吹き飛んだ。折り重なる警官たちの重みに吐きそうになりながら、状況をわずかでも変えるべく、目の前で立ちすくむ飯田に銃口を向ける。
大橋は息をのむと、立ちすくむ飯田に覆い被さるようにして飛びついた。
次の瞬間。
三発目の銃声が、雨雲のたれ込める水族館上空に響き渡った。