35.悲しげなほほ笑みと別れのキス
町は、静かだった。
いつもは夜半過ぎまでにぎやかな町なのだが、こんな雨の中を出歩くのは億劫なのだろう。人通りもなく、ひっそりと静まりかえっている。
家の中も、十二時頃に大橋が寝た後は暗く静まりかえっていて、トタン屋根をたたく雨音だけが、通奏低音のように響き渡っているだけだ。
そんな静かで暗い部屋の中で、サラは布団に半身を起こして座っていた。
目を閉じてはいるが眠っているわけではなく、じっと何かに意識を集中しているらしい。
屋根をたたく雨音だけが、部屋の静寂に彩りを添えていたが、しばらくの後、ふいにサラの目が開いた。
サラは目を開けたあともしばらくは動かなかったが、何を思ったのか右手を上げると、そのほっそりした指を、なつめ球の薄明かりに透かすようにかざした。
確かな存在感を持って暗闇に白く浮かび上がる、サラの細く優雅な指。
サラはその指先をじっと見つめていたが、ややあってその頬に、ふと悲しげなほほ笑みを浮かべた。
「……そういうことか」
サラは右手を下ろすと、うつむいて黙り込んだ。
長い間、サラはそのまま、横になって眠るわけでもなく、ただ黙ってうつむいていた。そんなサラを包み込むように、薄暗い部屋を揺るがせながら、激しい雨音だけが響きわたっていた。
☆☆☆
この日、大橋は珍しく目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
時刻は五時二十五分。屋根をたたく雨音はせず、時々雀のさえずる声が聞こえてくる。どうやら、雨は上がったらしい。取りあえず遠足には行けそうだ。
――弁当、作らなきゃな。
大橋は立ち上がると布団を畳み、洗面所で手早く顔を洗った。
台所に行って炊飯器を見、「保温」のランプが点灯しているのを確認すると、冷蔵庫からワカメと油揚げを取り出して、まずは朝食のみそ汁から作り始める。
大橋がダシを取りながらワカメを水に戻していると、二階からパタパタと足音が響いてきた。大橋が顔を上げると、サラが降り口からピョコッと顔を出す。
「おはよう、オオハシ」
いつもの、聞き慣れた明るいあいさつ。だが、大橋はなぜだかサラの明るさに違和感を覚えた。よくよく見ると、心なしか顔色が悪いような気もする。
「サラさん、寝てなくていいんですか?」
大橋の問いかけに、サラは台所の入り口で足を止めると、にっこり笑顔を返した。
「もうすっかり良くなった。大丈夫だ」
「……本当ですか?」
疑念満載のその問いにサラは笑顔でうなずくと、ニコニコしながら大橋の側に寄ってきた。
「朝飯のしたく、手伝うぞ」
「いいですよ、病み上がりなのに……。向こうに座っていてください」
「やらせてほしいんだ」
そう言うと、サラは心なしか潤んだ目で大橋を見つめる。大橋は、なんだか急に昨日のことが思い出されてきて、慌てて目線をまな板の上の油揚げに移した。
「じゃ、じゃあ、お願いします。ただ、その前に、顔くらいは洗ってきてください」
「分かった」
サラはうなずくと、素直に洗面所に向かう。大橋は包丁を動かす手を止めると、そんなサラの後ろ姿を心配そうに目で追った。
☆☆☆
「いつもいつも同じで申し訳ないんですけど、今日の昼飯もおにぎりでいいですか? 俺も、今日はおにぎりを持って行くんで……それとも、サラさんはもっと栄養のあるものを自分で作りますか?」
冷蔵庫からおにぎりの材料を取り出しながら、大橋は洗面所から戻ってきたサラに問いかける。サラはいつもの、あの屈託のない笑顔を浮かべた。
「それなら、私もおにぎりがいい。たくさん握らなきゃだな」
大橋は調理台の上に材料を置くと、炊飯器の釜を五徳の上に置いた。サラは大橋と同じように両手を濡らし、塩をしてから、ご飯を手にとって握り始める。
大橋は焼いたシャケをほぐしながら、サラの手慣れた握り方を感心したように見つめた。
「さすがサラさん、手慣れてますね」
「そうか? 初めてなんだが」
「ええ⁉」
大橋はあっという間に一個目を握り終え、二個目に取りかかっているサラの手元をあっけにとられて見つめた。
「……本当なんですか?」
「本当だ」
感心しきったように自分を見つめる大橋の視線に、サラは恥ずかしそうに笑った。
「これでもいちおうは神の分身だからな。人間よりは飲み込みが早いんだろう」
「そうなんですか……」
大橋はため息まじりにサラの手元を見ていたが、気を取り直したように袖をまくると、自分もご飯を手に取った。
「俺も、この三週間の成果をみせなきゃな」
「じゃあ、私がおまえのを握るから、おまえは、私の分を握ってくれるか?」
「分かりました。任せてください」
台所に並んで立つ二人の間に置かれた炊飯器の釜から、温かいご飯の湯気がゆるやかに立ち上っていた。
☆☆☆
「いただきます」
ちゃぶ台の前に座って手を合わせた二人のあいさつが、気持ちよくハモる。
さっそく嬉しそうにシャケをつつき始めたサラを見つめるうちに、大橋はなんだか胸がいっぱいになって、あわてて目を瞬かせた。
「何だ? オオハシ」
「いえ、何だか……嬉しくて」
目をしぱしぱさせながらこう言って笑う大橋を、サラは箸を止めてじっと見つめた。
「あの時は、またサラさんとこうして朝飯が食べられるなんて思っていませんでしたから……戻ってきてくれて、ほんと、嬉しいです」
大橋はしみじみつぶやきながら目元を拭うと、あわてたように目線をつけっぱなしのテレビに向けた。
「……天気予報、やらないですね」
ニュースでは先ほどから、先日逃走した銀行強盗が、東京方面に向かう路線で確認されたことが速報として繰り返し報じられている。そのために天気予報がカットされてしまっているらしい。大橋はうんざりしたようにその画面に目を向けていたが、画面の右端に表示されている天気予報で東京地方の降水確率が三〇パーセントなのを知ると、ほっとしたように表情を緩めた。
「よかった。何とか雨は大丈夫そうだ」
そう言うと大橋は、突然何を思いついたのか、目を見開いて勢いよくサラの方を振り返った。
「……そうだ! 今夜、ごちそうを作りましょう」
「え?」
暗い表情でテレビに見入っていたサラは、大橋のその言葉に驚いたように目を丸くした。
「サラさんが戻ってきてくれたお祝いで、何か滅茶苦茶うまいものを」
サラは戸惑ったように大橋を見つめた。
「……でも、おまえ、今日は遠足とやらに行くんだろ。たいへんじゃないのか?」
「大丈夫ですよ、そんなの」
大橋は事もなげにそう言うと、首を曲げ曲げ考え始めた。
「何がいいかなあ。まあ、確かに帰ってきてからはそんなに時間もないんで、大した物はできないかもしれないけど……簡単で、ごちそう感のあるやつ……」
大橋は考え込んでいたが、ややあって、ぽんと膝を打った。
「よし、決めた!」
「な、何だ?」
やや引き気味のサラに、大橋はニコニコしながら問いかける。
「サラさん、おすしって、食べたことあります?」
「スシ? ……いや、ない。初めて聞く」
「じゃあ、今日はそれでいきましょう! 手巻きずしなら、酢飯と刺身を用意すりゃ簡単ですもん」
大橋は立ち上がって電話のそばからメモ用紙を持ってくると、さっそくそこに買ってくるものをメモをし始める。
「じゃあ、帰りに買ってくるもんは、スシの粉と、刺身と、全形ノリと、……」
サラはそんな大橋を、何とも言えない表情で見つめていた。
「楽しみにしていてくださいね、サラさん!」
「あ……ああ。分かった」
サラは目線を泳がせると、曖昧な笑みを浮かべて小さくうなずく。
大橋は笑顔を収めると、探るような目でそんなサラをじっと見つめた。
☆☆☆
「じゃあ、行ってきますけど……」
リュックサックを背負い、歩きやすい靴を履いた大橋はそう言いかけてから、玄関先に見送りに出てきたサラに向き直ると、その顔をじっと見つめた。
ニコニコして立っていたサラは、そんな大橋を小首をかしげて見つめ返す。
「何だ? オオハシ」
「いや……サラさん、大丈夫ですか?」
「え?」
大橋は目線を落とすと、言いにくそうに口を開いた。
「今朝になって突然、以前のサラさんに戻ったみたいに、やけに明るく振る舞って……もちろん、サラさんが元気になってくれたことは嬉しいんですけど、何ていうか、その……サラさんが、無理をしているような気がして」
サラは黙り込んで大橋を見つめた。
「サラさんは、いつも何でも一人で抱え込もうとするけど、俺は、可能な限りサラさんの力になりたいと思っています。だから、つらい時は素直に言ってください。俺、こんな頼りないやつですけど、少しでもサラさんが楽になるように、俺にできることならなんだってするつもりなんで……。今日だって、もしサラさんが一人になるのがつらいようなら、俺、仕事を休んでもいいです。遠足だけど、たぶん何とかなりますから……」
サラは大橋のその言葉に目を見開き、何か言いかけるように口を開きかけた。だが、その口をつぐんで足元に目線を落とすと、じっと黙り込んだ。
大橋はそんなサラの顔を、心配そうにのぞき込む。
「……サラさん?」
「それはダメだ、オオハシ」
サラは小さく首を振った。
「そんなことをすれば、おまえのマシな人生が台無しになる」
そう言うと顔を上げ、真剣なまなざしで大橋を見据える。
「……しつこいようで申し訳ないが、今一度約束してくれ、オオハシ」
「は、はい」
あわてて居住まいを正した大橋に、サラはかみしめるような口調で、ゆっくりと思いを伝えた。
「絶対に、マシな人生を手に入れる……たとえ私がいなくなっても、絶対に、そのための努力は忘れないと」
厳しい表情でそこまで言うと、サラは目線を落とし、心なしか悲しげなほほ笑みを浮かべた。
「それさえはっきり約束してくれれば、たぶん私は安心できるんだ」
大橋はすぐさま深々とうなずいてみせた。
「約束します」
サラは目線を上げると、その澄んだ大きな瞳で、まるで記憶に刻み込むかのように大橋を見つめた。
「サラさんがいなくなっても、努力を続けます。そうして、絶対に、マシな人生を手に入れます」
「そうか」
サラはホッと息をつくと、表情を緩めた。
「であれば、私も安心できる」
そう言うと、いつもの、あの艶やかなほほ笑みを浮かべた。
「ありがとう、オオハシ」
「いえ……当然です」
そう答えた大橋を、サラは心なしか潤んだ目でじっと見つめた。
「……もうひとつ、頼んでもいいか」
「何ですか」
サラは恥ずかしそうに目線を泳がせると、ささやくように早口で告げる。
「昨日の、あれ……してくれ」
「あれ?」
何のことだか分からず大橋が首をかしげると、サラは頬を赤く染め、怒ったような口調で繰り返した。
「あれだ。あれ」
「いや、あれって言われても……何のことだか」
「だから、その……」
大橋はしばらく首をひねっていたが、恥ずかしそうに口を濁しているサラの様子を見ているうちに、ようやく何のことだか分かったらしい。「あ」と小さく声を上げると、大橋も少しだけ赤くなった。
「やっと分かりました、サラさん」
「……もういい」
いつまでも焦らされたのがよほど恥ずかしかったのか、サラは横を向いたまま、怒ったように吐き捨てる。
「そんなことを言わないで、こっちを向いてください、サラさん」
「いいと言っている」
大橋はいきなり横を向いているサラの肩に手をかけると、強引にその体を自分の方に向けた。驚いたように開きかけたサラの唇を、有無を言わせず自分の口でふさぐ。
サラは大きくその目を見開いていたが、やがて静かに目を閉じると、そっと大橋の背に両手をまわした。
そうして数分間、二人は玄関先で唇を重ね合わせていた。
唇を離すと、サラは恥ずかしそうに下を向いていたが、おずおずと目線を上げると、心なしか悲しげなほほ笑みを浮かべた。
「……ありがとう、オオハシ」
「とんでもない」
大橋は小さく首を振って笑うと、玄関の扉に手をかけた。
「じゃあ、いってきますね。合鍵はいつものようにゲタ箱の鉢の中に入ってるんで、もし何か出かける用事があったら、自由に使ってください」
サラはにっこり笑ってうなずいた。
「オオハシは、今日は遠足とやらで形葉線に乗るんだったな。水族館の駅で降りるのか?」
「ええ」
「なんていう駅なんだ?」
「そのものずばりですよ。葛東臨海水族園」
「そうか」
「石橋さんがいないんで打ち上げもないから、今日はなるべく早く帰ってきます。今夜は手巻きずしですから。楽しみにしていてくださいね」
「わかった」
サラは大橋の目をまっすぐに見つめた。その澄んだ瞳が微かな湿りを帯びている気がして、大橋はハッとした。だが、すぐにサラはそれがまるで見間違いだったかのような明るい笑顔を浮かべると、右手を挙げた。
「行ってらっしゃい、オオハシ」
「……行ってきます、サラさん」
大橋は中途半端な表情でそう言うと、そっと玄関の扉を閉めた。
閉まりゆく扉の隙間からちらりと見えたサラの顔は、やはりどこか悲しげな色をまとっている気がした。
☆☆☆
駅への道を歩きながら、大橋はため息をついた。
あとわずかでこの世から消えるサラをどうやって支えていけばいいのか、大橋は正直見当もつかなかった。少しでも彼女の望みを聞き出し、それを叶えてやりながら、彼女が明るい気持ちで過ごしていけるようにフォローするしかないのだろうが、今朝も果たしてそれができていたのかどうか、大橋は自信がなかった。
扉の隙間から見えた、サラの悲しげな表情が頭を過ぎる。
――戻ろうか。
一瞬、大橋は踵を返しかけた。
だがその途端、大橋の脳裏に、先刻のサラの言葉がよみがえる。
『絶対に、マシな人生を手に入れる……たとえ私がいなくなっても、絶対に、そのための努力は忘れないと』
大橋は動きを止めた。
石橋も入院している今、二学年全児童の顔を曲がりなりにも覚えているのは大橋ただ一人だ。もし自分が休んだら、一組を担当している臨時採用教員と、急遽担当になった他学年の教諭が児童を引率しなければならず、それではあまりにも心許ない。事故でも起きたら、それこそ責任問題になってしまう。
大橋は深いため息をつくと、再び駅へ向かって歩き始めた。