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七福人生  作者: 代田さん
34/39

34.憂鬱な感情とただ一つの思い

 日曜日は、久々の雨だった。

 築五十年のこの家は、雨が降るとトタン屋根をたたく雨音がやけに騒々しい。

 そんな騒々しい、それでいて静かな居間で、大橋は数日分の洗濯物を部屋干ししながら、深いため息をついた。


『甘ったれるな、オオハシ!』 


 頭の中に、昨日のサラのセリフがよみがえる。


『おまえがいくら泣こうがわめこうが、時が来れば私は消える。これは、変えようもない事実だ』


――変えようもない事実、か。


 大橋は、洗濯物を干す自分の指先が震え出すのを感じながら、二階に続く薄暗い階段に目を向けた。

 サラは二階で横になっている。水浴びをし、食物を体に入れたことで体調もだいぶ改善しているようだが、昨日あれだけひどい体調だったこともあり、大橋が今日一日は横になっているように勧めたのだ。

 先ほど朝食を差し入れたので、そろそろ空いたお膳を下げてやらなければいけないが、大橋は何となくサラと顔を合わせにくいような気がしていた。


『おまえが今すべきことは、二カ月後に消える私に甘えることじゃない。現実を見ること、そして、自分の人生を本気で変えようという気概を持つことだ!』


――そんなこと、無理だ。


 大橋はまたため息をつくと、うつむいた。

 サラの言うことはもっともだ。正論すぎるほど正論だ。そんなことは大橋にも、分かりすぎるほど分かっている。

 自分は確かにサラに甘えていた。サラの存在によって自分の人生に対するやる気を出そうなどと、他力本願も甚だしい。自分の人生は自分の責任で切りひらいていかなければならない。それは確かにその通りだし、その点については大橋も大いに反省している。

 だが。


『私なんかいなくても、おまえは一人で十分やっていけるはずだ』


 大橋は右手で顔を覆うと、深いため息をまたひとつ、ついた。


――いなきゃ、ダメだ。


 マシな人生を目指し、心を入れ替えて頑張るつもりではある。だが、それとは関係なく、大橋にとって、サラは必要不可欠なのだ。


『おまえがマシな人生を手に入れようが入れまいが、私は二カ月後……いや、正確には一カ月と十日後、この世から消える』

『そんな存在が、おまえの人生に関与できる訳がないだろう』


 あとわずか一カ月と十日でそのサラがこの世から消える。それは、大橋にとっては即座に受け入れ難い事実だった。

 洗濯物を手にしたまま、大橋は足元をじっと見つめた。


――彼女は俺のことを、いったいどう思っているんだろう。


 それは、以前からずっと気にかかっていたことだった。


『私は、もっとおまえと一緒にいたい』


 サラが熱を出したあの時、泣きはらした目で大橋を見つめながら、確かに彼女はそう言った。

 大橋はその言葉を聞いた時、もしかしたら、サラも自分の存在を求めているのではないか、そんな気がして心が震えた。嬉しかった。信じられなかった。だからこそ大橋自身も、自分のサラに対する気持ちを認識することができたのだ。

 だが、翌日からは一転、サラは大橋に自分が人妻であることを告げ、大橋と距離を取ろうとした。神格を前面に打ち出した彼女に対し、大橋はそんな彼女に恋するなど身分違いもはなはだしいような気がして、諦めて身を引くべきだと思った。

 しかしあの朝。別れ際、電車の窓から見えた彼女の泣き顔。

 加えて、昨日意識が朦朧としていた彼女が口にした、この言葉。


『大好きだ、オオハシ』


 彼女はあの時、確かに意識が朦朧としていた。目の前にいる自分を幻覚だと思いこみ、自分の存在をまともに感知できていない様子だった。

 でも、だからこそ本心が垣間見えたということはないのだろうか。

 大橋はあの言葉を聞いた瞬間、抑えつけていた彼女への思いが一気に吹きだす気がした。もう二度とサラを失いたくないと思った。たとえ何があろうとも、時の許す限り、彼女とともにありたいと思った。だからこそ、曽我部の思いも強引に断ち切ったのだ。

 だが、曽我部の誘いを断った自分に対し、サラは喜びを表すどころか驚愕と戸惑いの表情を浮かべ、泣かんばかりに責め立てた。

 大橋は深いため息をつくと、うつむいた。


――いったい、彼女の本心はどこにあるんだろう。


 手にしていた洗濯物を放り出し、グシャグシャと頭をかきむしる。

 もともとこうした色恋沙汰には疎い大橋のこと、いくら考えても答えなど出る訳もなく、ただ憂鬱ゆううつな感情が、カビ臭い部屋に沈殿する湿気のように重く心にのしかかってくるばかりだった。

 


☆☆☆



 窓に叩きつけられた雨粒がゆっくりと流れ落ちていく様を、布団に半身を起こしたサラは、身じろぎひとつせずにじっと見つめていた。

 体調は回復してきているようで、米粒ひとつ残さずきれいになくなった食器が、枕元にきちんと重ねて置かれている。だが、その表情に明るさはなく、深い物思いに沈んでいるような雰囲気があった。その瞳は、うっすらと涙で潤んでいるようにも見える。


「サラさん、入りますよ」


 その時、ノックの音とともに大橋の声が聞こえた。サラははっとしたように目を見開くと、慌てて目元の水分を擦り取り、居住まいを正す。

 扉が開く音がして、大橋が遠慮がちな雰囲気で部屋の中に入ってきた。


「食べられましたか? サラさん」


 サラは横目で大橋を見やると、小さくうなずいた。


「おいしかった。ありがとう、オオハシ」


 それだけ言うと、また窓の方に目線を向けて黙り込む。

 大橋はなんと言葉をかければいいかもわからず、サラの枕元に座ると、そんな彼女を複雑な表情でじっと見つめた。


「……雨だな」


 突然、サラがぽつりと口を開いた。


「そうですね。本当に久しぶりです。サラさんが来てから、ずっと天気が良かったから……」


 大橋はほっとしたように話を合わせると、サラの表情をうかがいみる。だが、まばたきとともに上下する長いまつ毛以外、彼女の表情を見ることはできなかった。


「でも、明日は何とかあがりそうで助かりました。遠足なんで」


「遠足?」


 サラは怪訝そうに繰り返すと、大橋の方に顔を向ける。会話の糸口を見つけた大橋は、ホッとした表情でうなずいた。


「校外学習……児童が学校外の施設で、遊び……いや、体験学習をする行事です」


「学校外? じゃあ、明日はいつもと違うところに行くのか」


「水族館に行くんです。本当は、もう少し早い時期に行きたかったんですけど、他の学校にいい日をみんなとられちゃって。結局、こんな時期にしか取れなかった」


「そうか……」


 サラはいったんは中途半端な表情でうなずいて見せたが、すぐに首をかしげてこう聞いた。


「オオハシ。スイゾクカンって、なんだ?」


「え?」


 大橋は目を丸くしてサラを見つめた。


「行ったことないですか? サラさん」


 サラは恥ずかしそうな笑みを浮かべてうなずいた。


「ない」


 大橋は久しぶりに見る彼女の笑顔にほっとする半面、切ないような感覚に胸が詰まった。


「じゃあ、今度一緒に行きましょう」


「え?」


 サラは驚いたように大橋の顔を見つめ直した。


「もちろん体調が回復したらの話ですけど、来週末にでもいかがですか? 葛東臨海水族園っていう所なんですけど、形葉線に乗ればすぐですから。あれこれ説明するより、見た方が絶対早い」


 そう言って笑いかける大橋の顔をサラは何とも言えない表情で見つめたが、その投げかけに答えを返すこともなく、顔を窓の方に向けて黙り込んだ。

 会話を途切れさせるまいと、大橋は慌てて言葉を継いだ。


「……よく降りますよね。明日、本当にあがるんですかね。ほんと、雨って気がめいってうっとうしいですよね。洗濯物も乾かないし」


 だが、やはりサラは無言で窓の外を見ているだけだ。大橋は何だか居づらくなってきて、そろそろ食器をさげて一階に下りようかと手を伸ばしかけたとき、ふいにサラが口を開いた。


「雨は、好きなんだ」


 大橋は伸ばしかけた手を止めると、サラの横顔を見つめ直した。

 サラはじっと窓の外に目を向けて、どこか遠くを見つめていた。まばたきの度に上下するその長いまつ毛がほの明るい窓の光に透けて、何だかやけに光って見える。そんなサラの横顔に目を奪われていた大橋だったが、まつ毛の先に水滴のようなものがついていることに気がついて、はっとした。


「雨のおかげで、川は勢いを増すことができる。草や木も潤う。人間は雨が嫌いなようだが」


 静かに語るサラの横顔を、大橋はじっと見つめた。


「雨の間は動物も虫も、じっと木陰や葉陰に身を寄せて耐えている。でも、雨がやんだあとには、以前より生命力を増した草木や川の流れから多大な恩恵を受ける。動物も虫も、それを知っているから文句を言わないんだろうな」


 そう言うとサラは首を巡らせ、大橋に視線を合わせた。


「……今回のことは雨と同じだ、オオハシ」


 大橋は静かに語るサラの顔を、まじろぎもせず見つめた。


「私の消滅で、一時期はおまえもつらいかもしれない。だが、それも一時期だ。時が過ぎれば、きっとまた空は晴れる。その日が来ることを信じて、おまえは投げやりになったり諦めたりせずに、日々の努力を続けてほしい。何があっても、マシな人生を実現させる努力だけは、絶対に忘れないでほしいんだ」


 サラは真剣な表情でこう言うと、心なしかすがるような目で大橋を見つめる。

 大橋はそのまなざしから逃れるように目線を落とした。


「……昨日は、すみませんでした」


 大橋は小さく頭を下げると、少しだけサラの顔に目を向けた。


「確かに俺は、サラさんに甘えてました。サラさんがいないと自分の人生に責任が持てないとか、他力本願も甚だしいです。これからは俺、心を入れ替えて、少しずつでも努力するように頑張ります。でも、……」


 そのこととサラさんが消えることは全然別の話です、という言葉を、大橋が続けて言おうとした時だった。

 サラの目にみるみるうちにあふれた涙が、白い頬を伝い落ちたのだ。

 戸惑ったように自分を見つめる大橋を横目に、サラは喉を震わせて嗚咽しながら、涙にぬれた頬を引き上げて、笑った。


「……よかった」


 サラはしばらくの間そうして涙を落としていたが、やがてその涙を白い指先で拭うと、つぶやくようにぽつりと口を開いた。


「それだけが、心残りだったんだ」

 

 その言葉に、大橋ははっとしたように目を見開いた。


「私が消えることで、おまえの人生に影を落とすようなことになったら、私は何のためにこんなことをしてきたのか分からなくなってしまう。おまえがそう言ってくれて、本当に安心した」


 大橋は言葉を失っていた。

 指先が震え出すのを感じながら、寸刻呼吸することさえ忘れていた。

 彼は今、初めて気がついたのだ。

 サラが今まで、大橋のことだけを考えて行動してくれていたことに。


 サラは自分が二カ月後に消滅することを承知の上で、大橋の願いを叶えるために実体化した。そうして彼の願いを叶えるためだけに行動し、自分のことは全て度外視した。

 熱を出しても大橋を仕事に行かせ、大橋の心が自分に傾きかけたと知るや、あえて距離を取り、神格を前面に出し、大橋が自分から諦めるようにし向けた。そして曽我部との関係が進展して満願が近づくと、大橋を動揺させないためにあえて明るく家を出て、あんな港のタワーで、誰にも知られずたった一人で消えようとしていた。

 全ては、大橋の幸せのために。

 

――それに比べて、自分はどうだ。


 大橋は震える両手を固く握りしめた。

 サラが消える、その事実に怯え、戸惑い、動揺して、彼女にこんなにも心配をかけた。本当は彼女のことを思いやって、彼女の負担を少しでも軽くしてやらなければいけない立場なのに。

 そう。本当につらいのは、サラなのだ。

 二〇〇年間暮らしてきた祠がある日突然撤去され、その二日前に祠を参った酔っぱらいの願いを叶えるために消滅を覚悟で実体化したサラ。今、彼女に残されている時間は最大でも一カ月と数日。人間だって、病気で余命一カ月と宣告されれば動揺し、狼狽し、悲嘆に暮れる。彼女だって消えたいはずはない。本当は、もっと長く存在していたいに違いない。

 そんな彼女を、自分は支えてやらなければいけない立場だったのに。


「……情けねえ」


 大橋は絞り出すようにつぶやくと、きつく奥歯をかみしめた。

 うつむいているその目のあたりから、ポタポタと滴が滴り落ちる。

 サラはそれを見て驚いたようだった。涙を落とす大橋の顔をのぞき込むと、心配そうに声をかける。


「どうした? オオハシ。どこか痛いのか?」


「サラさん……」


 大橋はサラの顔を見ることができなかった。うつむいている顔をさらにそむけると、かすれた声を絞り出す。


「すみません、サラさん。俺、自分が情けなくて……」


「情けない? どうして……」


「俺、自分のことしか考えていなかった。」


 サラは言葉を飲み込むと、大橋を見つめた。


「サラさんがいなくなることが信じられなくて、受け入れられなくて……そんな自分の気持ちにばかり目が向いていた。サラさんはもっとつらいはずなのに、そんなことも全然気づかないで、自分のことばかり考えて……俺は、サラさんを支えてやらなきゃいけない立場だったのに。情けなくて、恥ずかしくて、最低です。サラさんを好きになる資格なんて、こんな俺にある訳がない」


 大橋はやっとのことでそこまで言うと、肩を震わせて涙を落とし続けた。

 サラはしばらくの間、そんな大橋を無言で見つめていたが、やがてふっと優しい表情を浮かべると、その白く細い指を、大橋の震える肩にそっと添えた。


「……泣くな、オオハシ」


 その手をゆっくりと大橋の背にまわすと、涙を落とす大橋をそっと抱き締める。

 温かく柔らかな感触と、爽やかで甘いサラ独特の香りが、大橋の体を優しく包み込む。


「おまえが泣くと、私までつらくなる」


 大橋はおずおずと首を巡らせると、涙にぬれた目をサラに向けた。サラは、そんな大橋に、小さくほほ笑みかけてみせる。


「私は、幸せなんだ」


 サラはこう言うと、静かに目を閉じた。


「あの祠でケヤキと二人でいた時だって、私は幸せだった。幸せだと思っていた。それ以上の幸せを知らなかったんだ。だからおまえと出会ってから、私は毎日、信じられないほど幸せだった」


 大橋は、目を閉じて静かに語るサラを、まじろぎもせず見つめていた。


「おいしい水をごちそうしてもらったり、電車に乗せてもらったり、海を見せてもらったり……」


 サラはゆっくりと目を開いた。その曇りのない瞳で、自分を見つめる大橋をまっすぐに見つめ返す。


「一生懸命朝飯を作ってくれたり、おにぎりを作ってくれたり、うどんを作ってくれたり……」


 大橋もその目をそらさずに、サラの視線を正面から受け止めた。


「ピクニックに連れて行ってくれて、ケガしたら負ぶってくれて、熱を出したら学校を休むとまで言ってくれて……」


 サラの澄んだ瞳から、ぽろぽろと涙の滴がこぼれ落ちる。


「嬉しかった。信じられなかった。幸せだった。毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかった。私は……」


 サラはいったん言葉を切ると、その目を伏せた。だが、すぐにまっすぐに大橋を見つめると、口元に柔らかなほほ笑みを浮かべながら、きっぱりと言いきった。


「私は、おまえが大好きだ」


 大橋はそんなサラを、瞬きすら忘れ果てたように、ただじっと見つめていた。


「私はあの時、おまえの願いを叶えるために実体化する決心をして、本当によかった。だってそのおかげで、私はおまえに出会えたんだから。あのままインドに帰っていたら、私はおまえのことを知らないままだったから」


 そうしてサラは、バラ色の頬にあの優しいほほ笑みを浮かべると、いつものあのセリフを口にした。


「ありがとう、オオハシ」


 その言葉が耳に届いた、瞬間。大橋の心に重くのしかかっていた疑念も、寂寥も、後悔も、全てが光にあてられた霧のように消えうせた。大橋の心に残ったのはただひとつ、目の前のサラを心の底から愛おしく思う、その気持ちだけだった。

 大橋はサラの細い体を、両腕で力いっぱい抱き締め返した。

 サラも少しだけためらってから、大橋の背に回していた手にそっと力を込め、大橋の胸に顔を埋める。

 顔を上げ、見つめ合い、やがてどちらともなく唇を重ね合わせた二人を、次第に激しさを増す雨音が包み込んでいた。

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