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七福人生  作者: 代田さん
33/39

33.甘い期待と変えようもない事実

 大橋とサラが下南沢に返ってきたのは、午後三時を過ぎた頃だった。

 あの後しばらく水分補給を続け、多少動かしても大丈夫な状態になったのを見計らって、大橋はサラを負ぶって二時間かけて自宅に戻ってきたのだ。

 大橋とともに帰ることを、当然サラは拒否した。だが、抵抗する体力もないので、半ば強引に大橋に連れてこられた格好だった。

 サラを負ぶったまま片手で鍵を開け、扉を開けて中へ入る。


「着きましたよ、サラさん」


 背中のサラは、何も言わなかった。じっと目を閉じて、弱々しい呼吸を繰り返しているだけだ。

 大橋は靴を脱ぎ捨てると急いで部屋に上がり、居間の隅に畳んであった自分の布団を広げると、ぐったりしたサラをそこに横たえた。


「大丈夫ですか、サラさん」


 大橋が声をかけても、サラの反応はなかった。そういえば小多急線に乗り換えたあたりから、大橋の問いかけに対するサラの反応はなくなっていた。意識が混濁しているのかもしれない。大橋の背筋に、ゾッと寒気が走った。


「サラさん! しっかりしてください、サラさん!」


 夢中でサラの名を叫び、その肩をたたく。

 と、サラの目が薄く開いた。


「……オオハシ?」


「サラさん……」


 大橋はホッと息をついて、その顔をのぞきこむ。


「ここは……」


「俺の家です」


 その言葉に、サラは困惑しきった表情を浮かべた。


「どうして、私なんかを……」


「言ったでしょう、俺にはサラさんが必要なんです」


 サラは大橋から目をそらすと、硬い表情で首を振った。


「私は……消えるんだぞ」


「消えてないじゃありませんか」


「でも、もうすぐ消える」


 サラは目を閉じると、震えるようなため息をついた。


「私はおまえの満願達成の邪魔をした。満願を待たずに即刻消されても、何ら不思議はない」


 大橋は、いつかサラが言っていた『おまえの願いにそぐわない行為をすれば、私はおまえの前から即刻消えなければならない』という言葉を思い出して、ゾッとした。


「まだ存在しているのが不思議なくらいだ。本体も、いったい何を考えているのか……」


 暗い表情でそうつぶやいたサラの右手に何気なく目を向けた大橋は、息をのんだ。


「……サラさん」


「え?」


「手が……」


「手?」


 その言葉に、サラは自分の手を見ようとしたが、右手を持ち上げることすらままならない。大橋がサラの右手を取り、サラから見える位置に差し上げてみせる。

 それを見て、サラの目も大きく見開かれた。

 大橋の手に包まれているサラの右手は、確かな色味を持ち、透けることなくそこにはっきりと存在していた。もちろん、水浴びをしていないせいでその爪は茶色く変色し、今にも崩れ落ちそうなほど萎びきっていたが、その存在感は確かに、生きている人間のそれと変わりがなかった。

 大橋はサラに右手をかざして見せながら、慌てて足先に目を向ける。

 刺繍の施された靴に包まれたその足も、ジーンズの先から確かにその姿を現している。大橋はサラの右手を持っている自分の手が、わなわなと震え出すのを感じた。


「……ほら、やっぱりそうなんですよ」


 自分の手を見つめていたサラは、大橋の言葉にけげんそうに眉根を寄せる。大橋はそんなサラに、興奮しきった様子でまくしたてた。


「俺のマシな人生には、サラさんがどうしても必要なんです。だから、サラさんは復活したんだ。きっとそうですよ!」


 だが、サラはきつく眉根を寄せたまま、何も言わなかった。

 大橋は持っていたサラの右手を下ろそうとしたが、ボロボロに朽ち果てた爪に気づくと、つらそうに表情を曇らせた。


「……サラさん、フロに入って水浴びをすれば、もう少し状態は良くなりますか?」


 難しい表情で中空を見つめていたサラだったが、その言葉に目線を大橋に向けると、小さくうなずいた。


「多分、状態は良くなると思うが……」


 言いかけて、暗い表情になる。


「私はもう、自分の力で風呂場まで行くことはおろか、自分の体重を支えて立っていることすらままならない。水浴びは、無理だ」


 そう言うと、サラは静かに目を閉じた。


「私の消滅が止まった理由はよく分からないが、なんにせよ私は遅かれ早かれ消える。私のことは、もう放って置いてくれ」


 黙り込んで目を閉じたサラをじっと見つめていた大橋だったが、ふいに立ち上がると、急ぎ足で居間を出て行った。

 程なく大橋は、サラの寝間着と、タオルを二,三枚つかんで戻ってきた。それを足元に放り出すと、着ていたTシャツを脱ぎ始める。

 履いていたズボンのボタンを外そうとしてから、考えなおしたようにその手を止め、再びボタンをかけると靴下だけ脱いで放り捨てる。

 目を閉じていたサラは、大橋が自分の枕元に座った気配を感じて、薄くその目を開いた。

 大橋はそんなサラの肩に手をかけると、そっと上着を脱がし始める。


「……オオハシ?」


 されるがままにパーカーを脱がされながらも、怪訝そうに自分を見つめたサラに、大橋は小さく頭を下げた。


「すみません、サラさん」


 言いながら、大橋は真剣な表情で、サラの爪先がはげないように注意しながらパーカーの袖から手を引き抜いた。


「あれこれ考えている暇がない。こんな勝手なことをして、サラさんは俺のことを嫌うと思うけど……俺は、どう思われても構いません」


 ひとりごとのように言葉を継ぎながら、Tシャツの袖からサラの腕を抜く。


「早くしなければサラさんが死んでしまう。俺はそれだけは、絶対に嫌なんです」


 ためらうようにTシャツの裾をつかんだ手を止めてから、大橋はサラから目を背けると、彼女の首の下に片手を差し入れ、思い切ったようにTシャツを首の方までまくり上げる。

 あらわになる、サラの白く豊かな乳房。

 首をくぐらせてTシャツを脱がせると、大橋は顔を背けたまま、すぐさまバスタオルを体の上に掛けた。そうして、今度は靴を脱がせると、かけてあるバスタオルの下に手を突っ込み、ジーンズのベルトとボタンを外してファスナーを下ろす。そっとその腰に手をかけ、ジーンズを足元まで引きずり下ろす。

 バスタオルの下で、サラは一糸まとわぬ姿となった。

 サラはその間中、あっけにとられたような表情で自分の服を脱がす大橋を見つめていた。


「失礼します、サラさん」


 大橋はバスタオルごと、サラを横抱きにして抱え上げる。


「オオハシ……」


「シャワー浴びますよ」


 短くそれだけ言うと、大橋は急ぎ足で風呂場に向かった。

 足で蹴り飛ばして浴室の扉を開き、脱衣場の足ふきマットの上にそっとサラを横たえる。それから急いで給湯器のスイッチを入れ、シャワーを浴槽に投げ込んで湯を出し、温め始める。

 大橋は横たわっているサラの方に向くと、申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「……俺、ズボン、脱いでもいいですか。このままだと、出る時にいつまでも水が切れなくて、サラさん待たせることになるかもしれないから……」


 そう言うと、恥ずかしそうに目線を落とす。


「やましい気持ちは全然ないつもりなんですけど、男なんで……多分、体が勝手に反応すると思うんです。サラさんがどうしても嫌なら、俺、ズボン履いたままやりますけど……」


 サラは大橋が何を言いたいのかさっぱり分からないらしく、怪訝そうな表情をうかべた。


「なんのことかよく分からないが、そんなことはしなくていいぞ、オオハシ。私のことは、放って置いて……」


 その返答で大橋は、サラに何か聞いても無駄だと悟ったらしい。無言で引き出しからフェイスタオルを一枚出すと、それを口にくわえてズボンを脱ぎ始めた。

 腰にフェイスタオルを巻きつけてから、下着も脱ぐ。部屋の隅に脱いだものを押しやると、大橋はサラを見下ろして大きく深呼吸した。


「……失礼します、サラさん!」


 言い終わると同時に、大橋はサラの体を覆っていたバスタオルを取り去った。

 まるで彫刻のように均整の取れた美しい体が、外気にさらされる。

 大橋はなるべくそれを見ないように顔を背けながら、サラを横抱きにして浴室へ入った。サラを抱きかかえるようにして洗い場に立たせると、体全体でその体を支える。胸に当たるサラのふくよかな乳房の感触に血圧が二次関数的に上昇するのを感じながら、片手で浴槽に投げ込んだシャワーを取ると、放射されているぬるめの湯をサラの背にかけた。


「あっ……」


 瞬間、サラの背がびくりと震えて反り返った。流れ落ちる水流の快感に、その指先が痙攣するように震える。大橋は何だかドキドキしながら、恍惚とした表情のサラを見下ろした。


「気持ちいいですか、サラさん」


「気持ち……いい」


 サラは大橋を潤んだ目で見上げると、荒い息づかいの間から懇願する。


「頭から……かけて……」


 大橋はそんなサラの様子に、予想通り反応しまくりの下半身をどうすることもできないまま、言われたとおり頭からシャワーをかけてやる。


「あぁっ……」


 なんとも色っぽい吐息が、サラの口から漏れる。

 大橋はドキドキしながらそんなサラに目をやり……その目を大きく見開いた。

 水流が彼女の頬を流れ落ちた、瞬間。まるで映像を逆回転で見ているかのように、サラの乾ききってひび割れた肌が修復され、たちまちのうちに艶やかな張りをたたえていく。髪も水流にさらされるたび、パサパサだった毛先があっという間に艶と張りを取り戻し、みずみずしく潤うのがはた目にも明らかに分かった。

 水の滴る指先に目を向けると、もうすっかり以前のままの、桜貝のようにピンク色に輝く美しい爪先に戻っている。


――本当に、女神様なんだな。


 サラが女神である明らかな証拠を目の当たりにした大橋は、シャワーのノズルを握りながら、水流に触れるたびに魔法のように生まれ変わっていく彼女を、ぼうぜんと見つめるほかはなかった。



☆☆☆



 サラの体を拭いて、寝間着代わりのジャージとTシャツを着せ終えると、大橋は自分の欲求を抑えきった安心感に、自分で自分を褒めながら深いため息をついた。

 相変わらず元気な下半身が痛くて痛くてたまらないのだが、目の前に横たわっている生き返ったようなサラの姿に、そんな苦痛はもうどうでもいいような気がした。


「良かった、サラさん」


 大橋がそう言ってサラの顔をのぞき込むと、サラは恥ずかしそうに目線をそらした。ようやく体のほてりが収まって、平常に近い精神状態に戻ったのだろう。サラは大橋の顔から目をそらしたまま、小さな声でこう言った。


「……ありがとう、オオハシ」


 大橋は思わず笑みがこぼれた。


「そのセリフ、また聞けて嬉しいです」


 そう言うと、おずおずと目線を戻したサラの髪を、愛おしそうに優しくなでる。


「もう聞けなくなったら、どうしようかと思った」


 言いながら、大橋はサラを改めて見やった。

 みずみずしい張りをたたえた白い肌。すっかり乾いた亜麻色の髪は毛先一本一本に至るまで艶やかに輝き、桜貝のような爪はピンク色に輝いている。顔色は栄養不足もあってさすがにバラ色とまではいかないまでも、先ほどまでとは比べものにならないくらい元気を取り戻したサラの様子に、無理にでも水浴びをさせてよかったと、大橋は心底ほっとしていた。


「何か少し、おなかに入れましょう」


 大橋はそう言うと立ち上がった。


「どんなものなら食べられそうですか? サラさん」


 サラはそんな大橋を戸惑ったような表情で見上げてから、ぽつりと口を開いた。


「おにぎり……」


「え?」


「おまえの、おにぎりが食べたい」


 大橋は嬉しそうに顔をほころばせると、うなずいた。


「分かりました。ご飯が炊けるまでちょっと時間かかりますけど、待っていてください」


 台所に立ち、炊飯釜を取りだして米を研ぎ始めた大橋の後ろ姿を、サラは複雑な表情で見つめていた。



☆☆☆



 大橋は三合、米を研いだ。

 その三合分の米が全てなくなる勢いで、サラはひたすら大橋のおにぎりにかぶりついた。

 みそ汁を口にしながら、大橋はそんなサラをほほ笑ましく見やっていたが、皿にまだ十個ほど残っているおにぎりに目をやると、何を思いだしたのかクスっと笑った。


「……俺が初めて握ったおにぎり、覚えてます?」


 サラはおにぎりを口にしながら、ちらっと大橋に目を向けた。


「まるでサッカーボールみたいな不格好なやつしかできなくて……あれと

比べたら、ずいぶんマシになりましたよね。形もそろうようになったし、時間も早くなったし」


 皿に整然と並んだ三角おにぎりを見やりながら、大橋は感慨深げに言葉を継いだ。


「料理も、洗濯も……ひと通りのことはそれなりにできるようになった。サラさんのおかげです。ほんと、感謝してます」


 サラはおにぎりを食べる手を止めると、そう言って頭を下げる大橋を黙って見つめた。


「……でも結局、一人のときは何もやらなかったな」


 ひとりごとのようにつぶやくと、大橋は自嘲的な笑みを浮かべた。


「サラさんがいなくなったこの三日、俺の生活は、まるっきりサラさんが来る前に逆戻りしていた。一人だと、何をする気にもなれないんです。別にどうでもいいやって……。誰かがそばにいてくれるからこそ、やる気も出るし、頑張れる。俺は今まで、サラさんがいてくれたからこそ頑張れた。この三日間で、つくづくそう思ったんです」


 大橋はそう言うと、サラをまっすぐに見つめた。


「俺には、サラさんが必要なんです。サラさんの消滅が止まったのは、きっと俺のマシな人生のために、サラさんが必要だと判断されたからだ。俺はそう思います」


 サラはおにぎりを片手に持ち、大橋の視線を静かに受け止めていたが、やがて静かに首を横に振った。


「……それはない、オオハシ」


「どうして……」


「言っただろう、おまえがマシな人生を手に入れようが入れまいが、私は二カ月後……いや、正確には一カ月と十日後、この世から消える」


 大橋は言葉を飲み込むと、じっとサラの長いまつ毛を見つめた。


「そんな存在が、おまえの人生に関与できる訳がないだろう。私の消滅が止まったのには、恐らくなにか別の意味がある。おまえの人生にとって、何かもっと、重大な意味が……」


 サラは言葉を止めると顔を上げ、大橋をまっすぐに見つめた。


「それに少なくとも、ひとつは理由が分かった」


「え?」


 サラは気迫のこもった目でまるでにらみ付けるように大橋を見ながら、重々しく口を開いた。


「私がいなければマシな生活を維持できないようでは、ダメなんだ」


 大橋はその言葉に、心臓をわしづかみにされた気がした。


「私なんかがいなくても、一人でもしっかりやっていける……恐らく、そのレベルにまで達することが求められているんだろう。その点で、おまえはまだまだ不十分だった。だからきっと、私はやり直しを命じられたんだ」


「そんな……」


「しっかりしろ、オオハシ」


 サラは大橋をにらみ付けながら、低い声で言葉を継ぐ。


「私なんかいなくても、おまえは一人で十分やっていけるはずだ」


 大橋は険しい表情で語るサラを無言で見つめた。


「おまえはそのための能力も技術も身に付けている。日常的にそれを生かすことによって、おまえは確実にマシな人生を手に入れることができる。私がいなくても、それは十分可能なはずだ」


「……気持ちの問題なんです」


 黙ってサラの言葉を聞いていた大橋が、そこでぽつりと口を開いた。


「いくら能力や技術があっても、やろうという気が起きない限り物事は変化していかない。俺はサラさんがいてくれたからこそ、そのやる気を出すことができた。サラさんがいなかったら、そんな気持ちになれるかどうか……俺は正直言って、自信が、ない」


 大橋はそこまで言うと、切羽詰まったような顔でサラを見た。


「だからサラさん、お願いです。消えないでください。俺のマシな人生のために、ずっと……」


「甘ったれるな、オオハシ!」


 突然、鋭い声でサラが叫んだ。矢のように鼓膜に突き刺さったその迫力に、大橋は息をのんで身を固くする。


「おまえがいくら泣こうがわめこうが、時が来れば私は消える。これは、変えようもない事実だ。その事実を直視もせずに、甘い期待にすがったところで無駄だ。おまえが今すべきことは、二カ月後に消える私に甘えることじゃない。現実を見ること、そして、自分の人生を本気で変えようという気概を持つことだ!」


 サラは肩で息をしながら言葉を切ると、怖いくらい真剣なまなざしで大橋を見つめた。

 大橋は、自分の指先が震えているのを感じた。

 突きつけられた現実の重さに、何を言うこともできなかった。動くこともできなかった。ただ黙って、自分を見つめるサラの視線を受け止めることしかできなかった。

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