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七福人生  作者: 代田さん
31/39

31.正夢と再会

 朝の光がカーテンの隙間から細く差し込む部屋で、大橋は布団に横たわったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。

 あれは多分、夢だったんだと思う。

 頬に冷たいような感触を覚え、慌てて手でこすってみる。


――涙?


 確かに、いやに現実味のある夢だった。

 灰色っぽい海と、ガラス張りの展望台。どこだっただろう? 行ったことのある場所のような気がする。行き交う顔のない人々の間から、その片隅に座り込んでいる人物の姿が見え隠れしている。

 その人物は疲れ切ったように壁にもたれ、ガラスの向こうに広がる海をぼんやりと眺めている。

 ぼさぼさに乱れた髪が、青ざめた顔の半面を覆っている。片方だけ見えているその目は虚ろで、唇も乾ききって色味がない。彼女が着ているパーカーは泥だらけで、靴跡があちこちについている。体の両脇に力なく投げ出された腕の先にあるはずの手は、なぜだかぼんやりとかすんでいて、はっきり見えなかった。前方にまっすぐに伸ばされているジーンズの先にあるはずの足先も、手と同様によく見えない。

 それは確かに、大橋がよく知っているあの人物のはずだ。

 だが、どうしてあんなにも変わり果てた姿なのだろう?

 大橋は彼女のそばに行こうとした。だが、行く手を遮るように目の前を横切る人波に邪魔をされ、なかなか前へ進むことができない。大橋は声を出そうとした。だが、なぜだか喉からは、かすれた音が出るのみだった。


『オオハシ……』


 大橋の鼓膜を、あの懐かしい声音がかすかに揺さぶる。


『……さようなら、オオハシ』


 彼女はゆっくりと目を閉じた。ふせられた長いまつ毛に押し出された涙が、やつれた頬を伝って流れ落ちる。

 大橋は平泳ぎでもしているように必死で腕を動かし、人波を強引にかき分けて彼女の側に行こうとした。だが、なぜだか一向に彼女のそばに近づけない。思い余って、大橋は叫んだ。声は出なかったが、心の中で力いっぱい叫んだ。世界で一番愛おしい、彼女の名前を。

 その瞬間、はたと目が覚めたのだ。

 大橋は両手で顔をおおい、深いため息をついた。

 どうしてあんな夢を見たんだろう。

 彼女のことは諦めたはずだ。彼女の話が真実なら、彼女はもうインドに帰り、今頃は夫である人物(神?)のもとで幸せに暮らしているに相違ない。自分にはもう出る幕などないはずだ。


――全く、諦めが悪すぎる。


 こんな夢を見たのはきっと、彼女のことは諦めたといいつつ、心の底では諦め切れていない自分がいるからなのだろう。大橋は潔さのかけらもない深層心理を見せつけられた気がして、何だかやけに情けなかった。

 大橋は目線を移した。見上げた柱時計の針は、七時二〇分を指している。


――起きるか。


 大橋は起き上がると、肩を回して気分を切り替えた。

 今日は土曜日。これから大事な予定が入っている。くさくさした気分は切り替えなければならないのだ。



☆☆☆



 大橋はラップで包んで冷凍しておいた飯を電子レンジで解凍すると、茶碗に盛り、卵を一つ割り入れた。しょうゆをたらし、箸でかき混ぜながらちゃぶ台の前に座る。

 みそ汁のひとつも作ればいいのだろうが、サラがいない今、何かしようという気は起きなかった。洗濯も、三日分が洗濯機に放り込まれていたのを、今やっとまわしはじめたところだ。この数日、夕食もコンビニ弁当ばかりだったし、何だかすっかりサラが来る以前の自分に戻ってしまったと、卵かけご飯をほおばりながら大橋は苦笑した。

 つけっぱなしのテレビからは、さっきからニュースのアナウンサーが何やら一生懸命に喋っている声が聞こえてくる。


『オ、オオハシ、この人、どうやってこの中に入ってるんだ? しかも、いきなり山に行ったり、町に行ったり……この箱も、神なのか?』


 テレビに興奮して、バラ色の頬をますます赤く染めて問いかけてきたサラの顔がふっと頭を過ぎり、大橋は思わず箸を止めた。

 目線を上げて、ちゃぶ台の向かい側に目を向ける。

 そこには当然のことながら誰もいない。煤けた壁と、安っぽいプラケースが見えるだけだ。

 大橋はため息をつくと、目を閉じてうつむいた。

 諦める諦めるといいながら、結局あれからずっとこんな調子で、ふとした拍子にサラを思い出してばかりいる自分が情けなかった。


「昨日午後二時半頃、埼玉県○○市△△でみずは銀行△△支店が拳銃を持った男に襲われた事件で、犯人は拳銃を持ったまま逃走中との情報が入っており、周辺各地の警察では、警戒を強めています……」


 大橋は顔を上げると、テレビ画面に目を向けた。画面には、犯人の逃走経路を予想した画像が映し出されている。

 その画像の右下に、ほんの少しだけ映し出されている形葉線の文字。

 それを見た大橋はふと、あの朝サラが口にした問いかけの言葉を思い出した。


『オオハシ、形葉線ってどこから乗るんだったかな』


 そして、これからどうするか尋ねた大橋に、彼女は曖昧な笑みを浮かべながらこんな言葉を返した。


『ん? ……まあ、人間界もこれで見納めだからな。どうせ姿は見えないし、適当にフラフラしてみるか』


 大橋は大きく目を見開いた。

 昨夜、夢で見たあの場所。あれは確かに、茅葉みなとの展望タワーだった。

 大橋は食べかけの卵ご飯を放り投げると、弾かれたように立ち上がった。

 が、すぐに動きを止めると、バカバカしい想像を振り払うかのように慌てて首を振る。


――いや、まさか。そんなこと、ある訳がない。


 自分の想像はあまりにも飛躍しすぎている。あれは単なる夢で、現実に結びつく可能性も必然性も、何ひとつない。恐らくサラに対する自分の思いが高じた結果、ああいう夢として現れただけの話だ。そんなことは大橋にだって、分かりすぎるほど分かっている。

 でも、それにしては、あまりにも生々しい夢だったのだ。


『私は、神だ』


 そう言って艶やかにほほ笑んだサラの顔が浮かぶ。


――相手は神様だ。何が起きたって不思議じゃない。

 

 大橋は時計を見上げる。八時十分前。曽我部との約束の時間は十一時。三時間あれば、往復することくらい可能なはずだ。間に合おうが間に合うまいが、とにかく大橋はいても立ってもいられなかった。とにかく現地に行って事実を確認しないことには、何だかおかしくなってしまいそうな気がした。

 食べかけの卵ご飯をちゃぶ台に放り出したまま、大橋は洗面所に駆け込むと、ものすごいスピードで支度を始めた。


 

☆☆☆



 周囲に人の声がし始めた。どうやら、タワーが開館したらしい。

 サラは閉じていた目を薄く開くと、目だけでゆっくりと周囲を確認した。

 飲まず食わずで過ごして、丸三日になる。空腹と喉の渇きに加えて、水浴びをしていないことが体にこたえていた。パサパサに乾ききった唇やひび割れた耳や頬には血が滲み、髪も少し力が加わっただけでぞろぞろと抜ける。すでにその存在は確認できないが、手指などはもし存在していたら、恐らく爪がはがれ落ちていただろう。


――存在の消滅を待たずして、死ぬかもしれないな。


 ぼんやりとそんなことを考えながら、サラは再び力なくその目を閉じた。

 せめて死ぬまでの間、サラは思い出していたかった。

 大橋との楽しかった日々を。

 電車に一緒に乗った日のこと、一生懸命に食事の支度をしてくれた様子、ピクニックに行った日のこと、熱を出したあの日のこと……。


――本当に、幸せだった。


 乾ききったその目には、もう涙一滴分の水分すら残っていないのだろう。泣き笑いのような表情を浮かべたまま、サラの意識は再び遠くなっていった。



☆☆☆



 いらいらしながら開館を待っていた大橋は、扉が開くやいなや展望タワーの中に駆け込んだ。

 またやってしまった。開館時間を考えていなかったのだ。結果、三十分近くタワーの前で開館を待つ羽目になってしまった。大橋は開館を待つ間中、時計とにらめっこをしながらタワーを見上げてイライラし続けた。

 曽我部には一応、三十分ほど遅れるかもしれない旨をラインに入れておいた。自分の中途半端な気持ちのせいで、曽我部にも迷惑をかけてしまった。何としても、今日で自分の気持ちに区切りをつけなければならない。大橋は入場券を購入すると、決意も新たにエレベーターに一番乗りで乗り込んだ。

 階数表示を見上げている大橋の頭に、初めて彼女とここへ来た時のことが浮かんでくる。

 あの時、自分はここに彼女を置いていくつもりだった。だが、結局、とんぼ返りをして彼女を迎えに行った。今と同じように、緊張しながら階数表示を見上げていたことを、まるで昨日のように思い出す。

 四時間ほど放置されたにもかかわらず、迎えに来た自分のことを、あの時、彼女は笑顔で迎えてくれた。

 今回は四時間なんてものではない。丸三日たっている。しかも、彼女がこの場にいる可能性は、あの時とは比べ物にならないほど低い。なにせ、自分がここに来た理由が、「そういう夢を見たから」ということだけなのだから。だが、ここにいなければ別にそれでも構わない。とにかくこの目でその事実を確かめなければ、いてもたってもいられなかった。その切迫感や焦燥感は、あの時に感じていたものと全く同じだった。

 エレベーターの扉が開き、薄曇りの空と灰青色の海面が大橋の眼前に広がる。

 大橋はエレベーターホールを飛び出して展望室に駆け込むと、左右を見渡した。サラの姿は見あたらない。大橋は取りあえず、右方向に走り始めた。

 あの夢では確か、彼女はベンチではなく壁際に寄りかかるような位置に座っていた。ベンチでは、姿の見えない彼女の上に他人が腰掛けてしまうからだろうが、そういうあたりも何だかやけに現実味のある夢だった。まあ、彼女の姿が他人に見えないという事実自体は、非常に現実味の薄いことではあるのだが。

 走るにつれて、カーブした進行方向の先が少しずつ見えてくる。必死で目を凝らしながら大橋がさらにスピードを上げた、その時。行く手に見え始めた太い柱の影に、まくり上げたジーンズの裾のようなものが見えているのに気がついた。だが、そのジーンズの先にはなぜか足先はなかった。暗灰色の床が、そのまま見えているだけだ。

 大橋はスピードを落とすと、そのジーンズの裾をじっと見つめた。

 距離が近づくにつれて、そこに座っている何者かの上半身が見えてくる。灰色のパーカーのようなものを引っかけ、手を体の脇に下ろしているのだが、不思議なことにパーカーの袖先にあるはずの手も、足先と同様に見あたらない。

 距離が近づくにつれて明らかになってくる、乱れた髪ときゃしゃな肩、心持ち右に傾けられた横顔。大橋は体中の神経という神経を研ぎ澄ませながら、その人物の正面に回り込み、意を決してその人物の姿を視界にとらえた。

 その瞬間。大橋は目を見開いて息をのんだ。言葉を失った。

 いや、言葉どころか、あまりの衝撃に、拍動を除くすべての身体機能が数十秒間停止した。

 その人物は紛れもなく、サラだった。

 そしてその姿はまさに、あの夢で見た彼女そのものだった。

 いつもきれいにまとめ上げられていた亜麻色の髪はばさばさに乱れ、青ざめた顔の半面を覆っていた。力なく閉じられた目に、色味のない唇。靴跡だらけの薄汚れたパーカーは肩が落ち、体の両脇に下ろされている手は、もはやその存在が確認できなかった。ジーンズの先にあるはずの足先も、あの刺繍の入った異国風の靴ごと消えている。

 大橋は背筋を往復する戦慄に呼吸すら忘れ果てて、変わり果てたサラの姿をぼうぜんと見つめた。すぐに何とかしなければいけないことは分かっているのに、あまりのことに思考が混乱して、どうすればいいのかわからなくなっていた。

 と、大橋の気配を感じたのか、サラのまぶたがわずかに動いた。

 大橋ははっと息をのみ、思わず身を固くする。

 薄く開かれたサラの目が、あたりの状況を確認するようにゆっくりと移動を開始する。展望台の奥の方から、通路を挟んだ向かい側にある売店、観光客の行きかう通路……その視線が自分の方に近づいてくるにつれ、緊張を感じた大橋はごくりと唾を飲み込んだ。

 通路をなめるように移動してきたサラの視線が、大橋の膝のあたりで一瞬止まり、やがてゆっくりと上昇を開始する。

 よれよれのカーゴパンツから、くたびれたTシャツ、肩、首もと、口、鼻と移動し……やがて、大橋の目で、その視線がぴたりと停止する。

 大橋は息を詰めて、その焦点の合わない視線を受け止めた。

 大橋の目をぼんやりと見つめたまま、それでもサラはしばらくの間、何も言わなかった。表情すら動かさず、半ば放心したように大橋の目を見つめていたが、ややあってその口元に、ふっと自嘲的な笑みを浮かべた。


「……驚いたな」


 その小さな声は見る影もなくかすれて、あの鈴のような美声とはほど遠かった。なんだか胸が押し潰されるような気がして、大橋は思わず顔をゆがめた。


「死ぬ間際になると、こんなにはっきりした幻覚が見えるものなのか……。まるで、本当に目の前にいるみたいだ」


 そう言うとサラは、悲しげなほほ笑みをその乾ききった頬に浮かべた。


「たとえ幻覚でも……嬉しい」


 わずかに残された力を振り絞るようにして、震える腕を大橋に差し伸べる。その腕の先にあるはずの手は、すでに跡形もなく消え去っていることが、大橋の目にもはっきりと見て取れた。


「オオハシ……」


 うわごとのように自分の名をつぶやきながら弱々しくほほ笑むサラを、大橋は震える両手を握りしめ、息を詰めて見つめた。 

 サラはそんな大橋に見えない手を差し伸べながら、かすれた声でささやいた。


「……大好きだ、オオハシ」


 その瞬間。

 大橋は、今まで抑えつけていた全ての感情が、一気に吹き出す気がした。


「……サラさん!」


 気が付くと、大橋は両手を差し伸べているサラの体を、力いっぱいその腕で抱き締めていた。

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