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七福人生  作者: 代田さん
30/39

30.叶わぬ恋と消える指先

 新宿駅は、一日中人の波が絶えない。

 ラッシュのピークを過ぎたこの時間も、電車から吐き出された人の波が、怒濤のように改札口に押し寄せる。

 その人波の中を、サラは歩いていた。

 携帯画面を見ながら歩いている中年男性の後ろにぴったりとついて、注意深くスピードを合わせて歩いている。

 と、その中年男性を追い抜こうとしたのだろう、若い男が小走りで中年男性の背後に近づき、その右脇を抜けた。

 サラは、その若い男と中年男性に挟まれるような格好で足を取られ、転倒した。

 だが、若い男も中年男性も、周囲の人波も誰一人それに気がつかない。若い男は

何事もなかったように中年男性を追い抜き、中年男性も携帯から顔も上げずに歩き去っていく。

 転倒したサラは慌てて立ち上がろうとした。だが、後ろから来たOLらしき女性が、そんなサラの腕を無表情にハイヒールで踏みつける。鋭い痛みに、サラは息をのんだ。その後からきた男子高校生が、そんなサラの横面を蹴り飛ばす。その後からも老人、中年女性、サラリーマンらが次々に押し寄せ、サラを踏みつけ、蹴飛ばし、踏み越え、何事もなかったように歩き去っていく。

 サラは何とか人波を抜けると、壁際に身を寄せて肩で息をした。バラバラにほつれて顔にかかる髪をかき上げると、口元の血を拭いながら天井にぶら下がる案内表示を見上げる。

 白い案内板に表示された、『忠央線→』の文字。

 脱げかかった靴跡だらけのパーカーを羽織り直すと、サラは再びよろよろと歩き始めた。



☆☆☆



 曇天の広がる町並みを見下ろしながら、大橋は深いため息をついた。

 中休み。この学校は校庭が狭いので、休み時間は屋上も子ども達の遊び場として開放している。危険行動回避のために教師が輪番で見張りに立つのだが、今日は大橋がその当番だった。

 金網のフェンスに寄りかかり、所在なげにたたずむ大橋の周囲では、子どもたちが歓声を上げながら元気いっぱいに駆けまわっている。

 だが、大橋の目にはそんな光景などまるで映っていない。

 大橋の目に浮かんでくるのは、今朝がたのサラの顔だけだった。

 涙を流しながら大橋を見送った、あの寂しげな表情。

 大橋はきつく奥歯を食いしばった。

 自分が、許せなかった。

 どうしてあの時、次の駅で電車を飛び降りて、彼女のところに舞い戻らなかったのかと。

 列車が駅に停車するたび、そうしようと思ったのは事実だ。実際、足を一歩、駅のホームにのばしかけた時もあった。だが、結局すし詰めの電車に揺られながら、彼は最後まで途中下車することはなかった。


『おまえが信じていようがいまいが、私はあの祠の神であり、おまえの願いを叶えるために今、ここにいる』


 彼女は、自分のマシな人生を実現するために実体化したと言った。あの時、あの祠に参った自分の願いを叶えるためだけに。

 今、自分が仕事を放り出してこの電車を降りることは、彼女のその思いを無にすることにつながるのではないか。その疑念が頭をよぎり、大橋の足は動かなくなってしまったのだ。

 加えて、あの言葉。


『私は、人妻なんだ』


 彼女がもし本当にサラスバティという神であるなら、彼女にはブラフマーという夫がいる。不倫、しかもその相手が神様という、とんでもなく大それた事に手を出せるほど大橋の神経は太くない。否、それが彼女の騙りであったとしても、そんなウソをつくということからして、自分とそういう関係にはなりたくないという彼女の思いが透けて見える。

 しょせん、叶わぬ恋だったのだ。

 大橋は再び、深いため息をついた。

 さっきから何度もそう思って諦めてみるものの、そのたび別れ際のサラの泣き顔が頭の中によみがえってきて、本当は彼女も自分を求めていたのではないか、そんな期待めいた疑念がむくむくと沸き上がってくるのだ。


――全く、往生際が悪すぎる。


 大橋は自嘲的な笑みを浮かべると、滅茶苦茶に頭を掻きむしった。朝から何度、この堂々巡りを繰り返していることだろう。授業にも全く身が入らず、今日は朝からボロボロだった。いい加減、頭を切り替えないとマシな人生どころの話ではない。大橋がなんとか気分を変えようと、大きく息を吸い込んだ時だった。


「大橋先生」


 ふいに鼓膜を貫いた、涼やかな声。大橋は思わず吸い込んだ息を止めると、あわてて声の方に顔を向けた。

 そこには、紺のジャケットにベージュのスカートを合わせ、ストライプのシャツを爽やかに着こなした曽我部春菜の笑顔があった。


「大橋先生、今日当番だったんですね」


 曽我部はにこやかにそう言うと、金網に寄りかかるようにして大橋の隣に並ぶ。ピンクのリップが、爽やかな装いに華を添えている。仄かに香る、甘い鈴蘭の香り。大橋は慌てて緩みかけていたネクタイを締め直すと、居住まいを正した。


「昨日の話、どうなりました?」


 その言葉に大橋は息をのむと、おずおずと曽我部の顔を見た。曽我部は、心なしか不安そうな表情で足元のコンクリートを見つめている。


「それは……」


 大橋はしどろもどろに言葉を濁す。なんだかいろいろありすぎて、すっかり思考の圏外になってしまっていたからだ。曽我部はそんな大橋の様子に何を感じたのか、寂しげにほほ笑んだ。


「大丈夫ですよ、無理されなくても。大橋先生がダメなら、友だちを誘って行きますし……」


 曽我部はそう言って長いまつ毛を伏せると、黙り込む。

 大橋は慌てて唾を飲み込むと、上ずった声を張り上げた。


「……だ、大丈夫です!」


 その声があまりに大きかったので、周囲で遊んでいた子どもたちが目を丸くして大橋を見やった。

 曽我部はちょっと赤くなると、慌てて声を潜めてたしなめる。


「大橋先生、声大きいですよ」


「あ、す、すみません」


 慌てて声のボリュームを絞る大橋の様子に、曽我部は耐えきれなくなったようにクスクス笑った。


「じゃあ、都合つけられたんですか?」


 嬉しそうにこう問いかける曽我部から、大橋は微妙に目線をそらしてうなずいた。


「は、はい。何とか……すみませんでした、お返事が遅くなってしまって」


「いいですよ。でも、無理されたんじゃないですか?」


「いえ、全然大丈夫です」


「そうですか。じゃあ、土曜日の十一時に、新百合の改札口でいいですか?」


「はい」


 曽我部は言葉を切り、じっと大橋を見つめている。大橋はその視線に気づくと、そらしていた目線をおずおずと合わせ、曽我部を見やった。


「……よかった」


 ため息まじりにそう言ってほほ笑んだ曽我部の表情に、大橋は思わず心臓が跳ねた。


「楽しみにしてます、大橋先生」


「あ、お、俺の方こそ……よろしくお願いします」


 曽我部はにっこり笑うと一礼し、きびすを返して屋上出入り口へ歩いていく。大橋は曽我部の後ろ姿を眺めながら、かたく拳を握りしめた。

 サラに対する思いがいくら深かろうが、それが成就する見込みはゼロだ。サラがあれほど望んでいた「マシな人生」の実現のためにも、実現不可能な思いに足をとられているわけにはいかない。無理にでも断ち切らないことには、前には進めないのだ。


――忘れよう。


 金網の向こうに広がる町並みに目を向けると、吹き渡る風に眼を細めながら、大橋は思いを振り切るように大きく体を伸ばした。



☆☆☆



 港に立つタワーの上空は、薄い雲に覆われていた。

 展望台のエレベーターの扉が開くと、数人の客がホールに降り立つ。

 サラはそんな客たちに混じって、右足を引きずりながらエレベーターを降りた。

 その途端、サラの視界いっぱいに広がる灰色がかった海の青。サラは思わず足を止めると、放心したようにその青を見つめた。

 と、その後ろから女と腕を組んで歩いてきた男の肩が、立ち尽くすサラに思い切りぶつかった。

 サラは突き飛ばされるような格好で床に倒れ込んだ。よろめきながら立ち上がると、あわてて人と接触しない壁際の隅っこに身を寄せる。

 サラは小さく息をつくと、もう一度ガラスの向こうに広がる穏やかな海に目を向けた。

 灰色がかった海面が、穏やかな風にゆったりと凪いでいる。

 サラはなんだか泣き出しそうな表情でほほ笑むと、壁にもたれかかり、そんな海を放心したように見つめた。

 しばらくはそうして動かなかったが、何に気づいたのか、サラはふいに自分の手を目の前にかざした。

 パーカーの袖先にあるはずの、サラの白く細い指先。その指先が、まるで空気に溶けてしまったかのように透けていた。あの桜貝のような爪は白い壁とほぼ同じ色に染まり、その向こう側に、ガラスの外の海面がわずかに透けて見えている。

 消えかけた指先を見つめるサラの口元に、悲しげな笑みが浮かんだ。

 穏やかに凪いでいる海の上を、カモメだろうか。鳥が二,三羽、緩やかな弧を描きながら横切っていった。

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