3.鉄ちゃんと美女
朝六時。
ほの明るい部屋に、けたたましく目覚まし時計のベルが鳴り響く。
大橋はぱっと目を覚ますと、目覚ましを止めて飛び起きた。枕元に置かれた眼鏡をかけると、すぐさま机の上のパソコンを立ち上げる。
洗面所に駆け込み、顔を洗ってヒゲをそり、歯を磨く。終わるやいなやトイレで用を足し、Tシャツを着てジーンズを履いて身支度を調える。
素早い。昨日までの彼とは明らかに行動のキレが違う。いやもう、まさに生まれ変わったような身のこなしだ。昨日副校長にあんなことを言われたせいなのか、曽我部に笑われたのがよほどショックだったのか……。とにかく、これまでの彼とはまるで別人のようだ。
大橋はプラケースの引き出しを開けると何かを取りだした。黒くて大きな四角いバッグだ。大橋はそのバッグから取りだした物を注意深く調整し始める。
それは、カメラだった。
フイルムを確認し、某社製の望遠レンズを取り付ける。ファインダーをのぞくその表情は真剣そのものだ。
カメラの準備が終わると、今度はビデオカメラの調整だ。新しいテープを入れ、電池を取り換える。
それが終わると大橋は、立ち上がったパソコンに向かって何かを検索し始める。時刻と駅名のようなものが、画面いっぱいに表示された。
「……八時四十八分通過か」
何かの時刻を確認すると、目的地までの所要時間を確認する。一時間半。場所取りのことを考えると、すぐさま出ないと間に合わない。大橋は慌ててパソコンをおとして上着を引っかけると、先ほど調整したカメラとビデオカメラを黒いバッグに入れ、三脚を担いだ。
そう、大橋は仕事に行くのではない。
今日は土曜日、仕事は休みだ。今日は彼の唯一にして最大の趣味、鉄道の撮影に出かける日なのだ。
珍しい編成や車両の情報を得ると、彼はそれを撮影しに行く。しかも近所ではなく、電車を乗り継いでそれを撮影するベストポイントに出向く。引退が決定した車両は、それが有名なブルートレインだろうが無名の通勤電車だろうが、必ずカメラに収めないと気が済まない。そう、彼は筋金入りの鉄ちゃん……鉄道撮影専門の、撮り鉄なのだ。
電車の撮影をしている時だけ、彼は嫌なことを全て忘れられる。彼にとって鉄道は人と比べられることもなく、自分の好きなように、自由に楽しめる唯一の世界なのである。
玄関に駆け込みスニーカーを突っかける。が、急に何を思いだしたのか、片足にスニーカーを履いたまま、ケンケンで戸棚の前まで戻ってきた。
――金、持ってかなきゃ。
戸棚の引き出しを開け、茶封筒を取り出して中をのぞくと、一万円札があと二枚入っている。大橋は渋い表情を浮かべながら、そのうちの一枚を抜き取ってポケットに突っ込んだ。冷蔵庫に貼り付けてあるカレンダーを横目で確認する。給料日まであと十一日。何とかなるだろう。大橋はケンケンで玄関に戻ると、もう片方のスニーカーに足を突っ込んだ。
突っ込みながら、まるでテントウムシのフンでもなめたかのような苦い表情をする。
――俺って、ほんとバカ。
おととい、あの汚らしい祠の賽銭箱になけなしの一万円(!)を投げ込んでしまったことをまた思い出してしまい、大橋は肩を落としてため息をついた。
本当に、何を考えていたんだか。まあ、酒に酔っていたから何も考えていなかったのだろうが、妙にあの祠に親近感を覚えたのは確かだった。だが、それにしたって一万円だ。給料日まで、今月は結構余裕があると踏んでいたのに。大橋は自分のバカさ加減にあきれつつ、もう絶対酒なんか飲むまいと堅く心に誓うのだった。
☆☆☆
撮影を終えた大橋が駅に着いたのは、午後七時をまわった頃だった。
午前中いっぱい最初のポイントで撮影したあと、午後はそこからさらに一時間ほど移動した場所で別の車両を撮影した。移動中も途中駅で下車してはいろいろな車両を撮影しまくったため、結局こんな時間になってしまったのだ。
昼飯は駅ナカのそば屋で軽く済ませただけだったので、大橋の腹はさっきからグルグルとうるさいぐらい空腹を主張しているのだが、そんなことはどうでもよかった。まずは自分の撮影した成果を確認するのが先だ。大橋はワクワクしながら、ほの暗い住宅街を自宅へ急いだ。
と、向こうからダンプカーのエンジン音が近づいてきた。
大橋は慌てて道の端に寄った。この道路は幅員が狭い。まともに歩きながらすれ違うことは不可能だ。電柱の影に寄った大橋の横を、ギリギリでダンプカーがすり抜ける。もうもうと上がる排ガスに、大橋は思わず顔をしかめた。
その時、ダンプカーのエンジン音に混じって、ザワザワという音が聞こえた気がした。
大橋ははっとして走り去るダンプカーの荷台を目で追った。何かの木の枝が、荷台にぎっしりと積まれているのが見える。ダンプカーの振動とともに、その葉がザワザワと音をたてて揺れていた。
――あれは。
ある予感にとらわれて、大橋は足を速めた。
程なく、おととい嘔吐した電柱……確かに、乾いた嘔吐物がまだ残っている……が見えてくる。恐る恐るその向かい側を見た大橋は、その目を大きく見開いた。
おとといの夜は確かにあったはずの、あの大ケヤキが跡形もなく切り倒されていたのだ。直径六十センチはあろうかという切り株だけが、わずかにその痕跡を残すのみだ。奥にあったはずの社も、狛犬も、そして一万円を放り込んでしまったあの賽銭箱も、何もない。
――ウソだろ。
この地区では今、再開発事業が進んでいる。古い住宅地や空き地を整備し、道路を拡張し、規制を緩和して大きな建物を建てようという動きが盛んなのだ。もう少し駅に近い場所では既に新しいビルが建ち、大がかりな商業施設が誘致されている。こんなところにも、その再開発の余波が及んできているのだろう。
わずか二日ばかりの間に、あの社と賽銭箱の一万円は何処ともなく消えてしまった。がらんとしたその空き地を見ながら、大橋は胸を締め付けられるような寂寥感に息苦しささえ感じた。自分もこの社と同様に、間もなく用なしとして整理されてしまうのではないか。そんな予感が一瞬胸をかすめ、言いようのない不安に襲われた大橋は、しばらくの間その場に立ちつくして動けなかった。
その時だった。
「うう……」
低く、しぼり出すような声。同時に、鼻水をすすり上げるような音が聞こえた気がして、大橋はきょろきょろとあたりを見回した。
程なく、大橋が嘔吐した電柱のさらに一本先にある電柱の根本に、誰かがうずくまっているのが目に入った。電柱に取りつけられている街路灯の白っぽい光に、その背中が淡く照らし出されている。声からすると、どうやら若い女性のようだ。
大橋は恐る恐る、その人物の方に歩み寄った。
近くで見る彼女(?)は、何とも不思議な格好をしていた。顔の両脇に一筋ずつ残している他は、残りの髪を頭のてっぺんで一つにまとめ上げ、まとめ上げたところに、おひな様がつけている冠かかんざしのようなもの……和風ではなく、どちらかというと中国風の雰囲気だ……をつけている。淡い藤色の、これまた中国風の着物のようなものを着て、羽衣のような白い布を両腕にまといつかせているのも変わっている。日本人ではないのかもしれない。大橋は声をかけるのをやめて、そっと後じさった。
その時だった。その女がふっと顔を上げ、くるりと振り返って大橋を見たのだ。
瞬間、背筋を電流が走ったような感覚にとらわれて、大橋は息をのんだ。
抜けるような白い肌に、涙にぬれて愁いを含む、長いまつ毛に彩られた大きな瞳。形よく筋の通った鼻に、何か言いたげにほんの少しだけ開いている花びらのような唇。細く長い指の先にある桜貝のような爪は、マニキュアなど塗る必要もなさそうなほどピンク色に輝いている。
とにかく今までの人生の中で、大橋はこんな美女の半径三メートル以内に近寄ったこともない。珍しい動物でも見るような目つきで、思わずまじまじとその女を見つめてしまった。
すると、女がゆっくりと立ち上がった。
背は、百七十五センチメートルの大橋より十センチほど低いくらいだろうか。だが、頭が小さく均整の取れたスタイルのせいか、それより高いようにも感じられた。
彼女はじっと大橋の顔を見つめていたが、やがてゆっくりと歩み寄ってきた。
大橋は内心焦った。泣いていたところを見ると、彼女はよほど困っているのだろう。ということは、このあときっと何か話しかけてくる。中国語など分かる訳もない。逃げようかとも思ったが、なぜか体が動かなかった。
その間に女は大橋の目の前に立った。上目遣いに、その愁いを含んだ大きな瞳で大橋をじっと見上げている。間近で見るとますます美しいその瞳に吸い込まれてしまいそうな気がして、大橋はごくりと唾を飲み込んだ。
すると花びらのような唇がわずかに動き、その隙間から、鈴を鳴らすような美しい声が響いてきた。
「おまえ、私が見えるのだな」
ニイハオ、などと間抜けなことを言おうとしていた大橋は、言葉を飲み込んだ。今のは、確かに日本語だった。しかも、訛りのない、美しい発音の。
――日本人か、よかった。
大橋はほっとしたが、ふと眉根を寄せた。
――見える?
戸惑ったような表情を浮かべた大橋に、彼女はほんの少し首をかしげ、形の良い唇を引き上げて小さく笑いかけた。彼女の背後に大輪のバラが数百本咲き誇ったのかと思うほど、美しい笑顔だった。そして、その唇から、再び鈴の転がるような美声を発する。その美しさは、言葉の意味を考える脳のリソースを全て奪われてしまうほどだった。
「願い通り、もうちょっとマシな人生を送らせてやる」
鼻の下をだらしなく伸ばしてぼんやりしていた大橋だったが、はたと正気にかえると、首をかしげた。
――マシな人生?
今の彼女のセリフに、大橋は何となく覚えがあった。だが、いったいいつ、どんなシチュエーションでその言葉を発したのか、どうにも思い出せない。あわてて記憶層に検索をかけながら、大橋は眉根を寄せ、女をまじまじと見つめ直した。
すると女は、何を思ったのかその白く長い指先を大橋に差し伸べた。思わず避けるように後じさった大橋の手を、その指が絡みつくように捉える。ひんやりと冷たく、それでいてふんわりと柔らかい感触。異性に触れられたのは、小学校の運動会で女子とダンスをした時以来だ。心拍数がはね上がり、血流が頭部に集中して、大橋は何が何だか分からなくなりかけた。
すると女は、その頬に優雅なほほ笑みをたたえながらこう言った。
「腹が減った」
「は?」
思わず聞き返した大橋に、彼女は女王然とうなずき返す。
「喉も渇いた」
「へ?」
まるでバカのような返答しかできないでいる大橋に、彼女は天使のような笑みをたたえつつ、鈴の転がるような美声で、当然のようにこう言ってのけた。
「早く何か食わせてくれ」