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七福人生  作者: 代田さん
29/39

29.最後の朝と最初の告白

 けたたましく鳴り響く目覚まし時計を、大橋は必死の思いで止めた。枕元を探って眼鏡を見つけ、それをかけるとゆっくり起き上がる。

 朝五時半。昨夜は結局、日付が変わるまで帰宅できなかった大橋だったが、授業も終わった今、いつまでもサラに朝の仕事を任せておく訳にも行かない。加えて、大橋はサラに礼が言いたかった。久しぶりに今日は早起きをして、朝の支度を済ませてサラが起きてくるのを待っていようと思ったのだ。

 台所に行き、ご飯が炊きあがっているのを確認すると、冷蔵庫の野菜室からほうれん草を取りだして洗う。

 洗いながら大橋は、昨日の曽我部との会話を思い返していた。


『大橋くんって、土曜日、ひま?』


 地下鉄のホームで、自分を上目遣いに見上げながらこう言って笑った曽我部を、大橋は信じられないような思いで見つめ返した。


『映画のチケットを二枚もらったの。土曜日、もし空いていたら、授業成功のお祝いをかねて、一緒にどうかなって思って』


『え、マジですか。それは……』


 大橋は言葉を止めた。

 大橋が急に言葉を止めたので、曽我部はいくぶん不安そうに大橋を見やった。


『あ、でも、彼女とかいるならまずいから、もちろん断ってくれていいんだけど……』


『え、いえ、そうじゃないんです』


 大橋は慌てて手をブンブン振り回すと、曖昧な笑みを浮かべてみせた。


『実は、ちょっとした用事が入る予定があって……で、でも、春菜さんからのお誘いなら、調整してみます。明日まで、返事を待ってもらえませんか』


 ほっとしたようにほほ笑んでうなずいた曽我部の表情を思い返し、切り分けたほうれん草を油揚げとともに鍋に放り込みながら、大橋はため息をついた。

 サラに対する自分の気持ちはすでに自覚している。にもかかわらず、曽我部の誘いをはっきり断ることができなかった自分に、大橋は自己嫌悪を抱いていたのだ。

 自分の気持ちは自覚しているものの、あの祠の神である女性、しかも人妻に対してそんな気持ちを抱くこと自体が論外であり、潔く諦めて身を引くべきだと思っているのも事実だ。サラとどうこうなるつもりはないのだから、曽我部の申し出に対して曖昧な態度を取っても仕方がないと自分を正当化してみるものの、やはりどう考えても潔くない自分の態度に、自己嫌悪を感じてしまう。

 煮え切らないような思いを抱えながら、大橋がみそと菜箸を両手に持ち、沸き立つ鍋をぼんやりと眺めていると、二階からパタパタと軽い足音が響いてきた。サラが起きてきたらしい。


「おはよう、オオハシ」


 サラは階段の降り口から顔をのぞかせて、大橋に明るく笑いかける。その顔を目にした途端、大橋は胸に迫るものを感じて、思わず目頭が熱くなってしまった。


「……お、おはようございます、サラさん」


 慌てて鍋の方に顔を向け、まばたきを繰り返しながら言葉を返す。


「朝飯の支度、してくれたのか」


「え、ええ。授業も無事に終わったんで……」


 大橋は言葉を切ると深呼吸をし、サラに向き直った。


「サラさん、昨日は本当にありがとうございました。接着剤のこと、教えてくれて……」


 そう言って頭を下げた大橋に、サラは困ったように笑って首を振った。


「当然のことをしたまでだ。それに、礼ならあの男に言った方がいい」


「もちろん、副校長にも礼を言いました。けど……サラさんが言ってくれなかったら、気づけなかったから」


「大したことじゃない。おまえの方こそ、昨日はご苦労だったな。朝の支度くらい、私がやったのに」


「いや、昨日のお礼と言っちゃなんですけど、今日は俺が、朝の支度を全部やりますから。サラさんは、前みたいにそこに座って待っていてください」


「……そうか? じゃあ、遠慮なく」


 サラはにっこり笑うと、居間のちゃぶ台の前にちょこんと座った。大橋はその前に、焼いたシャケや茶碗を並べ始める。

 きびきびと動き回る大橋を見つめながら、サラは何とも嬉しそうな、それでいてどこか切なげな表情を浮かべていた。

 ほどなく朝食の支度は調い、よそった飯を置くと大橋も席に着いた。


「いただきます」


 手を合わせ、二人のあいさつの声がハモる。こんな朝食風景が始まって、もう三週間近くたつのだろうか。すっかり朝のひとコマとして、大橋の日常になじんでしまった。

 二人はしばらくの間、黙々と朝食に箸をつけていたが、やがて大橋がちらっとサラの表情をうかがい見た。


「……あの、サラさん」


「何だ?」


「昨日の、あの授業……成功、だったんですかね」


 サラは箸を止めると、じっと大橋を見つめた。


「俺としては、上出来だったんじゃないかと思うんですけど、サラさん的にはどうだったのか、ちょっと気になって……」


 サラは優雅にほほ笑むと、大橋に深々とうなずき返した。


「頑張ったな、オオハシ」


 大橋は大きく目を見開いて、サラの美しい笑顔を見つめる。


「おまえは、自分の力を十二分に発揮することができた。今回の成功で、仕事の面でも大きく一歩、マシな人生に近づいたと言えるだろう」


「……よかったぁ」


 大橋はため息とともにこう言うと、ほっとしたような、でもどこか寂しげな表情で笑った。


「じゃあ、サラさんが旦那さんのところに帰れる日も、近いって訳だ」


 そんな大橋からわずかに目線をそらすと、サラは浮かべていた笑顔をおさめた。


「そのことなんだが、オオハシ」


「はい」


 なにやら重々しい雰囲気を感じた気がして、大橋はあわてて居住まいを正す。

 が、サラは一転、何やら振り切ったような笑顔を浮かべると、明るい口調でこう言った。


「私も、そろそろインドに帰ろうかと思う」


「……え?」


 大橋は唐突なその発言に、一瞬思考が停止してしまった。

 サラはそんな大橋の反応に構わず、やけにニコニコしながら言葉を続ける。


「おまえのマシな人生は、仕事、生活両面でほぼ実現の下地は整った。恋愛についても、私があれこれ口を出すまでもなく進展していくだろう」


 大橋は昨日の曽我部とのやりとりを思い出し、目を見開いた。


「私がおまえにしてやれることは全てやり終えたから、これ以上、おまえのところにいる理由がなくなった。今日にでも、出て行こうと思う」


「……今日!?」


 大橋はその言葉に、思わず持っていた茶碗を取り落としそうになってしまった。


「そんな急に……」


「何かまずいのか?」


 おっとりとこう聞かれて、大橋は言葉を返せずに黙り込んだ。


「私も、そろそろインドが恋しくなってきたしな。いつまでも居候させてもらうのも申し訳ない。早い方がいいだろう」


 そう言って屈託なく笑うサラの顔を見つめながら、大橋は何か言わなければと思った。彼女を引き留める言葉でもいい。今まで世話になった礼でもいい。……だが、いざ口に出そうとすると、そのどれも自分の気持ちを十パーセントも代弁していない事に気が付いて、それらを喉の奥にため込んだまま、大橋はただひたすら逡巡した。


「世話になったな、オオハシ」


 そう言って笑顔で頭を下げるサラを、大橋は言葉もなく見つめることしかできなかった。



☆☆☆



 七時五分。そろそろ家を出る時間だ。

 仕事へ向かう準備をしつつ、大橋はちらりとサラに目を向ける。

 サラはいつものようにやや近づきすぎな位置で、食い入るようにニュース番組を見つめている。この後ろ姿を見るのも今日で最後なのだろうが、大橋は何だか実感がわかなくて困っていた。明日もあさっても、こんな朝の風景がずっと続いていくような気がどうしてもしてしまう。

 と、背後にたたずむ大橋の気配に気づいたのか、サラがテレビ画面に目を向けたまま、ふいにこんなことを聞いてきた。


「オオハシ、形葉線って、どこから乗るんだったかな」


「え? ここからなら、東京駅に出るのが一番ですね。小多急線で新宿に出て、そこから忠央線で東京駅が一番分かりやすいかな。この間みたいに地下鉄を使えばもっと安く行けますけど……どうしてですか?」


「いや、さっきニュースで形葉線の話題が出ていたから、急に思い出したんだ」


 サラはそう言うと、時計を見上げた。


「そろそろ出る時間だな」


 テレビを消すと立ち上がり、振り返って大橋を見る。


「オオハシ、この服、もらっていってもいいか? 私は今、これしか着る物がないから……代わりに、あの帯はおまえにやる。売れば、いくばくかにはなるかもしれん」


 サラが最初に着ていた服は大橋がダメにしてしまったが、浅黄色の帯だけはプラケースの奥に畳んで入れてあったのだ。大橋は目を丸くすると、慌てて首を振った。


「そんな、いいですよ。売るだなんて……」


「もらってくれないか?」


 大橋の言葉を遮るようにサラはこう言うと、顔を上げた。

 自分をまっすぐに見つめる、サラの大きく澄んだ瞳。その瞳がかすかに潤んでいるような気がして、大橋は言いかけた言葉を飲み込んだ。


「私が確かにここに存在していた証として、おまえに持っていてほしいんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、今日を最後にサラがここを去るという事実を、大橋はようやく自分の中に落とし込んだような気がした。胸の奥に、何か重苦しいものがずしりとのしかかる。


「……分かりました。いただいておきます」


 大橋はうつむくと、やっとのことでそれだけ言った。



☆☆☆



 空は、どんよりと重苦しかった。


「すみません、こんな早い時間に……」


 大橋が鍵を持っている関係上、サラは大橋と一緒に家を出なければならない。サラは小さく首を振った。


「構わない。駅まで見送ってやろう」


「サラさんは、これからどうするんですか? すぐに帰るんですか」


「ん? ……まあ、人間界もこれで見納めだからな。どうせ姿は見えないし、適当にフラフラしてみるか」


 大橋は、隣を歩くサラをじっと見つめた。


「……サラさん」


「ん?」


 その声に、サラがくるりと顔を向ける。自分を見つめる、サラの大きく澄んだ瞳。その瞳にとらえられた瞬間、大橋は言おうとした言葉が出てこなくなった。まるで吸い寄せられるように、その瞳から目が離せなくなる。

 抜けるように白い肌に、バラ色の頬。緩やかな朝風になびくつややかな亜麻色の髪。その髪をゆっくりとかき上げる、細く白い指と、桜貝のような爪。

 大橋はサラを見つめながら、歩みを止めた。サラも不思議そうに首をかしげると、大橋に合わせるように足を止める。

 二人はしばらくの間、道端で見つめ合ったまま、無言で立ち尽くしていた。


「俺は……」


 ややあって、大橋が絞り出すように口を開いた。

 サラはいくぶん首をかしげて、そんな大橋をじっと見つめる。

 渇ききった喉を潤そうと、大橋はごくりと唾を飲み込む。と、大橋を見つめていたサラが、けげんそうに口を開いた。


「どうした?」


 鈴を転がすような、サラの美声。それももう、今日を限りに聞くことはできない。大橋は胸を押し潰されるような感覚に襲われ、言葉に詰まった。


――お別れ、か。


 大橋は、サラの表情をじっと見つめた。

 ゆったりと自分を見つめている、穏やかで落ち着いたサラの表情。その表情からは、離別の悲しみや苦しみは感じられない。つまりそれは、サラが自分に対して特別な感情を抱いていない証拠なのだ。

 大橋は両手を固く握りしめると、足元に目線を落とした。


「……今まで、ほんとうにありがとうございました」


 大橋は言おうとしていた全ての言葉を飲み込むと、代わりに、ごくありきたりで薄っぺらい謝意を口にする。と、サラは嬉しそうに表情をほころばせ、返礼の言葉に花のような笑顔を添えた。


「私の方こそ、楽しかった。ありがとう、オオハシ」


 大橋は喉の奥のこわばりを必死で飲み下すと、目を瞬かせながらどんよりと重苦しい空を仰いだ。



☆☆☆



「サラさん、あなた、人から見えないんですから、危ないです。ここに立っていてください」


 サラはホームに出ると、大橋に言われたとおり、人に押しのけられないよう柱に寄り添った。大橋はサラを守るような位置に立つと、心配そうにサラを見おろす。


「本当に大丈夫ですか? ラッシュは危険だから、こんなところまで見送りに来なくてもよかったのに……」


「すまない、オオハシ」


 サラはそう言うと、遠くを見るような目つきをした。


「ここまでくらいは見送りたくて……」


 混み合ったホームに、列車の到着を知らせるアナウンスが流れる。サラは戸惑ったように大橋を見上げた。


「並ばなくていいのか?」


 大橋は小さく笑ってみせた。


「電車がきたら、無理やり乗るんで大丈夫です」


 サラはそんな大橋を、大きな瞳でじっと見上げた。大橋も、サラの澄んだ瞳を見つめ返す。

 やがて、にぎやかな音とともに電車が入線してくると、乗客たちは乗車口に集まり、サラと大橋の周囲は人がまばらになった。

 電車の扉が開き、ぱらぱらと人が降りた後、大勢の乗客が電車の中に吸い込まれ始める。だが、大橋はサラの隣にたたずんだまま、動こうとしない。サラは戸口に集まる乗客の半数が乗り込んでしまったのを見て、心配そうに口を開いた。


「オオハシ、もう……」


 大橋はサラを何とも言えない表情で見つめてから、おもむろに口を開いた。


「サラさん、俺……」


 いったん言葉を切って天を仰ぎ、再びまっすぐにサラを見つめて、大きく息を吸い込む。それから思い切ったように、大橋は口を開いた。


「俺、サラさんのこと……、ずっと、好きでした」


 サラは息をのんだようだった。ただでさえ大きな目が、さらに大きく見開かれる。 


「サラさんのこと、俺、一生忘れませんから!」


 大橋はそう言い捨てると、乗車口に走り寄った。はみ出しているオヤジの背に体を押しつけて無理やり乗り込む。

 いったん閉じかけた扉が、閉まりきらずに再び開く。すると大橋の後ろから、スーツ姿の中年男性がもう一人、かなり無理やり乗り込んできた。大橋はぐいぐい押しつぶされて吐きそうになりながら、ちらっと後ろに目をやり……ハッと息をのんだ。

 柱に寄り添うようにしてたたずむサラの頬を、涙が幾筋も伝い落ちていたのだ。


「サラさ……」


 言いかけた大橋をさらに車内の奥深くへ押し込むように、電車の扉が閉まる。

 切り開いたら人間のおすしが出来上がりそうなほど人をいっぱいに詰め込んだ電車は、ゆっくりと走り始めた。

 大橋はぎゅうぎゅう押しつけられながらも、必死で顔をサラの方に向ける。

 だが、ホームにたたずむサラの姿は、あっという間に流れ去った。

 通勤客の肩越しにわずかに見える窓からは、もういつもの町の風景が流れていくのが見えるだけだった。

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