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七福人生  作者: 代田さん
28/39

28.人事と天命

 人事を尽くして天命を待つ。

 研究授業までの数日間、まさに、この言葉がぴったりの仕事ぶりを、大橋は見せた。

 研究の準備を行いつつ、クラス経営もこれまで以上に力を入れ、研究に関係ない授業の準備も怠りない。急遽一組を担当することになった臨時採用教員にそれまでの一組の学級経営や方針を伝え、できる範囲でそのフォローもする。入院している石橋とも緊密に連携をとり、メールで分からないことを聞いたり、実際に病院に試作品を見せに行ったりもした。

 そんなこんなで、ほとんど手がまわらなくなった家のことは、サラが全て請け負ってくれた。食事の支度から洗濯、掃除……今まで大橋がやっていたことを、サラは何を言わずとも、全て完璧に行ってくれた。大橋がやったのは、「姿が見えないから」と頼まれた買い物くらいのものだった。

 朝、家を出る時間も帰宅時間も一定しないので、サラは図書館に行くこともなく、ずっと一人で家に残った。だが、もう大橋に不安はなかった。家のことは、彼女に任せておけば大丈夫だ。もう、自分が世話を焼く必要もない。そのことを思う時、大橋は一抹の寂しさを感じたりもした。だから大橋は、水曜の授業を成功させることに集中し、その他のことを一切考えないようにした。そうして、サラに対する自分の思いを思考の外に追いやったまま、大橋は自分にできる全てのことをやり尽くした。まさに人事を尽くしたのだ。

 そして大橋は、いよいよこの日を迎えることとなった。



☆☆☆



 その朝も、大橋が起きてきた時にはサラは朝食の支度を終えていた。大橋に気づくと振り返って、にこやかにこう言う。


「おはよう、オオハシ」


「……おはようございます、サラさん」


 大橋はサラから目線をそらしてこう言うと、湯気を立てるちゃぶ台の朝食に目を留め、頭を下げる。


「ありがとうございます、毎朝……」


「当然だ」


 サラは短くこう言うと、大橋に席に着くよう促した。小さくあいさつをすると、静かに食べ始める。

 大橋はサラにちらっと目をやった。

 背筋を伸ばして姿勢良く座り、もくもくとご飯を口に運んでいる。伏し目がちなせいか、その長いまつ毛がいつもよりさらに際立って見える。

 と、その視線に気づいたのか、サラがふっとその顔を上げた。

 一瞬目が合ってしまい、大橋は慌てて目線をそらす。

 サラは小さくほほ笑んだようだった。


「今日は、図書館に行ってもいいか」


 唐突なその発言に、大橋は驚いて顔を上げた。サラは穏やかな表情のまま、ちょっと首をかしげて笑った。


「毎日家にいるのも飽きてきた。本が読みたいんだ」


 大橋は申し訳なさそうに表情を曇らせると、首を横に振った。


「すみません、サラさん。今日は研究授業のあと、たぶん打ち上げ……飲み会になっちゃうと思います。一緒に帰ることができない」


 するとサラは目線をあげて何か考えてから、すぐににっこり笑ってこう言った。


「じゃあ、家の鍵を貸してくれ。適当な時間になったら勝手に帰ってくるから」


 そうして、こう付け加える。


「電車賃はいらない。私の姿は見えないから……いいだろう?」


 大橋はしばらくの間、固い表情で黙っていたが、ややあって、ゆっくりとその首を縦に振った。


「……いいですよ」



☆☆☆



 久しぶりの、二人での出勤だった。

 素晴らしい青空のもと、大橋は隣を歩くサラをちらっと見た。

 朝日を浴びてキラキラ輝く、バラ色の頬。風に揺れる、亜麻色の髪。リズムよく繰り出されるしなやかな手足。その姿を大橋はしばらくの間、まるでその目に焼き付けるかのようにじっと見つめていた。


「……サラさん」


「ん?」


 振り返って自分を見たサラから目をそらさず、大橋はまっすぐにその大きな瞳を見つめ返した。


「サラさんは、神様なんですか」


 その問いに、サラは苦笑したようだった。


「そうだ。何度もそう言っているだろう」


 大橋は唾を飲み込むと、そんなサラからわずかに視線をそらした。


「じゃあ、人妻っていうのも……本当なんですか」


「本当だ」


 大橋はそれきり黙り込んだ。数分歩いて、駅が見えるあたりまできたとき、大橋はようやく重い口を開いた。


「俺、頑張りますから」


 サラは顔を上げて、大橋を見つめた。


「マシな人生を手に入れて、サラさんが早く旦那さんの所に帰れるように、今日は頑張ります。だから……」


 大橋は足を止めると、サラに向き直った。


「だから、安心してください」


 サラはそんな大橋をじっと見上げていたが、やがて穏やかにほほ笑むと、あの鈴の音のような美声で、静かに言葉を返した。


「ありがとう、オオハシ」



☆☆☆



 午前中の活動を終え、給食が終わったあたりから、大橋はだんだん緊張し始めていた。

 更衣室で一張羅のスーツに着替え、ネクタイを締め直しながら、大橋は自分の手が震えていることに気がついた。

 大勢の人が、自分の授業を見にやって来る。しかもその相手は、参観しにくる保護者や校内の教師だけではない。自校以外の学校の教師や、講師として呼ばれた大学教授、教育委員会の指導主事などが、専門的な目で自分の授業に評価をくだすのだ。

 大橋は根本的には弱気で、自分にそれほどの自信もない。いくらサラのおかげである程度の力をつけたとはいえ、そうした圧迫感に対して平然としていられるほど神経は太くなかった。大橋は押し寄せてくる緊張感に吐きそうになりながら、いくぶんふらつく足取りで更衣室を出た。

 子どもたちも彼らなりに緊張しているのだろう。身支度を調えて教室に入ってきた大橋を見ると、慌てて席に着く様子が見られた。

 授業開始まであと五分。大橋は教室の状況が整っているかどうか確認しようとした。机の配置、水の入ったたらい、子ども達が選ぶ材料、お助けコーナー……学年のフォローが何もないため、全て自分一人で整えたその準備が果たして十分なのか、大橋は不安で仕方がなかった。だが、考えようとしても頭に血が上って何が何だかよく分からない。大橋は混乱しながら、見るともなく教室外に目を向けた。

 その時だった。

 大橋は廊下に、サラの姿を見たのだ。

 前扉の側。廊下の片隅にたたずんで、穏やかな表情でほほ笑みながら、優しく自分を見守る大きな瞳。


――サラさん?


 サラはほほ笑みながら、静かに右手を顔の正面にあげた。手にしている何かを、大橋に示しているようだ。その手には、糊のようなものが握られている。大橋はそれに目をとめて、ハッとした。


――そうだ、接着剤!


 注文がギリギリになってしまい、購入した接着剤が届くのが今日になってしまった。授業の前に取りに行くはずだったのを、すっかり忘れていたのだ。

 時計を見るとあと三分。大橋は教室内の子どもたちを見回した。今、自分が教室を離れても大丈夫だろうか。子どもたちはもうすっかり着席して、じっと大橋を見つめて指示を待っている。自分がこの場を離れることで、この集中が途切れることはないのだろうか。

 だが、迷っている時間はない。大橋が急いで教室を出ようとした時だった。


「どうしたんだ?」


 声をかけられて、大橋はハッと足を止めた。そこには、早めに教室の様子を見に来ていた副校長の姿があった。いつものように厳つい顔で、大橋をにらみ付けている。

 大橋は心臓が縮み上がるここちがして、思わず言葉を濁しかけた。


「いえ、あの……」


 口を開きかけた時、ちらっと廊下にたたずむサラの姿が目に入り、大橋は口から出かかった言い訳を飲み込んだ。


――怒られても仕方がない。俺のミスなんだから。


 大橋は思い直すと、改めて正直に事情を話した。

 副校長は厳つい表情を浮かべながらその話を聞いていたが、やがて大きくうなずいた。


「分かった。私が取ってこよう」


「……え?」


 大橋が驚いて顔を上げると、副校長はその厳つい顔をわずかにゆがめて、笑った。


「君は今は、授業のことだけ考えろ。今まで十分頑張ったんだ。子どもたちと授業を楽しむ気持ちで、自信を持って臨め。いいな」


 副校長は早口でそれだけ言うと、足早に教室を出て行った。

 大橋はぼうぜんとその後姿を見送っていたが、やがてゆるゆると廊下のサラに目を向けた。

 サラはほほ笑んでいた。ほほ笑みながら、ゆっくりとうなずいてみせる。


『自信を持って、水曜の授業に臨め。おまえはきっと、満足のいく授業が行える』


 先日、彼女が大橋に言ったあの言葉が、頭の中にはっきりとよみがえる。

 大橋はサラを見つめた。サラも、大橋を見つめ返す。あの澄んだ大きな瞳で。その瞳を見つめるうちに、不思議と心が静けさを取り戻し、落ち着いていくのを感じた。

 大橋もサラに、大きくうなずき返した。

 その瞬間、大橋の頭上で、授業開始のチャイムが高らかに響き渡った。



☆☆☆



「ちょっと、やったじゃない大橋くん!」


 研究討議を終えて職員室に戻った大橋に、開口一番、林田はそう言って笑うと、大橋の背中を平手で音が鳴るほど思い切りたたいた。

 大橋は、痛みに顔を引きつらせながら振り返る。


「は、林田さん……かなり痛かったです」


「ゴメンゴメン、だって、ほんとによかったんだもん、授業。子どもたちも集中して活動を楽しんでたし、作品もいい感じで進んでるし……正直、びっくりしたわよ」


「でも、やっぱり言われましたね。この作品を作る時期が不適切だって……自分でもやっていて気になってたとこだったんで、やっぱりって感じでしたけど」


 苦笑まじりに大橋が言うと、林田は小さく首を振った。


「それは仕方がないわよ。もともと石さんが進めてた授業だったんだから。あれは指導案検討でその不備を見つけられなかったわれわれの責任」


 そう言うと、林田は眼鏡の奥の細い眼をますます細めて、笑った。


「そんなことより私は、大橋くんのクラス経営に感激したの。子どもたちと一体になって作品作り楽しんでたあの姿が。とてもじゃないけど、去年の大橋くんからは想像できない姿だった。ほんと、素晴らしかったわよ」


 大橋は何を言って言いかわからず、ただ黙って頭を下げるしかなかった。そんな大橋の肩を林田はポンポンたたきながら笑った。


「今日は石さんの分もお祝いしてあげるからね! 飲むわよ〜! 大橋くんも、少しくらい付き合いなさいよ、授業者なんだから!」


 あいまいな笑顔でうなずいた大橋は、林田の頭越しに曽我部がじっと自分を見つめていることに気がついた。

 目が合うと、曽我部はにっこりと笑ってうなずいてみせる。

 大橋はその笑顔に、心臓が跳ねるような心地がした。

 大橋はなんだかドキドキしながら、大きな仕事を無事に終えた安堵感と、やり遂げた解放感、そして今まで経験したことのない充実感に浸っていた。



☆☆☆



 夕刻の町を、サラは歩いていた。

 亜麻色の髪を風になびかせながら、静かに。

 すれ違う人々の足元には、夕刻の斜光に照らされて長く伸びた影がついている。だが、彼女の足元に影はない。影のないサラは、無表情なその目をぼんやりと前方に向けながら、ゆっくりと足を運んでいた。

 と、前方の坂を、自転車が猛スピードで下ってきた。

 ぼうっと歩いていたサラがはっと気づいた時には、自転車はすぐ目の前に迫っていた。サラは慌てて右に避け、自転車は間一髪サラの脇をすり抜けたが、右に避けた拍子に、今度は前方から歩いてきた若い男に思い切りぶつかってしまった。

 サラははじき飛ばされるような格好で、道の脇に倒れ込んだ。

 サラにぶつかった男は何事もなかったような顔で、振り返りもせずに歩き去った。

 倒れたサラが小さくため息をついて立ち上がりかけた時、今度はサラの後ろから、スーツ姿のサラリーマンが携帯電話片手に早足で歩いてきた。サラリーマンは大声でなにか話しながら、サラの左手を思い切り踏みつけて、急ぎ足で坂を上がっていった。

 サラは真っ赤に腫れ上がった左手をそっと右手でおおうと、うつむいた。

 うつむいている彼女の脇を、何人も通行人が行き過ぎていく。誰一人、彼女の存在に気づかないまま。



☆☆☆



「じゃあ、授業者にお疲れさま、で乾杯しましょう。お疲れさまでした!」


「お疲れさまでした!」


 中央の席に、もう一人の授業者と並んで座った大橋は、ビール片手に恥ずかしそうに笑いながら小さく頭を下げた。


「いやあ、それにしても頑張ったわよね!」


 林田はあっという間に一杯目のビールを飲み干すと、斜め前の席から大橋に笑いかけた。


「ありがとうございます。ほんと、皆さんのおかげなんで……」


「いやいや、今回はほんと、大橋くん頑張ったわよ!」


 林田は注がれたビールを飲み干すと、上機嫌で言葉を継いだ。


「さっき石さんからメール来たわよ。ご苦労さまって、すっごい感謝してた」


 大橋は空になったコップに再びビールを注ぎながらうなずいた。


「自分の所にもさっききました。すごくていねいな文章で、ありがとうって……俺の方こそ、入院中だっていうのにいろいろフォローしてもらったから、お礼を言わないといけないのに。あのケガだって、うちのクラスの子どもが原因なんだし……」


「それはもう言いっこなしよ」


 林田が言うと、隣にいた五年の担任もうなずいた。


「そうだよ、大橋くん。とにかく今日頑張ったのは君なんだから。飲んで飲んで!」


「あ、はい。……実は、あんまり飲めないんで、素で頑張りますね」


「え、そうなの?」


 表情を曇らせたその五年の担任に、大橋は明るく笑ってこう言ってみせた。


「飲めないですけど、みんなとワイワイやるのは好きですから。テンション自由自在ですし。ジュースで酔えますからね、俺」


 そう言うと立ち上がって五年の担任に酌をする。と、反対側に座っていた校長が、大橋に声をかけてきた。


「いやあ大橋くん、今日は頑張ったよね!」


 今まで見たこともないような機嫌のよい表情に戸惑いながらも、大橋は慌てて校長のグラスにビールを注いだ。


「校長先生、いろいろとありがとうございました。おかげさまで、何とか無事に終わりまして……」


「指導主事が言っていたよ」


 校長が嬉しそうにそう言ったので、大橋は思わず動きを止めて校長の顔を見つめる。校長は注がれたビールをおいしそうに飲み干すと、言葉を続けた。


「素晴らしい新人だって。子どもを見る目が温かくて、子どもたちも安心して自分の居場所を見つけている。まだまだ指導で不十分なところはあるけど、これからが楽しみだってね」


 その言葉に大橋は、ビール瓶を手にした状態で思わず立ち尽くしてしまった。が、校長の隣で静かに飲んでいる副校長のグラスが空に近いのに気付き、慌ててビールを差しだした。


「副校長先生、今日は本当にありがとうございました」


 注ぎながら、大橋は頭を下げた。


「接着剤、取りに行っていただいて……おかげさまで、子どもたちも自分も、落ち着いて授業に臨むことができました」


 副校長は黙ってグラスを差しだしていたが、その言葉にちらっと大橋にその鋭い目線を向けた。


「見直したよ」


「え?」


 ビール瓶を抱えた大橋が思わず聞き返すと、副校長はおもむろに注がれたビールを口にした。それからもう一度大橋に目を向け、厳つい顔を少しだけほころばせた。


「正直、心配していたんだ。君が石橋くんの代わりを務めることになって」


 大橋はビール瓶を置くと、じっと副校長の口元を見つめた。


「それが決まったのが先週の金曜日だったな。それから……四日間か? よくこの四日で、研究の目的や授業内容を自分の頭にたたき込んで、ものにしたな。クラス経営も、四月当初から比べると雲泥の差だ。あの飯田くんも、今のところ週三日は頑張って登校しているらしいし、本当に見直した」


 そう言うと副校長は、何も言えずにいる大橋に、今度ははっきりと笑いかけて見せた。


「ご苦労さま、大橋くん」


「副校長先生……」


 大橋は何だか喉の奥がこわばってきて、目頭が熱くなるような感覚に襲われながら、慌てて頭を下げた。


「とんでもないです。こちらこそ、ありがとうございました!」


 大橋が周囲に気づかれないように目のあたりをゴシゴシこすっていると、隣に誰かが座った気配を感じた。慌てて顔を上げた大橋の視界に、ウーロン茶のボトルを手にした曽我部の、花のようなほほ笑みが映りこむ。


「そ、曽我部先生……」


「大橋先生、お疲れさまでした」


 曽我部はにっこり笑うと、大橋が慌てて手にした空のグラスにウーロン茶を注いだ。


「素晴らしい授業でしたね。子どもたちもとても生き生きしていて……先生の温かい学級経営が、とてもよく伝わってきました」


「いえ、そんな、俺なんてまだまだで……」


 勝手に速度を上げる心臓の鼓動に戸惑いつつ、大橋は曽我部からあわてて目線をそらした。


「来週は二年生、週頭から遠足でしたっけ。たいへんですね」


 曽我部の言葉に、大橋は苦笑まじりにうなずいた。


「そうなんです、その日しか水族館が空いてなくて……石橋さんもいないから、ほんと、心配なんですけど」


「大橋先生なら大丈夫ですよ」


 曽我部はそう言って笑うと、小さい声でこうささやいた。


「あとでライン送りますね」


「え……」


 大橋が顔を上げた時には、もう曽我部は自分の席に戻っていた。

 間もなく、大橋のズボンのポケットから小さな着信音が響く。大橋は周囲に気づかれないように慌てて携帯を開いた。


『今日は本当にお疲れさまでした』

『二次会の後、一緒に帰りませんか?』

『ゆっくりお話がしたいので』


 大橋は目を大きく見開くと、筋向かいの曽我部を見やった。

 曽我部は大橋を見て、ちょっと笑ったようだった。



☆☆☆



 薄暗い部屋の片隅に、サラは座っていた。

 壁により掛かり、足を前に投げ出し、ぼんやりと前方を見つめたままで動かない。

 赤紫色に腫れ上がったその右手も、力なく体の脇に投げ出されたままだ。

 時計の秒針が動く小さな音だけが、静かな居間の空気をわずかに揺らしている。

 サラは見るともなく、目の前の丸いちゃぶ台を見つめていた。


『どうぞ。食べてみてください』


 初めて作ったみそ汁を差し出し、不安そうな表情を浮かべながら彼女を見た大橋の顔が浮かぶ。

 サラはその時のことを思い出して、くすっと笑った。大橋の不安どおり、かなり怪しいみそ汁だった。そのあと、彼女はうっかり……本当に、あれは迂闊だったが、みそ汁をこぼしてしまった。そんな自分を、大橋は必死で冷やしてくれた。心配そうに、真剣な表情で。

 サラは投げ出していた足を引き寄せると、膝を抱えた。

 浮かんでくる、公園でおにぎりを食べた日の光景。川に入って足を切ってしまった自分のところに、ズボンもまくり上げず、靴も脱がないままで走り寄ってきた大橋。


『関係ないんです。見えていようが、見えていまいが』


 彼は笑顔でこう言うと、自分を家まで負ぶって歩いてくれた。

 サラはうつむいたまま、そっと両手で自分の肩を抱き締めた。

 熱を出した日。大橋を学校に行かせるために家を出て行こうとした自分を、彼は強引に抱き寄せた。


『出て行くなんて、もう絶対に言わないでください』


 そういって力強く自分を抱きしめてくれた、彼の腕の優しい温かみ。


「……オオハシ」


 サラは自分の肩を抱きながら、ぽつりと大橋の名を呼んだ。


「オオハシ、よかったな……よかったな、オオハシ」


 薄暗い部屋の片隅。たった一人で自分の肩を抱きながら、サラは自分に言い聞かせるように、何度も何度もそうつぶやいた。

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