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七福人生  作者: 代田さん
27/39

27.絶望と再確認

「じゃあ、行ってきます」


 玄関に立った大橋は振り返ると、見送りに出てきたサラを見上げた。

 サラはほほ笑みながらうなずいた。以前の無邪気で可愛らしいサラとは全く違う、大人で落ち着いた雰囲気をたたえながら。 

 大橋は目線を落とすと、玄関を出た。

 駅への道を歩きながら、昨日のサラを思い返す。


『私は、神だ』


 そう言って艶やかにほほ笑んだ彼女の、荘厳で近寄りがたい雰囲気を。

 あれから、大橋は必死で指導案と研究資料を読み込み、あの授業を通して子どもたちにつけたい力を把握した。その上で指導案を見直した時、やはり一度、実際に自分でこの作品を作ってみる必要性を感じた。加えて、授業をする際の机の配置、船を水に浮かべるために設置するたらいを置く場所、公開に備えて教室環境を整える必要性などを感じた。そのために大橋はこの日、休日にもかかわらず出勤することに決めたのである。


――学校にいた方が、集中できそうだしな。


 大橋は小さくため息をつくと、口の端に苦笑めいた笑みを浮かべた。

 自分は神だと、サラはずっと言っていた。だが、大橋はそれを信じてはいなかった。あんな頼りない、子どものように純真無垢な神などいる訳がない。大橋はずっとそう思ってきた。

 だが、昨日のサラは、それまでの彼女とは全く違っていた。

 手際よく昼食の支度をし、食べ終わるとすぐに片付け、大橋には一切手を出させなかった。洗濯を取り込んできれいに畳み、掃除も夕食の支度もフロの準備も、大橋が何も言わなくても全て一人であっという間に、しかも完璧にやってくれた。おかげで大橋は生活上の雑事に一切追われることもなく、一日の時間を全て仕事に費やすことができた。

 だが、大橋は内心穏やかでなかった。

 サラが、サラでないような気がしたからだ。


『私は、おまえと一緒にいたい』


 そう言って、自分の腕の中で涙を流したサラ。

 あの時大橋は、サラの言葉に体中が震えるほどの喜びを感じた。自分と同じようにサラも自分を求めているのではないか、そんな気がしたからだ。

 そう、大橋はあの日確信したのだ。自分がサラを思っている、その事実を。

 その事実から大橋は逃げない覚悟を決めた。そして、サラのために、何としても水曜の授業を成功させよう、そう意気込んでいたのだ。

 だが、昨日の彼女は、一昨日とはまるで別人のようだった。

 神々しくて、近寄りがたくて、完璧で、慈愛に満ちて……。まさに大橋がイメージする「神」そのものの態度で大橋に接したサラ。しかも、以前のように無防備に接近してくることもなく、常に一歩離れて大橋を冷静に見つめている、そんな突き放した雰囲気を感じた。

 大橋の脳裏に、先日のサラの言葉がまたふっと過ぎる。


『私は、人妻なんだ』


 こうして考えるとやはりあれは、大橋と距離を取ることを意図して発せられた言葉だったのだろう。

 大橋は肩を落とすと、大きなため息をついた。

 自分の気持ちを確認した途端に、崖下へ突き落とされたような絶望感に、大橋はともすると授業なんかどうでもいいような気持ちに襲われそうになった。家でサラの姿を見るたびにそんな気分に襲われた。だから、学校で仕事をして、少し自分の気持ちを落ち着けようと思ったのだ。

 ホームに出ると、間もなく電車が滑り込んできた。

 大橋は通勤時間よりは空いた車内に入ると、つり革を握って立った。

 その時大橋はふと、サラと電車に乗った時のことを思い出した。


『私の姿は見えないから』


 はしゃぐ彼女をいさめた大橋に、サラはあっけらかんとこう言ってのけた。

 そう言われれば確かに、車内の乗客ははしゃぐ彼女ではなく、いつも自分を見ていた気がする。自分がサラに話しかける度にちらりと、気味悪そうな目で。あれはひょっとしたら、本当に彼女の姿は見えていなくて、自分が一人で喋っているように見えていたからではないだろうか。

 そう考えると、思い当たることはいくつもあった。

 改札で立ち止まっていた彼女を、突き飛ばして駆け抜けたあの男。港のタワーで、入場券を二枚提示した大橋を見て、連れの姿を捜すようにあたりを見回していた女性職員。あのせせらぎで、サラを負ぶおうと背中をさしだした大橋を、気味悪そうに見つめていた子どもたちや母親たち。

 あの時、彼らには本当に、サラの姿は見えていなかったのではないだろうか。

 大橋は、ごくりと唾を飲み込んだ。


――もしかして、彼女は本当に。

 

 つり革を握る大橋の手が、微かに震える。


――本当に、女神様?


 大橋の懸念とは裏腹に、電車は軽快な音をたてつつ、曇天の町をまっすぐに駆け抜けていった。



☆☆☆



 薄暗い教室で、大橋は試作品の材料を机の上に広げた。

 指導案を右手に置いて作り始めようと思ったのだが、何をどう作っていいのやらアイデアも浮かばず、大橋は完全に行き詰っていた。

 サラが本当にあの祠の神かもしれない、その疑念がどうしても頭から離れず、仕事に集中できる状態ではなかったのだ。

 頭の中に、昨日のサラの言葉がよみがえってくる。


『私はいちおう七福神だから、おまえのマシな人生を実現するために、七福を授けることにしたんだ』


 彼女が授けてくれたという七福は、生活リズム改善、生活技術の習得、金銭管理能力向上、共感力向上、時間の有効活用能力、人間関係の円滑化、そして、恋愛成就。自分はすでにある程度の力を得て、あとは結果を出すだけの段階だという。

 確かに自分は変わった。サラが来てから、劇的に変わった。それは自分でも感じていたことだった。加えて先日、病院で石橋から言われたことや、曽我部の態度の変化をみても分かるとおり、他人から見ても自分は変わったんだと思う。


――それが全て、サラさんの意図?


 大橋は、震える両手で顔をおおってうつむいた。

 確かにそう言われれば、全て辻褄が合う。

 早起きをし、食事を作り、洗濯もして、健康的に過ごせるようになった。二つ以上の仕事を平行して行い、不測の事態を予想して準備しておく癖もついた。子どもの気持ちを共感的に理解することができるようになり、関係もよくなってきている。

 そのきっかけを与えてくれたのは、全てサラだった。

 そうして彼女は、いつも大橋を優しく見守っていた。さんざん待たされても、まずい料理を食べさせられても、洗濯で自分の服をダメにされても、毎日同じ昼食でも、一言も文句を言わなかった。いつも穏やかなほほ笑みを浮かべていた。そして、決まって彼女はこう言った。


『ありがとう、オオハシ』


 大橋は顔をおおっている指の間から、じっと目の前の机を見つめた。

 頭の中に、サラがいつか言ったあの言葉がよみがえる。


『だから私は、どうしても願いを叶えてやりたいと思った。祠が無くなる直前に、私に参ってくれたおまえの願いだけは』


 自分はサラスバティ本体の髪の毛に過ぎないと、彼女は言った。

 二百年間、たった一人であの小さな祠に宿っていたと。


『でも、五十年くらい前から、参ってくれる人もいなくなってしまった。私はずっと、あのケヤキと一緒にあそこにいるだけだった。あのケヤキだけが、話し相手だった』


 そう言って、寂しそうな笑顔を浮かべていた、サラ。

 長い年月、誰からも相手にされず、その役割を果たすこともできず、静かにあの祠に存在していた彼女。それでも何の不満を抱くこともなく、小さな幸せに喜びを感じながら、誰に迷惑をかけるでもなくそこに存在しているだけだった彼女。だが、ある日突然、何の前触れもなくその祠が撤去された。唯一の話し相手だったケヤキも、あっという間に切り倒された。

 途方に暮れた彼女が思い出したのは、そのわずか二日前に自分の祠に参って、一万円を投げ込んで行った酔っぱらい……つまり、自分だった。

 大橋は胸が押し潰されるような感覚に襲われて、目を堅くつむった。

 彼女は想像を絶するような孤独の中にいた。だから、あんなふざけた願いをかけた自分のことを、本当に大事に思ってくれたのだ。そうして涙を流しながら、通りかかるかどうか分からない自分のことを、あの電柱の下でずっと待ち続けてくれたのだ。

 もちろんこれは、単なる想像に過ぎない。全てが彼女の妄想で、自分はその妄想に巻き込まれているだけなのかもしれない。だが、大橋はもうそんなことはどうでもよかった。それが彼女の妄想だろうが何だろうが、彼女がそれだけ自分のことを大切に思っていてくれた、その事実を再確認できただけで十分だと思った。たとえ、それが恋愛感情に基づくものでなくても。


『絶対に叶えてやるからな』


 そう言ってにっこり笑ったサラの顔が、まぶたの裏に鮮やかに浮かぶ。

 大橋は固く手を握りしめた。


――何を迷ってたんだ、俺。


 わずかに口の端を上げて、大橋は笑った。


――やるしかないじゃないか。今ここで投げ出したら、ここまでサラさんがやってきてくれたことが、全部無駄になっちまうんだぞ!


 大橋は背筋を伸ばすと、指導案に目を落とした。趣旨を考えた上で、作るべき試作品はどんな形がいいか、どこまで作り込むべきか、どういった問題提起をその中でしていくべきか、大橋の頭は猛スピードで回転し始めていた。

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