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七福人生  作者: 代田さん
26/39

26.イリュージョンとチャーハン

 ちゃぶ台の前で指導案と研究関連資料を読み込んでいた大橋は、ふと顔を上げて時計を見た。

 午前九時十五分。サラがフロに入ってから、もう三十分以上たっている。大橋は風呂場の方に顔を向けると、微かに聞こえてくるシャワーの音に意識をとがらせた。

 今朝、サラの熱は三十七度台に下がった。それはそれでよかったのだが、その事実が分かるやいなやサラは目を輝かせ、「フロに入る」と言いだしたのだ。

 その言葉に、大橋は驚くと言うよりあきれてしまった。


「熱が下がったばかりで何を言ってるんですか」


 ため息とともに吐き捨てた大橋を、サラはじっと見上げた。


「もう二日も水浴びをしていない。早くしないと、本当に干からびてしまう」


――また、神様ごっこか。


 大橋は小さく息をついた。

 昨日、確かにああいう形でサラの予言めいた言葉が的中した。そのことに関しては大橋自身も何ら合理的な説明材料がないし、あの時、無理にでも出勤させてくれたことに関してはサラに感謝をしている。だが、大橋はそれはあくまで偶然だと思っていた。ちょっとした理由で気軽に仕事を休むのは、ある程度の社会的成功を目指す人間としては不適切だ。ただ単にサラはそのことを伝えたかったのだろうと、大橋は勝手に解釈していた。加えて、大橋がサラのことを神だと思っていないことは、すでに彼女にもはっきりと伝えている。こういうときの対応も、自分の気持ちを偽らずにすむ分、楽だった。

 大橋は肩をすくめると、軽くサラをにらんだ。


「いい加減にしてください。そんなことがある訳ないでしょう」


 サラはそんな大橋を、澄んだ大きな瞳でじっと見つめた。


「昨日も言ったとおり、俺はあなたが神様だなんて思っちゃいない。そんな風に、無理して神様ぶらなくていいですよ。そんなことをしなくても、ここから追い出したりはしないから……」


 言いかけた大橋の目の前に、いきなりサラは自分の手の甲を突き出した。大橋は言葉を飲み込むと、きょとんとしてその手の甲を見つめた。


「?」


「……見えるか?」


 サラは、かざした指の間から、心なしか鋭い目で大橋を見ている。大橋は何のことか分からないまま、それでもかざされたサラの手をじっと見つめた。

 その目が、大きく見開かれた。

 桜貝のようにピンク色に輝いていた、サラの爪。それが今は見る影もなく茶色に朽ち果てて、触れればボロボロと崩れ落ちてしまうのではないかと思うほど悲惨な状態になっている。つやつやだった肌もかさかさに乾ききって、ひび割れた手の甲は、あちこちに血がにじんでいた。

 大橋が言葉もなくその手を見つめていると、サラが静かに口を開いた。


「信じるも信じないもおまえ次第だが、私はあの祠の神なんだ。実体化している以上毎日水浴びをしないと、体に何らかの影響が出てくる。……こんなふうにな」


 サラは手を下ろすと、ぼうぜんとしている大橋に小さく笑いかけた。そして静かにこのセリフを繰り返した。


「信じるも信じないも、おまえ次第だがな」


 サラはそれ以上何も言わず、きびすを返すと風呂場へ向かっていった。

 大橋はつい三十分ほど前のその出来事を思いだして、ため息をついた。

 あの時、自分はそれ以上何も言うことができなかった。あの爪の状態は確かに異常だったし、サラが大橋に自分が神だと言うことを信用させたいがためにあそこまで手の込んだトリックを使うというのも考えにくい。現実、彼女の手は朽ち果てて、そのためにフロに入りたいと言っているのであれば、それ以上大橋に言えることは何もなかった。

 だが、それでも大橋は、サラのことを神だとは思っていなかった。


――きっとここ数日、具合が悪くてろくなものを食べていなかったせいで、栄養不足になっているんだ。昼はおにぎりじゃなくて、何か栄養のあるものをしっかり食べさせた方がいいな。


 大橋が冷蔵庫の中身を思い出しつつ昼食のメニューを考え始めた時、脱衣所の扉が開く音がした。大橋がハッとして顔を上げると、薄暗い廊下の向こうから、髪を拭きながらサラが歩いてくるのが見えた。歩きながらサラは、何とも気持ちよさそうにつぶやいた。


「ああ、気持ちがよかった。生き返った」


 大橋はその姿を見て、息をのんだ。

 バラ色の頬に、赤みを増したみずみずしい唇。その大きな瞳は力強い輝きを放ち、亜麻色の髪までも、その毛先一本一本に至るまでつややかな張りをたたえている。あれほどボロボロだったその指先は、それが全て幻でもあったかのようにみずみずしく潤い、桜貝のようなその爪も、朝日を反射してキラキラ輝いている。

 それはまるっきり別人と言っていいほどの、まるで某マジシャンのイリュージョンでも見ているかのような変わりようだった。大橋はしばし言葉もなく、そんなサラをぼうぜんと見つめていた。

 と、サラがその視線に気づいたのか、大橋を見て笑った。それはいつもの無邪気な笑顔ではなく、どこか妖しさのある、艶めかしいほほ笑みだった。


「……信じるも信じないも、おまえ次第だがな」



☆☆☆



「これは何だ?」


 気を取り直した大橋が研究資料を読み始めていると、例によってサラがその手元をのぞき込んできた。ただ、いつもほどは接近せず、微妙に大橋との距離を保っているように感じられる。やたらと接近されて性的妄想をかき立てられてもまずい状況にあるのに、つい物足りないような気がしてしまう自分が、大橋は情けなかった。


――そんなことを言ってる場合じゃないだろ、今は。

 

 大橋はぶんぶん頭を振って妄想を追いやると、気を取り直したように書類に目を落とした。


「指導案です。研究発表の時、俺がやる授業の流れや目標が書いてあるんです」


 そう言って大橋は、授業の流れを見直した。


「図工で、水に浮かぶ船を作るんです。材料は主任が声かけをしてくれてたからだいたい集まってるし、最初の二時間を見せるんで、特にやらせておくこともない。授業の流れは分かったけど、準備ったって、何をしておけばいいんだか……」


 つぶやいてため息をつく大橋の横で、サラはじっと指導案を読み込んでいるようだった。


「オオハシ、この活動の一番の目的は何だ?」


 指導案から顔を上げないまま、ふいにサラが問いかけた。大橋ももう一度指導案に目を落とすと、首をひねる。


「一番の目的……?」


「そう。この活動を通して、子どもたちになにを一番身に付けさせたいかだ」



――なにを一番身に付けさせたいか?


 大橋はハッとすると、もう一度指導案を読み始めた。合わせて、研究資料も読み始める。


――そうか。この活動は船を作らせることが目的じゃない。その活動を通して、子どもたちに身につけさせたい力が確実につくかどうか、それを見極めるための研究授業なんだ。


 目から鱗が落ちたように一心に資料に目を通し始めた大橋を見やって、サラは満足そうなほほ笑みを浮かべた。



☆☆☆



 一心に資料を読み込んでいた大橋は、漂ってきたいい匂いにふと顔を上げた。

 台所から、何かを炒めているような油の跳ねる軽やかな音と、電子レンジの温め終了を知らせるピーという電子音が響いてくる。


――え?


 大橋は慌てて立ち上がると、台所をのぞき込んだ。


「ええ⁉」


 そこに展開していた光景に、大橋は思わず立ちすくんでしまった。

 台所にサラが立って、鮮やかな鍋振りで何かを炒めているのだ。

 サラは大橋に気がつくと、振り返ってにっこり笑った。


「昼はチャーハンとやらでいいな」


 大橋は答えられなかった。あっけにとられてサラの手元を見つめるしかなかった。

 サラはそんな大橋に構わず、炒めた材料の中に先ほど電子レンジで温めたご飯を放り込み、強火のまま、見事な鍋振りで炒め始めた。あっという間にぱらりとなったところで手早く味をつけ、火を止める。

 見ると、ちんげん菜と卵のスープはもう出来上がっていて、おいしそうな湯気を立てている。

 大きめの皿にチャーハンを盛り分けているサラに、大橋はやっとのことで、どもりながら問いかけた。


「サ、サラさん……あなた、お料理、できたんですか?」


「ん? おまえのまねをしただけだ」


 サラはなんということもなくこう言った。

 大橋は訳が分からなかった。確かに五日ほど前、夕飯にこのメニューを取り入れたのは事実だ。だが、あの時も、確かサラは大橋の作業を見ることもなく、テレビにじっと見入っていたはずだ。手伝いなど、箸を運ぶことくらいしかしていなかった。だいたい、材料を刻んだり炒めたりするのも、大橋よりはるかに上手で手際もいい。それなら、彼女は今までできない振りでもしていたということなのだろうか。

 何とも美味しそうな匂いが漂う台所の片隅で、大橋はテキパキと動き回るサラをぼうぜんと見つめていた。



☆☆☆



 強火で手早く炒められたチャーハンは、まるで中華料理店で出されたもののような素晴らしいできばえだった。

 自分が五日前に作った水っぽいチャーハンの味を思い返しながら、大橋はちらっとサラを見やった。サラは当たり前のような表情で、自分の作ったチャーハンをおいしそうに口に運んでいる。


――いったい、どういう事なんだろう。


 今までのサラとはあまりにもかけ離れすぎていて、大橋はそれをどう捉えればいいか分からないまま、混乱していた。

 と、スープを口に運んでいたサラが、ふっと笑ってその手を止めた。レンゲをスープ皿に置くと、顔を上げて大橋を見つめ、静かに口を開いた。


「私はいちおう七福神だから、おまえのマシな人生を実現するために、七福を授けることにしたんだ」


 サラは、優しい目で大橋を見つめている。大橋は黙ったまま、彼女の次の言葉を待った。


「おまえの望みは生活の安定と、仕事の能力向上。そして、恋愛だったよな」


 大橋は無言で小さくうなずいた。


「生活の安定には、まずは健康が第一だ。そのためには規則正しい生活と、生活する上での技術の向上が欠かせない。また、金銭的な安定も必要だ。そのために早起きをして生活リズムを整え、自炊で無駄な出費を抑えることを目指した」


 大橋は目を見開いた。

 やたら早起きで、いつも大橋を五時台にたたき起こしていたサラ。だが、そのおかげで毎日だいたい決まった時間に起床する癖がついた。また、出勤までに時間があるので、家のこともだいたいはすませていくことができた。出来合いの弁当や外食が減り、給料が入った今も、出費は最低限に抑えられている。しかも大橋はそれを、義務感ではなく自分から進んで行っていた。一緒に暮らすサラに、少しでも不快な思いをさせないように。

 サラはほほ笑みながら、さらに言葉を続けた。


「次は仕事だが、仕事の上でおまえに一番欠けていたのは共感力だった。相手の気持ちに寄り添って、その立場に立って考える力だ。だから私はおまえと暮らした。すぐ近くに自分と全く異なる他者が常にいる状況の中で、おまえにいろいろなことを感じてもらいたいと思ったからだ」


 大橋は何も言えなかった。ただじっと、サラの言葉に耳を傾け、瞬ぎもせずその顔を見つめることしかできなかった。


「事態を予測して準備する力も、おまえには不足していた。だから私は、日々の活動に一切手を貸さなかった。全てを一人で切り盛りすることで、短い時間を十二分に活用し、二つ以上の仕事を平行しながら行う経験をよりたくさん積んでほしかったからだ。この二週間でおまえはその力を十分につけ、足りない部分は事前に準備をしておくことも自然にできるようになった」


 サラはほほ笑んでいた。そのほほ笑みは慈愛に満ちた、まさに女神そのもののほほ笑みだった。大橋はその顔から、目をそらすことができなくなっていた。


「スムーズに仕事を進められるようになったことで、おまえは自分に自信を持ち、他者と自然に関わることができるようになってきている。職場内の人間関係も、以前より円滑になったはずだ」


 大橋ははっとした。あの病院で、石橋に言われた言葉を思い出したのだ。


「自分に自信が持てれば、恋愛もきっとうまくいく。必要以上に臆病にならず、自然に関係を深めることができるからな」


 大橋は曽我部とラインを交換した朝のことを思い出しながら、瀬戸物同士がぶつかり合うカチャカチャという音を聞いて初めて、レンゲを握る自分の指先が震えていることに気がついた。サラはそんな大橋を、その澄んだ瞳でまっすぐに見つめている。


「生活リズム改善、生活技術の習得、金銭管理能力向上、共感力向上、時間の有効活用能力、人間関係の円滑化、そして、恋愛成就。この七つの福の力で、おまえのマシな人生は実現の方向に向かう。そして、既におまえはそのための力を十分に身に付け、あとはそれを生かして、本当にマシな人生を手に入れるかどうかの段階に入っている」


 サラはそこまで言うと、いくぶん申し訳なさそうに笑った。


「……とは言っても、何せ私はもとは髪の毛だからな。数時間後の事態が予測できる能力と、自分の姿を他人から見えなくする力くらいしか目立った能力はない。だからきっかけを与えただけで、あとは全ておまえ自身に切り開いてもらわなければならなかった」


 そう言って、何とも言えないほど優しい表情を浮かべる。


「おまえは、その期待に見事に答えてくれた。私自身、たかだか二週間程度でこれだけの力をつけるとは思っていなかったから、本当に驚いている。おまえが身に付けた力は他から与えられたものでなく、全ておまえ自身の努力で身に付けたものだ。自信を持っていいぞ」


 サラは、その澄んだ大きな瞳で大橋をまっすぐに見つめた。


「自信を持って、水曜の授業に臨め。おまえはきっと、満足のいく授業が行える。大きく一歩、マシな生活に近づくことができるだろう」


 大橋はレンゲを片手に持ったまま、動かなかった。じっとちゃぶ台の真ん中あたりを見つめながら、黙っていた。微かに、レンゲが皿と触れ合うカチャカチャという音が、薄暗い居間に響いていた。


「……サラさん」


 ずいぶんたってから、大橋は目線をちゃぶ台に落としたまま、ようやく口を開いた。かすれた、小さな声だった。


「あなたは、……何者なんですか」


 その問いに、サラは艶やかな笑顔を浮かべながら、あの鈴の転がるような美声で答えた。


「私は、神だ」


 そうして、こう付け加える。


「信じるも信じないも、おまえ次第だがな」

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