25.寝顔と覚悟
「ただいま……」
薄暗い玄関に入った大橋は早口でそう言うと、靴をそろえもせずに脱ぎ捨てた。パンパンにふくらんだカバンを玄関に放り捨てると、そのまま、二階に駆け上がる。
扉の前で乱れた呼吸を整えると、ノックをし、それを静かに開いた。
「……おかえり、オオハシ」
サラは起きていたらしく、少しだけ顔を大橋の方に向けた。
「ただいま、サラさん」
大橋は枕元に座ると、そっとその額に手を当てる。
「大丈夫でしたか? 今日は……」
大橋の問いかけに、サラは小さくうなずいた。
「おまえが置いていってくれたリンゴ、昼に全部食べた。言われた通り、薬も飲んだ」
「そうですか、それはよかった」
大橋は体温計を取りだしてサラの脇下にはさみ込みながら、少しだけ表情を緩めた。
「熱が下がってきてるのかもしれませんね。それなら、今からおかゆを炊いてくるんで……」
大橋はふいに口をつぐむと、サラの顔をじっと見つめた。サラはその視線に気づいて小首をかしげる。大橋はそんなサラを見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「サラさんが言っていたこと……当たりましたよ」
「そうか」
サラは特段驚いた様子もなく、当たり前のようにうなずいた。
「ただ、これはあくまできっかけに過ぎない。このチャンスを生かすも殺すも、おまえ次第だ。めったにないチャンスであることは確かだがな」
そう言うと、サラはほほ笑んだ。
「頑張れよ、オオハシ」
大橋はそんなサラを黙って見つめていたが、やがて小さくうなずいた。
☆☆☆
炊きあがったおかゆに卵を混ぜ、しょうゆをたらすと、薬と水もいっしょにお盆に載せて、大橋は二階に上がった。
「サラさん、おかゆ炊けましたよ。お待ち遠……」
足で扉を開けて部屋に入った大橋は、言いかけた言葉を途中で止めた。
サラが、穏やかな寝息を立てて眠っていたのだ。
大橋は足音を忍ばせて歩み寄ると、そっとお盆を置いて枕元に座り、静かに眠るサラの顔をじっと見つめた。
閉じられた目元に際立つ、長いまつ毛。すっきりと通った鼻筋に、花びらのような唇。陶器のようにつややかできめ細かい肌。亜麻色の髪が数本、無造作にその目元にかかっている。
髪を顔からどけてやろうと何気なく伸ばした大橋の指が、一瞬、サラの熱っぽい頬に触れた。
ドキッとして思わず手を引いてしまってから、大橋は何を思ったのか、おずおずと手を伸ばすと、サラの頬にもう一度、その手のひらをそっと添わせた。
つややかで柔らかな頬は、大橋の手のひらよりほんの少し温かかった。そういえば、さっきの検温でもまだ七度台後半の熱が出ていた。しっかりと熱が引くには、まだもう少し時間がかかりそうだ。
感染で疲れた体を休めているからか、大橋に触れられていても、サラは起きる気配がない。大橋はサラの頬の温かみを感じ、その寝顔を眺めながら、彼女が口にした言葉を思い返していた。
『私は、神だ』
初めて大橋の家に来た時、彼女は屈託のない笑みを浮かべながらそう言った。
『……おまえ、私が他の人間に見えないという話、まだ信用してないんだろう』
そう言って上目遣いに自分をにらんでいた、サラ。
――女神様、か。
大橋はサラの無防備な寝顔を眺めながら、くすっと笑った。
今回、こんな形でサラの予言めいた言葉が的中した。しかし、それでも大橋はまだ、彼女が神だなどという話は信じることができずにいた。アニメや小説でもあるまいに、そんな突拍子もないことが現実にあるなどとは到底思えないし、こんなに存在感のある人間が他の人には見えないなどということも、即座に信じろという方が無理な話だった。
ただ、こうして静かな寝息を立てて眠っているサラの姿だけは、確かに女神そのものの美しさだと思った。今この瞬間だけは、彼女が女神であるという事実を信じてもいいような気さえしていた。
いっこうに起きる気配もなく、ぐっすりと眠りこんでいるサラ。その穏やかな寝顔を眺めるうちに、大橋は自分の心の奥底に隠してきた感情が、抑えようもなく膨れ上がってくるのを感じていた。
それは、以前から何となく気づいていた感情ではあった。だが、そんなことが実現する訳がないとハナから諦め、その感情から目をそらし、その事実と向き合うことを避けてきた。実現不可能な望みと向き合うことで、自分が傷つくことを恐れていたのかもしれない。
だが、今まさにこの瞬間、彼は自分の気持ちをはっきりと自覚した。そして、その事実から目をそむけず、たとえ自分が傷つくとしても、逃げずに正面から向き合う覚悟を決めた。大橋は決意を新たにしつつ、サラの頬に添えた手にそっと力を込めた。
と、その感覚に刺激されたのか、サラの目が開いた。
大橋は頬から手を離すと、サラの顔をのぞき込んでほほ笑みかける。
「目が覚めました? サラさん」
「あれ? オオハシ……私、眠っていたのか?」
サラは寝ぼけ眼を擦りながらそう言ったが、ふいに鼻をひくひくと動かし始めた。
「何か、いい匂いがするな」
「お粥を持ってきたんです」
そう言うと大橋は、枕元のお粥のふたを取った。
「起き抜けですけど、食べられますか? 多分、熱さもちょうどいいくらいになっているとは思いますけど」
サラは目を輝かせると、あわてて体を起こしかけた。だが、起き抜けな上に、病み上がりの体には負担の大きい動きだったのだろう、めまいがしたのか、上体がふらついて大きく揺れる。
倒れかけたサラの体を、大橋が無言のまま、抱き留めるようにして支えた。その迷いのない動きに驚いたのか、サラは大きく目を見張り、それからいくぶん戸惑ったような笑みをうかべた。
「あ、……ありがとう。オオハシ」
大橋は小さく首を横に振ると、サラの背を支えて座らせてやりながら、ぽつりと口を開いた。
「俺、精いっぱいやりますから」
れんげをとろうとした手を止めて、サラは大橋をじっと見つめた。大橋はまるで自分に言い聞かせるように、かみしめるような口調で言葉を継いだ。
「今回のチャンス、必ずものにして、マシな人生を手に入れてみせます。だから、サラさんも……見ていてください」
サラは大橋をまじろぎもせず見つめていたが、やがて小さなほほ笑みを口元に浮かべると、深々とうなずき返した。
「分かった。必ず見届けよう」