24.転落した教師と的中した予言
満員電車に揺られながら、大橋は今朝のあの感覚を思い出していた。
熱っぽいサラを力いっぱい抱き締めた、あの幸せな感覚を。
同時に、一人で残してきたサラのことを思うと、重苦しい不安感と焦燥感に襲われた。
『今日、仕事場に行けば、そのチャンスをつかむことができる。行かなければ、今後同様のチャンスは二度と来ない』
――いったい、どういう意味なんだろう。
サラが口にしたあの予言めいた言葉が、なぜか大橋は気になって仕方がなかった。
サラがあの祠の神だなどと、大橋はいまだにこれっぽっちも信じていない。大橋が思う「神」とは、全てを超越し、全能であり、厳格であり、完全無欠で非の打ち所のない、そういった存在だ。そのイメージからすると、サラは当然のことながらあまりにもかけ離れている。無垢で、純粋で、まるで生まれたての子どものように無防備で、思わず世話を焼かずにはいられない。あんな神などいるわけがない。大橋は今でもそう思っている。
だが。あの言葉を言ったあの瞬間だけは、サラはまさに大橋のイメージする「神」そのものだった。
『今日、仕事場で大きな変化がある。それは今後おまえ自身の力を試す場につながり、それを成功裏に終わらせることができれば、おまえの評価は今までとまるで違ったものになるだろう』
同時に、彼女が口にしたあの言葉が胸をかすめる。
『おまえは、私を消滅させたいのか?』
もし、マシな人生を手に入れるという大橋の願いとは逆の方向に事態が進んだ場合、自分は消滅すると彼女は言った。もし本当に今日、学校で彼女が予言したような事態が起きれば、それはすなわち彼女の言葉が真実であり、その場合、彼女が消滅する可能性も生まれるということになる。
そこまで考えると、大橋は肩をすくめて苦笑した。
――何考えてんだ。そんなこと、ある訳がないじゃないか。
今日はきっと、いつもどおりの一日だ。俺が活躍する可能性なんて出てくる訳がない。大橋はくだらない妄想を慌てて頭から追い出すと、つり革に体重を預けて目をつむった。
そこはかとない不安を抱えた大橋を乗せて、電車は警笛をひとつ鳴らして地上から地下へのトンネルに滑り込んで行った。
☆☆☆
三時間目は、学年合同の体育の授業だった。
学年主任の石橋は、大橋の指導力向上のために、時々こうした合同授業を組んでくれる。大橋は授業の中で指導者の動き方や児童への対応、準備や片付けの方法を実際に体験しながら学ぶことができる。大橋の初任者としての研修期間は終了しているが、担任していたクラスが学級崩壊を起こしたこともあり、継続指導が必要と判断した石橋の裁量だった。体育の授業が苦手な大橋にとっては、本当にありがたい心遣いだった。教室ではようやく話を聞く姿勢ができてきた大橋のクラスだが、意識が拡散する屋外ではまだまだ全員を集中させることが難しい。それをどう落ち着け、集中させていくかが、目下の大橋の大きな指導目標だった。
今日は合同でリレーを行う。二クラスの児童は校庭に出て、一斉に体操を始めた。
大橋が前に出て動きの見本を見せ、石橋が後方で児童の動きを監督していると、案の定、大橋のクラスの児童が、端の方で何やら騒ぎ始めた。どうやら、ちょっとした小突き合いがケンカに発展してしまったらしい。野島という体の大きな児童が、背は高いがヒョロッとした雰囲気の宍倉という児童のことを何やら激しくののしっている。
それに気がついた大橋は動きを止めかけたが、石橋は大橋に続けるように目で合図すると、二人の方に駆けよっていった。
「どうしたの? 二人とも」
駆けつけてきた石橋に、野島という児童は興奮しきった口調で訴える。
「宍倉のやつが、俺の体操の邪魔ばかりするんだ。あんまりしつこいから……」
それを聞いていた宍倉が、バカにしたように口をはさむ。
「何言ってんだよ。野島が俺の邪魔をしてんだろ。そのでっかい体がさ、さっきから邪魔で邪魔でしょうがないんだ」
「……んだと? この野郎!」
思わずつかみかかろうとする野島を押しとどめると、石橋は宍倉を見た。
「宍倉くん、その言い方はないんじゃないかな。野島くんだって、邪魔しようとしてる訳じゃないと思うわよ」
「邪魔してるよ!」
今度は宍倉が声をはり上げた。
「いっつもいっつも、そのでっかい体でぶんぶん腕を振り回すから、俺に当たって痛くてしょうがないんだ! マジでいい加減にしてほしいよ!」
「何だと!?」
野島に宍倉はあっかんべーをすると、走り始めた。
宍倉の態度に、とうとう野島もぶちキレたらしい。石橋の手を振りほどくと、宍倉を追いかけて走り始めた。石橋が、慌ててそのあとを追いかける。
宍倉が走り始めた瞬間から、大橋も朝礼台を飛び降りて走り始めていた。校庭に並んで残された児童たちが、一斉に振り返ってその様子を見守る。
宍倉は第二校庭に降りる階段の前で野島につかまった。駆けつけた石橋が、つかみ合う二人を引き離そうと割って入る。大橋がようやくそんな三人に追いついた、その時だった。
宍倉に殴りかかる野島を押しとどめようとした石橋の足が、階段上に大きくはみ出したのだ。
「……!」
瞬間。野島も、宍倉も、そして大橋も、凍り付いた。
階段を踏み外した石橋の体は、五十段ほどのその階段を、あっという間に一番下まで転がり落ちていった。
☆☆☆
「本当に、申し訳ありませんでした」
午後四時。子どもたちを下校させるやいなや石橋が入院した病院に駆けつけた大橋は、震えた声でこう言うと、深々と頭を下げた。
「何言ってるの、大橋くんのせいじゃないわよ」
頭に包帯を巻かれた石橋はそう言って苦笑すると、小さくため息をついた。
包帯でグルグル巻きにされ、天井から吊られた左足を見るともなく見つめながら、石橋は自嘲気味に言葉を継いだ。
「ましてや、ケンカしたあのたちの責任でもない。指導力不足で、あの子たちの気持ちをすぐに落ち着けることができなかった、私自身の責任よ」
石橋は大橋に枕もとの丸椅子に座るように勧めると、それでもまだ暗い表情でうつむいている大橋に顔を向けた。
「あのあと、体育を一人で見てくれたの?」
大橋は小さくうなずいた。
「……ていっても、結局、クラスごとに四チームに分かれて一回走っただけでしたけど。時間もなくて、大したことはできませんでした」
「でも、時間内に終わらせて、教室に上げてくれたんでしょ」
大橋はうなずくと、ようやく少し顔を上げた。
「四時間目は自分が持ってたプリントをやらせて、五時間目は算数ドリルを進めさせました。宿題は音読で、月曜の持ち物は時間割どおりで指示しておきました。……大丈夫ですか?」
その言葉に石橋はうなずくと、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「助かったわ、大橋くん。ありがとう」
「そんな……とんでもないです。当然ですよ」
「その当然のことができるようになって、ほんとうによかった」
石橋はそう言うと、遠い目をした。
「四月当初の大橋くんって、何かいつも自信がなさそうで、仕事の見通しも持ててなくて、準備も不十分で、やる気がなくて……私ね、本当のことを言うと、もしかしたらこの子、この一年で辞めちゃうかもしれないって思ってた」
大橋は、静かに語る石橋をじっと見つめた。
「でも、今月に入って大橋くん、すごくやる気を出してきてたでしょ。朝の会に読み聞かせを取り入れたり、時間をかけて授業準備を工夫してきたり……子どもの様子も見違えるように変わってきて、あの飯田くんまで登校して、何より、大橋くん自身が、最近はとっても楽しそうに仕事をしてる様子だったでしょ。私も本当に嬉しかったんだ」
「石橋さん……」
「仕事の見通しも随分持てるようになって、プリントや教材の事前準備もしっかりしてるから、不意の事態にも上手に対応できるようになったし」
大橋は首を振った。
「とんでもないです。今日だって結局、俺のクラスが原因で、石橋さんがこんな事になっちゃって……」
「だから、それは大橋くんのせいじゃないって」
石橋は大橋の肩をポンポンたたくと、笑った。
「そりゃもちろん、まだまだ改善すべき点は山のようにあるわよ。だってそれが何にもなかったら、十五年もこの仕事をしてる私はどうしたらいいのよ。最初から百パーセントの人間なんて誰もいない。毎日、たとえゆっくりでも、百パーセントを目指して進んでいければ、それでいいの」
そこまで言うと石橋は、まっすぐに大橋を見つめた。
「今の大橋くんなら、私も安心して任せられるわ」
「……え?」
ただならぬ雰囲気を感じ、大橋は顔をあげて石橋を見つめた。
「来週の水曜日の、第一回研究発表」
大橋は息をのむと、大きくその目を見開いた。
「大橋くんの先行授業を、発表当日に差し替えて」
「い、石橋さん、それは……」
大橋は焦りまくって口をはさんだ。
「俺じゃ無理ですよ。研究の趣旨自体理解しきってないし、それ用の準備も何もしていない。最近多少は落ち着いてきたとはいえ、クラス経営もまだまだですし、……」
「大丈夫よ、大橋くん」
石橋は屈託のない笑顔を浮かべると、大橋をまっすぐに見つめた。
「自信を持って。二組のあの子たちとなら、大橋くんはきっとできる。私も及ばずながらフォローするから。それに、考えようによっては、大橋くんにとってもこれはチャンスかもしれないのよ。今年はこれだけしっかり学級経営してるって、学校内外の人に大々的に知らせることができるんだもの」
その言葉を聞いた瞬間、大橋ははっとして目を見開いた。
『今日、仕事場に行けば、そのチャンスをつかむことができる』
大橋はぼうぜんと石橋を見つめた。石橋はそんな大橋を鼓舞するように笑いかけると、大きくうなずいてみせた。
「自信を持ってやってみなさい、青年。あんたには、まだまだ可能性があるんだから!」
大橋は何も言わなかった。動くことができなかった。サラの予言が的中した衝撃に、全ての思考が停止してしまっていた。