23.甘い感情と厳格な気迫
大橋はサラの脇下に差し込んだ体温計を抑えながら、その顔を心配そうにじっと見つめた。いつもは健康そうなバラ色に染まっているその頬が、今は何だかやけに不自然な赤に染まっている。そのくせ、唇は乾いていて色味がなかった。
「大丈夫だ、オオハシ」
サラは力なく笑うと、大橋に顔を向けた。
「多分、疲れか何かだと思う。すぐにこんな熱は下がるから……」
体温計がピピッと鳴った。大橋は急いで体温計を取り出すと、じっとその表示を見つめた。
「……高いな」
ため息をついて枕元に体温計を置く。表示は三十九度一分だった。
「何かおなかに入れてから薬を飲んだ方がいいですね」
大橋は、急いで階下に降りていった。
やがて再び上ってきた時には、その手に小さな皿に真っ赤なリンゴを一つとナイフ、それにコップに入った水と薬の箱を持っていた。
大橋はサラの枕元に座り込むと、不器用な手つきでリンゴの皮をむき始めた。皮はつながらず、すぐにバラバラと落ちて、むき残しもある。かなり時間をかけてようやくむき終えた時には、リンゴは黄色みを帯びていた。
大橋はそれを八等分すると、爪楊枝を刺してサラに一切れ差しだした。
「食べられそうですか?」
サラは小さくうなずくと、よろよろと起き上がってそのリンゴを受け取った。おずおずと、小さくかじり取る。ちょっと目を見開き、さらにもう一口食べる。
「無理しなくていいですよ、食べられる範囲で」
「いや、無理はしていない。おいしいんだ」
サラは大橋に笑いかけて見せたが、起き上がっているのがつらいのか、リンゴを持っていない左手を後ろにつくと、小さく息をついた。
大橋はリンゴの皿を脇に置くと、黙ってサラの右脇に体を寄せ、彼女の体を自分の体にもたせかけた。左手でサラの肩を抱き、彼女が楽に座っていられるように支える。
サラはそんな大橋を驚いたように見つめたが、少し目線を落とすと小さな声で「ありがとう」とだけ言った。
サラはリンゴを一きれ食べると、大橋が用意した薬を飲んで再び横になった。
大橋はリンゴの残りや皮が入った皿やコップを持つと、立ち上がって電気を消した。
「あとで冷えピタ買ってくるんで、そうしたらまた来ますから」
サラは小さくうなずいたようだった。
「お休みなさい、サラさん」
大橋はそう言って、静かに部屋の戸を閉めた。
☆☆☆
翌朝も、サラの熱は下がらなかった。
「三十八度九分か……」
大橋は小さくため息をつくと、立ち上がった。
「とてもじゃないけど、一人で置いていける熱じゃないな」
つぶやきながら階下に行きかけた大橋の背中を、いくぶん上ずったサラの声が追いかける。
「仕事は休んじゃダメだ、オオハシ」
足を止めて振り返ると、サラは布団から半身を起こし、切羽詰まったような表情で大橋を見つめている。大橋は小さく息をつくと、サラの元に戻った。
「いいから寝ていてください」
サラの背に手を添えてその体を横たえると、少しだけ笑ってみせる。
「あなたが普通の成人女子なら、たぶんこのままおいて仕事に行ったと思うんですけど、なにせサラさんですから……とてもじゃないけど、一人にしておけない」
「仕事は休むな。おまえのマシな人生が遠くなる」
必死に訴えるサラの頭を、大橋はまるで小さな子どもにするように優しくなでた。
「病気のサラさんほっぽって仕事して、それで手に入れるマシな人生ならいりません」
そう言って笑うと、大橋は立ち上がった。
「ろくでもない人生で十分ですよ」
「オオハシ……」
サラは一瞬黙り込んだが、何を思ったのか突然よろよろと起き上がると、布団の上に正座をし、額を畳に擦りつけて土下座した。
「サラさん? なにやってるんですか⁉」
驚いた大橋は慌ててサラを抱き起こそうとしたが、サラはその手を振り払うと再びひれふす。
「頼む、オオハシ。仕事に行ってくれ……お願いだ」
「サラさん、やめてください! そんなことしてたら、熱が上がってしまう!」
大橋はひれふすサラを無理やり抱き起こすと、腕に抱きかかえた。
「どうしてそんなにまで……」
言いかけて、大橋ははっと言葉を飲み込んだ。
抱きかかえているサラの目からあふれた涙が、白い頬を伝って流れ落ちたのだ。
サラは目線を宙に向けたまま、まるでうわごとのように言葉を継いだ。
「私は、おまえの願いを叶えるために来た。だから、おまえの願いにそぐわない行為をすれば、私はおまえの前から即刻消えなければならない」
その言葉に、大橋は目を見開いた。サラは大橋に目を向けると、潤んだ目でじっと見つめていたが、やがてぽつりとこう言った。
「私は、もっとおまえと一緒にいたい」
その言葉に、大橋の心臓が大きく跳ねた。まじろぎもせず、腕の中のサラを見つめ返す。
「そして、おまえの願いが完全に叶うのを見届けたいんだ」
サラはそこまで言うと、荒い息づかいで呼吸しながら静かにその目を閉じた。
言葉もなくサラを見つめていた大橋だったが、やがて布団の上に静かに横たえると、そっと布団を掛けてやった。
「行ってくれ、オオハシ。私は大丈夫だから」
サラはそう言って目を開くと、大橋を見て少し笑った。
「自分のことは自分で何とかする。おまえは安心して、仕事をしてきてくれ」
大橋はそんなサラを何とも言えない表情で見つめていたが、ややあって、言いにくそうに口を開いた。
「こんなことを言うと、サラさんはショックかもしれないけど……俺は実を言うと、サラさんが神様だなんて思っていないんです」
サラは驚いたようにその目を見開くと、大橋を見つめ直した。
「他の人に見えないっていうのも信じてないし、サラさんが俺の人生をどうこうできるとも思っていない。だから、俺が仕事に行かないとサラさんが消えるなんてこと、信じられる訳がないんです」
しばらくの間、サラは黙っていたが、やがて小さな声で言った。
「じゃあ、なんでおまえは、今まで私をここにおいていたんだ?」
「さあ、何ででしょうね。自分でもよく分かりません」
大橋は少しだけ笑うと、立ち上がった。
「俺にとって、サラさんはサラさんなだけなんです、多分」
「オオハシ……」
「とにかく、今日は仕事を休みます。今、電話してくるんで……」
大橋は、言いかけた言葉を飲み込んだ。再びサラが、よろよろと立ち上がったのだ。
壁を伝ってフラフラと歩き始める不安定なサラの上体を慌てて支えると、大橋はうつむき加減のその顔をのぞき込んだ。
「どうしたんです? トイレですか?」
サラは荒い息の間から、つぶやくようにこう言った。
「……出て行く」
その言葉に、大橋は息をのんだ。
「何を言ってるんですか? なんで今、こんな状態で出て行かなきゃならないんですか!」
「私は、ここにいてはいけない。私がいると、おまえのマシな人生が実現しなくなってしまう。私がいなくなれば、おまえが家にいる理由もなくなる。仕事に行かれるだろう」
制止を振り切り部屋を出ようとするサラの腕を、大橋は必死でつかんだ。
「何を言ってるんですか! やめてください、サラさん!」
「離せ、オオハシ。私はこれ以上、おまえに迷惑は……」
その言葉が耳に届くやいなや、大橋はつかんでいたサラの腕を自分の方に引き寄せ、その体を自分の両腕で強く抱きしめた。
「……⁉」
サラは息をのんで目を見開き、外に出ようとする動きを止めた。
「俺、何も怖がってませんからね」
熱っぽいサラの体を抱き締めながらそう言うと、大橋は少しだけ笑った。
「ただ、サラさんに行ってほしくないってだけですから」
サラは大橋の腕に体を預けたまま、ぼうぜんと中空を見つめている。
「出て行くなんて、もう絶対に言わないでください」
言いながら大橋は、サラを抱き締める腕にそっと力を込めた。
「言わないって約束しない限り、俺、サラさんのこと、離しませんから」
サラは黙ってどこか遠くを見つめていたが、やがてその目を閉じると、大橋の肩に静かに頭を預けた。
大橋とサラはそうしてしばらくの間、互いの体を寄せ合ったまま、動かなかった。
「……約束する」
ややあって、サラがぽつりと口を開いた。
「もう、出て行くなんて言わない。だから、……離してくれるか?」
大橋はうなずくと、サラの背にまわした腕をそっと外した。サラは大橋に支えられながらふらつく足を踏みしめて布団に戻ると、疲れ切ったように横になる。
ホッと息をつき、掛け布団を掛けようと布団に伸ばした大橋の手を、その時突然、サラがつかんだ。
けげんそうにサラを見た大橋は動きを止めた。半身を起こして自分を見つめる彼女の射るようなまなざしに、今まで感じたこともない、何か神々しいような、近寄りがたい雰囲気を感じたのだ。
サラは静かに口を開いた。いつもよりも低い、どこか遠くから響いてくるような声だった。
「信じるも信じないもおまえ次第だが、よく聞いてほしい。今日、仕事場で大きな変化がある。それは今後おまえ自身の力を試す場につながり、それを成功裏に終わらせることができれば、おまえの評価は今までとまるで違ったものになるだろう。今日、仕事場に行けば、そのチャンスをつかむことができる。行かなければ、今後同様のチャンスは二度と来ない」
大橋はごくりと唾を飲み込んだ。サラの言葉の内容というよりは、彼女の雰囲気そのものに完全に気圧されてしまっているような感じだった。
サラは目線を落とすと、静かに言葉を継いだ。
「私は、おまえに行ってほしい。おまえが信じていようがいまいが、私はあの祠の神であり、おまえの願いを叶えるために今、ここにいる。私に対する甘っちょろい感情のために、おまえの願いが叶えられるせっかくのチャンスをフイにしたとしたら、私自身がつらいんだ。加えて、そんなことになったら、私はもうおまえの側にはいられない。あっという間にこの姿は消え、完全にこの世から消滅してしまうだろう」
そこまで言うと顔を上げ、刺すように大橋を見据える。
「おまえは、私を消滅させたいのか?」
大橋は目を丸くすると、慌てて大きく首を横に振った。
「だが、もしおまえがここに残るなら、私はおまえが、私を消し去りたいと思っていると判断する。おまえは、私の消滅を望んでいると……」
「そんなこじつけで……」
「今、七時五分だ」
サラはそう言うと、厳しい表情で大橋を見た。
「今なら間に合う。早く用意をしろ」
「サラさ……」
「行け!」
何か言おうとした大橋は、その気迫に言葉を飲み込んだ。普段のサラからは想像もつかないような、荘厳で厳格な気迫だった。
大橋はしばらくの間、そんなサラを言葉もなく見つめていたが、やがて小さくため息をついた。
「……わかりました、行きます」
険のある表情を崩さず、黙って自分をにらみ付けているサラを、大橋は心配そうに見つめた。
「今、リンゴと水筒の水を枕元に持ってきます。電話の子機も持ってきます。あとで使い方を教えるんで、困ったことや、症状の急変があったら俺の携帯に連絡してください。六時前には必ず帰ってくるようにしますから」
「わかったから、早く用意をしろ。間に合わなくなるぞ」
大橋はうなずくと、部屋の戸を静かに閉めた。
大橋が階段を降りていく足音を聞きながら、サラは大きく息をついた。力が抜けたように、半身を布団に横たえる。そこに寝ているのはすでにいつも通りの、あの穏やかで優しいサラだった。
見るともなく天井の模様を眺めるサラの脳裏に、先ほどの大橋のセリフがよみがえってくる。
『病気のサラさんほっぽって仕事して、それで手に入れるマシな人生ならいりません』
サラは目を閉じると、そっと両手で自分の肩を抱いた。
まるで先ほどのあの感覚を、思い出してでもいるかのように。