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七福人生  作者: 代田さん
22/39

22.憂鬱モードと幸せモード

 翌朝、大橋は珍しく目覚まし時計の電子音で目が覚めた。

 時計の針は、六時ちょうど。いつも早起きのサラだが、どうやら昨夜の夜更かしがたたってまだ眠っているらしい。大橋は目覚ましを止めると布団を片付け、台所に立って朝食の支度にかかった。

 サラが起きてきたのは、大橋が起きて十分ほどたったあとだった。二階で身支度を調えてきたらしく、いつもどおり髪をきちんと結い上げて洋服も着替えてきている。


「おはようございます、サラさん」


 大橋の方からあいさつをすると、サラはまだ眠いのだろうか、心なしか大橋から目をそらし、小さな声で答えた。


「おはよう、オオハシ」


 大橋はそんなサラの様子にちょっと首をかしげたが、寝不足なのだろうと大して気にも留めなかった。

 朝食後、大橋がいつも通り昼食用のおにぎりを包んでいると、食器をさげに来たサラが本当に何気ない調子で問いかけた。


「今日も、ここにいていいんだろう」


 大橋はそんなことは考えてもいなかったので、数秒間思考が停止してしまった。


「……え、サラさん、図書館には行かないんですか?」


 サラはこくりとうなずいた。


「私、実は通勤電車が苦手なんだ。ぎゅうぎゅう押されて、苦しくて」


 そこはかとなくもの寂しい気分になっている自分に気づいてはっとすると、大橋は慌てて目線をそらしてうなずいた。


「そうですか、分かりました。今日はちゃんと帰ってきてから夕飯を作りますから、待っていてください」


 笑顔でうなずいたサラの顔を、大橋は複雑な思いで見つめた。

 大橋は久しぶりに一人で通勤電車に乗った。いつもはサラが押し潰されないように結構必死で守ってやっていたのだが、今日はその必要もなく、いつもよりはるかに楽なはずだった。だが、すし詰めの電車に一人で揺られながら、大橋は自分の心が、訳の分からない空虚感で満たされていることに戸惑っていた。

 地下鉄を降りて地上に出ると、前方にいつもサラと別れるあの図書館が見えてくる。


『行ってらっしゃい、オオハシ』


 小さく手を振り大橋を見送るサラの笑顔が、大橋の脳裏にふっと浮かんだ。


――どうしていきなり、家にいることにしたんだろう。   

 

 単純に、昨日一日家で過ごしてみて、それが気に入ったんだと考えればおかしいことはない。だが、大橋は何か心に引っかかりを覚えていた。信号で足を止め、誰もいない図書館前を眺めながら、それが何なのかつらつらと考えていた、その時だった。


「あら、大橋先生」


 聞き覚えのある、柔らかく明るい声。はっとして振り向いた大橋の目に、紺のブレザーに小花柄のワンピースを着た曽我部春菜が、笑顔でたたずんでいる様が映りこんだ。その春の日差しのようなほほ笑みに、大橋の思考は数秒間停止した。


「おはようございます、大橋先生。昨日はありがとうございました」


「あ、お、おはようございます。こちらこそ……」


 予想もしていなかった事態にどぎまぎしながらこう言うと、信号が青に変わった。大橋は横断歩道を曽我部と並んで渡り始める。


「昨日、遅かったですけど、大丈夫でした?」


 黙ったままでは間が持たないので、大橋はドキドキしながら話題を振った。すると曽我部は苦笑したようだった。


「何とか終電には間に合いましたけど、親に怒られちゃいました。帰るって言ってた時間からずいぶん遅れちゃったから」


「え、そうだったんですか。すみません、あんな遅くまで付き合わせちゃって……」


「大橋先生のせいじゃありませんよ。だって、主任が帰してくれなかっただけですもん」


「ほんと、凄かったですよね、両主任……」


 大橋のしみじみとしたつぶやきに曽我部も苦笑してうなずくと、思い出したように携帯を取りだした。


「……そうだ、大橋先生。昨日のお店の電話番号、教えていただけませんか? すごくよかったから、今度友だちを誘って行ってみようと思ってるんですけど、そういうのを控えるの忘れちゃって」


「あ、分かりますよ。ちょっと待ってください」


 大橋が携帯を取りだして操作している様子に、曽我部はちらっと目をやった。


「あ、これです。いいですか、03-3……」


 大橋が言った番号を曽我部はうなずきながら携帯に入力していたが、大橋が番号を伝え終わって携帯をしまおうとすると、それを遮るように口を開いた。


「大橋先生のラインも、教えてもらっていいですか?」


 予想もしていなかったこの言葉に、大橋の思考は再び停止した。


「……え?」


 恥ずかしそうに上目遣いで自分を見上げている曽我部。大橋は携帯を握る手が小刻みに震え出すのを感じた。


「も、も、もちろんです!」


 大橋が二次元コードを表示すると、曽我部はそれを自分の携帯で撮影する。それからしばらく携帯を操作して何か入力しているようだったが、ややあって、大橋の携帯が小さな音をたてた。


「試し送信、OKですね」


 曽我部はにっこり笑ってそう言うと、先に学校の門をくぐっていった。

 大橋は慌てて携帯を取り出すと、ラインを開いた。


『昨日は楽しかったです』

『また今度、下南沢案内してくださいね』


「……ったあ!」


 両手を握りしめ、思わず大声で叫んでしまってから、大橋は慌てて周囲を見回すと、登校する児童があふれかえる校門を急ぎ足でくぐっていった。



☆☆☆



 朝のあの出来事のおかげで、大橋は一日中ふわふわと幸せな気分だった。

 いつもは図書館脇の自販機の後ろに隠れて曽我部をやり過ごさなければならないのだが、今日はサラが家にいたいと言ってくれたおかげで、こんな幸運を手にすることができた。全く何が幸いするか分からない。朝の憂鬱ゆううつモードから、大橋の気分はすっかり幸せモードに切り替わっていた。

 手早く最低限の仕事を済ませると、残りの仕事は家でする心づもりで、プリントや教材、教科書をカバンに詰め込み始める。時計の針は、あと一分で五時になる。今日はなんとか定時で出られそうだと、大橋がほっとしながら帰宅準備を進めていた、その時。

 机の上に置いてあった携帯に、着信音がした。

 慌てて携帯を開くと、ラインが着信している。それを見て、大橋はハッとした。


『お帰り早いですね』

『あと三十分待っていただけたら、ご一緒できるんですけど』


 心臓が早鐘を打つのを感じながら、ちらっと曽我部の席に目を向ける。曾我部は手元に目を落として、一心に書類を作成している。大橋は深呼吸すると、慌てて返信をうちこんだ。


『三十分でも一時間でもお待ちします!』


 送信しようとして、大橋はふと動きを止めた。


『今日も、ここにいていいんだろう』


 そう言って心なしか寂しそうな表情を浮かべていた、サラ。

 サラは今、たった一人で自分の帰りを待っている。あの昼間でも薄暗い、築四十年の狭苦しい家で。そのことをふいに思い出して、大橋の心は揺れた。

 だが、次の瞬間、先日サラに言われたあの言葉が頭を過ぎった。


『私は、人妻なんだ』


 返信を削除しようとしていた大橋の指が、止まる。


――あの図書館前で待っている訳でもないし、三十分くらい遅くなるときもあった。家で待っている分には、多少遅くなっても大丈夫だろう。


 思い直すと、返信の内容を打ち直し始めた。


『三十分くらいなら大丈夫なので、待ってます!』


 大橋は送信して携帯をしまうと、カバンにしまった残務を再び取りだした。



☆☆☆



 大橋が地下鉄の改札口で待っていると、程なく曽我部がエスカレーターを駆け下りてくるのが見えた。大橋を見つけると、申し訳なさそうに頭を下げる。


「ごめんなさい、大橋先生。遅くなっちゃって……急いでたんですよね」


 曽我部はそう言うと、ちらっと駅の時計を見上げた。五時四十五分。予定の時間より、十五分ほど遅れている。大橋は首を振って笑った。


「大丈夫です。どうにでも融通の利くことなんで」


 二人は並んで改札を抜けると、ホームに降りるエスカレーターに乗った。


「曽我部先生、ご自宅はどちらなんですか?」


「境堂なんです、実は」


 曽我部の言葉に、大橋は目を丸くした。


「え? じゃあ、急行だったら隣の駅じゃないですか」


「そうなんです。だから、一緒に帰れるかなって思って……ごめんなさいね、いきなりで」


 大橋は暴れまくる心臓を右手で押さえつけながら、ブンブン首を振って見せた。


「とんでもないです。誘っていただいて恐縮してます、ほんと」


「やだ、大橋先生って、おもしろいですよね」


 曽我部はくすくす笑いながら乗車口に立った。


「大橋先生って、いつもお帰りが早くないですか?」


 大橋はギクッとして目をそらすと、いくぶん早口で答える。


「あ、いえ、自炊してると、結構、時間がかかるんですよね……支度が。その間に、腹が減っちゃうんで……」


「そうか、大橋先生、一人暮らしでしたもんね。たいへんですよね、帰ってから夕飯の支度。あたしなんて実家から通ってるから、親におんぶにだっこで楽させてもらってますけど」


「親御さんがいらっしゃるなら、それでいいんですよ」


 車両が入線してきた。騒々しい音がホームいっぱいに響き渡る。

 二人は電車に乗ると、突き当たりの戸口近くに立った。

 大橋は、目の前に立つ曽我部春菜を改めてまじまじと見つめた。

 均整の取れたスタイルに、控えめにメークされた知性的で整った顔立ち。柔らかそうなミディアムヘアに、細い手首。背は、大橋より十センチメートルほど低いくらいだが、高いヒールのサンダルを履いているので、恐らく百六十センチメートル位なのだろう。高くもなく低くもなく、ちょうどいいくらいの理想的な高さだ。背筋を伸ばして姿勢良く立っている姿はなんとも理知的で、それでいて親しみやすい、民放の女子アナのような雰囲気を持っている。そんな女性と二人きりで帰途についている。大橋は信じられない気分だった。


「ねえ、大橋先生」


 突然声をかけられて、ぼうっと曽我部に見とれていた大橋はあわてて返事を返す。


「は、はい。なんですか? 曽我部先生」


「先生って呼び方、職業がばれるから、外ではやめません?」


 大橋はうなずいた。


「それもそうですね。曽我部さん、でいいですか?」


 すると曽我部は上目遣いに大橋を見ながら、意味ありげに笑った。


「あたし、実はその名字、嫌いなんです。堅い感じがして……。名前の方で呼んでいただいてもいいですか」


 大橋ははっきり分かるくらい赤くなった。慌てて窓の外に顔を向ける。


「え、じゃ、じゃあ、……春菜さん、ですか?」


「ええ。それでお願いします」


 曽我部はうなずくと、極上の笑顔でにっこりと笑った。



☆☆☆



 大橋が下南沢の駅に着いた時には、時計の針は六時半をまわっていた。

 曽我部と別れてウキウキと駅へ降り立った瞬間、サラのことを思い出した大橋はドキドキし始めた。早く帰ってやろうと思っていたのに、結局、いつも帰ってきていた時間より遅くなってしまった。急いで夕食の支度をしなければ……冷蔵庫の中身を思い返しながら、献立を考える。大根がまだあまっていて、先日買った鶏のもも肉があったから、手軽に水炊きでもやろう。ほうれん草のごま和えでも添えて。あれこれ考えながら大橋は急ぎ足で住宅地を抜けると、自宅の門をくぐった。


「ただいま」


 鍵を開けて声をかけたが、家の中はしんと静まりかえっている。

 居間と台所を仕切る襖は開けられていたが、中は薄暗く電気もついていないようだ。大橋はいぶかしく思いながら靴を脱ぐと、居間へ向かった。


「サラさん? どこですか?」


「……オオハシ?」


 小さな声が、薄暗い居間から聞こえてくる。

 大橋が居間をのぞくと、電気もつけていない薄暗い居間の隅に、サラが壁により掛かるような格好で座っていた。


「どうしたんですか? 電気もつけないで……」


 電気をつけた大橋は、ちゃぶ台の上に昼食用に置いていったおにぎりが、手をつけられずにそのまま置かれていることに気がついた。


「サラさん? おにぎり、食べなかったんですか?」


 サラは小さくうなずいたようだった。


「どうしたんですか? いったい……」


 大橋は言いかけてからハッとしたようにサラを見ると、持っていた荷物を放り捨てて座り込むサラの元に駆けよった。

 うつむき加減のサラの額に手を当てる。その熱さに、大橋は息をのんだ。サラは閉じていた目を薄く開くと、大橋を見て力なく笑った。


「すまない……なんか、食欲がなくて。それにさっきから、寒くて寒くてしょうがないんだ。どうしたのかな、私……」


 そう言って目を閉じて、苦し気な呼吸を繰り返しているサラを食い入るように見つめながら、大橋は動かなかった。サラの額の熱がまだわずかに残っている手のひらが、中途半端な位置で動きを止めたまま、微かに震えている。

 大橋は、やおらその手をサラの体の下に差し入れると、無言でサラの体を抱き上げた。驚いたように目を見はるサラに構わず立ち上がると、速足で歩き始める。


「……オオハシ?」


「すみません、サラさん。サラさんがこんな状態なのに、俺……」


 急ぎ足で二階へ向かいながら、大橋は絞り出すような声でやっとこれだけ言った。サラは不思議そうに大橋を見上げると、小さく首を振ってみせる。


「なんでおまえが謝るんだ? おまえは何も悪くない。私が……」


「俺が悪いんです!」


 大橋はサラを抱いたまま、階段の途中で立ち止まった。サラを抱えるその手が、微かに震えている。


「オオハシ?」


 サラは熱に浮かされたような顔で、それでも心配そうに大橋を見上げている。大橋はそんなサラの視線に耐えかねたのか、つらそうに目線をそらしてうつむいた。


「……ごめん、サラさん」


「オオハシ……」


 階段の途中で立ち止まったまま、大橋はしばらくの間動かなかった。

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