21.飲み会と涙
「じゃあ、行ってきます」
大橋は靴を履くと、振り返った。
上がり框の際に、見送りに出てきたサラが立っている。
「いってらっしゃい、オオハシ」
そう言うと小首をかしげて、艶やかにほほ笑む。大橋はなんだかやけにドキドキした。自分の呼び名が名字の呼び捨てでなかったら、完全に新婚夫婦の朝の一コマだ。新婚夫婦なら、この後……。
大橋が勝手な想像にごくりと生唾を飲み込んだ時、居間から軽快な音楽が流れてきた。
「あ、新しい番組だ」
サラは目を丸くしてくるりと振り返ると、大橋に「じゃあな」と言い残してさっさと奥に引っ込んでしまった。薄暗い玄関に一人ぽつんと取り残された大橋は、気を取り直したように鍵を開けると、家を出て行った。
☆☆☆
三時間目が終わり、休み時間になった。
小テストの採点をする手を止めて、大橋はちらりと時計を見上げた。
時刻は十一時二十五分。サラは早起きだから、もうそろそろお昼だろうか。一人で何をしているんだろう。何か、困ったことはないだろうか……大橋は外を眺めながら、まるで小さな子どもを一人で留守番させている親のようなことを考えていた。
大橋はもう、サラが家の金品を奪って立ち去るような事態は想像していなかった。
飲み会が決定した時、彼女にどう伝えようか悩みはしたが、彼女をあの家に一人で置いていくことに対して防犯上の不安は一切抱かなかった。彼女を信用するに足る新しい情報など何ひとつ手に入れていなかった訳だから、よくよく考えれば危険極まりないのだが、大橋はサラがそんな人間ではないと確信していた。一週間前はそれが心配で彼女を図書館に連れ出したのだから、たいした変わりようである。いったいどういう理由でそうなったのかと問われても、他ならぬ大橋自身もよく分からない。
とにかく彼は今、一人でサラが困っていないかどうか、ただそれだけが気がかりだった。一応給湯器のスイッチも入れてきたし、バスタオルも着替えも出してきた。おにぎりも言われたとおり昼と夜の分を作っておいてある。布団も、今日は畳まずに敷きっぱなしだ。取りあえず、一日過ごすのに困ることはないだろうとは思いつつも、大橋はサラの日常をおさらいしながら、忘れてきたことがないか、何度も繰り返し確認するのだった。
☆☆☆
この日は四時間授業で、午後は学校全体で取り組んでいる校内研究についての第二回研究会議が開かれた。
この学校は図工の研究に取り組んで二年目になる。会議では、来週に予定されている二年生と四年生の公開授業について、指導案を元に意見が交わされた。
大橋は当該学年だが、何となく気分は人任せだった。というのも、実際に授業を公開するのは当然のことながら学年主任である石橋のクラスだったからだ。大橋のクラスも先行で同じ授業はするが、それは全学年公開ではなく、主に当日の授業者である石橋に見せて、最終的な調整をするのが目的だ。ゆえに、大橋の意識はともすると一人で留守番をしているサラの方に流れがちだった。
だいたい、二年目の大橋には「校内研究」というものの存在意義自体がよく分からない。毎日の日常活動や授業だけでもいっぱいいっぱいなのに、何を好きこのんで指導案を作ったり、外部から人を呼んだりしているのか、その趣旨が全く読めないまま、惰性でその席に座っている状況だった。隣の席で熱心に当日の授業について語る石橋をまるでひとごとのように横目で見やりながら、大橋はあくびをかみ殺していた。
☆☆☆
六時になると、約束どおり四人はそろって学校を出た。
連れだって歩きながら、大橋はほんの少し首を巡らせて後ろを歩く曽我部を見た。
丈の短いサファリ風のベージュ色のジャケットに、花柄のふんわりしたシフォンワンピースを着ている。足にはヒールの高いサンダル。グロスを塗っただけの唇が、何だかやけに色っぽい。
大橋が口を開けて見とれていると、隣を歩く石橋がにやにやしながらその背中を突っついてきた。
「大橋くん、研究会であくびしてたでしょ」
鋭い指摘をされ、大橋の背中に冷や汗がにじむ。
「す、すみません」
「別にいいよ。ただ、大橋くんだって同じ授業をするんだから、指導案だけはしっかり読み込んどいてよ。もし私に何かあったら、大橋くんが代わりに公開授業しなきゃならなくなるんだし」
「何かって……やめてくださいよ、石橋さん」
石橋はカラカラ笑っていたが、その笑いを収めて大橋の顔をのぞき込んだ。
「そうそう、今日の店の予約、取れたんだよね」
「ええ。飲み屋って雰囲気じゃないんで、どっちかっていうと食べ中心になりそうですけど」
その言葉に、石橋は目を輝かせた。
「あら、いいじゃない。一次会はそれでいいのよ。よかった、楽しみ」
後ろを歩いていた林田も身を乗り出してくる。
「どんなお店なの?」
「西口を降りてすぐの、窯焼きピザで有名なお店です。芸能人も来るらしいですよ、聞くところによると」
「へえ、すごいじゃない」
林田が細い眼を精一杯丸くして言うと、曽我部が嬉しそうに口を開いた。
「あたし、そのお店の話を聞いたことがあります。結構良心的なお値段で、とってもおいしいって」
大橋はちらっと後ろの曾我部に目をやった。
「まあ、助かるわ。なにせ、はやさんにのせられて、おごることになっちゃったからね。高い店だったらどうしようって内心焦ってたのよ」
「自分で払いますよ、ねえ、大橋先生」
曽我部にふられて、大橋は慌ててうなずいた。
「も、もちろんですよ。給料も入ったし、……あ、あとでコンビニに寄ってもらっていいですか? 金下ろさないと、今、俺の所持金四百八十四円なんで」
その言葉に三人は大笑いしながら、地下鉄の階段を降りていった。
☆☆☆
店は、下南沢駅西口を降りて本当にすぐの、井ノ腹線沿いにあった。
四人が着いた時にはすでに店の外に数人の客が待っていたが、予約をしていたので、四人はすぐに店内に入ることができた。
もともと頼んであった三千八百円コースとは別に、四人はワインを一本注文した。それぞれのグラスに注ぎ、年長の石橋の音頭で乾杯すると、林田はさっそく半分以上を飲み干して幸せそうなため息をついた。
そんな林田を横目に、石橋は隣に座る大橋に話しかけた。
「なかなかステキな店じゃない、大橋くん」
大橋は笑顔で頭を下げた。
「店自体はちょっと古いんですけど、とにかくピザがおいしいのは確かなんで。俺は飲めないから、つい料理がおいしい店を選んじゃうんですよね」
「大橋先生、飲めないんですか?」
前に座っていた曽我部が驚いたように顔を上げたので、大橋は恥ずかしそうにうなずいた。
「遺伝なんですよね。親が両方とも飲めなかったから。努力しても、これだけはダメですね。体質なんで」
「いいのよぉ、飲めなくたって、付き合ってくれさえすれば」
グラスを飲み干した林田が大声で言ったので、大橋は慌てて二杯目を注いだ。
曽我部は自分のグラスに柔らかそうな唇を少しだけ付けながら、ほほ笑んだ。
「あたしもあんまり飲める方じゃないから、気持ち分かるな」
その言葉に、大橋は一瞬ボトルから注意がそれ、危うく粗相をするところだった。そんな大橋の様子をにやにやしながら見ていた石橋が、おもむろに曽我部に向き直る。
「ねえ、曽我部さん。あなた今、お付き合いしてる人とかいるの?」
この質問には、曽我部ではなく大橋の方が息をのんで固まった。曽我部は意味深な笑みを浮かべると、グラスの縁を上品なネイルカラーで彩られた指でなぞった。
「そんな人がいれば、本当によかったんですけど。採用試験に受かったら、あれよあれよという間に三年たっちゃって。そんな暇もありませんでした」
「そうなの。じゃあさ、こんなのはどうよ」
そう言うと石橋は、隣に座る「こんなの」の肩を抱いてにっと笑った。
石橋にこんなの呼ばわりされた大橋は、どう反応していいか分からず、内心焦りまくっていた。額にじんわり汗がにじみ出てくるのを感じつつ、恐る恐る曽我部の表情をうかがい見る。
曽我部は口元に知的で優雅なほほ笑みを浮かべながら、何も言わずにワイングラスをかたむけている。
いくぶん酔いがまわってきたのか、林田が少々大きすぎる声で笑った。
「石さん、ダメじゃん。そんなのじゃ、春菜ちゃんには釣り合わないって」
「あら、うちのかわいい二年目をバカにしないでよ。最近は何だか生まれ変わったみたいに頑張ってんだから。知ってる? この間、あの飯田くん登校してきたの」
林田は心底驚いた様子で目を丸くした。
「ええ、ほんとに? おめでとう、大橋くん。じゃあ、のまなきゃ!」
大橋は慌てて林田のグラスにワインを注ぐと、自分もグラスをとって一口、舐めた。大橋にとっては、こんなに強い酒は舐めるのが精いっぱいなのだ。
サラダや前菜が続々と運ばれ始め、たちまちテーブルの上はおいしそうな料理でいっぱいになった。大橋は立ち上がると、なんとなくいつもサラに対してやっている感じで、それぞれの皿に取り分け始める。
それを見ていた石橋は、意外そうな顔をした。
「飲めない割には手際がいいじゃない」
「え、そ、そうですか? 家で自炊してるせいですかね」
「え、自炊?」
林田が意外そうに身を乗り出した。
「大橋くんって、住所見る限り自宅でしょ。ご両親は?」
「死にました。父親は中学ん時に、母親は二年前に」
その言葉に、座はしんと静まりかえった。
「……そうだったんだ。じゃ、何? 今は一人暮らし?」
「ええ」
「そうかあ。男の一人暮らし、大変そうね。でも、ちゃんと自炊してるんだ」
大橋がうなずくと、今度は石橋が首をかしげた。
「……あれ? でも確か大橋くん、コンビニ弁当ばっかじゃ飽きるみたいなことをよく言ってたけど」
「最近、それじゃまずいなって思って。なるべくできる範囲でやってるんです」
「「へえー!」」
林田と石橋が目を真ん丸にして二人同時に言ったので、曽我部はクスクス笑った。
「じゃあ、何よ、得意料理は」
「え、得意? まだそんなところまでは、とても……みそ汁と、おにぎり、ですかね……」
大橋は言いかけて、はっとしたように目を見開いた。
「やだ、おにぎりなんて、料理とは言えないわよ。やっぱり誰かいい人見つけないと」
そう言って大笑いしている石橋に曖昧に笑って合わせながら、大橋は目線を窓の外……自宅のある方向に向けた。
――サラさん、どうしてるだろう。
大橋の思考が、家に一人で残されているサラにむきかけた時だった。
「あら、おにぎりだって、握れないよりは握れる人の方が全然いいですよ」
その言葉に驚いて振り向いた大橋の視線と、グラスを片手にほほ笑む曽我部の視線がピッタリと重なる。大橋は慌てて目をそらしたが、曽我部は大橋を見つめながらにこやかに笑った。
「これからはやっぱり、男も女もちゃんと自立しなきゃ。大橋先生、ステキですよ」
思いがけない曾我部の賛辞に、大橋は頬が熱く火照ってくるのを感じた。心臓もドキドキとうるさいくらいだ。
曽我部の発言を聞きつけた石橋が、嬉しそうに大橋をあおる。
「ほら、大橋くん! 春菜ちゃんがああ言ってくれてんのよ。何か言ってあげなさいよ!」
大橋は汗をかきかき、やっとの事でこれだけ言った。
「え、あ、あの……恐縮です」
その返答に、一同はどっと笑った。
大橋はただもう恥ずかしくて恥ずかしくて、必死で愛想笑いを浮かべることしかできなかった。曽我部に目を向けると、楽しそうに笑顔で林田たちと話している。大橋は飲み会が和やかに進んでいることにほっとしていたが、この時自分の頭からサラのことがすっかり消えうせていることには、当然のことながら気づけるわけもなかった。
☆☆☆
結局、大橋が解放されたのは、二次会の後、日付が変わる寸前だった。
サラのことを思い出した大橋は、電車に乗って帰る三人を改札口で見送るやいなや走り出した。閑静な住宅街を、息もつかせず一気に走り抜ける。
二次会まで付き合ってしまたことを大橋は後悔していた。恐らく寝ているだろうと思いつつ、大橋はそれでも早く帰りたかった。寝ているにしてもなんにしても、サラの顔を一刻も早く見たかった。彼女が無事で一日過ごせたかどうかを早く確認しなければ、不安で仕方がなかった。
自宅に走り込むと、鍵を開けるのももどかしく、玄関の扉を開ける。
室内は、静まりかえっていた。やはりもう眠ってしまったらしい。
寝ているということは、問題なく一日を過ごせたということなのだろう。大橋はホッと息をつくと、靴を脱いで玄関に上がった。
と、部屋の奥が明るいことに気がついた。
居間だ。まだ起きてテレビでも見ているのだろうか。そういえば微かに、テレビの音が聞こえてくるようだ。襖の隙間から、明るい光もわずかにもれている。
そこはかとない不安を覚えつつふすまを開いた大橋は、そこに展開していた光景に思わず息をのんだ。
電気がつけっぱなしの居間。ちゃぶ台に、空のお皿が出しっぱなしになっている。何かの情報番組だろうか? つけっぱなしのテレビから、小さな笑い声が響いている。
その部屋の片隅に、サラが倒れているのだ。
横向きのような姿勢で投げ出された体と、ぴったりと閉ざされた目。いつも一つにまとめ上げられている亜麻色の髪が解け、無造作に畳の上に広がっている。その手も、その足も、蛍光灯の光に照らされているせいかいつもより白く、ほつれた髪がかかったその顔も、紙のように真っ白に見えた。
大橋の頭にその瞬間、あの夏の日の光景がまざまざとよみがえった。
蝉時雨の中、目を半開きにして倒れていた、母親の姿が。
大橋はそれこそ頭の先から足の先まで、冷水を浴びせかけられたようにゾッとした。真っ青になってサラに駆けよると、夢中で顔にかかった髪をかき上げ、顔色を確認する。
サラは目を開けなかった。ほんの少し開けられたその唇は、心なしか青いように感じられる。大橋は指先が震え出すのを感じながら、呼吸を確認しようとサラの鼻先に自分の顔を近寄せた。
その時だった。
ふいにサラの目が開いたのだ。
その時、大橋とサラの距離、およそ六センチメートル。超至近距離で顔を見合わせたまま、二人は数秒間見つめ合っていた。
「……うわぁっ!」
先に反応して飛び退ったのは、例によって大橋だった。サラはまだ寝ぼけているような顔をしながら半身を起こすと、ぼんやりとそんな大橋を見つめた。
「……あれ? オオハシ。帰ったのか?」
大橋はそれこそ百メートルを全力疾走した時くらいドキドキしていたが、サラの言葉に必死でうなずいた。
「サ、サラさん……いったい、何があったんですか」
「え? 何って、……今日はテレビ見て、おにぎり食べて、フロに入っただろ。そのあと、おまえを待ってようと思ってテレビを見ていたら、眠くなって……」
大橋は襖に寄りかかったまま、息をついた。
「そんな……寝ていてくださいって言ったじゃないですか。今日は遅くなるからって……」
「すまない、オオハシ」
サラは首をかしげて、笑った。
サラは正座するような感じで大橋の目の前に座り、心持ち首をかしげ、悪意のかけらもない表情で大橋を見つめている。ほほ笑みをたたえたその頬は、先ほどまでの白さがウソのように、健康的なバラ色に染まっている。
怒濤のような脱力感に襲われて、そんなサラを糸の切れた操り人形のようにぼうぜんと見つめていた大橋は、ふと、自分の頬を何かが伝っているような、くすぐったい感触を覚えた。
不審に思い、右手で頬を擦ってみる。水のようなものが触れたときの、スースーする、涼しいような感覚。
「……え?」
大橋は慌てて両手で頬をぬぐった。
――涙?
大橋の頬を、涙が伝い落ちていたのだ。
大橋は訳が分からなかった。なんでこんなものが自分の目から流れて出しているのか、訳を知っているヤツを探し出して聞いてみたいくらいだった。なんにせよ、一刻も早く勝手にあふれてくる涙を止めたかった。だが大橋の意志に反して、涙は止まる気配もなく、あとからあとから流れ落ちてくる。
焦ったように涙を拭い続ける大橋を、サラは黙ったまま、じっと見つめていた。