20.相談と反応
大橋拓也は悩んでいた。
例の、あの飲み会のことである。
別に予約が取れなかった訳ではない。あのあと、帰宅するなりめぼしい店に電話をかけまくり、無事一件予約を取ることができた。しかもそこは普通の飲み屋ではなく、芸能人も訪れる窯焼きピザのおいしいお店だったので、飲めない大橋にとってはそれも好都合だった。故に、大橋にとって水曜日はかなり楽しみな日に間違いないのである。
ただ、問題が一つあった。
サラである。
飲み会に行くのなら、いつものようにサラを図書館に置いておくことはできない。迎えてやることができないからだ。加えて、夕食も用意してやることができない。その日は給料日なので、コンビニ弁当でも買ってきてもらえばいいのかも知れないが、サラが一人で買い物ができるかどうかも不安だったし、何より、朝から晩まで一人で待たせる、しかもその理由が他ならぬ曽我部春菜(他二名)と飲みに行くという、大橋にとっては何となく後ろめたいことだったので、よけいに言い出しにくかったのだ。
結局昨日は言い出すことができなかった。だが、あまりギリギリになって言い出すのもサラに申し訳ない。今朝こそは絶対に言わなければと大橋は覚悟を決めながら、みそ汁のみそを溶かすのであった。
ひと煮立ちさせて火を止め、大橋は居間にいるサラに声をかける。
「サラさん、できましたよ」
「わかった」
サラは立ち上がると、お箸を運びに台所へやって来た。この仕事だけは彼女は自分からやってくれる。大橋も失敗がないので安心して任せられた。
大橋は箸を渡しながら、ちらっとサラの顔を見やった。
いつもながらの、穏やかな表情。大橋の視線に気がつくと、顔を上げてにっこり笑う。その美麗な笑顔には、いい加減慣れても良さそうなものなのに、大橋はその都度ドキッとさせられてしまう。
慌てて目線をそらした大橋の頭に、ふとまたあの時のサラの言葉がよぎった。
『私は、人妻なんだ』
大橋は顔を上げると、居間に向かうサラの後ろ姿を目で追った。
『だから私は、おまえとどうなるつもりもない』
あのあと、もし彼女がセリフを続けたとしたら、こんなことを言ったのではないか。なぜだか唐突に、大橋はそう確信した。
「……だとしたら、飲み会くらい行っても構わないよな」
みそ汁をよそいながら、大橋はそう独りごちてうなずいた。
☆☆☆
今朝は海苔と卵焼きに、大根と冷凍里芋のみそ汁だ。卵焼きには大橋は毎回苦戦しているが、今日は何とかある程度形になっている。サラはその卵焼きを、何ともおいしそうに一口食べた。
サラはどんな物を出されても、一度も文句を言ったことがない。いつも嬉しそうにニコニコしながら、米粒ひとつ残さずきれいに食べてくれる。おかげで大橋も必要以上に気を遣うこともなく、いろいろ試しながら少しずつレパートリーを増やしてきた。大橋にうながされれば希望も述べるが、そうでない限り、彼女の方からあれをしろこれをしろとうるさく言われたこともなかった。
みそ汁をすすりながら、大橋はちらっと正面に座るサラの顔をうかがい見た。
いつもながらおいしそうにご飯を口に運んでいる。特に機嫌の悪そうな様子も見られない。そういえば、サラが不機嫌に大橋に当たり散らしたことなど、一度もないような気がする。いつも穏やかにほほ笑みながら、大橋のすることを興味深そうに見守っている。まるで、無垢な赤ん坊のように。
「何だ? オオハシ」
長いことじっと見つめていたせいだろう。サラが首をかしげて問いかけた。
「え、あの……」
大橋は慌てて視線をそらして無意味に卵焼きを突っついたが、おずおずと視線を戻すと、意を決したようにサラを見つめた。
「あの、サラさん、実はその、相談が、あるんですけど……」
「相談?」
相談と聞いて、サラは申し訳なさそうに表情を曇らせた。
「すまないな、オオハシ。今、私はおまえの願いをひとつ叶えようとしている最中だ。それ以上の願いは聞けないきまりだ」
「あ、いえ、そういうのじゃないんです」
大橋は慌てて手を振ると、目線をサラからそらした。
「実は、明日……、ちょっと、一人で一日、ここにいて頂きたいんです」
「え?」
サラが驚いたように目を丸くしたので、大橋は先ほどよりさらに目線を外し、言いにくそうに言葉を継いだ。
「っていうのは、実は、学年の、飲み会が、入っちゃって……ちょっと、断れそうにないんで、一緒に帰ったり、夕飯作ったりができないんです。だからその日は、申し訳ないんですけど、夜まで、一人で……」
「ずっといていいのか?」
やけに明るい声に言葉を遮られ、大橋が驚いて顔を上げると、サラはなぜだか目をキラキラさせながら大橋を見つめていた。
「ずっと、テレビを見ていていいのか?」
「え、ええ……」
「勝手にチャンネル変えてもいいか?」
「そ、そりゃ、もちろん……」
大橋が幾分引きながらうなずくと、サラは「そうか!」と何だかやけに嬉しそうだ。そんな彼女の様子に、大橋はいささか拍子抜けした。
「分かった。昼飯はおにぎりを握ってくれるんだろう?」
「あ、はい。ただ、夕食が……」
「じゃあ、おにぎりをもっとたくさん置いていってくれ」
「そんな、昼も夜もおにぎりだけなんて、いくら何でも……」
大橋は慌ててそう言ったが、サラはなんということもない様子で笑った。
「どうしてだ? 私は大橋のおにぎりが大好きだ。そうしてくれ」
大橋はそれ以上何も言えず、言葉を飲み込んだ。サラは嬉しそうにニコニコしていたが、はたと首をかしげて大橋を見た。
「そういえばオオハシ、飲み会って、何だ?」
大橋はその質問に思わず目をそらすと、言いにくそうに口を開いた。
「に、……人間は、仕事を一緒にする仲間と時折酒を飲んで精神を解放するんです。そうやって親交を深めて、人間関係の円滑化を図るんです」
大橋はわざと難しい言葉を使って説明すると、サラの反応をうかがう。サラは分かったのか分からないのか、相変わらずニコニコしながら大橋を見ている。
「そうか。要するに、少し羽目を外して仲良くなるんだな」
突然、サラがやけに的を射たことを言ったので、大橋はギクッとしたが、サラはなんということもない様子で言葉を続けた。
「そこには、あのきれいな女も来るのか?」
大橋はその質問に、頭皮から汗が噴き出すのを感じた。
「……は、はい」
遠慮がちにうなずいた大橋を見て、サラは目を丸くした。
「本当か!」
「ええ。二,三年合同の会なので……」
大橋は遠慮がちにそう言ったが、その言葉を聞いたサラは何とも嬉しそうににっこり笑った。
「そうか。それはよかった」
大橋は黙り込むと、サラをじっと見つめた。
「おまえのマシな人生に、一歩近づくかもしれないな。よかったな、オオハシ」
「そ、そうですね……」
大橋は曖昧に笑うと、もう一度サラの表情をうかがい見た。
いつも通りの、穏やかで優しい雰囲気。嫌みを言っているような様子も、無理をしている様子も一切見られない。ただひたすら、自宅で過ごす初めての経験を楽しみにし、大橋の幸運を素直に喜んでくれている。
『私は、人妻なんだ』
大橋の脳裏に、またあの言葉がふっと過ぎった。
おいしそうに朝食を食べ始めたサラを、大橋は複雑な表情でいつまでも見つめていた。