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七福人生  作者: 代田さん
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2.ダメ男とできる女

 朝日に照らされた閑静な住宅街を、大橋は幾分よろめきながら走っていた。二十四分の電車に乗らなければ、完全に遅刻だ。今、二十一分。全速力で走らなければ間に合わない。二日酔いでガンガンする頭の痛みに耐えつつ、大橋は必死で重い足を前に運んだ。


――あーあ、酒なんか飲むんじゃなかった。


 昨夜はあの後、家に帰った途端に寝てしまったらしい。教材研究などできる訳もない。目が覚めたのは出勤時刻の十分前。大慌てで顔を洗い、嘔吐物で汚れたズボンを脱いで畳みじわだらけのチノパンにはき替え、ネクタイだけ取りかえて家を飛び出したのだ。

 だいたい大橋は酒が飲めない。弱いなんてレベルではない。普段はコップ一杯飲めば心臓バクバク、頭はフラフラ、顔は真っ赤なタコ状態だ。父親も母親も酒が全く飲めなかったので、これは完全に体質的なものである。だが、周囲の者はそれをなかなか理解してくれない。大学時代は無理に飲まされて病院に担ぎ込まれたこともあったし、教員になってからも若いくせに飲まないやつと、酒好きの上司からは冷たい目で見られている。だから大橋は酒の席が苦手だ。飲み会の多い学期末や年度末は、胃が痛くなるほど憂鬱ゆううつになる。

 そんな彼が昨日、ジョッキ一杯を飲んだのはまさに記録的というべきことなのだが、それゆえ、今日の彼は普段に輪をかけてボロボロだった。

 改札口に走り込み、ズボンのポケットに手を突っ込む。


「……あ」


 ない。いつもここに入れている定期が。そうだ。昨夜のズボンに入れっぱなしだった。切符を買うしかない。慌ててカバンの内ポケットを探る。


「あれ?」


 ない。一枚だけ入っていたはずのなけなしの一万円札が。どうして? 確か昨日の飲み代は三千八百円。千円札が四枚あったから、一万円まるまる残っていたはず。

 大橋は焦ったようにしばらくの間、背広のポケットやらカバンのポケットやらを引っかき回していたが、はたとその動きを止めた。


――そうだ。


 大橋は財布をつかんでいる手が、わなわなと震え出すのを感じた。

 と、階段上のホームから、発車ベルが響いてきた。その音にはっとわれに返ると、慌てて小銭入れの方を開ける。五百円玉の存在を確認するやいなや、それを券売機に突っ込んだ。何とか学校には行けそうだ。

 発券されるのももどかしく出てきた切符をひったくるように手に取り、自動改札を抜けて駅の階段を駆け上がる。発車ベルが鳴り終わり、ドアの開閉の注意を促すアナウンスが流れている。間に合うか⁉ 大橋の視界が明るく開けた、瞬間。

 低い音をたてながら、電車の扉は無情にも目の前でぴったりと閉じられた。



☆☆☆



「全く、何を考えてるんだね、君は!」


 副校長の怒声が朝の職員室に響き渡り、教室に向かう準備をしていた教員達は皆、そちらの方にちらりと目を向けた。

 副校長は眉根に深い縦じわを刻み、不自然にたるんだまぶたの奥にある目に、凄まじいまでの怒気をみなぎらせている。白目の上方に辛うじて見える黒目から伸びた視線の糸が、体の隅々にじっとりと絡みつき、呼吸することさえはばかられるような気がして、大橋は知らず息を潜めていた。


「昨日の失態で少しは反省したかと思ったが……二日酔いで遅刻とは、一体どういう了見だ!」


「……す、すみませんでした」


 身を縮めて頭を下げながら、大橋はかすれた声でこれだけ言うのがやっとだった。

 副校長は大きなため息をつくと、口の端を引きつったように上げて、独り言のようにこんなことをつぶやく。


「この不況下で、よくもまあこんな失態を繰り返すな。度胸があるというか、何というか」


 その言葉が耳に届くやいなや、大橋の爪先から頭頂まで、悪寒が一気に走り抜けた。

 始業時間のため小言は比較的短くて済んだものの、大橋は先ほどの副校長の言葉が頭について離れなかった。肩を落とし、ため息をつきつつ教室に向かう準備をしていると、誰かが大橋の背中をぽん、とたたいた。振り返ると、縦幅よりも横幅の方が大きい堂々たる体躯の女性が、苦笑まじりの笑みを浮かべている。三年の学年主任、林田だ。


「元気だしなよ、大橋君」


 林田は黒縁眼鏡の奥の小さな目を糸のようにして笑うと、ちらっと副校長を見やった。


「大丈夫。あんたは試用期間の一年は何とか終わってるんだから。めったなことで首は切られないよ」


「そ、そうなんでしょうか……」


「そうだよ。だから心配しないで!」


 林田はそう言うと、分厚い手のひらで大橋の背中をいやに景気の良い音を響かせてたたいた。思わずむせる大橋に軽く手を挙げ、林田は大股で職員室の出入り口に向かう。林田の後には、同じ三年の担任である曽我部春菜が続いていく。大橋はむせながら、曽我部の後ろ姿を上目遣いに盗み見た。

 林田が曽我部に笑いながら何か言った。すると曽我部はちらっと大橋に目を向けた。くすっと、笑ったようだった。

大橋は口を開けてぼうぜんと曽我部を見やった。マンガでよく使われる「ガーン」という擬態語(?)がぴったりの心理状態だった。

 曽我部はおととし採用の三年目で、今年は三年の担任をしている。肩くらいの長さのミディアムヘアがよく似合う、なかなかの美人だ。明るくはつらつとしていて、休み時間も子どもと積極的に触れ合う姿がよく見られる。ピアノが上手で仕事の飲み込みも早く、機転も利く。教員同士の間でも、「できる人」として一目置かれている。まさに教師になるべく生まれてきたような彼女に、大橋はひそかに憧れを抱いていた。

 そんな彼女に笑われた。しかも、今のこの状況は、間違ってもプラス評価をくだされたものではない。バカにされたか、さげすまれたか、あきれられたか……とにかく、マイナスの笑いであることに間違いはなかった。

 しばらくの間、大橋は口を半開きにして、曽我部が出て行った職員室の扉を見つめたきり動けなかった。

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