19.人妻と美人教師
大橋は隣を歩くサラを盗み見た。
バラ色の頬にほんのりとした笑みを浮かべながら、ウキウキと軽やかな足取りで歩いていく。明るく、何の屈託もないその様子は、いつもと全く変わりがない。
だが大橋は、内心穏やかでなかった。
『私は、人妻なんだ』
昨日彼女が口にした、この言葉。こんな爆弾発言をしたにも関わらず、その後のサラはまるっきり普段どおりだった。大橋のそばに無防備に寄ってきては、ドキッとさせられるようなことも何度となくあった。そのたびにこの発言が頭にちらついて、よけいに大橋はどう反応していいか分からなくなってしまっていたのだが。
――ブラフマー、か。
大橋は、サラの夫であるとされる人物の名を頭の中でくりかえした。
昨夜サラが眠ったあと、大橋はネットで「サラスバティ」なる人物のことを初めて調べた。ヒンズー教にそういう名前の神がいるらしいことは知っており、その神の名を彼女はどうやら騙っているらしいことだけは分かっていたが、昨日のあの発言の真意を確かめるために、もっと詳しく知っておきたかったのだ。
『サラスバティは芸術、学問などの知をつかさどるヒンズー教の女神である。サンスクリットでサラスバティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神であるともされている』
そのくだりは大橋もなんとなく知っていたことだった。彼女自身もそんな話をしていた記憶がある。しっかり調べてなりきってるんだなと思いつつ、さらに先のくだりを読んで、大橋ははっとした。
『サラスバティはヒンズー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)である』
――なるほどな。
そういうことかと大橋は納得した。彼女はこの女神「サラスバティ」になりきっている。恐らくこの事実に基づいて、ああいう発言をしたのだろう。まさか、本当に人妻だったとしたら一大事だ。その旦那に怒鳴り込まれてもおかしくない状況なのだから。
それにしても、彼女が「サラスバティ」になりきってああいう発言をしたとして、なぜあの時、あのタイミングで、突然思い出したかのように告白したのか。色恋沙汰にまるっきり縁がなく、女心を知る由もない大橋には、その理由がよく分からなかった。
首をひねりつつ駅への道を歩く大橋の方を、前を行くサラはちらっと振り返ったようだった。
☆☆☆
教室に入った大橋は、一角に大勢の子どもたちが集まっているのに気がついた。
「あれ? どうしたの。そんなに集まって……」
大橋の声に、額を寄せていた子どもたちが顔を上げて振り返った。人垣が割れて、その真ん中にいる人物の姿が目に入る。大橋は大きくその目を見開いた。
「飯田くん!」
そこにいたのは、あの不登校児、飯田だったのだ。飯田は恥ずかしそうに笑うと、小さく頭を下げた。大橋が席の側に歩み寄っていくと、遠慮がちに口を開く。
「あ、あのさ、先生。……来たよ」
「そうか、そうか!」
大橋はもう嬉しくて嬉しくて、何を言ったらいいのか分からないほどだった。しばらくそのまま感無量で立ちつくしていたが、じっと自分を見つめる飯田の熱いまなざしに、はたとあることを思いだしたらしい。ああそうかと笑ってうなずいた。
「じゃあ、約束のものを見せなきゃね。朝の支度が終わったら、先生の机の所に来てごらん」
飯田はたちまちその目を輝かせてうなずくと、慌てたようにランドセルを開け、教科書を机にしまい始めた。
☆☆☆
子どもたちにぎっしり取り囲まれ、大橋の机の周りは黒山の人だかりになっていた。
「これが約束の富士はやぶさ」
大橋から渡されたフォトアルバムを飯田は感激したような表情で受け取り、こころなしか恐る恐るそれを開いた。
そこには、人混みをうまくすり抜けていろいろな角度から撮影されたブルートレインの写真が、何枚もぎっしりとならんでいる。中には大写しにされたヘッドマークや運転士の様子まで写っているものもある。飯田は目を見張った。
「先生、凄いね……でも、新聞に載っていたのと、ちょっと角度が違うみたいだけど」
「ああ、あの場所は報道関係者しか入れないようになっていたんだ。一般人には、これが精いっぱいでね。ごめんごめん」
飯田はブンブンと大きく首を振った。
「そんなことないよ。違う角度からの方がおもしろい時もあるし……あ、これなんかいいよね。東京駅じゃないでしょ。そうか、少し前からいろんなところで撮ってたんだね、凄いなあ」
目を輝かせて生き生きと語る飯田の様子を、大橋は目を細めて眺めていた。
「飯田くん、よかったらそれ、あげるよ」
飯田は目を丸くすると、アルバムから勢いよく顔を上げた。
「え……でも、これ、先生が撮ったのに」
「実は、飯田くん用に印刷したものなんだ。元情報は持ってるし、家に同じ物がもう一冊あるから。よかったら持って行ってよ」
「えーっ、いいなーっ!」
「飯田くん、ずるいー!」
鉄道に興味もなさそうな女の子たちがぶーぶー言い始めたので、大橋は困ったように笑った。
「だって、飯田くんは今日、先生との約束を守ってくれたんだ。これはその、ほんのごほうび」
「そんなぁ、だって、あたしたちなんか毎日学校に来てるんだよ!」
「そうだよ、飯田くんばっかりずるい!」
子どもらしいその言葉に苦笑しながらも、せっかく学校に来た飯田が嫌な思いをしないだろうかと大橋は内心ヒヤヒヤヒしていた。ちらりと、飯田の表情をうかがい見る。
と、飯田はアルバムをパタンと閉じた。思わず動きを止めた大橋の眼前に、両手でささげ持つようにしてそれを差し出す。
「これ、やっぱり、先生が持っていてください」
大橋は内心、軽々しくあげるなどと言った自分の浅慮を悔いた。いくら飯田が頑張っているといっても、他の子と明らかな差をつければ、本人にとっても負担になるのだ。せっかく登校の意志を示してくれた飯田の気持ちを無にしてしまったような気がして、暗い後悔の念が大橋を襲った。
が、そんな大橋の内心とは裏腹に、飯田はこう言ったのだ。
「このアルバムは、これから僕が学校に来た時に見るようにします。だからこれは、先生の机に入れておいてください」
その言葉に、大橋は思わず呼吸すら忘れた。胸がじんと熱くなって、喉の奥がこわばる。
「……そうか。わかった。そうしよう」
大橋はやっとのことでそれだけ言うと、泣き笑いのような表情を浮かべながら何度も何度もうなずいた。
☆☆☆
「やったね、大橋くん!」
午後四時。会議が終わり、ようやく自分の仕事に戻れた大橋が大急ぎで採点をしていると、隣のクラスの石橋がその肩をポン、とたたいた。
「え? 何がですか?」
「何がじゃないって。聞いたわよ。あの飯田くんが登校してきたって」
大橋はああ、とうなずくと、笑みを浮かべた。
「ほっとしました。本人がやる気になってくれて……」
「感心したわよ。だってあのベテラン高島先生でさえ、結局、登校させることができなかったっていうのに」
「自分のせいとかじゃないですよ。そういう時期がきていたんです。運がよかったっていうか」
「運も実力のうちっていうじゃない。運が向いてきたなんて、明るい未来が近いかもよ!」
そう言うと、石橋は大橋の背中を平手で力いっぱいたたく。あまりの力強さに思わずむせる大橋を見ながら、石橋はカラカラと笑った。
と、笑い声を聞きつけた三年の学年主任、林田がやって来た。
「なになに? やけに明るいじゃないの、二年生の皆さんは」
石橋と林田は二人で飲みに行くほど仲がいい。黒縁眼鏡の奥の小さな目を糸のようにしながら林田が言うと、石橋もいたずらっぽく笑いながら大橋を指さした。
「いやね、大橋くんにやっと明るい未来が見えてきたらしくて」
誤解を誘っているようなその口ぶりを真に受けて、林田の思考は一気に飛躍した。
「え、何? いい人でもできたの?」
その言葉に、一瞬サラの姿が頭をよぎり、大橋はゆでダコよろしく真っ赤になった。
「な、な、何言ってんですか、林田さん!」
「え、違うの?」
「違いますよ!」
大橋がムキになるのが面白いらしく、石橋は林田と顔を見合わせてケラケラ笑っていたが、何を思いついたのか突然ポンと手をたたいた。
「そうだ! 大橋くんの明るい未来を祝って、このあと三人で飲みに行かない?」
林田も嬉しそうに目を輝かせる。
「いいね、いいね! 若者の未来を祝して、乾杯しよう!」
勝手に盛り上がっている二人の会話に、大橋はおずおずと口を挟んだ。
「……あ、あのですね」
「何? 大橋くん」
「俺、所持金が、あと二千九百十四円しかないんです。給料日まで、待っていただけませんか?」
大橋の言葉に、石橋も林田も無言で顔を見合わせてから、二人同時に思い切り吹き出した。
「やだ、大橋くん! 何にそんなに使ったの? ダメじゃない、お金は計画的に使わなきゃ」
「そうよぉ。残金二千九百十四円なんて、おかしすぎ……おなか痛いわ」
そんなに大声をだされると、すぐ向こうの席で仕事をしている曽我部春菜に聞こえてしまう。頼むからボリュームを絞ってくれよと、大橋は内心ドキドキしながら引きつった愛想笑いを浮かべていた。
しかし、林田は無慈悲にも、その曽我部の方を振り返ってこう言った。
「ねえ春菜ちゃん、聞いてよ。どう思う? この男、給料使い込んで、二千九百十四円しか持ってないんだって!」
大橋は、初夏のプール指導には欠かせない、地獄の冷水シャワーを浴びたかのごとくにぞっとした。何もわざわざそんなことを言わなくてもいいじゃないかと内心林田の無神経さを呪ったが、それに対する曽我部の反応の方が気になって、大橋は冷や汗をかきながら息を殺した。
曽我部はしばらくの間くすくす笑っていたが、やがて静かに席を立つと、林田の方に歩み寄ってきた。その清楚な立ち居振る舞いを見ているだけで、大橋の脈拍は加速度的に上昇した。
「何ですか? 林田先生。そんな大声で」
曽我部はいたずらっぽく林田を見ながらほほ笑んだ。知性的で品のあるその雰囲気は、とても大橋の二歳年下とは思えない。大橋は口を半開きにしたまま、そんな曽我部につい見とれてしまった。
「なにぼんやり口開けて見てんのよ、青年!」
「え? あ、いえ、その……」
石橋に突っつかれて真っ赤になっている大橋の様子に大笑いしていた林田だったが、何を思いついたのかふいに目を見開くと、再びポンとその手をたたいた。
「そうだ、二,三年合同で飲みましょ!」
「え?」
その言葉に、大橋の思考は数秒間停止した。
「若者を応援するってことで、一次会の飲み代は各学年主任が負担。ただし、二次会のこともあるからちゃんと給料日までは待つってことで、どうよ!」
「いいねえ、はやさんの意見に賛成!」
石橋は速攻で賛成すると、大橋の頭を人差し指で突っついた。
「ほら、どうよ青年! 三年の学年主任が、こんだけ譲歩してくれてんのよ」
「え、いえ、その……」
大橋が頭を小突かれながら上目遣いに曽我部の様子をうかがうと、林田に口説かれながら困ったような笑みを浮かべている彼女の顔が見えた。
――曽我部先生と飲みに行ける?
爆速で脈打つ心臓と血圧上昇のせいで、訳が分からなくなりかけた時だった。
『ありがとう、オオハシ』
そう言って無邪気に笑うサラの笑顔が頭を過ぎり、大橋はハッとした。
飲み会に行ったら、図書館前での出迎えもできないどころか、夕飯も作ってやれない。もしかしたら、彼女が寝る前には帰ってこられないかもしれない。
飲み会など不可能だと諦めかけた大橋の頭に、今度は先日サラが口にした、あの言葉がよみがえってきた。
『私は、人妻なんだ』
大橋はじっとプリントの端の余白を見つめた。耳の下あたりが強ばってくるような感覚に、知らず、赤ペンを握る手に力がこもる。
すると突然、大橋の頭上に石橋の大声が響き渡った。
「はっきりしなさいよ、大橋拓也!」
大橋は息をのんで姿勢を正すと、反射的にこう答えてしまった。
「は、はい! 喜んで、ご一緒します!」
石橋は満足げに二,三度大きくうなずいた。
「よしよし。それでいいのよ、それで」
「で、曽我部さんはどう? 水曜の都合は。彼氏とデートとか、入ってる?」
曽我部は恥ずかしそうに笑うと首を振った。
「何もないです。私もご一緒させていただいていいですか?」
「よっしゃ、決まりね! 大橋くん、二十五日は絶対に空けとくのよ、いいわね!」
「は、はい、分かりました」
うなずきながら、大橋はちらっと向かい側に立つ曽我部を盗み見た。
曽我部はおしゃれに気を遣っているらしく、口紅一本で雰囲気をがらりと変えてくる。ライトグレーのスーツに、少し赤みの強いリップをひいて、今日は知的でシャープな印象だ。ふんわりした印象の彼女もかわいいが、こういう雰囲気もまた何とも言えず色っぽい感じがして、大橋は好きだった。そんな曽我部と飲みに行ける……大橋は夢でも見ているような気分だった。
「どこで飲もうか。新宿? 渋谷?」
林田の言葉に、曽我部が大橋に目を向けた。当然のごとく目が合ってしまい、大橋はどぎまぎして慌てて顔を伏せる。曽我部は何を思いついたのか目を見開くと、「そうだ」とかわいらしい声でつぶやいた。
「大橋先生って、下南沢に住んでらっしゃるんですよね」
その言葉に、石橋も思い出したようにうなずいた。
「そうそう、この男こんななりだけど、そういえばあの若者の街出身なのよね」
曽我部が大橋の方に歩み寄ってきた。顔を上げられずにいる大橋に、柔らかなほほ笑みを投げる。
「先生、下南沢にいいお店、ありません?」
「え?」
驚いて顔を上げると、曽我部の美しい笑顔が至近距離に迫っていて、大橋は思わず真っ赤になった。
「私、実はあの町のこと、あまり知らないんです。先生にいいお店を紹介していただけたら、友だちを誘って遊びに行ったりもできますし」
「そうねえ。少人数だし、交通も便利だし、いいんじゃない? ねえ、林田さん」
井の腹線利用者の林田も嬉しそうにうなずいた。
「賛成! 今すぐじゃなくていいからさ、大橋くん、いいお店捜して予約しといてよ。飲み会時期じゃないし少人数だから、多分どっかとれるでしょ」
「わ、わかりました。洋風と和風、どっちにします? あと、予算も……」
「どっちでもいいわ。あんまり狭めると予約取れないもん。大橋くんにお任せでいいでしょ、春菜ちゃん」
林田の言葉に、曽我部も笑顔でうなずいた。
「じゃ、決まり! 五千円くらいまでならOKだからさ。よろしくね、大橋くん!」
話が決まり、嵐が過ぎ去ったかのように大橋の机の周囲は静かになった。
大橋はなんだか信じられない思いで、斜め前に座る曽我部春菜の後ろ姿を見つめていた。心の片隅に、一抹の不安を抱えながら……。