18.しなかった告白とされた告白
食器を洗っていた大橋は、少しだけ後ろを振り返ると、居間でテレビに見入っているサラに目を向けた。
お気に入りのニュース番組を、やや近づきすぎなくらいの位置で、ほんの少しだけ口を開け、瞬きすら忘れたように見入っている。
そんなサラの後ろ姿を見ながら、大橋は小さなため息をついた。
あれから丸一日たつが、その間、サラの態度に何ら変わりはなかった。ケガの治療をする時も、夕食を食べた時も、寝る前も。そして今朝もいつもと全く変わりなく、異常接近して大橋を起こしてくれた。大橋はその異常接近に対して、いつも以上にドキドキしながらも、なぜだかそんな彼女の態度にほっとしているような、少しがっかりしたような、複雑な感情を抱いているのだった。そしてまた、そんな感情を抱いている自分自身に対し、微かな驚きを感じていた。
――俺、ひょっとして、彼女のこと……。
水道の水を出しっぱなしにしたまま、手にしたスポンジを動かすことすら忘れて、大橋はここ数日……特に昨日のサラの様子と、それに対する自分の気持ちを思いだしていた。
――彼女のこと、好きなんじゃないのか?
その発見に動揺した大橋は、危うく手にしていた茶碗を取り落とすところだった。慌てて茶碗を持ち直し、気を取り直したようにすすぎ始める。
――何言ってんだ。こんな頭のネジの外れた女、好きになるわけがないだろ?
昨日も、彼女は自分の姿が他人には見えないと言い張った。だが、大橋はそんなことは信じていなかった。昨日、人々が奇異な目で自分を見ていたのは、靴のまませせらぎに飛び込んだり、びしょぬれの足で歩いたりしていたせいだと思っていた。ただ、彼女がそう思いこんでいて気にしているのなら、安心させてやりたかったから、あんなことを言ったのだ。確かにあれは本心だったし、ウソではない。仮にサラの姿が周囲の人間に見えなかったとしても、自分は同じ行動をとっただろうと確信はしている。ただ、そんなことを言い張るサラが、少々おかしいと感じているのは確かだった。そんな女に恋心も何もある訳がないと、大橋は思っている。思っていたはずだった。
――でも、確かに。
大橋の茶碗をすすぐ手が、再び止まる。
確かに、自分は不安だった。
土日。金もないため、この狭い家の中で、終日サラと二人きりで過ごさなければならない。その事実に、大橋は金曜の夜に思い当たってから、ずっと緊張していたのだ。
平日は自分も一日の大半を職場で過ごすため、サラと顔をつきあわせている時間は短くてすむ。だが、休日はずっと二人きりで、この暗く狭い家で密着して過ごさなければならない。サラは無防備に、何のこだわりもなく大橋に体を寄せてくる。それは何か性的な意図がある訳ではなく、言ってみれば子どもが何気なく手をつないでくるのと全く同じように、彼女にとっては普通の、ごく自然な行為であるらしい。だが、それは成人男性である大橋にとっては、時として性的妄想をかき立てられる行為そのものに他ならなかった。そんな彼女に対するみだらな思いを、この休日の間、自分の中に収めておくことが果たして可能なのかどうか、大橋はいささか自信がなかったのである。
大橋は、再びサラに目を向ける。
後ろを向き、横座りのような格好で重心を左にかけ、食い入るようにテレビに見入っているサラ。少しだけ傾けられた白い首筋にはらりとかかる、亜麻色の髪。まばたきをする度、上下に動く長いまつ毛。きゃしゃな肩と、体重を預けて畳に置かれた手の先にある細い指と、ジーンズの裾から無防備に出された、細く白い足。足先に巻かれている包帯が、少し痛々しい。
見ているだけなら非の打ち所のない、完璧な美女だ。こんな美女に体をすり寄せられて、健康な男なら黙っていられる訳がない。少なからず草食系の大橋だからこそ、この一週間サラに指一本触れずにいられたのだろう。
――ま、口を開くとやっぱりちょっと変なんだけどな。
思わず大橋はクスっと笑う。
でも、大橋にとっては、彼女のそんなところも救いだった。
もしサラが何の非の打ち所もない完璧な美女だったとしたら、恐らく大橋は口をきくことさえできなかっただろう。女性とたいして関わりを持ったこともなく、自分にあまり自信の持てない気弱な大橋にとって、そんな女性は畏怖の対象でしかない。もしそんな女性が近くにいたら、大橋はその圧迫感に多分三日と耐えられない。一週間も一緒にいて大丈夫な女性は、大橋にとってある意味貴重な存在といえるのだ。
大橋にとっては曽我部も、憧れてはいるがまだ畏怖の対象から脱してはいなかった。
先日、サラに恋愛対象のことを聞かれた時、彼の頭をふっとよぎったのは、他でもない、サラその人だった。曽我部のことも考えたが、大橋にとって曽我部は雲の上の人であり、現実彼女と付き合うなどということは想像もつかない未知の世界だった。だからあの時、彼は言葉を濁したのだ。そうなりたい気もするが、そんなことは実現する訳がないと最初から思考の外に押し出して諦めてしまう。これは気弱な大橋が自分を守るためにとってきた、常套手段だった。
と、サラが突然振り向いた。
水道を出しっぱなしにしてサラに見とれていた大橋は、慌ててその手を無意味に動かした。
「何だ? オオハシ」
「え、いえ、別に、何でも……ただ、今日の天気、また晴れなのかなって、思って……」
「お日様マークのことか? 今日もそうだったぞ」
「そうですか。じゃ、やっぱり今日もお布団干しましょう。昨日、気持ちよかったでしょ」
たわいない会話を交わして気を落ち着けると、洗い物を終え、手を拭いて自分の布団を担ぎ、二階へ上がる。
と、後ろから人の気配。
振り返ると、サラが階段を上りかけていた。大橋と目が合うと、無邪気な笑顔を浮かべてみせる。大輪の花が数百本咲き誇ったかのような笑顔に、大橋はやっと落ち着けた気持ちがまた高ぶり始めるような気がして、慌てて前を向いた。
大橋は自分の布団を部屋の入り口に置くと、先に部屋の隅に畳んであったサラの布団を持ってベランダに出た。
ベランダでは、既に干されていた洗濯物が、風に吹かれて気持ちよさそうにそよいでいる。大橋は外光のまぶしさに眼を細めながら、一番日当たりのよい場所にサラの布団を干した。それから、自分の布団を干そうと振り返る。
そのとたん大橋の目に、ベランダの窓から顔を突き出してあたりを眺め回しているサラが目に入った。
例によって興味津々な様子で、せわしなく首を動かしながらキョロキョロと周囲を見回している。大橋は苦笑した。
「……サラさんも、ベランダに出てみます?」
その言葉に目を輝かせて大きくうなずくと、サラは当たり前のようにその白い手を大橋の方に差し出した。
大橋は一瞬ためらってから怖ず怖ずとその手を取ると、サラの体を引き上げた。狭いベランダで、大橋の胸に飛び込むような形で日の当たるベランダに出たサラは、眼をキラキラさせて柵のそばに立ち、さっそくあたりを見回し始める。大橋はそんなサラにぼんやり見とれながら、心臓の鼓動をやけに力強く感じていたが、やがて気を取り直したように部屋にはいると、自分の布団を抱えた。
「サラさん、そこ、俺の布団を出すんで、ちょっとどいてください」
サラが慌てた様子で端によると、大橋はよっこいしょとでも言いたげな感じで布団を柵にかける。
ふとんばさみで布団をはさんで形を整えていると、サラが興味深げに寄ってきた。
「布団って、こうやって干すんだな」
「そうですよ。そうすると、お日様の匂いになるんです。昨日の布団、お日様の匂いがしたでしょう」
サラは嬉しそうにほほ笑んでうなずいた。
「お日様に匂いがあるなんて、私は昨日初めて知った」
いつもの、屈託のないあの笑顔。大橋はまたドギマギしてしまって、慌てて目線をそらした。
「もうお日様の匂い、するかな」
サラはそんな大橋の様子には全く気づかない様子で、無邪気にその顔を干したばかりの大橋の布団に寄せた。
「する訳がないじゃないですか、そんなに早く」
大橋が苦笑すると、サラは布団にくっつけていた顔を上げて、笑った。
「ほんとうだ、お日様じゃなくて、オオハシの匂いがする」
「でしょ。臭いからやめた方がいいですよ」
「臭くないぞ、オオハシは」
サラは大橋に歩み寄ると、何を思ったのか、いきなり顔を大橋の胸にぴったりとくっつけた。
大橋は息をのんだ。
全ての思考が、一瞬で停止した。
サラは大橋の胸に顔を埋めたまま、数刻ふんふんその匂いを嗅いでいたが、やがて大橋を見上げ、無邪気な笑顔でこう言った。
「ほら、おんなじオオハシの匂いだ。別に臭くなんか……」
自分の胸に感じる、サラの柔らかな胸の感触。ほのかに漂う甘い香りに、きゃしゃな体。無防備に大橋に預けられた、その重み。
それらを感じた瞬間、大橋の理性は崩壊した。
気がつくと大橋は、サラを力いっぱい抱き締めていた。
サラは驚いたようにその目を見張り、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「サラさん……」
何が言いたいのか、自分でもよく分からなかった。だが、大橋はまるでうわごとのように、サラの名をつぶやいた。
「サラさん、俺は……」
その後に続けようとした言葉に、大橋は自分でも驚いたようだった。それを発するのをためらうように、いったんはその言葉を飲み込む。だが、この状況を説明するためには、その言葉はどうしても言わなければならない。大橋は覚悟を決めると、大きく息を吸い込んだ。
「……俺は、」
「大丈夫だ、オオハシ」
唐突なその発言に、大橋は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「大丈夫って、……何がですか?」
サラは大橋の背をポンポンとたたくと、注意深くあたりを見回した。
「何もいないじゃないか。そんなに怯えることはない」
「は?」
大橋が口を開けて聞き返すと、サラは体を離し、大橋の肩に手を置いて、笑った。
「いったい何が怖かったんだ? 私には、特に怖いものなど何も見えなかったが。しかし、いきなり飛びついてくるなんて、大橋も案外恐がりなんだな。とにかく、もう何もいないから安心していいぞ」
ようやくサラが何を言いたいのかが分かった大橋は、あんぐりと口を開けて固まってしまった。
彼女はどうやら、大橋が何かに怯えてサラにしがみついたと勘違いしているらしいのだ。まるで昨日、掃除機の音に驚いたサラ自身がそうしたように。
――なんだそれ。
張り詰めていた緊張の糸が解け、一気に力が抜けたような激しい虚脱感に襲われて、大橋は思わずベランダの柵に体をもたせかけて息をついた。
「さて、テレビの続きも気になるから、そろそろ中に入ろうかな」
ベランダ脇の窓にかがみ込んだサラの後ろ姿を見ながら、大橋は自嘲的な笑みをもらした。全く、自分は何をしようとしていたんだろう? 一瞬、自分でも何をしたいかが分からなくなって、危うくとんでもないことを口走るところだった。危なかった。彼女の勘違いのおかげで助かった。大橋はバカな自分を嘲笑しながら、ベランダの柵にもたれて、部屋の中に入る彼女を半ばぼうぜんと見送っていた。
その時、サラが窓枠に腰掛けた姿勢で、ふとその動きを止めた。
「オオハシ」
「はい?」
「私はひとつ、おまえに言い忘れていたことがある」
「何ですか?」
どうせまた、笑っちゃうようなくだらないことに決まっている。大橋は一切身構えずに、サラの次の言葉を待った。
サラは部屋の方に顔を向けたまま、ほんとうに何気ない調子で一言、こう言った。
「私は、人妻なんだ」
その言葉が耳に入った、瞬間。大橋の論理的思考は、抜けるように青い空の彼方に消え去った。