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七福人生  作者: 代田さん
17/39

17.晴天とピクニック

 洗濯と布団を干し終えた大橋は、抜けるような青空の下で大きな伸びをした。

 今日は土曜日だが、大橋にはそんなことは関係ない。有無を言わせずたたき起こされてしまうのだ。あの、早起きの自称神様に。


『おはよう、オオハシ』


 だが、起きるなりあの笑顔でにっこりほほ笑まれてしまうと、不思議と腹は立たず、早く起きてやろうという気になってしまうのが不思議だった。

 大橋はせっかくの早起きを生かして、今日は集中的に家の仕事を片付ける心づもりで、まずは洗濯と布団干しを片付けたのだった。


――こんな天気の日に、何もしないでいるなんて腹が立つからな。


 大橋は忌々しそうに天を仰ぐと、小さくため息をついた。

 給料日まで、あと五日。

 取りあえず大橋の節約生活のおかげで、残金は五千三百十九円。今日を含めてあと五日、今までと同じような節制生活をしていれば何とか足を出さずに持ちそうな感じだ。だが、この週末で散財したりすれば、あっという間に金は底をついてしまう。この土日は撮影もがまんして、家で静かに過ごすしかないと大橋は覚悟を決めていたのだ。


「静かに過ごすと言ってもな……」


 何を思ったのか大橋はつぶやくと、小さなため息をついた。 

 


☆☆☆



 一階に下りると、サラがテレビをじっと見つめていた。MHKのニュース番組を、正座の姿勢で張り付くようにして見入っている。


「サラさん、近づきすぎですよ」


「オ、オオハシ、この人、どうやってこの中に入ってるんだ? しかも、いきなり山に行ったり、町に行ったり……この箱も、神なのか?」


 興奮きった様子でまくしたてるサラの頬は、目にも鮮やかなバラ色に染まっている。

 期待通りのベタ過ぎる反応に、大橋はつい吹き出してしまった。


「全く、サラさんは朝っぱらから……これは映像です。電波で届けられた遠くの映像を、この機械で映し出しているだけなんです」


「デンパ? エイゾウ?」


 訳が分からないと言った様子で繰り返すと、サラは首をかしげた。いつもながら、何ともかわいらしいそのしぐさに、大橋は思わず赤くなって目をそらした。


「まあとにかく、いったんテレビ消しますね。今から掃除機かけるんで」


 大橋がリモコンでテレビのスイッチを切ると、サラは息をのんで黒ずんだ画面を見つめた。


「……消えたぞ、オオハシ」


「消したんですって。とにかく、ちょっと待っていてください」


 大橋は押し入れから掃除機を取り出すと、ホースをつないでコンセントを引き出した。また見たこともない機械が出てきたので、サラは大橋の側により、肩越しに首を伸ばして恐る恐るのぞいている。

 準備ができたので、大橋は立ち上がると掃除機のスイッチを入れた。

 途端に、大音量が部屋中に響き渡る。


「……!」 


 その音によほど怯えたのだろう。サラは声を上げなかった。無言のまま、目の前にある大橋の背中に力いっぱいしがみついた。

 大橋は息をのんで凍りついた。

 掃除機のノズルを動かすことも忘れ、ただぼうぜんと、背中に感じる柔らかい感触と、首筋に感じる微かな息づかいと、肩にかかるサラサラの髪……そして、ほのかに香る甘い香りを感じていた。

 ややあって、ようやく脳が再稼働したらしい。大橋はかすれた声を出した。


「サ、サラさん、大丈夫ですよ。これは掃除機。部屋をきれいにする道具です」


「……ソウジキ?」


 サラは大橋の背中から顔を離すと、肩越しに恐る恐る掃除機を見つめた。


「そう。こうやって、動かしたところのほこりやゴミを吸い込んでくれるんです。便利なんですよ」


 大橋が手にしていたノズルを前後に動かして見せると、サラはようやく安心したのか、ゆっくりと大橋の背中から離れた。そうしてしばらくの間、大橋が掃除機を動かす様子をしげしげと眺めていたが、やがて感心したようにため息をついた。


「人間というのは、こんな生活をしていたんだな」


 大橋は掃除機をかけながら思わず苦笑した。だが、ことさら否定するのもどうかと思ったのか、珍しくサラの話に合わせてきた。


「サラさんって、ほんと世間知らずっていうか……人間の生活のこと、何もご存じなかったんですね」


 サラは小さくうなずくと、遠くを見るような目つきになった。 

 

「私は、サラスバティ本体の一万六千三百五十四本目の髪の毛なんだ」


 大橋は掃除機を動かす手を止めて、サラを見つめた。


「二百年前本体が髪をすいた時、本体から離れた。私は姿と力を与えられ、あの小さな祠に祀られたんだ。それから二百年、ずっとあの祠で暮らしてきた。あの祠に参る人の願いを、できる範囲で叶えてやりながら……。でも、五十年くらい前から、参ってくれる人もいなくなってしまった。私はずっと、あのケヤキと一緒にあそこにいるだけだった。あのケヤキだけが、話し相手だった」


 大橋は掃除機のスイッチを切った。静寂が、薄暗く古びた家を包む。

 サラは微かに笑っていた。


「それでも、楽しかった。あの祠の前を通る人の姿を見ているだけで。小さな子どももいた。時々、掃除をしてくれるお年寄りもいた。水も、ごくたまにだが供えてもらえる時もあった。そんな時が本当に嬉しかった。願いを叶えてやりたいと思ったが、そういう人は願い事はせずに、ただ頭を下げて行くだけだった」


 サラは顔を上げて大橋を見た。必然的に視線が合う。大橋はなぜだか、その顔から目が外せなくなった。まっすぐに自分を見つめるその瞳に、吸い込まれてしまいそうな気がした。


「だから私は、どうしても叶えてやりたいと思った。祠が無くなる直前に、私に参ってくれたおまえの願いだけは」


 そう言ってサラはにっこり笑った。


「絶対に、叶えてやるからな」


 大橋は、腹の底から訳の分からない感情が突き上げてくるのを感じた。心臓が声高にその存在を主張し始め、掃除機のノズルを握る手が、微かに震える。

 感情の昂ぶりが一気に臨界点に達し、大橋がノズルから手を離しかけた、その時。


「オオハシ?」


 黙り込んだ大橋を不思議そうに見つめながら、サラが小首をかしげた。

 大橋ははっとしたようにノズルを握り直すと、慌ててそんなサラから目をそらした。


「いえ、何でも……」


 口の中でつぶやくと、大橋は再び掃除機のスイッチを入れた。

 


☆☆☆



 教材研究をしていた大橋は、窓辺にたたずむサラが、さっきから外をじっと見ているのに気がついた。


「サラさん、どうしたんですか?」


「え? いや……いい天気だから」


 大橋もサラのかたわらに立つと、空を見上げた。東京にしては青い五月の空が、家並みの隙間から見える。その空を、時折小さな鳥が横切っていく。

 ちらりと隣に立つサラに目を向ける。じっと青空を見上げる、まつ毛の長い澄んだ瞳。その整った横顔をじっと見つめていた大橋は、何を思いついたのか突然、ポンと手をたたいた。


「そうだ、サラさん。ピクニックしましょう」


「……ピクニック?」


 けげんそうに首をかしげるサラに、大橋は台所に用意してあったおにぎりを指さして見せた。


「あのおにぎりを持って、川の側に行きましょう。川、好きなんでしょう?」


 サラはみるみるうちにその瞳を輝かせ、勢いよくうなずいた。



☆☆☆



 暑くもなく、寒くもない。眩しい日差しに、雲ひとつない青空。極上の天気だった。

 サラははずむような足取りで、大橋の三歩先を歩いていく。風に揺れる亜麻色の髪と、見え隠れする楽しそうな横顔。均整の取れたそのスタイルのせいだろうか、だぶだぶのパーカーとジーンズに刺繍の入った異国風の靴という、へたするとちぐはぐになりそうなその格好でさえ、彼女が着ると狙ってやっているかと思えるほどかわいらしい。首からカメラをぶら下げた大橋は、そんな彼女をぼうっと眺めながら、ゆっくりと歩いていた。もしかしたら本当にこの人は女神様なのかもしれないと、夢みたいなことをぼんやりと考えながら。


「オオハシ、遅いぞ」


 サラが振り返って笑った。日の光に照らされて輝く、なんとも美しい笑顔。大橋はなんだかドギマギしながらうなずくと、慌てて足を速めた。 



☆☆☆



 小さなせせらぎの流れる小道に出ると、サラは目を輝かせて駆けだした。

 そこは汚水処理した水を流し、岸を自然に近い形に整備した人工のせせらぎで、四季折々の草花や大きな桜の木がせせらぎ沿いに植えられている。桜の季節は終わっていたが、その枝枝に青々と茂る葉の緑が、心地よい日陰を作っていた。

 サラはせせらぎにかけられた橋の上に立つと、大きく身を乗り出して水の流れを見た。


「あんまり身を乗り出すと、落っこっちゃいますよ」


 大橋が苦笑してたしなめたが、サラは聞いていないようだった。水の流れにじっと視線を注ぎ、せせらぎの音に耳を澄ませている。


「……しい」


「え?」


 サラが何かつぶやいたような気がして、橋の欄干に寄りかかって道路側をむいていた大橋は振り返った。


「なんですか? サラさ……」


 ゆるゆると振り向いたサラの澄んだ瞳には、いっぱいに涙がたまっている。大橋は言いかけた言葉を飲み込んだ。


「……嬉しい」


 まばたきとともに白い頬を転がり落ちる滴。瞬きも呼吸も停止した大橋は、そんなサラから目が離せない。

 サラは涙をこぼしながら、春の日差しのように柔らかなほほ笑みを浮かべた。


「ありがとう、オオハシ」


 大橋は何も言葉を返せなかった。自分を見上げるサラの澄んだ瞳に魅入られて、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。



☆☆☆



 せせらぎの終点にある小さな公園のベンチで、二人はおにぎりを広げた。

 公園の広場では、幾人かの小さな子どもが柔らかそうなボールを投げ合って遊んでいる。その脇にある草原では、シートを広げた家族連れが、お弁当を広げて楽しそうに笑い合っている。川岸を、ゆっくり散歩する老人の姿も見られる。

 何とものんびりした休日の風景。思わずここが、都心にほど近い繁華街のすぐ側だと言うことを忘れてしまいそうになる。

 大橋は膝の上におにぎりの包みを載せて広げると、一個取ってサラに差しだした。


「中身は食べてのお楽しみですから」


 サラは笑顔でそれを受け取ると、鈴の転がるような美声で言う。


「いただきます、オオハシ」


 大橋は慌てて足元に目線を落とすと、小さくうなずいた。

 横目でサラを見ると、さっそく嬉しそうにおにぎりの頂上にかぶりついている。大橋はくすっと笑うと、自分もおにぎりを取って食べ始めた。


「あ、昆布か」


 いささか残念そうに大橋が言うと、サラは嬉しそうに自分のを見せた。


「私のはシャケだ」


「いいな。シャケ狙ってたのに」


 冗談半分にそう言うと、大橋は再び昆布おにぎりを食べ始める。

 サラは自分のおにぎりをしばらくの間じっと見つめていたが、やがて何を思ったのか、大橋の前にすっとその食べかけのおにぎりを差しだした。


「食べるか?」


「え?」


 首をかしげてサラを見た大橋に、屈託なくにっこりと笑いかける。


「食べていいぞ」


 大橋は思わず赤くなると、戸惑ったようにそんなサラを見ていたが、やがておずおずとそのおにぎりに顔を寄せ、遠慮がちに一口食べた。

 うつむいてもぐもぐやっている大橋の顔を、サラはのぞき込んだ。


「うまいか?」


 大橋はおにぎりを頬張ったまま、困ったような笑顔でうなずいてみせる。


「そうか、よかった」


 サラはにっこり笑ったが、すぐに真顔になるとじっと大橋の手元を見つめた。


「……何ですか?」


 何とかおにぎりを飲み込んだ大橋が問うと、サラは不満気に口をとがらせた。


「おまえのは、くれないのか?」


「え?」


 大橋は目を丸くして再び赤くなった。サラは例のかわいらしい表情で、上目遣いに大橋をにらんでいる。

 

「ど、どうぞ」


 大橋がおずおずと食べかけのおにぎりを差し出すと、サラは嬉しそうに目を輝かせ、その頂上に何のためらいもなくかぶりついた。

 すると、昆布の部分がほとんどサラの口の中に入ってしまったらしく、大橋のおにぎりはご飯にだけなってしまった。


「……あーっ、サラさん、思いっきり食べましたね⁉」


 焦った大橋が大声を上げると、サラは口いっぱいにおにぎりを頬張ったまま、にこっと笑った。


「ほへん」


 ごめん、と言ったつもりなのか、小さく頭を下げる。大橋は思わず吹き出すと、肩を揺らしてくすくす笑い始めた。サラも、口いっぱいにおにぎりが入ったまま、軽く首を傾けてニコニコしている。

 公園いっぱいに降りそそぐ温かい春の日差しが、そんな二人を優しく包んでいた。



☆☆☆



 公園の向かい側を流れるせせらぎから、キャッキャッと楽しそうな笑い声が響いてきた。

 おにぎりを食べる手を止め、サラは声のする方に目を向けた。

 見ると、小学生くらいの男の子が二人、ズボンの裾をまくり上げ、裸足でせせらぎの中に入っている。かがみ込んで水に手を突っ込み、何かを捕まえようとしているようだ。

 そんな子ども達の様子をじっと見ていたサラだったが、目線を子どもたちに向けたまま、ふいにぽつりと問いかけた。


「川に入ってもいいのか?」


 大橋は苦笑まじりにうなずいた。


「ほんとはいけないらしいんですけど、自己責任を取るんならいいんでしょうね。あそこ、ザリガニがつれるから、子どもはみんな入っちゃうんです」


 聞くなり、サラは手にしていたおにぎりのかけらを口に放り込んで立ち上がった。


「サラさん?」


 大橋はそんなサラの様子にはっとした。


「……まさか、入る気じゃないですよね」


「入る気だが?」


 きょとんとした表情でサラが振り向いたので、大橋は頬張っていたおにぎりが喉に詰まりそうになってしまった。


「自己責任ならいいんだろう」


 サラはそう言い捨てると、さっさと川の方に歩き出す。大橋は、サラに「水浴びがしたい」と言われた時のことを思い出して、青くなった。


「ま、まさか、サラさん、こんな昼間っから……」


 大橋の言葉に耳を貸さず、サラはずんずんせせらぎの方に歩いていく。大橋は無理やりおにぎりを飲み込むと、慌てて立ち上がった。


「待ってください、サラさん。話を……」


 サラはせせらぎの岸に立つと、その異国風の靴を脱ぎ捨てた。まくり上げてあったジーンズの裾をさらに膝までまくり上げ、何のためらいもなくせせらぎの中に足を浸す。そうしてようやく顔を上げ、大橋の方を見た。


「何だ? オオハシ」


 キョトンとした表情で首をかしげるサラを見て、大橋は体中の力が抜けそうになった。自分の勝手な想像が急に恥ずかしくなり、顔を赤らめてサラから視線をそらす。


「……いえ、何でもないです」


「気持ちいいぞ、オオハシ。おまえは入らないのか?」


「いや、俺は遠慮しときます」 


 大橋はせせらぎにかかっている小さな橋の欄干に腰を下ろすと、子どもたちに混じってせせらぎの中をゆっくりと歩くサラを眺めた。

 口元に柔らかな笑みを浮かべ、うっとりしたような表情で日差しがきらめく川面を見つめながら、水の感触を味わうようにゆっくりと足を運んでいく。耳の脇にたらした亜麻色の髪が緩やかな風にサラサラと揺れ、バラ色の頬には、水面に反射した日差しがちらちらと踊っている。大橋はしばらくの間そんなサラにぼんやりと見とれていたが、ふいに首からさげていたカメラを手に取ると、ファインダーをのぞいた。

 四角い窓の中で、きらめく日差しを浴びながら女神さながらにほほ笑むサラ。

 大橋は夢中でシャッターをきった。

 大橋が、鉄道以外のものにこんなに夢中でシャッターをきるのは、初めてと言っていいくらいだった。

 その時だった。


「あっ……!」


 レンズの向こうのサラが、小さな叫び声を上げた。

 慌ててファインダーから目を離すと、せせらぎの中に手を入れ、右足を押さえるようにしてしゃがみ込んでいるサラの姿が見えた。

 指の隙間から赤い筋が、ゆっくりとゆらめきながら流れて出していく。

 大橋は、靴も脱がずズボンもまくり上げないまま、せせらぎの中に飛び込んだ。

 派手な水音を立てて駆けよってきた大橋を、サラは目を丸くして見つめた。


「オオハシ、靴が……」


「ちょっと見せてください!」


 大橋はサラの手を外すと、右足を持ち上げて見た。白く柔らかな足の裏が、三センチメートルほどぱっくり裂けている。側には、缶ジュースのプルタブ。どうやら、これで足の裏を切ってしまったらしい。

 忌々しそうにそのプルタブを拾い上げてポケットに突っ込むと、大橋は無言で両手を後ろに突きだしてしゃがみ込み、姿勢を低くした。

 サラは戸惑ったように大橋を見つめた。


「大丈夫だ。歩けるから……」


 言いながら、周囲に目をやる。水辺で遊んでいた子どもたちやその母親たちが、不審そうな目つきで大橋を見ている。サラは小声で続けた。


「私の姿は見えない。おまえ、奇異な目で見られてるから……」


「そんなことはどうだっていいんです!」


 突然、大橋が叫んだので、水辺の子どもも、母親たちも、せせらぎ沿いの小道を歩いていた人たちも、目を丸くして大橋を見た。が、何か見てはいけない物を見てしまったような表情を浮かべると、あわてて目をそらす。


「早く乗ってください」


 サラはしばらくの間、大橋を言葉もなく見つめていたが、やがておずおずと大橋の背にその体を預けた。

 大橋はゆっくりと体を起こして立ち上がった。背中に、柔らかなサラの重みと温かみを感じながら岸に上がる。水辺の子どもたちは、恐ろしそうに動きを止めてそんな大橋を見つめている。大橋は岸に脱ぎ捨てられていたサラの靴を片手で拾うと、ゆっくりと歩き出した。

 歩く度、水浸しになった大橋の靴はいやな音をたて、あとには小さな水たまりが点々と残されていく。大橋が通り過ぎる時、岸辺の人々は怯えたように道をあけた。だが、大橋はそんな人たちに注意を向けることもなく、足元に目線を落としたまま、黙ってせせらぎの小道を歩いていく。


「オオハシ……」


 サラは大橋の背に揺られながら、おずおずと口を開いた。


「すまない、オオハシ。私が……」


「関係ないです」


 大橋はうつむいていた顔を上げると、ふいに口を開いた。


「関係ないんです。見えていようが、見えていまいが」


 サラは口をつぐむと、大橋の横顔をじっと見つめた。


 大橋は優しい表情だった。微かに笑ってさえいるように見えた。


「俺にとってのサラさんは、確かに今ここにいる。だから、他人から見えていようがいまいが、俺には関係ないんです。サラさんがケガをして歩けないなら負ぶう。ただそれだけです。人から見えていようがいまいが、俺にとってはそんなことはどうだっていい」


 そう言うと大橋は、背中のサラをちらっと見やって、笑った。

 サラはしばらくの間何も言わなかった。何も言わず、黙って大橋の背に揺られていた。が、やがて静かに口を開いた。つぶやくような声だった。


「……ありがとう、オオハシ」


 大橋は、もう何も言わなかった。

 その時、なぜだか大橋は、水びたしの靴が歩くたびに不快な音をたてるのも、ぬれたズボンが足首にまとわりつくのも、すれ違う人がけげんそうに振り返るのも全く気にならなかった。それが一体なぜなのかは大橋自身にも分からなかったが、自分の背中に感じるサラの柔らかく温かな体の重みが、ただひたすらに嬉しいだけだった。

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