16.不登校児と富士はやぶさ
大橋のクラスは、このところ目に見えて落ち着いてきていた。
朝の会の形式がある程度はっきりしたことと、読み聞かせを多くの児童が心待ちにしていることもあり、廊下をうろうろしたり教室に入らなかったりする児童の数がぐんと減った。加えて、どういう心境の変化か、以前は先頭に立って離脱行動を繰り返していた長崎が、ふざけている友だちを注意する場面が見られるようになってきたのだ。彼の言葉には、やんちゃな子どもたちも渋々ながら従わざるをえないようだった。
また、毎日繰り返して行っている読み聞かせも、子どもたちに「話を聞く」習慣をつけさせるのに効果的だったようだ。以前はどんなに声をからしても通らなかった指示が、普通の声でも通るようになってきていた。
授業についても、大橋が毎時間、彼なりに工夫した授業展開を心がけたおかげで、もともと知的好奇心の高かった子どもたちは向学心を刺激され、意欲的に学習活動に参加するようになった。手を挙げて発言する姿勢も身につき、数日前とは比べものにならないような授業が展開できるようになっていた。
金曜日、職員の打ち合わせが終わったあと、急いで教室へ向かう準備をしている大橋に、石橋がニコニコしながら声をかけてきた。
「よ、大橋くん、今日もまた読み聞かせ?」
「ええ、今日でやっと二冊目なんですけど……あのシリーズって結構たくさんあるんですよね。どこまで続けるか今悩んでて」
「いいじゃない、最後までやってやれば」
石橋はそう言うと、いたずらっぽく大橋を見やる。
「もしかしたら、あのシリーズが終わっても、また別のを読んでくれって言うかもしれないけどね」
「そんな。それはちょっと……」
いささか困り顔で笑う大橋に笑顔を向けながら、石橋はしみじみと言った。
「でも、ほんと、最近の大橋くんは頑張ってるよね。クラス、目に見えて落ち着いてきてるでしょ。これからも、その調子で頑張って!」
石橋は大橋の肩をぽんとたたくと、軽く手を挙げて職員室を出て行った。
『クラス、目に見えて落ち着いてきてるでしょ』
その言葉を頭の中で何度も反芻しながら、大橋は荷物をまとめて職員室を後にした。
☆☆☆
教員たちが自分のクラスへ行ってしまい、人気もなく静まりかえった職員室で、副校長は一人もくもくと書類の作成に励んでいた。
と、その時、ノックの音がした。入ってきたのは主事の高橋だ。
「副校長先生、昇降口に、児童とお母さんがいるんですけど……」
「え? なんでこんな時間に……」
副校長は書類を作成しているパソコン画面から目を離さず、心なしか面倒くさそうに問いかける。
「ほら、二年二組の、飯田っていう児童ですよ。不登校気味で、お母さんが送りにいらしてる……」
二年二組と聞いて、副校長の眉根に深いしわが寄った。またあの、問題クラスの子どもか……。
副校長は更新内容に保存をかけて立ち上がると、その鋭い目をぎらりと光らせた。
「私が行きましょう」
☆☆☆
副校長が昇降口に出てみると、母親が息子を説得しているところだった。
「慎くん、今日は行けそうだって言ってたじゃない。おなかも痛くないんでしょ。今日は行きましょ」
母親の言葉にも、飯田はあいまいな笑みを浮かべながら小さく首を振る。副校長は渋い顔でため息をついたが、一転して表情を切り替え、顔いっぱいに柔和な笑みを浮かべると、軽い足取りで玄関の外に出た。
「あれ、どうしました? もう授業は始まっていますよ」
驚いて振り返った母親は、副校長の姿に目を丸くすると、恐縮したように頭を下げた。
「まあ、副校長先生……」
「お母さん、いつもご苦労さまです。さ、私が教室まで一緒について行きますから、きみは早く中に入りましょう」
副校長が手を差しだすと、飯田は怯えたように一歩後じさった。副校長はピクリと頬を震わせたが、すぐに笑顔になると再度手を差し出す。
ちょうどその時、保健室に欠席調べを置きに来ていた二年二組の牧原と長田が、昇降口前を通りかかった。
「……あ、あれ、飯田くんじゃない?」
長田がひそひそ声で言うと、牧原もうなずいた。
「本当だ。何か、副校長先生までいるし」
「大橋先生に言っとこうか」
「言っとこう」
二人は保健室前のボックスに欠席調べを投げ込むと、階段を駆け上がっていった。
☆☆☆
「え、飯田くんが?」
「うん。今、玄関で、副校長先生と何か話してた」
大橋は考え込んだ。
副校長が対応しているのなら、わざわざ自分が行かなくてもいいのではないか。彼に来たい気持ちがありさえすれば来るだろう。もう授業も始まっている。せっかく昨夜準備した教材を使って、今日は面白い展開をさせようと思っていたんだ。クラス全員のための時間を、たった一人のためにつぶすことはない……。
いつものように怠惰で無責任な考えが頭を占領しかけたが、その時、なぜだかふと、先日自分が作ったおにぎりのことが大橋の脳裏をよぎった。
大橋ははっと目を見開いた。
不格好で不出来なあのおにぎり第一号と、なんとか気持ちを奮い立たせて家を出て、学校の昇降口まではたどり着くことができた飯田の姿が、どこか重なるような気がしたのだ。
クラスに来るという目的は達成できずとも、飯田は今持っている力を振り絞って何とか昇降口まではたどり着くことができた。その努力を、担任である自分が認めてやらなくて、誰が認めてやれるのか。ふつふつと湧き上がってきたその思いに、怠惰な考えはあっという間に押し流されて消えた。
大橋はやおら黒板脇の引き出しを開けた。そこには、不意に自習になっても大丈夫なように、幾種類かのプリントを用意して入れておいたのだ。つい先日準備したばかりのこのプリントが、こんなに早く役に立つとは思わなかった。大橋は予測して準備しておくことの大切さをかみしめつつ、その中の一種類を手に取った。
「先生、ちょっと飯田くんのところに行ってきます。みんなはこのプリントをやって待っていてください」
言いながら大橋は手早くプリントを配ると、教室を飛び出した。
☆☆☆
昇降口では、飯田と副校長がまだ押し問答を続けていた。
「こんなところにつっ立ってるより、思い切って中に入った方がいいんだよ。さ、入ろう」
そう言って副校長は飯田の二の腕をつかんで思い切り引っ張る。だが、飯田はそのあいまいな笑みとは裏腹に、二年生とは思えない力で抵抗する。副校長の柔和な笑みは、徐々に引きつった笑いに変わっていった。
「いいかげん、君も頑固だねえ。そんなんじゃダメなんだよ、学校は、通わなきゃいけない所なんだから……」
飯田の目に、ふっと反抗の色が過ぎった。そんなこと、言われなくても分かっていると言いたげにうつむく。母親はおろおろしながら、そんな二人を言葉もなく見つめている。
その時だった。
「飯田くん」
突然背後から響いてきた声に、三人ははっとして一斉に振り返った。そこには、階段を駆け下りてきたせいで、いくぶん息を切らしている大橋の姿があった。
飯田は驚いたように大橋を見たが、副校長との引っ張り合いを見られたのが恥ずかしかったのか、あわててその目を伏せた。
大橋は息を整えつつ、そんな飯田にほほ笑みかけた。
「よく来てくれたね、飯田くん」
その言葉に、飯田はふせていた顔を少しだけ上げた。それまで強く引いていた手の力がふっと緩んだので、副校長は眉をひそめると、飯田をつかんでいた手を離した。
大橋は飯田に歩み寄り、目の前にかがみ込むと、その顔をのぞき込んだ。
「どう? これ以上は無理そう?」
飯田は驚いたように大橋を見つめていたが、やがて目線を落とすと、小さくうなずいた。
「そうか。分かった」
大橋はうなずいて立ち上がったが、ふと飯田のランドセルに、大橋もよく知っている物がぶら下がっているのに気づいて、目を丸くした。
「……富士はやぶさだね」
大橋の言葉に飯田も目を丸くすると、慌ててその目線の先を追った。
「飯田くんも好きなんだ、ブルートレイン」
大橋の言葉に、飯田の母親が苦笑まじりにうなずいた。
「お父さんの影響で、小さい時から、電車が大好きで……凄いんですよ、模型やら、写真やら、いっぱいなんですから」
「そうか。先生と同じだな。じゃあもしかして、富士ぶさのラストラン、お父さんは見に行ったの?」
飯田は目線を落として首を振ると、ぼそぼそとつぶやくように答えを返した。
「具合が悪くて、行けなかったって……でも、キーホルダーは、お父さんが買ってくれた」
大橋が飯田の声を聞いたのは、多分これが初めてだっただろう。内心の驚きを抑えながら、大橋は言った。
「先生、写真たくさん撮ったよ。よかったら今度、見せてあげるよ」
「……本当⁉」
飯田は勢いよく顔を上げた。いつもわずかにそらされていた飯田の視線が、この時ばかりはしっかりと合う。大橋はにっこり笑ってうなずいた。
「本当。いつ飯田くんが来ても見られるように、学校に持ってきておくね。今度来た時、見せてあげるから」
「本当だね、先生。約束だよ、絶対だよ!」
飯田は眼をキラキラさせて、何度も何度もそう念を押す。大橋は笑顔でうなずき返す。副校長はそんな飯田と大橋を、戸惑ったような顔で代わる代わる見やっていた。