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七福人生  作者: 代田さん
15/39

15.うどんとマシな人生

「随分買ったなあ」


 カバンに入った採点プリントや教材研究資料に加え、スーパーで大量に買い込んだ野菜の重みに倒れそうになりながら、大橋は自宅への緩い坂をよろよろと上っていた。

 この日も五時三十分には帰途につき、サラとともに下南沢に帰ってきた大橋だったが、いつものようにコンビニには寄らず、駅前のスーパーでしこたま広告の品を買い込んだ。残り一万円で食いつなぐために、大橋は今日から自炊する覚悟を決めたのだ。


「大丈夫か? オオハシ」


 前を行くサラが笑顔満開で振り返る。サラは何も持っていないので、何とも軽い足取りでどんどん先へ行ってしまう。大橋は息を切らしつつその軽やかな後ろ姿を見やり、引きつった笑みを浮かべた。

 ようやく自宅にたどり着いてほっとしたのもつかの間、大橋は大量の野菜と食品を前に考え込んでしまった。

 買い込んだのは、納豆や卵、牛乳などの常備品のほかに、人参、大根、ゴボウ、ほうれん草、豚肉、リンゴ、そしてサラが食べたいと言ったうどん。豚肉もあるのでうどんならすぐにできそうだったが、せっかく買ってきた野菜もできれば利用したい。このところ弁当ばかりだったので、自分的にも野菜が欲しいような気がしていたのだ。

 取りあえずフロの準備をしながら考え込んでいた大橋は、ふと母親が作る豚汁が大好きだったことを思い出した。

 さまざまな種類の野菜を刻んでいる母のそばを行ったり来たりしながら、置いてある野菜をしげしげと眺めていた小さな自分。


『なんでこんなにいろいろな野菜を入れるの?』


 その言葉に母親は、優しいほほ笑みを浮かべながらこう答えた。


『いろいろなものを食べないと、バランスが悪いの。バランスが悪いと、大きくなれないのよ』


 そう言って湯気の向こうでほほ笑んでいた、懐かしい母親の顔……。


「……そうだ!」


 大橋は何を思ったのか台所へ走ると、冷凍庫を開けた。


「あった!」


 封を開けて半年は経過しているかもしれない、霜のついた袋。袋には「冷凍里芋」とはっきり書かれている。

 大橋はちゃぶ台の上の野菜に目を向ける。人参、大根、ゴボウ。確かにあの時、母が用意していた野菜だ。


「……やるか」


 今日は洗濯物の取り込みもない。大橋はワイシャツの袖をまくると、まな板と包丁を取りだした。



☆☆☆



 野菜を全部刻み終え、鍋にぶち込んで火をつけた時には、時計の針は八時をまわっていた。

 帰宅したのが七時過ぎだったので、かれこれ一時間近く野菜と格闘していたことになる。変なところに力を入れて包丁を握っていたので、すっかり肩が凝ってしまった。しばらくの間首を曲げたり肩を上げ下げしたりしていた大橋だったが、家の中がやけに静かなことに気づいて首をかしげた。


――サラさん?


 台所から居間をのぞいた大橋は目を見開いた。

 サラが、ちゃぶ台に突っ伏すような格好で眠っていたのだ。

 待ちくたびれてしまったのだろう。腕の上に頭を載せ、横向きですやすやと眠っている。目を閉じるとさらに際だつ長いまつ毛と、ほんの少し開かれたつやつやした唇。バラ色の頬に、耳の脇にたらした亜麻色の髪がはらりとかかっている。

 大橋はなんだかドキドキしながらそんな彼女に目を奪われていたが、やがて思い出したように大判のバスタオルを持ってくると、そっとその肩にかけてやった。



☆☆☆



 サラが目をさましたのは、午後九時過ぎだった。

 体を起こし、しばらくぼんやりと周囲を見回していたが、部屋の片隅で大橋が何やら教材らしき物を作っているのに気づくと動きを止めた。大橋はサラの視線に気づくと、顔を上げてほほ笑んだ。


「あ、サラさん。起きました?」


「オオハシ……私、眠っていたのか?」


「そうですよ」


 大橋はうなずくと、作りかけの教材を部屋の片隅に押しやり、立ち上がった。


「じゃ、夕飯にしましょうか。結構うまそうにできましたよ」


 夕飯と聞いて、サラの目の色が変わった。


「オオハシも今からか?」


「ええ。一緒に食べましょう」


 鍋に火を入れると、うどん玉とどんぶりを二個出してくる。温まってきた鍋から漂うその香りを、大橋についてきたサラは目を閉じて思い切り吸い込んだ。


「ああ、いい匂いだな」


「でしょう、初めてにしてはいいできですよ」


 大橋も懐かしいその匂いに眼を細めると、袋から取り出したうどん玉を鍋に入れた。

 大橋が箸を用意していると、サラが白魚のような手を大橋に差し出してにっこり笑った。大橋は目を丸くして動きを止めたが、おずおずと手にしていた箸をサラに渡す。その時、大橋の手がサラの手に触れた。大橋は思わず息をのんだが、サラは何事もなかったようにすたすたと居間に入って行く。

 大橋はしばらくの間、そんなサラの後ろ姿を放心したように見つめていた。

 


☆☆☆



「いただきます」


 きちんと手を合わせて二人同時にそう言うと、遅い夕食が始まった。

 さっそく湯気の立つ麺を口に運ぼうとするサラに、大橋は慌ててお椀を差し出した。


「サラさん、あなた猫舌ですからこれを使ってください。またこの間みたいなやけどをしますよ」


「そうか?」


 サラは首をかしげて笑うと、大橋の差しだした椀を素直に受け取った。そこに麺を少量入れ、恐る恐る口に運ぶ。

 その目が、大きく見開かれた。


「……うまい!」


「でしょ。ちょっと野菜は不揃いですけど」


 大橋もうどんを口に運びながら、嬉しそうな笑顔になった。


「ま、おふくろが作ってた豚汁の味にはまだまだ及びませんけどね」


「おふくろ?」


「母親です。二年前に死にましたけど」


 サラは黙ってうどんを口に運びながら、大橋を見つめた。


「父親が、俺が中学くらいの時に心臓病で死んでから、ずっと一人で俺のことを育ててくれてたんですけど、俺の就職が決まる直前、やっぱり心臓病で逝っちゃって……この居間で」


 大橋はつぶやくようにそう言うと、うどんを口に運ぶ手を止めた。


「ほんと俺って運がないんですよね。だって、採用試験に受かったのが分かったのって、その次の日ですよ。あと一日早く通知が来ていれば、少しは安心できたかもしれないのに」


 大橋は小さくため息をつくと、肩をすくめて苦笑いをした。


「ま、それからだってろくな人生じゃなかった訳ですから、生きていたとしても心配をかけただけだったかもしんないですけど」


 サラはそんな大橋を黙ってじっと見つめていたが、ふいにこんな問いを発した。


「オオハシ、おまえにとって、マシな人生とは何だ?」


「え?」


 改めて問われると、確かに何なのだろう。大橋は眉根を寄せると、しばらく中空をにらんで考え込んでいた。


「……そうだなあ、やっぱり、仕事がうまくいって、生活に過不足がなくて、あとは……」


 言いかけて、大橋は口をつぐんだ。


「あとは、何だ?」


 大橋は慌ててサラから目を逸らすと、「まあ、その、……」とかなんとか口の中でもごもご言っている。サラはその顔をのぞき込んだ。


「いいから言ってみろ。言わなきゃ願いを叶えてやることもできない」


 重ねて問われて、大橋は言いにくそうに口を開いた。


「まあ、その、人並みに、彼女……とか」


「カノジョ? カノジョって、何だ?」


 きょとんとした表情でサラが聞いてくるので、大橋は言葉に詰まってしまった。


「え? ……いや、その……親しく、お付き合いを、させていただく……、その、女性……の、ことです」


 しどろもどろにそう答えると、サラは納得したように深々とうなずいた。


「そうか。女か」


 それから、当然のような顔でこんなことを聞いてくる。


「相手は誰だ?」


 大橋の顔はさっきスーパーで買ってきたリンゴよりも真っ赤になった。


「え? いや、あの、その……」 


 大橋がうろたえている訳がさっぱり分からないらしく、サラは首をかしげた。


「何だ? はっきり言え」


「いえ、相手は……」


 大橋がまだ言いよどんでいると、サラは突然、ただでさえ大きなその目をさらに大きく見開いた。


「分かった、あの女だろ!」


「は?」


「この間、おまえの職場のそばで会った、あのきれいな女だ」


 その言葉が耳に届くやいなや、大橋の顔はリンゴから熟れきったトマトへと一瞬で変貌した。


「な、な、な、何を言ってるんですか! そんなこと……」


「違うのか?」


「違うっていうか、そんなこと、あるわけがないじゃないですか!」


 半分怒ったように言う大橋を、サラはけげんそうに見つめた。


「じゃあ、他に付き合いたいやつがいるのか?」


「え……」


 言われて、大橋は黙り込んだ。


「どうした?」


「あ、いや、……」


 慌ててサラから目をそらすと、ボソボソとつぶやくように言葉を返す。


「曽我部先生とは、まだお付き合いとか、そういう段階じゃないんです。ただ、そうなれたら嬉しいな、なんて程度で……」


 サラは納得したようにうなずいた。


「そうか。でも、そうなりたいんだろう。分かった。仕事と、生活と、カノジョだな」


 そう言って、屈託なくにっこりと笑う。


「それがうまくいけば、おまえの人生はマシになるんだな」


「え、ええ……そうですね」


 サラから目をそらしたまま、大橋はあいまいにうなずいた。

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