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七福人生  作者: 代田さん
11/39

11.相変わらずの一日と小さな変化

 大橋が職員室に駆け込んだのは、八時十四分ギリギリだった。

 あんなに早めに出たのに、図書館前であれこれやっているうちに結局ギリギリになってしまった。大橋はため息をついてカバンを置くと、机上に置かれた文書に目を通し始めた。

 そんな大橋の脳裏に、先刻のサラの顔がふっと浮かんでくる。


『ここで待ってるから』

 

――大丈夫かな。


 ちらっと時計を見上げる。八時十八分。開館はまだまだ先だ。あんな道端に下着も着けず一人でぽつんとたたずんでいるサラ。人並み外れたその美貌に、頭のネジの外れたオヤジが反応しないとも限らない。


――いや、仮にも成人女子。そういう時の対応くらい心得ているはずだ。


 そう思い直してはみるものの、ここ数日の彼女を見ていて、どうも大橋は彼女が普通の成人女子のような気がしなくなってきていた。彼女の言うことを百パーセント信用した訳ではないが、少なくとも彼女が極端に世間知らずで、素直で、純粋であることだけは確かだった。

 第一、彼女がいったい何才なのかと問われても、大橋はたぶん答えられない。長いまつ毛をこころもち伏せて思わせぶりなほほ笑みを浮かべた時の彼女は二十代後半の成熟した女性に見えるが、屈託なくにっこりと笑う無邪気な彼女はせいぜい高校生くらいにしか見えない。本当に年齢不詳な女なのである。

 あれこれ考えつつカバンから教科書や指導書を取りだしていた大橋は、国語の教科書を手にして、ふとその動きを止めた。


『もっとこの二人のことが知りたいな』


――いい話、か。


 朝方のサラの言葉を思い出した大橋は、その子どものような反応にクスっと笑った。大橋は教科書を読んでも、面白いとか、もっと知りたいとか、そんなことを思ったことはなかった。ただこの内容をどうやって子どもたちに提示して学習を進めていけばいいか、教科書はそれを考えるための材料でしかなかったのだ。

 何だか新鮮な気持ちで教科書を開き、もう一度その話を読み始めた大橋の手元を、二年の学年主任、石橋麻美がのぞき込んだ。


「お、大橋くんもお手紙に入るんだ」


「あ、石橋先生、おはようございます。そうなんです、やっとですよ」


 大橋は苦笑しながらそう言ったが、ふと石橋にこんなことを聞いた。


「石橋先生、そういえばこの話って、シリーズなんですか?」


「そうよ。かえるくんとがまくんシリーズ。図書室に行くと、コーナーがあるわよ」


「そうなんですか、ありがとうございます」


 大橋は頭を下げると、急いで図書室へ向かった。



☆☆☆



 本は見つかったものの、もう朝会に行くため廊下に子どもたちを並ばせる時間だ。大橋は数冊の本を抱えたまま、慌てて教室へ向かった。

 他のクラスは係の児童の呼びかけで、もう廊下に並び始めている。が、大橋のクラスだけは数人をのぞいて、まだカバンも出しっぱなしのままで勝手に遊んでいる児童の姿が見られる。 


「いつまで遊んでるんですか!」


 大橋は本を抱えたまま、慌てて教室内の児童に声をかけた。


「もう、朝会の時間です。廊下に出て並びなさい!」


 だが、大橋の怒りレベルを見切っているその男児たちは、バカにしたような表情でちらっと大橋を見やるだけだ。大橋は業を煮やしたように手にしていた本を教師机に放り投げると、ふんぞり返って座っている児童たちのそばに駆け寄って声を張り上げる。


「早く廊下に並びなさい!」


 大橋はもともと大人しく温和な人柄で、大声を出してもいまいち迫力がない。新米の女性教師がよくこういった状態におちいるが、大橋は男にしては珍しく、児童に完全に見切られているのだ。いくら怒鳴りつけたところで、児童の行動は変わりようもなかった。

 だが、大橋はそれ以外に為す術を知らない。ただただ声をからして叫びまくり、ようやく廊下に全員を並ばせた時は、既に朝会開始時刻を数分過ぎていた。

 

――あーあ、また校長にどやされるな……。相変わらずの一週間の始まりだ。 


 大橋はがっくりと肩を落としたまま、ギャーギャー騒ぎながら廊下を歩く児童たちを先導して体育館へ向かった。

 ゲタ箱まで来た時、大橋は母親らしき女性に付き添われた男子児童の姿に気がついた。母親が中に入るよう再三声をかけているが、その男子児童はじっとうつむいて足元を見つめたまま、それ以上中に入ろうとはしない。


「……飯田くん?」


 大橋が足を止めて声をかけると、男児は目を丸くして顔を上げた。母親らしき女性は驚いたように振り返り、慌てて頭を下げた。


「飯田くん、来たんだ。早くカバンを置いておいで。これから朝会だよ」


 大橋の言葉に、飯田と呼ばれた少年は曖昧な笑みを浮かべてうつむいた。


「ほら、先生もああ仰ってくださってるんだから……」


 母親が促したが、少年はうつむいたその顔を上げようとはしない。大橋は背後で騒ぐ児童たちが気になり、慌てたように言葉を継いだ。


「じゃ、じゃあ、早くおいで。先に体育館に行ってるからね。待っているよ」


 大橋は母親にそそくさと一礼すると、体育館へ向かって歩き出した。途中でちらっと後ろを見やると、飯田と母親がまだ玄関のあたりをうろうろしているのが見えた。

 大橋は小さくため息をついた。

 飯田は不登校気味の児童だ。特に何か学校で問題があったわけではないのだが、ベテランが担任していた一年生の中頃から登校を渋るようになった。思い切って学校に来さえすれば特に問題なく過ごせるようなのだが、来るまでに相当の覚悟を必要とするらしい。もともと、大橋のクラスで唯一といえる問題児童だった。

 だが、大橋の指導力不足で問題児がねずみ算式に増えてしまった今では、飯田の存在はともすると忘れられてしまうほど薄くなってしまっている。それは、大橋の中でも同様だった。


――来られないなら、無理に来なくたっていいさ。来たくなったら来ればいい。


 まるで無関係な人間のようなことをちらっと考えただけで、大橋の意識はすぐに後ろで大騒ぎをしている児童たちにむき、それっきり、飯田のことを朝会中に思い出すことはなかった。



☆☆☆



 朝会はいつもながら飛び抜けて大橋のクラスの態度が悪かった。

 意気消沈してクラスに戻ってきた大橋は、三人の児童が追いかけっこをして遊んでいるクラス内を見てため息をついた。

 教卓の前に大橋が立っているにも関わらず、子ども達はその存在を全く感知していないかのようだ。一応座っている児童たちも、後ろを向いたり横を向いたりして、勝手なおしゃべりに興じている。


「はい、静かにして」


 半ば諦めているような口調で、大橋は吐き捨てるように言う。だが、その言葉を聞いている児童は皆無だ。大橋の存在を認識している児童も、大橋の様子を横目で見つつおしゃべりを続けている。


「出席をとります。席に着きましょう」


 投げやりにそう言うと、大橋はそのまま出席を取り始めた。


「浅田」

「あい?」


「安西」

「ほーい」


 数人の生徒が教室内を走り回っている状態のまま、大橋は淡々と呼名を続けた。


「飯田」


 名を呼んでから、はたと気づいた。飯田の姿はない。やはり今日も、クラスに来るのは難しかったようだ。


「飯田くん、さっき来てたよね」


 児童の一人が大きな声で言う。大橋はあいまいな笑みを浮かべた。


「どうしたのかな。来てくれると思ったんだけどねえ……」


 大橋はそう言って小さく息をつくと、それ以上飯田について言及することもなく呼名を続けた。



☆☆☆



 朝のあいさつも先生の話もないまま、一時間目の授業が始まった。


「今日から新しい単元に入ります」


 ようやく追いかけっこをやめた男子児童たちは、一応席には着いているものの、足を組み、ふんぞり返った姿勢で鼻くそをほじったり、机に何かいたずら書きをしていたり、図書室で借りた本を机の下で読んでいたりと、まじめに学習しようとする姿勢は皆無だ。

 大橋は見て見ぬふりをしながら、黒板に題名を書いた。


「それでは新しい漢字の書き順です」


 書き順に沿って色分けしながら漢字を書き、子ども達に向き直る。


「右手をあげて人差し指を出してください。一緒に書いてみましょう」


 指を素直に出す子もいるにはいるが、知らんふりであくびをしている子も、ノートに絵をかいて遊んでいる子もいる。そんな状況のまま、漢字学習は淡々と続けられた。

 漢字学習が終わったと同時に、一時間目終了のチャイムが鳴り響いた。


「……あ、じゃあ、二時間目も連続で国語です。机の上のものはそのままでいいです。号令お願いします」


 日直が適当な感じで「きをつけ、れい」をすると、子ども達は脱兎のごとく教室外へ飛び出していった。ほとんどの児童の引いた椅子は出しっぱなし、机の上は滅茶苦茶で、鉛筆が筆箱の外に散乱したままだ。

 大橋はため息をつきつつ教師机に座り、図書室で借りてきた本を手にする。

 興味をひかれたのか、その側に数人の児童が珍しく寄ってきた。


「先生、その本何?」


「え、これ? 今朝図書室で借りてきたんだ。かえるくんとがまくんシリーズ」


 それを聞いて、一人の女児が目を輝かせた。


「あ、知ってる! 教科書のお手紙の他にも、いろんな話があるんだよね」


「うん、そうらしいね。坂本さんは知ってるの?」


 女児は嬉しそうにうなずいた。


「全部読んだもん。あたし、かえるくんが好き。だって、優しいから」


 楽しそうにそう語る坂本の顔を、大橋はじっと見つめた。


「坂本さんが好きな話って、どれ?」


「そうだなあ……お手紙も好きだけど、あたしは、ぼうしっていうお話の方が好きだな」


「へえ、そうなんだ。じゃあさ、次の時間に、みんなにもそのお話を教えてあげてくれる?」


「うん、いいよ!」


 坂本は嬉しそうに笑顔でうなずいた。



☆☆☆



 授業の開始は、なかなか子どもたちがそろわず五分ほど遅れた。等閑なおざりな号令とともに、大橋は坂本を呼び寄せた。

 いつもとは違う雰囲気で授業が幕を開けたので、子どもたちは坂本に注目し、教室内は静かになった。


「今日からお手紙という単元に入るんですが、このお話、シリーズなんだそうです」


「あ、知ってる!」


「僕も読んだことある!」


 教室のあちらこちらから子どもの発言が相次ぐ。大橋はそれを制すると、坂本の手にしている本を指し示した。


「実は、坂本さんはこのシリーズを全部読んでいて、大好きなんだそうです。なので、教科書のお話に入る前に、坂本さんのイチオシ作品を紹介してもらおうと思います。坂本さん、お願いします」


 紹介された坂本は恥ずかしそうに笑いながら、本を開いた。


「私のイチオシは、ぼうしというお話です。好きな理由は、かえるくんが、とても優しいからです」


 坂本は教卓の前に立ち、緊張ぎみにそう言うと、明るい表情で大橋を見上げる。大橋は笑顔でうなずいた。


「ありがとう、坂本さん。戻っていいですよ。じゃあ、さっそく、坂本さんのイチオシ作品を読んでみましょう。実は先生も読むのは初めてなので、すごく楽しみです」


 大橋は絵本のページを繰ると、ちらっと教室内を見渡した。三十六人の児童の目が、じっと大橋にそそがれている。こんなことは初めてだった。


「ぼうし。かえるくんは、がまくんのたんじょうびにぼうしをあげました……」


 大橋は軽い緊張と、何とも言えない心地よさを感じながら、静かに読み聞かせを始めた。



☆☆☆



 授業が終わると、長い休み時間にも関わらず、大橋の机の周りにはたくさんの児童がワイワイ言いながら集まってきていた。

 お目当ては、大橋が図書室で借りてきたかえるくんがまくんシリーズの本である。


「あ、これこれ。これ、俺好きなの」


 いつもは外で走り回っている活発な金田がそう言ったので、大橋は意外な気がして目を丸くした。


「へえ、金田くんはそれがいいんだ。なになに? がたがた……?」


「おばけの話。二人とも恐がりなんだよ」


「あたしはこれ、すいえい! だって、笑えるんだもん」


「僕はがまくんのゆめ。変な話なんだよ」


 子どもたちの話を聞きながら、大橋は感心していた。そういえば、隣のクラスの石橋先生も言っていた。この学校の子たちは能力的にかなりレベルが高いと。そういえばテストでも、五十点以下を取るような子はあまりいない。知的好奇心も高い。そんな子どもたちに指導書どおり、またはそれ以下の指導しかできないようでは、確かに飽きられるし意欲もわいてこないだろう。教科書を多少はみ出ても、関心を持たせるためにはいろいろなことに触れさせた方がいいのかもしれない。


「ねえ先生、シリーズのお話、全部読もうよ」


 村上の言葉に、大橋は考え込んだ。


 全部となると、かなりの時間を取るだろう。国語だけにそんなに時間をかける訳にもいかない。どこで時間が取れるか……そう考えた時、朝の会の時間が頭に浮かんだ。朝の会は、現在ほとんど機能していない。あの時間を使えば、それほど時間的な負担にもならないはずだ。


「……じゃあ、やるか」


「本当?」


「うん、朝の会に、そういうコーナーをつくってさ。一日一話、お話を読むってことで」


 大橋の言葉に子ども達は眼をキラキラさせて、笑顔でうなずいた。



☆☆☆



 校門を出た時には、時刻はすでに五時半をまわっていた。

 大橋は本やプリントが山ほど入ってパンパンにふくらんだカバンを抱えて、走り出した。


――サラさん、大丈夫かな。


 子どもたちが教室にいる間は、大橋はすっかりサラのことを忘れていたのだが、下校させるやいなや気になって仕方がなかった。早く退勤したかったのだが、学年や学校の仕事をあれこれ言いつけられて、オーバーせざるを得なかったのだ。それでも三十分のオーバーで済ませたのは、大橋にしては上出来と言えるだろう。

緩い坂を一気に駆け上がり、交差点に出る。赤信号で立ち止まると、大橋は息を弾ませながら図書館の前辺りに目を凝らした。

 行き交う人の肩越しに見える、白い肌と亜麻色の髪。

 その姿が目に入った途端、大橋は心底ほっとして体の力が抜けた。

 信号が青になった。大橋は歩いて横断歩道を渡る。と、手持ちぶさたそうに足元を見つめていたサラが顔を上げた。大橋の姿を見つけたのか、大きく目を見開くと、大橋の方に歩み寄ってくる。

 大橋は落ち着き始めたはずの鼓動が、再び早くなってくるのを感じた。

 サラは大橋の目の前に立つと、お日様のように明るい笑顔をうかべた。


「お帰り、オオハシ」


 その言葉に大橋も思わず笑顔を浮かべると、いくぶん恥ずかしそうにこう返す。


「ただいま、サラさん」

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