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七福人生  作者: 代田さん
10/39

10.圧迫感と存在感

 大橋は、不安そうな面持ちで隣を歩くサラをちらりと見た。

 Tシャツの上から大橋のパーカーを引っかけているので一応下着をつけていないようには見えないが、そういったことにどうやらかなり無頓着らしいサラが、大橋は心配で仕方がなかった。


「本当に、気をつけてくださいよ」


「わかったわかった」


 サラはそんな大橋の心配はどこ吹く風と言った表情で、右手にコンビニの袋を下げ、朝風に心地よさそうに眼を細めている。


「さっきも言ったとおり、俺は今日一日仕事で、一緒にはいられないんですからね」


「分かったと言っている」


 サラは大橋を見上げて、にっこりと笑った。


「だから私は、図書館とやらにいれば良いのだろう」


「そうです。仕事が終わったら迎えに行きますから、それまでそこで本を読んでいてください。ただし、図書館の中では食べ物は食べられませんから、それを食べる時は外に出て、中庭で食べてください。いいですね」


 サラは大きくうなずいた。何とも嬉しそうな表情だ。


「図書館というところは、本がたくさんあるところだったな」


「ええ、そうです」


「楽しみだな」


 サラはスキップでもしているかのような軽い足取りで歩いていたが、何を思ったのか、ふとまじめな表情になると、隣を歩く大橋を見上げた。


「でも、私がおまえの願いを叶えるためには、本当はおまえの仕事ぶりを見た方がいいんじゃないか?」


 その言葉に大橋は目を丸くすると、不必要なほど両手をぶんぶん振り回してみせる。


「い、いいんですって。サラさんは本がお好きなんでしょ。ぜひ図書館に行ってみてください。本当にたくさんの本が読みたい放題ですから」


 サラはそんな大橋を、胡乱うろんな目つきで眺めやる。


「……おまえ、私が他の人間に見えないという話、まだ信用していないんだろう」


 大橋はギクッとしたように表情をこわばらせると、慌ててサラから目線をそらす。


「そ、そんなことはないですよ。信じてますって。ただ俺は、サラさんが楽しい方がいいだろうと思って……」


「それならいいが」


 サラが再び前を向いたので、大橋はほっと胸をなで下ろすと、カバンから定期を取りだした。


「じゃあ、これからまた電車に乗りますけど、通勤電車は半端ないっすからね。覚悟してくださいよ」


 サラは大橋の言葉の意味が分からないらしく、ちょっと笑って首をかしげた。



☆☆☆



 ホームは、通勤客でごった返していた。

 大橋は比較的空いている列に並ぶと、サラを隣に立たせた。

 サラはあまりの人の多さに、いささかおびえたようにあたりを見回している。


「オオハシ、なんなんだ? この人間は……」


「通勤ラッシュです。みなさん、これから仕事に行かれるんですよ」


 その時、騒々しい音ともにベージュ色の車体の電車がホームに滑り込んできた。サラは目を丸くして息をのむと、あわてて大橋の背に隠れた。

 電車が停車し、扉が開く。この駅で降りる客は少ないので、すぐに乗客たちが乗り始める。大橋はサラの背中に手を添えて、通勤客たちの流れに遅れないように彼女を車内に誘導した。入り口にはみ出すようにオヤジの背中が出っ張っているが、ここで諦めたらいつまでたっても乗れない。大橋は後ろ向きで自分の体を無理やり車内に押し込むと、サラの手をつかんで引っ張り上げた。

 はみ出しているサラの体を大橋が必死で自分の方に引き寄せると、ギリギリで扉が閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。

 サラは自分の体が他人に触れていても全く気にならないらしく、まるで大橋と抱き合うような形で、その温かい体をぴったりと大橋の体に密着させていた。下着を着けていないので、見かけ以上にふくよかな胸の感触を大橋ははっきりと感じた。揺れに伴って、その先端にある小さな突起の感触までありありと伝わってくる。おさえつけられて苦しいのか、サラの息づかいも少々荒い。揺れで体が押しつけられるたび、微かな吐息が柔らかそうな唇からもれる。目の前には、サラの亜麻色の髪。大橋と同じシャンプーを使っているはずなのに、彼女の髪から香る甘くそれでいて爽やかな香りは、何とも言えないほど官能的だ。


――ヤ、ヤバい。


 われ知らず元気になってくる下半身に焦りまくりながら、大橋は先刻のサラの言葉を思い出していた。


『……おまえ、私が他の人間に見えないという話、まだ信用してないんだろう』


――こんなに存在感のある人間のことを、見えないだなんて思えるかよ。


 大橋は苦笑しつつも何とか冷静を保とうと、必死で仕事のことや先日の副校長からの叱責しっせきを思い返すのだった。



☆☆☆



「ああ、疲れたな」


 駅から外に出ると、サラはようやく人心地がついたのか、大きく伸びをして深呼吸をした。


「おまえはいつも、あんな電車に乗っているのか?」


 下半身の冷静を保つためにいつもとは全く違った意味で疲れ切っていた大橋は、そう問いかけたサラに無言でうなずいてみせるのが精いっぱいだった。サラはそんな大橋を見て、感心しきったようなため息をついた。


「おまえ、偉いんだな」


 その言葉に思わず苦笑をもらすと、大橋は前方を指さした。


「あの信号の手前にある建物が図書館です。俺の職場は、信号を渡って坂を下りたところにあります」


「そうか」


 サラは嬉しそうにうなずくと、足を速めた。


 だが、図書館の入り口はぴったり閉ざされていて、入り口には『開館時間 9:00〜17:00』と書かれた札がさげられていた。大橋は慌てて時計を見た。午前八時ちょうど。あと一時間もある。


「しまった……開館時間のこと、考えてなかった」


 つぶやく大橋に、サラは無邪気に笑いかけた。


「何をしている? オオハシ。早く入ろう」


「そうしたいのは山々なんですが……どうやら、まだ開いてないらしいんですよ」


「え? そうなのか」


 しばらくの間、二人は無言でその石造りの古くさい建物を見上げていたが、ややあって大橋を見上げたサラは、満面の笑顔でこう言った。


「じゃあ、ここが開くまではおまえの職場に行く」


 大橋の背筋にゾッと寒気が走った。


「え、いや、あの、それはちょっと……」


「まずいことはなかろう? どうせ私の姿は見えない」


「そんな訳が……」


「何?」


 ムッとしたような顔で聞き返されて、大橋が慌てて口をつぐんだ、その時だった。


「大橋先生?」


 その声に、大橋は全身の毛が逆立つような気がした。

 恐る恐る振り返った大橋の目に、春の日差しのような笑顔を浮かべて大橋を見つめる曽我部春菜の麗しい姿が飛び込んできた。栗色の髪に、ベージュのスーツとピンクのリップがよく似合っていて、明るい人柄を引き立てている。


「おはようございます、大橋先生」


「……お、おはようございます」


 引きつった笑顔を浮かべながら、曽我部から見えないように必死でサラを隠そうと大橋は体を動かす。が、曽我部を見ようとしているのか、そんな大橋の背からサラの首がじりじりとはみ出してくる。大橋は険のある表情でサラをにらみ付け、動きを止めようとした。


「どうかしましたか? 大橋先生」


「え? あ、いや、べ、別に……」


「先生もこのくらいのお時間なんですね。よろしければ、学校まで一緒に行きませんか」


 夢のような曽我部の申し出に危うく首を縦にふりかけたが、後ろにいるサラのことを思い出し、大橋は慌てて縦に動かしかけた首を横方向に振り直した。


「……いや、あの、今、ちょっと、ここに落とし物をしてしまって……。捜してから行くんで、先に行っててください」


「あら、そうなんですか?」


 曽我部は心配そうに表情を曇らせた。


「それなら一緒に捜します。あと十分くらいで始まってしまいますし、二人で捜した方が早いでしょう」


「あ、いえ、いいんです、いいんです!」


 大橋は慌てて両手を振ると、片頬を引きつり上げて笑って見せる。


「大したものじゃありませんし、見つからなければ諦めてすぐに行きますから……曽我部先生が遅れる方が申し訳ないですから、ホントに、行ってください」


「そうですか? じゃあ先に行かせていただきますけれど……先生も急いだ方がいいですよ」


 曽我部は小さく会釈して、青に変わった信号を渡っていった。

 大橋はホッと胸をなでおろしつつも、そんな曽我部の後ろ姿を残念そうに見送った。


――あーあ、曽我部先生と登校できるチャンスだったのに……。


「今の、誰だ?」


 背後で響くサラの屈託のない声に、大橋はあからさまに渋面を作って振り向いた。


「同僚の曽我部先生です」


 サラは大橋の内心など知る由もなく、しげしげと去りゆく曽我部の後ろ姿を眺めた。


「へえ。きれいな女だな」


「……ところで、どうします? これから。まさかほんとうに職場についてくるなんて言わないですよね」


 サラはその言葉に、きょとんとして首をかしげた。


「そのつもりだが?」


「だ、ダメですよ! 学校には部外者が入っちゃいけないんですから!」


「だって、私の姿は……」


「とにかくダメなんです!」


 大橋の勢いに、サラは言いかけた言葉を飲み込んで黙った。大橋がはっとする間もなく、その表情がみるみるうちに曇っていく。


「あ、あの、サラさん……」


「オオハシは、私のことが邪魔なのか?」


 今にも泣き出しそうなその声に、大橋は慌てて頭を振った。


「そ、そうじゃありません。ただ、仕事場に女性が来ると、俺は気になって集中できないタチなんです。だから図書館が開くまで、申し訳ないけどここで待っていてほしいんです。」

 

 サラはどこか胡乱うろんな目つきでそんな大橋をじっと見ている。


「……ほんとうに、私のことが嫌な訳じゃないんだな」


「と、当然です、そんなことを思う訳がないじゃありませんか」


 サラはようやくほっとしたような笑みを浮かべてから、心なしか寂しそうにうなずいた。


「わかった。オオハシの仕事の邪魔になるのなら、行く訳にはいかないからな」


 その言葉にほっとした大橋だったが、寂しげなサラの表情を見て、少しだけ胸が痛くなった。


「五時に仕事が終わったら、すぐに迎えに来ます。閉館時間よりちょっと遅れるかもしれませんが、そうしたら、この場所で待っていてください。いいですね」


 サラはうなずくと、こんな言葉を口にした。それは大橋もまだ記憶に新しい、あの時の言葉と全く同じものだった。


「ここで待ってるから」


 大橋はサラの視線をまっすぐに受け止めながら、その言葉に大きくうなずいてみせた。

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